ひとりごと

保存箱 2006.07-12

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06.12.27. ウラをとれ!!

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  修論の原稿にチェックを入れながら,家人が見ている夜のニュースに耳を傾ける。どこの局でも,ひととおりその日のラインアップが終わったら「特集」という企画モノがはじまるのだが,その日の特集は,いじめ対策の話だった。なんでも昔,アメリカの高校で起こった銃乱射事件の犯人が,学校でいじめを受けていたことがわかったそうで,その後のアメリカのいじめ対策を取材したビデオが流された。

  各学校にカウンセラーが配置され,子どもたちの訴えを聞いているという話で,ビデオではその面談の様子が映っていた。その内容は,まず「同級生に暴力をふるわれた」と相談に来た生徒の話を聞き,相手にそういう相談があったことを言っていいかどうかを確認し,返事がNOだったので,「目撃者からの情報」ということで相手に伝えることを約束。その後,相手からも事情を聞き,当事者2人とカウンセラーとで話し合いの機会を設けることで話がまとまった。だいたいそんな流れの話であった。

  番組では,いかにも先進的な試みのように紹介されていたが,しかし,どうだろう。たしかに専門のカウンセラーが配置されているのはうらやましいが,ビデオで紹介されていたような内容ならば,日本だったら担任の先生がごくふつうに対応していることなのではないだろうか。私も,学校現場を詳しく知っているわけではないし,情報源は,うちの大学にわざわざ勉強に来るような高い意識を持った先生たちだから,入ってくる情報はかなり偏っているかも知れないのだが,その範囲内で見聞きした情報から判断する限りでは,さして目新しい対応には見えなかった。

  まあ,それだけなら,取材不足で内容のない特集だった,で終わりなのだが,そのあと,ますます腹が立ってきた。問題は,ビデオが終わった後,スタジオにいたキャスターだかコメンテーターだかよくわからない立場の某氏が発したコメントである。

  彼氏は,日本で以前,いじめ自殺事件で騒がれたある生徒の親に取材したことがあるのだそうで,そのときに,「事件のあと,学校はどう変わりましたか?」と質問したら,その親は「何も変わっていない」と答えたのだそうだ。それをもとに,彼氏はコメントをこう結論づけた。「事件から何も学ばなかった日本と,きちんと対策をとっているアメリカ。2つの国の間には,ひじょうに大きな差があると思います。」たしか,そんなようなコメントだったと思う。トホホ。

  ここにあるのは,いじめ被害者の親の証言と,アメリカでの対策の実態,それだけである。それらと比較され,批判されている肝心の日本の学校への取材は,いったい行ったのだろうか? アメリカはこのような対策をとっていますが,日本ではどうですか,と聞いてみたか? 親は「学校は何も変わっていない」と言っていたが,ほんとうに何も変わっていませんか,とぶつけてみたか? そうした裏づけなしで,日本の学校はひどいと批判することができるのか。

  べつに,この親が学校に対して偏見を持っていると言いたいわけではない。実際どんなコトバで質問したか知らないが,「学校はどう変わりましたか?」なんていうアバウトな質問で,そもそもまともな答えが返ってくるわけがないのだ。生徒への対応が変わったのか,保護者への対応が変わったのか,いじめ対策が変わったのか,学校の運営体制が変わったのか,「変わった」の中身は多種多様なはずだ。インタヴュアーの意図がどこにあったのか,またそれを親がちゃんと理解して答えたのか,それとも誤解していたのか,さっぱりわからない。こんなひとことインタヴューで,取材したつもりになられては困るのである。

  挙げ句の果てに,その幼稚な取材結果を,日本の学校への批判へと短絡的に結びつけてしまうのだから,始末が悪い。先ほどのビデオではないが,親にも取材し,学校にも取材し,両方の材料をそろえた上でちゃんと事実を認定し,判断するのがほんとうなのではないだろうか。個人的な印象だけを手がかりに,ただ小ぎれいに作文したというだけなら,中学生の意見文レベル…などと言ったら中学生に失礼なくらいのレベルだろう。

  ドラマだったら,頑固者のデスクが「ウラをとれ!!」と怒鳴り散らすのが定番なのだが,TV局にはそんな上司はいないのだろうか。こんなものを平気でON AIRするようでは,この国の報道の将来が本気で心配になってくる。

  ちなみに,私自身がビデオで興味をもったのは,話し合っても暴力が収まらなかった場合,相手の半径何m以内に近づかせないという規程があり,それでも効果がなければ出席停止処分になる,という部分だ。つまり,そういう処罰規程を背景とした相談活動なわけだ。銃が身近にある社会という事情は考慮しなくてはいけないが,こうした厳罰と相談活動との組み合わせが,実際どのように成果をあげているのか,きちんと取材してくれればうれしかったのだが,残念ながらこの罰則は,ナレーションの最後で簡単に紹介されただけだった。

ポイント

06.12.21. 小布施のこと

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  ひさびさに晴れ間が広がった週末,長野の小布施に出かけた。毎年のように行っているが,12月に行くのははじめて。いつもこの頃は雪が降り出しているから,わざわざ峠越えをする気にならないからだ。しかし今年は暖冬らしく,12月半ばだというのに,県境の峠にさえ,まだ雪の気配がない。

  毎年お目当ては,お気に入りのお昼を食べることなのだが,そのほかにも,美術館を覗いたり,街なかを散歩したり,おみやげの栗菓子を選んだりと,けっこうのんびりと過ごすことができる。夏から秋にかけてのシーズンは,栗菓子やさんが集まる一角を中心にかなりの混雑になるのだが,さすがに12月は客足がまばらだ。

  北斎の肉筆画を中心に収蔵している北斎館の前を通ったら,建物の外に大きな文字で「20周年」の看板が掲げてあった。考えてみると,ここをはじめて訪れたのは,北斎館が開館したというニュースを聞いたからだから,わが家とこの街とのつきあいも,もう20年になるわけだ。

  その頃はまだ,それほど観光客も多くなく,北斎館の駐車場でよちよち歩きの子どもたちを遊ばせているかたわらで,おじさんが落ち葉を掃き集めて,のんびりとたき火をしていた。その煙の匂いと,梢のモズの鳴き声が妙に頭に残っている。

  その後この街は,一気に観光地として有名になり,あの駐車場もいつ行っても満車で停められないくらいになった(シーズン中は,観光バス専用になっているようだ)。周りの街並みも少しずつ整備され,新しく建ったお店も,きっと統一感のある外観を申し合わせているのだろう。どれも雰囲気のあるたたずまいを見せている。一時期,「町おこし」運動が全国を駆けめぐり,各地でさまざまな試みが行われていたが,経済の動向という波間に浮き沈みを繰り返し,やがてそれらの多くは,消えていってしまった。そうした中で小布施の町おこしは,堅実な成功をもたらした例といえるのではないだろうか。

  そういえば,20年前に小布施に興味を引かれたのには,たしかもうひとつ理由があった。特産の栗の木を敷石代わりに敷き詰めた舗道を,十数メートルだか整備して「栗の町」を観光客にアピールしたいという,これも新聞の片隅に見つけたニュースだ。できあがって間もない,なんだか靴で歩いては申し訳ないようなその舗道を,子どもといっしょに行ったり来たりした記憶がある。その栗の木の舗道は,さすがに20年も雨風にさらされて,木の芯を残してすっかり朽ちてしまっていた。なにしろ20年,の歳月である。

ポイント

06.12.19. 続・かかりきり

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  2科目並行してのPowerPointへの移植作業は,思いのほか手間とヒマのかかる作業だった。図表の元図をスキャナで読みとってデータ化したり,レイアウトを微調整したり,といった作業が意外に時間を食う。1科目ずつ年を追って移行してもよかったのかも知れないが,受講生が両科目にほぼ共通なので,片方の授業だけPowerPointで片方はOHPというのは,いかにも間抜けだ。そのうえ,よせばいいのにモノクロのグラフを見やすくカラーに描き替えたり,アニメーションが使えるので文章での説明を図式的な説明に入れ替えたりしたから,よけいに手間がかかる。

  移植作業に時間がかかるのを見越して,今年は教える内容の入れ替えをできるだけ控えたので,内容は昨年とほぼ同じはずなのだが,それでも,ついあちこちいじって変えてみたくなってしまうのは,われながら悲しい習性だと思う。OHPだと,内容を修正したらいちいち印刷しなくてはいけないのだが,PCの画面上ですべて済ませられるプレゼンソフトでは,そうした手間がかからないぶん,つい気を許して細かく修正を入れてしまうのだ。

  この作業に,質問への回答を書いたり,配付資料を印刷したりという毎年の作業も加わるので,1時間の授業の準備にも1日がかりになってしまう。どう考えても自業自得だから,だれを責めることもできない。つくづく「いっきにPowerPointに乗り換えよう!」という最初の思いつきを呪うしかない。

  11月いっぱいで,やっとその中の1つの科目の準備が終了した(後半は,学生が自分たちで調べてくる形式)。これでやっと,引き延ばしていた大学院の授業レポートへのコメントに取りかかれるようになったのだが,読んでからちょっと時間がたってしまったからか,どうも「さあ,書くぞ!」という勢いが足りない。困った。

  まあ,リハビリしながら少しずつ書きはじめたけれど,あとは冬休みの宿題とさせてください。

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06.10.27. かかりきり

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  学部の授業を,今年からPowerPointでやることにした。

  ずっとチョークと黒板という古典的なスタイルを貫いている大学院の授業とちがって,学部は早くからOHPを使っている。理由は簡単で,学部の方は教職科目にもなっていることもあって,より基礎的で広い範囲の内容を扱う。したがって,いろんな用語や概念がどんどん出てくる。しかも教採の問題は,人名と事項のマッチングといった形式のものが多く,内容を深く理解するというよりは,いわゆる暗記的な知識が問われることが多いようだ。だから,用語や概念をできるだけ正確に(誤字がない,他の概念と混乱していないという意味で)説明する必要がある。

  べつに院の授業が不正確でいいというわけではないが,あちらは自分の専門なので,少なくとも用語のレベルでは,そんなに不正確なことはないだろう。学部の方は扱う内容が幅広いので,毎回記憶を頼りにチョークで手書きでは,正直しんどい。まちがってはいけないと,よけいなプレッシャーもかかる。メモカードを作っておいてもいいのだが,それだったらTPに書いて提示した方が早いだろうと考えたのだ。ついでに,一度作ってしまえば次の年から授業準備はずっと楽になるだろうとの読みもあって。(実際には,けっこう毎年あちこち入れ替えているので,そんなに楽にはならなかったのだが…)

  そのOHPだが,ずっと使ってきたため,光量が低下してきた。スクリーンの位置の問題もあるが,陽光の注ぐ明るい中で映すと,かなり見にくい。全部のブラインドを下ろしてスクリーンが鮮明になるようにすると,今度はメモをとる学生の手元が暗くてかわいそうだ。それで買い換えのために,ネットで商品情報を探していたら,見つかったのが携帯用液晶プロジェクタ。これまで,個人の研究費で買える程度のプロジェクタといえば,暗くて小教室でしか使えないものがほとんどだと思っていたのだが,そのプロジェクタは1ランク上の機種と同等な明るさ。もちろん,OHPの光量とはくらべものにならない。

  それでさっそく液晶プロジェクタを買い,ついでにPowerPointで授業することを決め,OHPの内容を一気にPowerPointに移植しようとしたのだが。

  しかし,やってみると,これがまた時間がかかる。そのままデータを変換する手もないわけではないのだが,どうもあちこち不具合がある。とくに多用している図式部分の拡大縮小がうまくいかず,枠と中の文字の大きさがアンバランスだったり,矢印がつながらなくなったり…,けっきょくひとつひとつ修正しないといけない。それに,せっかくPowerPointにするなら,「結論」部分にアニメーションをかけて,あとから表示できるようにしたり,説明に合わせて矢印を引っぱったりもしたい。

  なんてことをやっていると,1つ作るのにもどんどん時間が経ってしまう。そのうえ,OHPのときと内容を変えていないのに,実際に授業をやってみると,よけいな装飾をかけているせいか,時間がオーバーしたり,逆に短くなったりしてあわてることになる。う~む,なんだか自分で自分の首を絞めているだけのような…。

  今度も,一度作ってしまえばしばらくは楽できると踏んでいるのだが,でもきっとまたすぐ修正することになるのだろう。

  そんなわけで今年は,学会の終わった9月後半から,ずっとこの作業にかかりきりなのでした。

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06.10.17. 6つめ

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  発達臨床コースのWebページのデザインを担当することになった。教育方法講座,初代発達臨床コース(入口だけ),心理臨床講座緑葉バージョン,紫葉バージョン,絵の具バージョンと来て,今度で6つめ。そうやって過去を振り返ってみると,この短い期間の中で,自分のアイデンティティである所属がめまぐるしく変わっているという事実に,否応なく気づかされる。そう思うと,なんだか昔デザインしたページを1個も保存していなかったのが,ちょっぴり残念な気もするが,まあ,きっと手元に残っていないから気になるだけで,実際に見てみたら全然たいしたものじゃないにきまっているし,だいいち,そのときそのときのHTMLの技術を反映しているから,古いページほど見劣りするだけだろう。

  新しいページは,Cascading Style Sheetという技術を大幅に取り入れて,できるだけ見やすく,またブラウザがちがっても似た「見た目」になるようにデザインしている。…とはいっても,古いブラウザはCSSへの対応度自体に問題があるので,古いブラウザではまともに見られないかも知れない。あくまでも,最新のブラウザへの対応だ。

  今はあんまり厳しく言われないが,昔は,HTMLは見た目をカッコよく仕上げるためにではなく,本文とか表題とか引用文とかの文章構造をはっきり示すためのものだから,文章構造をメチャクチャにするような画面デザインは,カッコよくてもダメ! とよく言われていたものだった。私もそのころの古い“ネチケット(なんて言っていたころがありましたね)”が染みついているので,あまり装飾を加えずシンプルに,とくに文章構造を崩さない,というのをずっと心がけてきた。市販のHP作成ソフトの多くは,見た目を統一するために,TABLEタグを使った表構造をベースにしているのだが,これだと文章構造が表現できないし,装飾のためのタグが異様にたくさん挿入されてファイルが肥大化するので,嫌いだ。

  CSSという技術は,装飾部分をスタイルシートにまとめて記述し,本文と切り離すことができるので,本文には文章構造を示すタグがつくだけ。あとで記述を変更・追加するときも,文章の中にちりばめられた装飾用タグの波間から,どこに本文を追加すべきか探し出す手間を回避できる。それに,画像に頼らなくても意外に凝った装飾を加えることができるのも,大きなメリットだ。画像を使わないぶん,表示が早いからだ。

  実際の作業は,ちょうどプログラミングの感覚だ。スタイルシートを変更したら,ブラウザに表示させてみて,少しずつ調整を加えたり,新しいモジュールを追加したりしながら,気に入った「見た目」に近づけていく。昔,DOS版のBASICでちまちまプログラムを書いていたころにさんざんやってきたこと,そっくりそのままなので,けっこう楽しい。楽しいが時間がかかる。

  子どものころのプラモデル作りと同じで,苦労して作っている過程が楽しいのであって,できてしまうととたんに思い入れがなくなり,ついつい更新の手が鈍るのが,いつものパターンなのだけれど。

  ともあれ,一度のぞいてみてください。

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06.08.23. 免許法認定講習

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  教員の人たちが免許状をアップグレードするための講習会の講師をやった。最初の要請では「教育の基礎理論」というずいぶんアバウトなタイトルだったので,ちょっと困っていたのだが,あとになってもっと内容に即した具体的なタイトルにしてくれ,ということで「学習心理学」というごくオーソドックスなタイトルになった。まあ,教職科目みたいなものだから,あんまり突飛なタイトルにもできないわけで。

  ところが,受講生には「教育の基礎理論」というタイトルしか伝わっていなかったようで,講習会の冒頭でそのことを知って一瞬ギクリ。いくら単位のための受講とはいえ,講義内容をある程度予想して申し込むのと,まったく知らないのとでは,授業への心構えがぜんぜん違うだろう。とくに,「教育の理論」といえば教育学っぽいイメージが強く,そういう講義を期待している人たちにとって,人間愛を語るのでもなく教育の理想を語るのでもない,けっこう理数系の心理学理論を聞かされるのは,かなりの苦痛ではないだろうか。

  講義だけならともかく,せっかくだからと,私もけっこう毎日ヘンな実習を組み込んでいたので,よけいに心配だったのだ。だいたい初日から,“犬の調教”を模したゲームをやってもらったし。…事実,初日だけ出席してそのあと来なくなった受講生が1人いたのだが,よほど1日めの講義と実習が合わなかったのにちがいない。いろいろなところで話をしてきた経験からいえば,心理学って,けっこう好き嫌いが激しい気がする。私の授業の上手下手は別としても。

  さて,そういう趣旨の講習会なので,ちゃんと評価をしなければならない。テストにするか,レポートにするか,いろいろ考えたのだけれど,ふと昔,田中先生が「学校実践解析法」で使っていた課題を思い出した。それは,自分の意見を書かせるのではなく,授業の内容を「心理学を知らない人に教えるつもりで」まとめる,という課題だ。「解析法」の授業は,50%は各担当授業分を担当者が評価する方式だったので,実際に私が読んでいてとてもおもしろかったのだ。もちろん,おもしろいだけでなく,1時間分の内容を自分のコトバで要約させるという作業を通じて,その人が授業のどこを重視していたか,どこを聞き逃していたかがとてもよくわかる,という点でもこの課題はすぐれている。

  講習会ではそれほど高いレベルでの理解を求める必要はないので,基準をぐっと下げてA5版のショートレポート形式にした。その代わり,まとめてではなく,毎日レポートを課すことにした。

今日の授業でいちばん興味をもった事柄について,その内容を他の人に教えてあげる場面を想定し,自分のコトバを使ってわかりやすく説明しなさい

  半分苦し紛れだったのだが,これが(私にとって)なかなかのヒットだった。何がよかったかというと,なにせ受講生は学校の先生なので,先生のコトバで,また日ごろの教育実践とからめて説明してくれるのだ。たとえば,

低学年でよく「今日やったことをお母さんに教えてあげるのが宿題」というのがあるけれど,それもこんな理由があったんですね。

「これだったら自分でもできそう」と思えないと,行動につながらないんだよ。最後のゴールを目指させるだけでなく,今日,この時間に何をすべきかを明確に示すことが重要なんだね。

  それぞれ,何の概念について書かれたものか,おわかりだろうか。

  ふだんの授業でも,教員養成大学なので,できるだけ心理学の概念を学校での様々な現象と結びつけて話そうとはしているつもりなのだが,いかんせん自分自身は最近の学校現場を体験していないので,なかなかうまい事例を見つけることがむずかしい。それで,新聞の投書欄などからよくネタを引っぱってきているのだが,その点で,こんなふうに先生たちから先生たちのコトバで事例がまとめて聞けるのは,たいへんにありがたい。

  3日間にわたって教わったことは,私の今後の授業にすぐに活かしていきたいと思います。3日間,ほんとうにありがとうございました。…って,この授業が役に立ったと最も強く思っているのは,ほかならぬ私なのだ。

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06.08.17. 存在証明のために

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  ずいぶん久しぶりに,「教心研」に論文を書いた。とはいっても共著であり,私は第2著者。つまりは第1著者である修了生の修論をまとめ直したものである。だから,私が偉そうに言えるようなものではないのだが,しかしこの論文には,特別な思い入れがある。

  私がこの大学で院生指導を担当するようになったのは,「教育方法講座」というところであった。毎年入学生のほぼ100%が現職派遣院生(教員の身分のまま大学院で学ぶ院生)というのが方法講座の特徴である。彼ら現職教員は,日ごろの教育実践にもとづき,きわめて具体的で実践的な問題関心を持って大学院に入学してくる。しかも,方法講座を志望しただけあって,問題関心の中心は,「実際の授業を改善しよう」ということである。必然的に,研究は実際の授業場面を用いた介入実験ということになる。

  私の出身は発達心理学なので,はじめのうちはこうした問題意識にちょっと戸惑っていた。しかし院生たちは,そんなウラがあるとは露知らず,助言・指導を求めてくるわけで,しかたがないので,ゼミ生一人ひとりの研究関心に応じて(なにしろ,数学・国語・技術・生活科と,みんなバラバラなのだ),こっそり下調べをしながら,何食わぬ顔をして,ゼミには臨んでいたのである。だから,ゼミでは最初から知っていたような口ぶりで話すのだけれど,実際には,院生に負けないよう必死に勉強していた,というのが正確だろう。

  そうこうしているうちに,私もこのパターンにすっかりなじんでしまった。なにしろ,院生は授業の専門家であり,実際の授業を構成する技術にかけては,まったくこちらが心配する必要はない。だから,こちらは要因計画や条件統制といった部分に集中することができる。それぞれが得意分野を持っているので,一方的な「指導」ではなく,きちんと役割分担ができ,互いに異なる立場から意見を言いあうことができるのである。とにかくこれがいちばんおもしろい。

  それに,授業時間を何時間も使って綿密な介入実験を行うことなんて,とても外部の人間がお願いしてやらせてもらえるものではない。大学のセンセーは,そういう実験をバンバンやっていそうに見られることもよくあるのだが,そんなことはけっしてない。…と心理で卒論を書こうとしている学生にも毎年説明していたりするくらいだ。現職院生たちだって,前年度(彼らが1年生のとき)から何度も所属校に足を運び,関係する先生方に挨拶やら説明やら奉仕作業やらを繰り返し,また学校行事等の日程とにらめっこしながら,手続きを変えたり削ったり,たいへんな努力を強いられるのだ。

  それでもやはり,こうしたぜいたくな時間の使い方をしながらの介入実験は,現職院生ならではであって,その貴重な機会を利用しない手はない。「利用する」というといやらしいが,要するに,きっちり実験計画を立てて,できるだけ成果を出し,学校にも子どもたちにもその成果を還元できるようにと,自然に気合いが入るのである。

  そんな中で,けっこう完成度の高い研究もポツポツと表れてきた。そういうときは,なるべく専門誌に投稿するよう,院生には個人的に勧めてきたのだが,残念ながら,いざ修了して学校現場に復帰してしまうと,やはりみんなとたんに忙しくなるようで,とても投稿どころではないらしい。けっきょく,だれも投稿してくれず,そのうち投稿のお勧め自体,あまり熱心にやらなくなってしまった。

  それに,何人かゼミ生がいる中で特定の人だけに投稿を勧めるのは,なかなか勇気がいるものである。“実験は水物”であり,いくら周到に計画・準備したつもりでも,結果が出ない研究はたくさんある。とくに,ほとんど一発勝負にならざるを得ない修論では,「当たりはずれ」はやむを得ない部分があって,きれいな結果が得られたかどうかが唯一の論文評価ではない,ということをわれわれはわかってはいるが,院生にしてみればやはり優劣をつけられていると感じて,いやな思いをしているにちがいない,と思うと,ついつい口が重くなる。かといって全員に投稿を促しても,儀礼的に言っているだけだと思われて,ちっともインパクトがない。というような状態がずっと続いていたのである。

  そうこうしているうちに,講座の再編があり,これまであちこちの講座に分散していた心理のスタッフがいっしょになって,「心理臨床講座」ができた。しかしこの改革には,個人的にひとつ大きな誤算があった。ゼミ生の問題関心が,大きく変化したのである。心理学を標榜するゼミを志望してくる院生の多くは,適応や臨床の領域に興味を持っている人たちであった。「学習臨床講座」が別に設置されたこともあって,今までのように授業そのものを研究対象にしたいというような院生は,激減してしまったのである。

  となると,研究手法も変わってくる。介入実験にはなじみにくいので,もっぱら質問紙調査に落ち着く。しかし,質問紙調査は自分でも何度か手がけているので,どうもアラが目につく。実験に比べて質問紙は,解釈に幅があるというか,どうにでも解釈できるところがあって,実験のようなスッキリした結論になりにくい。またこの領域は,社会的望ましさの問題が入り込みやすいので,子どもたちは望ましい項目をすべて高く,望ましくない項目をすべて低く回答しようとする。そのため,どの測度にもある程度の相関が見られることになり,その見かけの相関を因果関係と混同してしまうことが起こりうる。

  そんなわけで,いったんは授業研究と介入実験の方向に像を結びつつあった私のアイデンティティが,講座再編とともにもろくも崩れ去って行きつつあるのだ。これはたいへんだ。なんとか,私のアイデンティティを証明しなければ。少なくとも昔はこうだったという存在証明の足跡を,どこかに残しておかなければ…。ちょうど「教心研」には,現職教員の読者に配慮して「実践研究」という新しいカテゴリーが設けられたころでもあった。

  といったいきさつがあって,またちょうど心理臨床第1期生が行った介入実験が,とてもよい仕上がりを見せていたので,私にしては珍しく強引に,かつしつこく投稿を勧めた。とはいっても,やはり学校現場は忙しく,執筆している暇がないということで,途中から私が原稿執筆を引き取り,修正等の対応も行った。だから,私はゴーストライターみたいなものなのだが,それでも,かつて自分は介入実験を積極的に指導していたのだという存在証明を,なんとか雑誌のうえに残せたことで,ちょっとほっとしているのだ。

  さてこれから。私はまた新たなアイデンティティを築いていかなければいけないのだけれども,それと同時に,やはり院生が修論を完成させただけで満足しているのはいかにももったいない。これを機に,またがんばって専門誌への投稿を促していこうと思う。

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06.08.11. テーマソング

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  無駄に絶叫したり,意味のないキャッチフレーズを連呼したり,試合に関係のないこぼれ話を絶え間なく披露してちっとも試合を伝えないアナウンサーたちが耐えられないので,サッカーの試合はできるだけNHKで観るようにしている。あの落ち着いた,試合の状況を淡々と伝える実況で十分だ。こちらが盛り上がる前から,放送で盛り上がりを強制されたり,さして盛り上がる必要のないところで異常に盛り上がっているのを見せつけられると,こちらはかえってどんどん冷めていってしまうからだ。

  今回のW杯放送も,できるだけNHKを優先させていたのだが,今回はちょっと困ったことが1つある。それはNHKが採用した,W杯のテーマソングである。若者に大人気らしいそのグループの曲は,しかしどうひっくり返って考えても,W杯という場にそぐわない(ように私には思えた。…以下は完全に個人的な感想なので,ファンの人がいたら先に謝っておきます)。曲といい歌い方といい,ひたすら明るく元気なだけで,いかにも軽いノリの曲だ。カラオケバーで,そのへんの若者が酔っぱらって騒いでいるような曲,というのが正直なところ私の印象だ。

  しかも,音程がどうも不安定に聞こえる。「酔っぱらって」いるように聞こえるのは,そのせいもあるようだ。ソロはともかく,ハモっている部分で音が合わないのは,さすがに聞いていてつらい。テーマソングがかかって,さあこれから試合だというのに,これですっかり気持ちがしぼんでしまうのである。なんでこの曲が,なんのクレームもなく採用されてしまったかなあと,つくづくNHKの判断を恨んでみたくなる。私の感覚がヘンなのか?

  たしか昨年,「絶対に負けられない試合」だの「決意のヨーロッパ遠征」だとやたら力の入ったキャッチフレーズを連呼しながら,テーマソングは「バカンス」だの「おバカになれ」だのという曲を使っていたのはテレビ朝日だったが,あれ以来の脱力感だ。いったいどういうセンスを持っていたら,あんな結びつけ方ができるのか,まったく信じられない。

  まあ,あれはまだ害はないが,こちらは正直耳をふさぎたくなる。W杯といえば真剣勝負の場である。国と国との闘いである。代表という誇りをかけた一戦なのである,選手にとってもサポーターにとっても。出番を待つ通路での,選手たちのリラックスした表情から,ピッチに登場した瞬間,スタジアム中から沸き上がる大歓声と,選手たちの顔つきの変化。そういう高揚感,緊張感がW杯なのだ。サッカーの祭典などと呼ばれるけれど,ただのお祭りではない。

  ちなみに,私が今回いちばん気に入っていたのは,意外なことに日本テレビが使っていた「手を出すな!」であった。ラップということで,最初はちょっとなじめなかったのだが,聴いているうちにハマッてしまった。リズムといいテンポといい,オ!ウォ!のバックコーラス(?)といい,手拍子といい,どれもサッカーの応援スタイルをよく知っている演出だと思う。歌詞も,なかなかかっこいい。なにより,「手を出すな! それだけがルール!」というリフレインが耳に残る。だから,ハイライトでゴールシーンがまとめて映し出される場面の背景に流れる音楽としては,とてもうまくフィットしている。残念ながら,最初に述べた理由から,日テレではW杯中継を見ていないので,その中で聴いたときに,とくに番組冒頭で流れたときにどうかはわからないのだが。

  EURO2004のときは,録画した試合をDVDを焼くとき,必ず冒頭のテーマ曲…というのかアンセムというのか,ほんの短い曲を入れて,EURO2004の試合だということがすぐにわかるようにしていたのだが,今度のW杯のDVD(元映像はNHKなので)では,まずまちがいなく冒頭部分はカットになるはずだ。

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06.08.10. 闘う記者会見

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  オシム新監督の記者会見がおもしろい。はじめての代表選手発表の記者会見を読んだら,久しぶりにワクワクしてきた(今回はJ's GOALの全文掲載をどうぞ)。おおお,記者のヘタクソな質問と闘ってるじゃん,“かかってこい”と挑発してるじゃん。こんなエキサイティングな会見は,トルシエ監督が辞めてから,しばらく読んだことがなかった。以前から「オシム語録」などと言われ,彼独特の語り口は有名だったが,代表監督になっても,最初からとばしている。今後が楽しみだ…と思っていたら,初戦であるトリニダード・トバゴ戦の前日会見は,さらにパワーアップしている。すばらしい。

  まずは選手発表記者会見から。「日本人のよさを生かしたサッカーを具体的にこのメンバーでどうやるのか?」という記者の質問に対して,

「私はどういう人を選ぶか,どういう試合をするかで答えを出します。」

と切り返す。選出されたメンバーを見れば,一目でわかるだろうというわけだ。あとになって,しつこく「具体的にどこがいいと思ったのか?」と聞く記者には,「選手の分析をここでしろというのか?」と反撃し,「どんな基準で選んだのかということだ」と食い下がられると,

「全員が日本人であるということ。これは絶対的な条件。それだけです。」

と煙に巻く。こりゃ,記者たちもよほどしっかりしないと,インタビュー記事が書けないのではないだろうか。というか,あまりにも多様な解釈が可能なので,記者自身の読みとり能力が,記事に如実に反映されてしまうのではないだろうか。もしかしてオシムの言葉は,「裸の王様」の魔法の布地なのかも?

  つづいて試合前日会見(同じくJ's GOAL)。どうも記者たちは,システムの話がことのほか好きらしい。4-4-2だからどうとか,3-4-3だからこうとか,新代表の輪郭もはっきりしないうちから,早くもシステムを聞き出して記事にしたいらしい。選手たちをいちばん枠にはめたがっているのは,たぶん記者たちなのだろう。司令塔だの,誰それの後継だのというラベルが貼りやすくなるからだ。そして,あっさりオシム監督にかわされる。

「どういうシステムでプレーするかは誰が出るかで決まる。どうしてスタメンが誰かを聞かないのか?」

「ではスタメンを教えてください」と問われると,

「相手がどのような作戦で来るかによる。あらかじめスタメンを発表するのは相手に失礼に当たる。」

だと。問われるままに「もし明日が試合だったら」とスタメン予想を公表し,実際ほぼ変わらないスタメンを出場させていた前監督とはずいぶんとちがっている。

  それと,「キャプテンは誰かということに国民の関心が高い」なんてことも,記者は言っているのだが,キャプテンは誰かなんて,いったいどれくらいの人が興味を持っているのだろう? これもやはり,メディアがスター選手を探し出し,ネタにしようと狙っているだけなのではないだろうか。これはさすがに見透かされていて,

「スポンサーやマスコミに都合がいい人がキャプテンになることを希望していることは多いが,時にその見栄えのいいキャプテンは役に立たないこともある。」

と,バッサリ斬り捨てられてしまう。

  以前,トルシエ監督があるスター選手を代表からはずしたときのことを思い出していた。監督は理由を聞かれて,「私は代表に選ばれなかった選手についてはいっさいコメントしない。もしそれをするなら,1万人の選手について,それぞれコメントしなければならないだろう。」と会見で答えていて,なるほどと思ったのである。彼だけが特別なのではない,代表になる可能性のある全国のサッカープレーヤー全員についてコメントしなければフェアではないというわけだ。監督の一言ひとことが,メディアによって勝手に切り取られ,編集され,拡大されて,ときにはその選手をスターに祭りあげ,ときにはいわれのない根拠をもとに批判にさらされうることを,よくわかっての対応だったのだろう。

  話のついでに,もう一つトルシエ監督の会見で印象に残っているのは,同じようにスタメンは誰かに質問が集中したときに,「なぜスタメンのことばかり注目したがるのか」と質問を批判したことである。「スタメンで活躍する選手,途中出場で活きる選手,ベンチの中で能力を発揮する選手と,選手にはそれぞれ特徴があって,すべて等価なのだ」というようなことを彼は言っていた。当時の記事がもう探せないので,細部は創作だが,だいたいこんな内容だったはずだ。

  こういうのを読むと,いかにも「プロの監督の仕事」を見せてもらった気がする。(っていっても,私はけっして監督の仕事をよく知っているわけではなく,監督の仕事に興味を持つようになってから日も浅いので,たいしたことは言えないのだが。)

  さて,話を元にもどして,ついでだから,試合後の会見も見ておこう(スポナビ)。泣かせるのは冒頭,

「うれしい誤算があった。日本の皆さんが本当にサッカーが好きなんだなということを,スタジアムが満員になったのを見て実感した。今日の満員のスタンドを見て、この人たちを失望させてはいけないとあらためて感じた。」

と,サポーターへの敬意と連帯感を表明していることである。

  また,彼が記者を困らせようと意地悪しているだけでないことがわかる。ピッチコンディションの問題と采配との関連を聞いた質問には,「いい質問だ」と前置きしたうえで,制約が多い中で,コンビネーションを一定のレベルに保つために,同一チームからまとめて選手を選出したと,チーム作りの方針の一端を披露しているのだ。

  その一方で,最初の監督の言葉をよく聞いていなかったのか,理解できなかったのか,最後に記者が「責任は心地よいものか重荷なのか。うれしい誤算とは具体的に何か」などと間抜けな質問をすると,

「満員だったということの重要性をご理解いただけない方が,もしこの中にいらっしゃるなら(この仕事を)お辞めになった方がいい。」

と,あいかわらず鋭い言葉を浴びせかける。

  ほんとうにこれから,この監督の会見は目が離せなくなりそうだ。そして記者たちが,この会見をもとにどんな記事を書くのかも,とても興味深い。実際,オシム監督の選手起用の基準が「わからない」,練習が難解で「わからない」と,わからないことをキーワードにしたコラムを,少しずつ目にするようになってきた。そのうちメディアが,「わからない」を根拠に監督を一斉にバッシングし出すのではないかと,ちょっと心配もしていたりするのだが。

ポイント

06.07.24. 個のチカラ

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  どうにもわだかまっている。

  授業の準備やら会議の後始末やらに力を注いでいて,すっかり時機を逸してしまった話題ではあるが,やはり書かずにはいられない。日本代表がW杯予選リーグで早々に敗退し帰国したときの,川淵三郎日本サッカー協会会長の会見のことである。

  会長はこのとき,日本代表の敗因について,「個の力の差」だと述べたと,メディアは一斉に報じた。断片的な報道だけでは,発言の一部を抜き出して歪曲して伝えている可能性があるので,全文を掲載しているサイト(たとえは「スポナビ」)に確認しに行くと(ネット社会になって,読者がこんなふうに一次ソースを確認できるようになったのは心強い),たしかにそう言っているだけでなく,「選手がそれを感じ,個の力を上げていかない限り,世界のひのき舞台では勝てないことを強く感じたと思う。」などと,なんだかずいぶん他人事のように言っているのに気づいて,愕然とする。

  おまけにジーコ監督の方はもっとすごくて,「体格差」を感じた(同じく「スポナビ」)のだそうだ。体格差といっても,身長だけでなく持久力や当たりの強さといった体力をいっしょにした言い方(いわゆるフィジカルの強さ?)のようだが,そうだとしても,4年間代表チームを率いてきて,いや鹿島時代を含めたらもっとずっと長いはずだが,それでやっとたどり着いた結論がこれですか,と思うと情けなくなる。

  そんなことは,われわれ日本人なら,みんな知っていることだ。体格差なんて,一目見ればわかることではないか。それを前提として,体格ではとてもかなわない欧米のチームや選手たちを相手に,いったいどうやったら互角に勝負できるかが,どの競技においても,日本スポーツ界の永遠のテーマだったのではないか。何を今さらそんなところを指摘して納得しているのだろう。

  もっとも,この監督は以前から試合に負けると途端に言い訳がましくなって,主力選手がケガで動けなかったとか,準備期間が少なかったとか,あげくは審判がヘボでファウルを見逃しただの,日程が込んでいて疲れがとれなかっただの,試合時間が悪いだのと言い出す人なので,最初からまじめに聞く気が起きないのだが。あとで記者から「あらかじめわかっていたことだ」と突っ込まれて,対策もちゃんとやっていたと反論しながら,じつは「セットプレーを与えないようにした」くらいしかやっていなかったことが露呈していた。

  さて,会長に話をもどそう。「個の力の差」が明確に出てしまった。選手がそれに気づいて,力を上げていかないといけない,という分析。しかし,これはおかしな話である。

  そもそもこのチームは,はじめから「個の力」をテーマに掲げてチーム作りをしてきたはずだ。前回W杯の反省…というか,会長はどうも,前監督のことがよほど嫌いだったのだろう,「選手を枠にはめるような方向には絶対にしない」と述べて,組織を悪者に仕立てあげ,組織的なものを極端なくらい排除して,「選手個々の特徴を大事にする」という方針を掲げたのであった。もしかすると,選手たちの実力はもっと高いところにあり,彼らを自由に,自主的にプレーさせれば,その実力がもっと発揮されるはずだと,考えていたのかも知れない。

  そして,その方針に沿ってジーコ監督を擁立し,監督は,選手どうしの話し合いと,紅白戦中心の練習という指導法を中心に据えたのだ。これが指導法といえるのかどうか知らないが,監督自身は常々,メンタリティの問題を中心に,「監督が教え込めるものではなく,経験を通して選手自らが学びとっていくものだ」と述べているから,それなら監督はいらないだろうというツッコミは別にして,たしかに一貫してはいる。会長もそれには全面的な支持を与えていたはずだ。つまり,「個の力」に最大限の信頼を寄せ,それをチームのいちばんの柱に据えたのは,ほかならぬ会長であり監督であったのではないか。

  それが,いざ結果が出ないとなると,掌を返したように「個の力の差」を指摘し,しかも<選手たち>がそれに気づく必要があると言い出す。上司として組織の責任者として,それってどうなのよ,とついつい毒づいてみたくなる。「個の力」をテーマに掲げてチーム運営をしてきた人たち自身の反省は,いったいどこに行ってしまったのだろう。

  考えてみていただきたい。あなたは校長先生に信頼されて大きな仕事を任された。「前の校長は規則でガチガチに縛っていたが,私は○○先生の力を信じているよ。私は口を出さないから,○○先生のやりたいように,思う存分やってくれたまえ。」などと校長先生に調子のいいことを言われて,いっしょうけんめい準備したとしよう。しかし,残念ながら散々な結果に終わる。そしたら校長先生が,視察に来た教育委員会の人たちを前にして,「いやあ,やっぱり○○先生の実力では,この仕事は荷が重すぎたのですよ。彼にもやっとわかったことでしょう。これからもっと勉強しないとね。」とかヘラヘラ笑って弁解しているのが応接室から聞こえてきたら,あなたはいったいどう思いますか? (「ヘラヘラ笑って」は私の演出です,念のため)

  それでも会長は,路線を変えないらしい。同じ会見でも,「選手個々の特徴を大事にするジーコの流れを変えない」と明言している。「ジーコの流れ」というのが,「個性をだいじにする」というコンセプトをさすのか,実際の指導法まで含んでいるのかははっきりしないが,どうもその後のメディアの論調を見ていると,「ジーコのやり方は正しいが,時間がかかる。今回は選手がまだそれを十分理解していないだけだ。」と,発展途上説が飛び交っているようだ。

  しかしそれは,きちんとこの4年間の成果を分析・総括してみないことには,言えないことだろう。何が伸びたか,伸びなかったか,また伸びる可能性があるか。少なくとも会長の言うように,4年もかかってやっと,「個の力を上げていく必要性があることを選手が強く感じた」くらいの成果しか出ていないとしたら,ずいぶんとのんきな強化策ではないか。しかも,監督の指導法によって気づいたのならともかく,その指導法で臨んだ大会で,そのやり方が通用しなくて気づいたわけだからね。それでも指導の成果と言えるのですか?

  なんだか,「自分の指導法は一流だ。ついて来れないのは生徒が悪い。」っていう,教育の世界でよく見かける論法を思い出してしまうのだけれど,まあ,過度に一般化するのはやめておこう。

ポイント

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