ひとりごと

保存箱 2005.01-06

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● CONTENTS ●

05.06.23. 男脳・女脳

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・サイモン・バロン=コーエン 三宅真砂子訳 2005
  『共感する女脳,システム化する男脳』 NHK出版

  以前この大学で同僚だった先生から,1冊の本をいただいた。

  タイトルはなんだか怪しいのだが,中身はいたってまじめな本だ。ちゃんとした研究者が,ちゃんとした研究成果にもとづいて,しかし一般向けの柔らかい筆致で,けっこう大胆な仮説を提案している。ちなみにこのタイトルは日本語版のタイトルであり,原語は"The Essential Difference"。ちっとも怪しくない。

  こういうスタンスの本というのは,日本では案外少ない。たくさんの先行研究を並べ,生硬で難解な言葉を駆使して書かれた専門書になるか,一般向けという名のもとに,研究成果から1歩も2歩も離れた,たんなる個人的エッセーになってしまうか,どっちかである。その中間(すなわち,たくさんの先行研究を使いながら,柔らかい言葉で書いた本)で,読みやすい本には意外にお目にかかれない。

  この本が読みやすいのは,プロの翻訳家による訳だから,というのももちろんあるだろうが(大学の先生の翻訳だと,こうはいかない),おそらく著者自身,相当な筆力の持ち主なのだろう。冷静に,順を追って少しずつ証明を積み上げて説得していく展開は,つい引き込まれる。

  さてこの本,テーマが「男女には差がある」という,議論を呼びやすいテーマだということもあって,ひじょうに慎重に論を運んでいる。まずは,これは優劣や差別を論じたいわけではないことを説明し,またここでいう差とは平均値における差,すなわち統計的に見て男性 or 女性に<比較的多い>という差であって,個人レベルではあてはまらないケースも少なくないと何度も繰り返す。わざわざ正規分布曲線が重なりあう図を付して,オーバーラップする部分が多いことをわかりやすく示す(きちんと数値が書いていない模式的な図なので,ちょっと物足りない気もするが)。

  全体的な論の進め方もていねいだ。まず共感とシステム化という2つの視点をバンッと提示し,男児と女児の例をあげて何がちがうかを概観して見せる。イメージができたところで,共感とは何かを詳しく述べ,女性の行動の特徴を,共感能力とのかかわりの中で説明していく。男性についても同様に,システム化能力との関係から説明していく。なおシステム化能力とは,ものごとの原理や法則を探り,こういうメカニズム,あるいはシステムで動いているのだと確認する能力のことである。

  で,ここからがいよいよ佳境。ここまでは,男女の行動パターンにちがいがあるというだけだが,その差を生み出しているのは何か,に論を進めていく。文化からの影響も指摘されているが,それだけでは説明できないということで,胎児期のテストステロン(男性ホルモン)濃度の影響という問題にたどり着くのである。これから読む人のために詳しくは書かないが,このように順を追って証拠をたどっていくと,この説明もなるほどと納得できる。

  さて,話はこれで終わりではない。この考え方を1歩進めると,自閉症やアスペルガーの人たちの行動特徴も,この延長上で説明できる,というのが著者の大きな主張である。つまり,極端にシステム化能力に偏っていて,共感能力が低いのが彼らだというのである。そのことを著者は,1人の事例を中心として詳しく分析している。さらに,システム化能力と共感能力をバランスよく持っている人だっているのではないか,とか,極端な男脳(システム化能力)の人がいるなら,極端な女脳(共感能力)の人もいるはずだ,というもっともな疑問にも,きちんと節を割いて説明を加えていてそつがない。

  ところで,この本が興味深かったのは,もしかしたら私も相当に偏った性格の持ち主だからかも知れない。今さらながら自己分析してみると,私自身もかなりシステム化能力の側に偏っている気がする(いや,みんなとっくに気づいているだろうが)。

  先日,『トリビアの泉』を見ていたら,「双子の女性が,初対面の男性の写真から気に入った人を選んだら,どれくらい一致するか」というネタがあって,なんと70%を超える一致率が報告されていた。思わず私は,「こりゃ,二卵性の双子とかふつうの姉妹のデータもとってみたいね」とつぶやいたのだが,すかさず妻から,「そんな調査,なんの意味もない」とバッサリ斬り捨てられてしまった。

  そうなのだ。実用性なんてどうでもいいのだ。すっきりとした結果を見て,ただ納得したいだけなのだ。だって,選ぶ対象となった10人の男性の写真が,どう見ても明らかに選ばれやすい人と選ばないだろう人という差があって,均等ではない。だから,両者の選択が一致するチャンスレベルは1/10×1/10=1%とは言えないのだ。また,当然双子の生育環境はいっしょだから,双子を測定した結果がそのまま遺伝的な影響とは言えないわけで,その点でも,二卵性の双子(TVでは明確には言っていなかったが,おそらく全員一卵性だろう)やふつうの姉妹での一致率も調べておく必要があると思ったわけだ。

  一方,共感能力は極端に低いので,レッサーパンダが立ち上がろうが,若貴兄弟が大げんかしようが,まったく興味がわかない。ワイドショーならともかく,ニュース番組の,しかもトップニュースでそんな話題が流されると,うんざりする。

  だから,こんなふうにシステム化能力と共感能力とを比べながら扱ってくれると,自分をきちんと位置づけることができて,納得する。なお巻末には,2つの能力を測定するいくつかの質問項目が載っていて,これも楽しい。「目から心理状態を読みとるテスト」というのも,おっかなびっくりやってみたが,かろうじて標準以内に入った。ただしこれは英国製のテストであり,図版も基準もむこうで作成されたものである。日本版は肖像権等の問題で掲載されていないそうで,これは残念。

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05.06.21. 心の省エネのため…

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エコ・ポスター


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05.06.03. おとなの世界

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  ふとしたきっかけで,高校時代のアルバイトのことを思い出した。あまりに唐突だが,きっかけの話をしてもややこしくなるだけなので,唐突なまま,たしか高1のときのバイトの話。

  その冬,私は地元のデパートの地下食品売り場で,総菜屋さんの売り子をやることになった。その期間,別の階にあるイベント会場で開催しているなんとかフェアに出店するため,人手を割かなければいけないので,その間,店の手伝いをしてほしいということで,姉から紹介されたのだった。

  そもそも,私が客商売に手を出すという時点で,すでに相当ツッコミが入って当然な事態であり,なんでよりによってそんなバイトを選んだんだよと,あらためて冷静に考えると,自分でもさっぱりわからない。少年は,まだ世間を知らなかったのだろう。

  ともあれ,さっそくお店に出たのだが,私のことだから,特にはりきって呼び込みをするでもなく,お客さんに愛想笑いをふりまくでもなく,いたって地味で寡黙に仕事をこなしていた。デパートの食品売り場というのは,そんな不良売り子のいるお店でも,毎日昼と夕方になれば買い物客が押し寄せ,お総菜は次々と売れていくところであった。比較的ヒマなときは,量り売りの総菜をパックに詰める作業などもあったが,さすがに師走,けっこう客足があったので,ほとんどの時間ひたすら売り子をしていた。声のかかりそうなお客さんを探しては,ショーウィンドウの内側を,あっちに行きこっちに行きしながら応対するのだ。夕方になると,もう足がパンパン。それでも,特別ヘマをしでかすこともなく(一度だけ,特売になっていたアジフライを通常の値段で売ろうとして,お客さんに怒られたことがあったが),ごくごく地味に働いていたのだ。

  ところが,ある日の朝,いつものように総菜のパック詰めをはじめていると,店長さんからいきなり声がかかる。なんでも,店員のひとりが風邪だかで急に休みをとったらしく,かわりに,なんとかフェア会場の出店を手伝ってほしいというのだ。即連行され,そのまま販売開始。

  しかしこれが,予想外に難関だった。というのも量り売り袋詰めの商品が,そこにはズラリと並んでいたからである。今なら,重さに応じてハカリが自動的に値段をはじき出してくれるから,多少注文の重さとズレていてもなんということもないが,当時はそんな気の利いたハカリはなかったから,「200gちょうだい」と言われれば正確に200gはかって,値札どおりの値段で売るわけだ。

  ところがこの言われた重さを正確にはかるというのが,苦手中の苦手なのだ。そもそも「目分量」というもの全般に関して極端に弱い。郵便物を封筒に入れ,セロハンテープで封をしようとして,きちんと必要な長さのテープを切り出したためしがない。学生時代,夜中にカップラーメンを食べるのに,沸かしたお湯の量が,1杯分ちょうどだったためしがない。だから,規定量を正確にはかるという作業は,苦痛以外のなにものでもなかった。

  何度も足したり抜いたりしてようやく208gくらいになる。ほっとして袋を輪ゴムで閉じる。その繰り返し。しかも,フェア会場は地下のお店に輪をかけた忙しさ。注文したお客さんだけでなく,その後ろに並ぶお客さんたちの視線が刺さる。が,こればっかりは簡単に改善されようはずもなく…。何度もトングで挟んだせいで,はがれてしまったイカゲソ唐揚げの衣を,さりげなく袋に押し込みながら,しみじみと自己嫌悪に陥っていたのだ。

  夕方の混雑が始まりかけていた。おばちゃんが,鶏唐揚げを指さして,300g注文する。重いほど目分量の狂いが大きいので,正直うんざりしつつ,注文を復唱して袋を手に持つ。唐揚げを詰めては少し持ち上げてみて重さを予想する。だいたいこんなものだろう。はかりに乗せてみて,足りない分を加える。1回めの調整のあと,ハカリを見ると,なんと奇跡的にも数字はピタリと300gを表示しているではないか。すごい! 「やればできるじゃん」と自分を誉める。経験を積んだ成果か,あくまで偶然なのかはわからないが,とにかくピタリ。しばらくそのまま見ていたいくらい。そうもいかないので,ニヤニヤしながらも袋を閉じる。しかし,少年は世間を知らなかった。

  次の瞬間,おばちゃんは隣にいた店長さんに大声で訴えたのだ。

「ちょっと! このお兄ちゃん,300ぴったりしか詰めてくれないのよ。ケチよねえ。もっとおまけしてよ!」

  店長さん,平謝り。頭を下げながら目でこちらに合図する。「入れろ」と。半分ヤケになりながら,たしか80g近く突っ込んだ。

  今なら,おばちゃんの気持ちもよくわかる。しかしそのころは,そんな反応が返ってくることなど予想もしなかった。300g頼まれてピタリと300gはかったのに,もらうお金もピッタリ300g分のはずなのに,なんで文句を言われないといけないのか。なんで謝る必要があるのか。なんという屈辱。なんという理不尽。教科書にも受験参考書にも,そんなことは一言も書いていなかった。ピタリと正確に割り切れる答えこそが正解というものだと,ずっと教わってきたのだ。300gと注文されたら330g入れてあげるのが正解,などという世界があろうとは,思いもしなかった。

  少年はその日,世間というものの一端を垣間見たのだった。

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05.03.31. 木む ですわ

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  今年もまた子どもの引っ越しを手伝うために,カバンにジャージを詰め込んで出かけてきた。昨年の苦い経験から学習して,今年は最初から家具の組み立てを活動のメインに据え,何があるかわからないので,二日まるまる作業に使えるよう一泊の予定を立てた。さらに,ドライバセットの代わりにホームセンターでラチェットを買って,これもカバンに詰めた。

  準備はカンペキ。なかでもラチェットは正解だった。手にかかる負担がずいぶんとちがうので,今年は右手の筋肉痛にも,握力がなくなって作業効率がガタ落ちする問題にも悩まされることなく,着々と家具を組み立てていくことができた。

  午前中に配達予定のはずだった,肝心の引っ越し荷物(上越の自宅から送ったもの)が,午後4時過ぎになるまで届かないというオマヌケなできごともあったが,どうせ一泊なのでまだ余裕がある。実際,家から送った荷物より,あちこちの店やカタログで買って直接送ってもらったものの方が多いので,それなりに仕事は続いていた。まあ,休憩時間が少し長めになった程度だろう。もっとも,引っ越し先がCATV契約で,その接続・調整が翌日になるとのことで,休憩といってもテレビは見られず,やかんは引っ越し荷物の中に入っているのでお湯も沸かせずで,みごとにヒマな休憩ではあったのだが。

  ちなみに,これほど大幅に配送時間が遅れたのはこの運送屋さんだけで,他はおおむね正確な予定時間に届いた。で,その遅れた運送屋さんだが,どうも配達の人の手際にかなり難があったようで,これは運送屋さんの選定ミスだった。午前中の荷物があの時間なら,その日の午後配達予定の荷物は,いったい何時に届けられるのだろうと,人ごとながら心配になる。

  2日めの朝は,残っていた机の組み立てに取り組む。構造的には単純なのでとくに苦労はなかったのだが,組み立て説明書に書いてある図がまちがっていて,その図にあわせて作業するとわけがわからなくなる。その時点では,図がまちがっていることはわからないので,しばし,図をにらんで考え込む。ふと視線をずらすと,説明書のタイトルが目にはいった。あれ?

        「木ム デスワ」

よけい,わけがわからなくなる。何だ,この微妙な関西弁は? そして,いったい何が言いたいのだ,大きな文字で?

  入っていた箱を見ると,Made in Taiwanの文字。2回ほど深呼吸して,読めた。これは「ホーム・デスク」ですね,きっと。だからというわけではないが,組み立ての方も,きっと図の方が間違っているのだろうと結論を下して作業を続行。それで正解だった。

  それにしても,説明書の細かい文章の文字にはまったく間違いがないのに,肝心の商品名だけが,なんでこうなるのだろう。不思議だ。

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05.03.17. 「個人情報保護法」

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  「個人情報保護法」が4月から全面施行されるのに伴って,本学にも適用されるということで,「Q&A」なる文書が回ってきた。なにげなく眺めていたら,こんな質問が目に飛び込んだ。

Q  講座又は教員個人のホームページに, 指導した修了生の氏名,学位論文題目を掲載したいが, 本人の同意は必要ありますか。

  その回答によれば,学位論文は公開情報だが,氏名を掲載するには本人の同意を得る必要があるとのこと。論文タイトルのみ掲載するなら問題はないらしい。

  あわてて,自分のところの修論・卒論題目一覧を書き直した。じつは,前日に今年度分の修論タイトルを追加したばかりだった。作業のついでに,少し見栄えがよくなるようにと,名前とタイトルそれぞれに枠をつけてみたりもして,けっこうカッコよく変わっていたのだが,その名前欄を削除。しかしこれだと,情報はタイトルだけなので,画面デザインのしようがない。せっかく前日がんばって作ったのに…。残念。

  まあ,修了生全員に確認をとり,あらためて名前を掲載するという選択肢もないわけではないが,人によって名前の入っている人と[匿名希望]の人が混じるというのもいただけないし,そもそもそんなにがんばってやるほど,名前を掲載する意味はないだろう。

  ちなみに,現在籍生のページも,近いうちに見直さないといけないのだけれど,こっちは名前が情報のすべてなので,全削除するか何か別の掲載方法があるか,ちょっと悩んでいる。たしかに,全世界に向けて公表するような性質のものではない。こちらの意図としては,主に新入生のゼミ決めの際に,参考になるのではないかということなのだが。「M2:4人」と人数だけ書く,というのもちょっと寂しいし,いっそ絵グラフふうに人物アイコンを人数分並べてみようか…。

大学院 学 部
修士2年 女1 男1
男2 男3
4年    
修士1年 女1 女2
男1
3年 女1 男1



  ちょっとちがうか。

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05.03.17. 終わった

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  『ロード・オブ・ザ・リング』がやっと完結した…と言ったら,何を今さらと思われるかも知れない。昨年度アカデミー賞11部門制覇ということでさんざん話題になってから,もう1年もたつのだから。しかしこの映画,劇場公開版を観ただけでみんなが理解できるとは,どうも思えない。原作を何度も読んでいる指輪ファンなら,描かれていない部分も適当に補いながら観られるのだろうが,そうでない人には,相当わけのわからない映画だったのではないだろうか。

  原作を一度だけ読んだ私でも,けっこう混乱する。映画のほぼ1年後に発売される,スペシャル・エクステンデッド・エディション(要するに,時間制限なしにまとめたバージョン)のDVDを観て,「ああ,ここはこういう流れなのか,こういう意味を持っているのか」と,やっとわかってくることがたくさん。しかも,字幕だと字数が限られるため,セリフが相当省略されているので(おまけに,原作を知らないための誤訳が多いとの指摘もあり),一度吹き替え版を観て,そのセリフにじっくり耳を傾ける必要がある。それで,会話の内容やニュアンスが補える。こうしてようやく,映画の内容を味わうことができる。

  だから私にとっては,2月に出た『王の帰還』のSEE版をすみずみまで観て,「やっと完結」なのだ。

  『王の帰還』は,旅の仲間が4つに分裂して物語の進行が複雑になっているうえ,前作までで原作を改変した部分のつじつま合わせをしなければいけない。そのせいか,『王の帰還』の映画脚本は,盛りだくさんなエピソードをつなぎ合わせて,ストーリーの流れを追うのに手いっぱい。そのぶん登場人物の性格が平板で,しかも矮小化してしまっている印象がある。これから観るかも知れない人のために,詳細は書かないが,個々の人物像に関して,言いたいことは山ほどある。

  まあ,人物像をわかりやすくしないと,恐ろしくごちゃごちゃしてしまうにはちがいないのだが,物語としてのおもしろさはと言われれば,?がいくつもつくような内容ではなかっただろうか。

  おまけに,SEEがそれを補ってくれるのかと思っていたら,たしかに「入れてくれてありがとう」の部分も多かったが,それ以上に,劇場版で抑えていた,ホラー映画出身の監督の“趣味”が満載,という感じがしてどうも違和感が強かった。けっきょく,最後はすっきりしない。

  とはいえ,映像は美しい。ニュージーランドの自然も,白い都のセットも,衣装も室内装飾も,すべてに圧倒される。あのトールキンの物語世界を,私たちの前に映像として(しかもかなりの高水準の映像だ)見せてくれたという点だけでも,この映画はじゅうぶんに魅力のあるものだと思う。

  ところで,おもしろいのは映画の予告編である。前2作の予告編は,アメリカ版と日本版とでほぼ同じ内容なのだが,『王の帰還』だけ,なぜか日本版ではあちこち編集されて,内容が違っている。まずは,この2つを見比べてみてください。

○日本版 http://www.lotr.jp/film/live/live.html
        (『王の帰還』のところです)

○本家アメリカ版 http://www.lordoftherings.net/trailers/
      ("The Return of the King"のところです)

  使っている映像は同じなんだけれど(日本版の2は新しい映像が使われている),印象がちょっと違っていませんか?

  日本版の予告編は,「遂に完結」とか「旅の仲間の運命」とか「指輪の行方」とか,いかにも指輪をめぐる冒険活劇といったテイストで煽っているだけのように見えるのだが,アメリカ版の方は,もっとしっかりとこの映画のテーマをとらえているように思えるのだ。とくに後半,モルドールの侵攻を受けて燃えあがるミナスティリスの全景を,画面いっぱいに映し出して以降の流れがぐっとくる。

戦いの開始を思わせる映像のあとに,ふわりとはいってくる字幕。

  〔THERE CAN BE NO TRIUMPH / WITOUT LOSS〕

  〔NO VICTORY / WITHOUT SUFFERING〕

  〔NO FREEDOM / WITHOUT SACRIFICE〕

それに重ねて,ガンダルフが語る。

"All you have to decide is what to do with the time that is given to you."

この字幕とセリフが効いている。そして,主な登場人物たちが,短いショットで顔を出す。なかなかの演出ではないか。これだけ思い入れを込めて宣伝されたら,封切りが待ちきれなくなるのも,わかるというものだ。他ならぬ私がそうであったように。

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05.03.10. 注意しよう

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  夜中になると出入口に鍵がかかってしまうなどと書いたら,ちゃんと出口はあるのだと院生に教えてもらった。しかもなんと,出口専用なのだそうだ。なあるほど。これを読んでくれている院生や修了生のみなさんには,そんなことは“常識”の部類にはいることなのだろうか。意外にも身近なところに,その出口はあったわけだが,しかしその場所も仕掛けも,私はまったく知らなかった。

  先日,学部入試の入構制限で早々にロックアウトになってしまったので,さっそくその出口を使ってみた。なあるほど,そういうことか。なんであれ,新しいことを覚えるのはうれしい。

  出口を出て,ふと思い出した。そういえば,ずっと以前の教授会(たぶんそのころは教員集会)で,当時の学長からそんな話があったのだ。たしか,「夜遅くまで研究に励んでいる先生方にとって,多少は便利になるはずだ」とも言っていた気がする。しかし,12時すぎまで大学にいたことなどまったくなかった私にはまるっきり縁のない話だったので,ちっとも注意して聞いていなかったのだ。

  入力情報から重要な情報だけを選んで記憶処理(短期記憶)へと送り出すのは,「注意」のはたらきによるものだ,というのが二重貯蔵説の立場だが,ほんと,いくら熱心に学長が説明しても,こちらが注意を向けていなければまったく記憶に残っていないものだ。

  あ,いやそれは正確ではない。注意を向けていなかった情報も,意識的な記憶にはなっていなくても,頭のどこかには記録されているのだ。だから,今ごろになって,そのことが自分と関係するようになると,「あ,そういえば」と思い浮かぶのである。とすれば,私たちの頭の中には,日常の些細なできごとをも含む,相当膨大な潜在記憶が蓄えられていることになる(これも,研究者から指摘されていることである)。生まれてからの毎日毎日のできごとが,私たちの小さな脳の中にどんどん蓄えられているなんて,考えただけでもすごいことではないか。

  まあもっとも,こんなふうに何かの刺激をきっかけとして,「そういえば」と思い出す記憶は,誤って頭の中で創り出されたいい加減な記憶である場合も多いということも,この領域の研究者たちは警告しているのだが。

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05.03.02. アピールする

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  学部の入学試験で,面接の担当になった。…なんてことをバラしてはいけないのかも知れないが,もう終わったことだし,いいだろう。

  今年面接官をやってみて,とっても気になったことがひとつある。それは,自分の持ち時間が終わった後に,勝手に“自己アピール”をしていく受験生が,複数したことだ。「これで試験を終わります」と言われた後,やおら「ちょっといいですか」とか言って,ペラペラしゃべり出すのである。それも,判で押したように薄っぺらい決意表明のみ。まるで昔あった「ねるとん」の告白タイムみたいだ。ひとりは,あらかじめなにやら書いた文書を用意してきて,手渡そうとしていたが,これは主任の先生が預かって,われわれには回らなかったので,中身はわからない。

  毎年面接にあたっているわけではないので,たしかなことは言えないが,こう3人も4人も自己アピールをするようになったのは,今年がはじめてではないだろうか。過去に全然なかったというわけではないと思うが,いてもせいぜい年に1人くらいなものだろう。何か,高校でそんな指導をしているのだろうか。それともどこかの受験雑誌が奨励でもしているのだろうか。萎縮して質問に答えられなかった人は,自己アピールでイメージを挽回しようとか,言われたことに答えるだけの生徒ではなく,自分から発言できる積極性や度胸をアピールしよう…,とかいって。だとしたら,それは大きな誤解である。

  だいたい,こんな型にはまった言葉の羅列を,しかも丸暗記してすらすらしゃべるだけでは,「よく練習してきましたね」くらいの感想しかない。とても“その人らしさ”をアピールしているようには受けとれないのである。それどころか,私などは一貫して減点材料としている。

  理由は簡単だ。「これで試験を終わります」と言われた時点で,あなたの持ち時間は終わりなのである。そのあとに勝手にしゃべり出すのは,「解答やめ」と言われたあとに,なお鉛筆を持って答えを書いているのに等しい。しかも,自分で勝手に問題を作って,その答えを書いているようなものだろう。

  前もって一生懸命想定問答を考え,練習を重ねてきた内容を滔々と話しているうちは,案外その人の特徴はわからないものだ。むしろ,質問されて,その場で自分の考えをまとめ,言葉を探しながら話し始めるとき,ようやくその人らしさが少しずつ見えてくる。だからわれわれも,わざとヘンな質問をぶつけてみたり,のって来れる話題を探るために雑談に脱線したり,いろいろ工夫しながら,受験生が質問をどんなふうに切り返してくるか,集中して耳を傾けているのである。それが面接というものだろう。それらの質問によって,じゅうぶん自分を引き出してもらえなかったと思われるなら,面接官としての力量不足をわびるしかないが,だからといって勝手に試験時間を延長し,自己アピールしてもいいということにはならないだろう。

  さらに言えば,試験時間には制限があって,その範囲内でたくさんの受験生を次々に面接しなくてはならない。しかも,評価の平等性の観点から,最低○分以上は面接するように,という基準もしっかり決まっているので,試験時間が押しているから次の受験生は短く切り上げようなんていう調整を加える余地は,当たり前だけどまったくない。相当タイトなスケジュールで実施しているのである。つまり,あなたが自己アピールに使っている時間は,本来次の受験生が使えるはずの貴重な時間なのであり,ひいてはわれわれ面接官の休憩や昼休みの長さをも左右するのである(なんだか個人的な恨みごとになってきたが…)。そんなところにも気を配ってもらいたい。

  ものの1分もかからないじゃないか,気持ちよく自己アピールして帰ってもらえばいいじゃないかと思われるかも知れない。たしかに,1人あたりの時間はたいしたことはない。しかし,今まではせいぜい1人だった。今年は3,4人になった。来年は10人になるかも知れない。たまたま合格した人が,自分は自己アピールをしたせいで合格したのだとまちがって原因帰属し,後輩に吹聴したとしたら,一気に20人に増えるかも知れないのだ。考えるだけでうんざりする。

  うちの大学は,面接室ごとにテーマが決まっていて,受験生がテーマを選択して受験する。私の担当する部屋は,仕事柄,昨今の授業が成立しない学級とか,先生の指示に従えない生徒とかの話題がよく出てくるのだが,あなたが勝手にはじめる自己アピールも,それとたいしてちがわないのではないだろうか。

  そんなパフォーマンスを練習している時間に,選択した面接テーマに関して,軽い本でいいから1冊読んで共感できるところを整理しておくとか,インターネットにあがっている評論を片っ端から読み比べてみるとか,そっちの方に力を注いだ方が,よっぽど面接でのイメージはよくなるはずだ,と私は思いますよ。

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05.01.04. 2ヵ月遅れ

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  頼まれていた原稿を,2ヵ月遅れでやっと仕上げた。覚えているかぎり,これだけ締め切りから遅れたのははじめてのことだ。じつに情けない。何が情けないといって,できもしない仕事を気安く引き受けてしまったことが,情けない。「できそうだ」という見通しが,まるっきりまちがっていたわけだ。

  途中,震災があったり学内の事情があったりして,少しバタバタしていたということもあるのだが,今考えてみると,そんなのは本質的な問題ではなかったようだ。それより何より大きかったのは,長い間のうちに私自身の専門領域がすっかり変化してしまったことだろう。

  与えられたテーマは児童期の全般的発達である。教職の教科書だし,私自身の出身が発達心理学の研究室だしで,わりあい簡単に引き受けてしまったのであるが,書き始めてみるとなかなかこれがむずかしい。どの話題を柱に据えるかさえ,悩まないといけない。ざっと頭にイメージを浮かべることはできるのだが,それを具体化するところで頭が空っぽになってしまう。それぞれの領域ごとに,いわゆる定番があるはずなのだが,それがすぐには思いつかないのだ。はっきりしているのはピアジェの発達段階説だけ。あとはどんな話題をとりあげ,どんな研究を挙げて説明するか,ちっともアイディアが浮かばない。教育心理学や学習心理学の教科書なら,もう少し何とかなる…気がするのだが。

  つくづく,発達心理学から離れて,ずいぶん遠いところまできてしまったものだと,思わざるを得ない。まあ,好きで専門が変わってきているわけだがら,特に後悔のような感じはないのだが,素直に時の流れの早さを実感するばかりである。

ポイント

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