ひとりごと

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08.11.28. 「できない」という価値

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  どうも首相のKY(漢字読めない)問題が世間を賑わしているようで,「未曾有」という修飾語が,にわかに人気を集めている。「未曾有」とか「歴史的」とか「解党的」とか,みんな政治家が問題を無理やり大げさに飾り立てたいときの常套句みたいなもので,もうすっかり使い古されて,ちっとも強調になっていない…というか,必死さが見え見えで,いかにも安っぽい印象しか与えない。だから,首相がそんな漢字を読めなくたって,そうたいしたこととは思えない。(批判している人たちだって,話題になるまで,ちゃんと読めなかった人がけっこういるのではないだろうか。) むしろ問題なのは,そんな安ゼリフに頼った演説原稿しか書けない,首相のブレーンの方だろう。

  それよりも私が気になるのは,そもそもメディアが,とくにTVが,首相の漢字力をまともに批判できるのかってところだ。日頃バラエティ番組では,“おバカキャラ”などと称する人たちをさんざん持ちあげ,いいように利用しているTVが,である。彼らの珍妙な解答にはやたらと寛容で,それをみんなで笑うことで視聴率を稼いでいるTVが,こと首相に対してはひたすら批判論調になるのは,ちょっとバランスを欠いている。

  片方はバラエティ,片方は報道だからちがう,芸能人と首相は別だ,と言われるかも知れない。それはたしかにそうだが,じゃあ報道にも携わっている自局の女子アナたちをバラエティ番組に引っぱり出し,その常識のなさを隠しもせず,むしろ彼女たちまで“おバカキャラ”に仕立てあげて,おもしろがっているふうに見えるのはどうなのだ。やはりTVは,ジャンルに関係なくこの手のキャラを一つの価値として売り出そうとしているとしか思えない。とすれば,TVが及ぼしている影響は,もっと大きく深刻なのではないかと思うのだ。

  以前どこかの新聞に,なぜ今“おバカキャラ”ブームなのかについて論考した記事があって,だれだったかが「できなくても一生懸命がんばっている姿に,みんな共感を覚えるのだろう」などという分析を語っていたが,私はその分析は浅いと思う。おそらく“おバカキャラ”(何度もこのコトバを連呼するのは,けっして気分のいいものではないのだが,少しガマンしていただきたい)の彼らは,「できなくてもがんばっているから」ウケているわけではなく,「がんばってもできないから」ウケているのではないか,と私は考えている。つまり視聴者にとって彼らは,自分と同じようにできない人がいる,という安心感や,自分よりもできない人がいるという,相対的な意味での小さな有能感を与えてくれる存在なのではないだろうか。

  言い換えれば,高い基準で達成目標を決めるのはしんどいから,代わりに「誰それも同じ程度だから,これくらいでいいだろう」とか「誰それよりはまだマシだ」というごく低いレベルの基準で自分を評価することで,てっとりばやく安定感を得ようとする,そのための評価基準になっているのではないだろうか。

  それくらい,彼らの“おバカ”ぶりは突き抜けている。だからこそ,彼らはあちこちの番組で重宝されているのだろう。今のクイズ番組がメインに扱っている,いわゆる百科辞典的知識(要するに,覚えていなくても,辞書や事典を調べればわかるような知識)が,すでに時代遅れな知識でしかないことは,私も否定しない。また,「できる」人だけを集めて番組を作っても,一部のマニア向けの番組にしかならないことは,十分予想できる(教育テレビの将棋や囲碁の時間は,まさにそれだろう)。それにしても,あまりに知らないことが多すぎる。知らないこともそうだが,人の話をよく聞いて理解する,またそれを使って考える,といった問題解決の基本プロセスが,まったく身についていないところがまた驚きである。問題を最後まで聞かずに反応したり,問題文の一部だけに反応したり,他人の解答にヒントを得て解答していくうちに,元の問題からどんどん離れてしまったり…。そういうところが少しも修正されないまま,あちこちの番組でその“おバカ”ぶりを日本中に発信し続け,他の出演者の失笑を浴び続けているのだ。

  かつて,「ハルウララ」という,負け続けることで人気を博した競走馬がいた。「負けても負けてもがんばっている姿がけなげだ」などとも言われたが,おそらくこれも,負け続けていたからこそ人気だったのであって,もし勝ったら,最初の1勝こそ大きなニュースになるだろうが,そのあとはきっと急速に忘れられていくにちがいない。

  「できなくてもいい」,あるいは「できないからいい」。それが,彼らの人気の理由なのだ。けっして,がんばっているところが評価されているわけではあるまい。また,たとえば彼らの中の1人は将棋に造詣が深かったり,セミの鳴きマネに特異な才能を発揮したりするのだが,そういう他方面でのがんばりが評価されているわけでもない。(もしそういう流れで,彼らがほんとうに<がんばっている>ところを放送するのだったら,私も全面的に応援するのだが…) 事実,彼らがたまに正解を連発したときなど,周りの芸人から「次から仕事が減るぞ」とヤジが飛ぶのだから,困ったものだ。

  “おバカキャラ”のタレントたち(これをタレント=才能というのだろうか!)といい,ハルウララといい,TVがさんざん持ちあげてきたこれらのキャラクターはいずれも,知識や勉強,達成といったものに対してわれわれが持っている,価値観というか素朴な信仰心を,もしかしたら根底からひっくり返してしまうかも知れない,それくらい大きな問題をはらんでいるのではないか,と私は心配しているのだ。なにしろ,“できない”ことが価値なのだから。

  さらに言えば,「できなくてもいい」は,正確にはどうも「できなくても<おもしろければ>いい」ということのようだ。以前,あるTV番組で,学校のテストやプリントでの珍解答を投稿するコーナーがあって,最初のうちはおそらくほんとうに天然な珍解答が送られてきていたのだが,そのうち,どう考えてもわざとウケを狙ったとしか思えない,ふざけ半分の解答が増えてきて,ゾッとしたことがある。真剣に,必死になって取り組むべきテストの時間に,いったい何をやっているのだ。できないことを笑いに変えて,とにかくウケれば「オイシイ」と考えているのではないか。

  こうなると,「できなくてもがんばる」どころの話ではなくなってくる。TV番組がそうした投稿を取りあげ,みんなが笑ってみせることで,少なくとも一部の生徒たちは,勉強するという価値そのものを捨て去り,まったくちがう「答案で笑いをとる」という新たな達成領域へと目標をシフトしているのだ。TVが率先して,そうした目標の転換に荷担しているとしたら,メディアの影響力の大きさを考えれば,相当に恐ろしいことなのではあるまいか。

  もちろん,彼らに非があるわけではない。彼らをビジネスチャンスとして大々的に売り出すことによって,“おバカはオイシイ”という価値観を日本中に浸透させようかという勢いのTVが,おそらくは元凶なのだ。だからそのTVが,首相の漢字力のなさを批判したって,ちっとも説得力がない。芸人をいじっている程度にしか見えないのである。

ポイント

08.09.16. いじめか?

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  「緊急地震速報」というシステムが本格的に動き出し,TV・ラジオをはじめ,いろいろな機関が速報を流すようになった。そしてそれ以来,大きな地震のニュースが流れるたびに,最後,付け足しのように必ずこのシステムのことが話題になるようにもなった。しかしその扱われ方は,けっして好意的なものではない。むしろ,あからさまに批判的といってもいいくらいだ。いったいどういうわけなのだろう。

  ニュースでとりあげられる話題は,毎回ほぼ変わらない。震源近くでは速報が間に合わず,速報が入ったときは,すでに揺れが来たあとだった,というものだ。いったい記者はどういう意図でこのニュース原稿を書いているのか,どうも私には理解できない。

  だいたいこのシステムは,地震の「予報」をしているわけではなく,「速報」をしているのだ。伝わるのが早いP波と本格的な揺れであるS波を関知したデータを各地の観測点から収集し,各地の震度と到達時刻を推計して,速報として流しているのだ。だから,震源に近いところで速報が間に合わないのは,最初から当たり前なのだ。

  たまに流れる一般の人々へのインタビューでは,「揺れが来るまで10秒,20秒しかないのでは,何の役にも立たない。かえってパニックになるだけだ。」などと言う人が出てくるが,それもこのシステムが動き始めるときから言われていたことで,「速報が流れたら,火を止めるとか戸を開けるとかを考えるより,まず身の安全を確保するように」という呼びかけがなされてきたはずだ。

  もともと,気象庁は長年,地震の「予知」に力を入れてきたのだが,ほとんど成果が出ない中で,より確実な情報を流せるシステムとして,にわかに関心を寄せたのが,この緊急地震速報である。これまでの予知情報に比べれば格段に信頼できる情報であり,誤報で人々を混乱させるリスクも少ない。速報が実際の揺れの直前にしか出ないことは,その性質上最初からわかっていたことだが,短い時間であっても,何か準備が出来るだろう,少なくとも突然揺れに襲われるよりはましだろう,という発想が,そこにはあったはずだ。

  もしかしたらニュース原稿を書いた記者は,このシステムのしくみをよく知らないで批判しているのではあるまいか。もしちゃんと知っているのなら,最初からわかっている欠点をわざわざとりあげて批判してみせることで,いったい何が言いたいのだろう。それほどこの「間に合わない」問題は決定的な欠点だから,速報なんてやめてしまえ,とでも言いたいのだろうか。もし,ちゃんと揺れが来る前に速報が流れ,それでもみんな何もすることが出来なかった,さっぱり役に立たなかったというなら,こんなシステムは予算の無駄遣いだと批判してもいいだろうが。

  もっとも,その後ニュースや新聞の片隅には,速報が遅れる要因がいくつか検証されている。たとえば,気象庁からの速報は,様々な経路をたどって様々なメディアから一般家庭に流されるようになっているのであるが,経路によっては,自動的に送信される速報をそのまま住民に流すのではなく,いったん役所などで受け取ったあと手動で流し直すような速報体制をとっているところもあるらしく,このときの対応の遅れが大きな問題になりうるという指摘があったし,また地デジの信号変換にともなうタイムラグの問題も,10秒,20秒の世界では大きな差異をもたらすとも指摘されていた。こういう検証・分析なら私も理解できるし,大歓迎である。

  緊急地震速報の受難は,それだけにとどまらない。この間などは,予測値最大震度5弱以上で一斉に流されるはずの速報が,実際の最大震度5弱を観測した地震で流されなかった,とニュースで大きくとりあげられていた。しかしこれも,当初から予測値には±1程度の誤差があると告知されているのであり,このときの予測値も震度4。誤差の範囲内である(結果論ではあるが,実際上,被害はガラスが割れた程度にとどまっており,それほど大きな,特に人的被害はなかったのだ)。

  予測値などというものは,そもそもある程度の誤差の幅を持っていると考えるのが常識だろう。いったいどこまで精度の高い予測を出せば気が済むのだろう,という話だ。現状で,もし,震度5弱以上で確実に速報を流したいのであれば,予測値を高めに変換するとか,震度2くらいから速報を流すようにすればいいわけだが,そうすると今度は,誤報の危険性が一気に高まる。誤報なら誤報で,またきっとメディアが騒ぎ立てるに決まっている。どうも,何をやってもメディアに書き立てられてしまうみたいなのだ。このときも,関係者の「もっと精度を上げていく必要がある」などといったコメントを引き出している新聞があったが,なんか無理やりにでも反省させたいと,それがメインの記事にしか見えない。

  さらに先日は,今年各地で観測された雷の影響で,特定利用者向けの速報システム(これは一般向けのシステムとはだいぶちがう基準にもとづいているらしいが)が誤作動を起こしたと,NHKのニュースが報じていた(他局でどう扱われていたかは知らない)。さっきの「誤報」問題である。ニュースでは冷静に,雷によって誤作動を起こす場合があることは,利用者にはあらかじめ知らされていることや,一般向けの速報システムとはまったく別であることなどを解説していたが,そうであるなら,わざわざ全国ニュースで流す必要があったのだろうか。当事者間で情報をやりとりすれば済む話ではなかったのだろうか。

  なんだか,最初からちゃんとこういう欠点がある,こういう問題があると開示していた内容を,次から次へと「問題だ,欠点だ」と騒ぎ立てているような気がしてしょうがない。このやり方はフェアなのだろうか。緊急地震速報のシステムに携わっている人たちが,萎縮してしまいはしないか,とても心配になる。

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08.08.28. 竜の巣

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  前橋方面に向かって,地方道から国道50号に入ったときだった。夏の太陽が山の間に沈んでから,もうだいぶたっている。薄曇りの空に,夕暮れ時の最後の明るさがわずかに残る中,異様な形をした巨大な雲の固まりが,目に飛び込んできた。それは,下からほぼ垂直に,しかもかなりの高さにまで,まっすぐに立ち上がっている。またその頂上部分は,切りとったようにみごとに水平。要するに,巨大な長方形なのだ。周りは薄曇りだというのに,そこだけが真っ暗で,まるで目の前にそびえ立つ巨大な城壁といった趣だ。

  城壁の下の方では,絶えず稲妻が光る。稲妻の形は直接見えないのだが,真っ暗な城壁のあちらこちらがめまぐるしく明滅し,そのたびに丸い雲の形が映し出される。全体としては,不自然なくらいの長方形なのだが,やはりそれは丸みを帯びた雲が重なり合って出来ているのだということに,気づかされる。

  妻は『ラピュタ』に出てくる「竜の巣」のようだと言う。たしかに,それだけの威圧感と奇怪さを持っている。あれが,今年騒がれているゲリラ豪雨の積乱雲……なのだろうか? あれだけ雲がかっきりと垂直に立ち上がっているのであれば,狭い範囲で降る/降らないが分かれる,というのもうなずけるし,あれだけ巨大な雲なら,入ったとたん大雨になりそうな気配はじゅうぶんにある。何よりその雲はほぼ正面に見えているのであり,もうすぐその中に突っ込んでいかなくてはならないのである。

  ちょうど時間も時間だったので,国道沿いのお店で夕食をとり,少し遭遇までの時間をおく。さすがにお盆の時期だけあって,店内は大混雑。思った以上に時間つぶしになった。食事をしている最中も,遠雷の光がしばしば窓の外を照らす。食べている間にすっかり日が落ちて,再び走り出したときには,もうあの黒雲の輪郭も見えないくらいになっていた。そのうち,ついに小雨が降り出して…。

  さて,ドキドキしながら車を走らせていたのだが,けっきょくはその小雨がすべてだった。途中,道路はかなり濡れていたので,けっこうな量の雨が降ったのはたしからしいのだが,通ったときには雨はほぼあがっていた。きっと,あの雲が通っていったあとをかすめて進んでいたのだろう。それに,ゲリラ豪雨が降ったというニュースも聞かないから,あの雲も,形が異様だっただけで,じつはたいしたことはなかったのかも知れない。

  まあ,お盆で国道が渋滞気味だったので,何もなければきっと眠気に襲われるドライブだったろうから,ハラハラドキドキを楽しませてくれたことに,感謝しておこうか。

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08.08.20. バカ騒ぎ

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  また憂鬱な日々がやってきた。オリンピックである。いや,オリンピック自体にはなんの恨みもないのだが,憂鬱なのはTV各局のバカ騒ぎである。五輪シフトとでもいうべきか,開会式1週間前くらいから,もうどの局もニュースやワイドショーはこぞって五輪ネタをトップに並べる。なにがあっても五輪。なんとしてでもトップニュース,なのである。各局競ってネタを探しまくるので,自然と内容は競技から離れていき,母校だの恩師だの地元商店街だの,はては競技場を作っている建設作業員のなんとかさんだの,どうでもいい内容を延々と放送している。

  かと思えば今度は,開会式の演出のほんの断片を,さも特ダネでもとったかのようないきおいでレポーターが報告し,「開会式が楽しみですねぇ。」などとまとめるのだが,情報が断片的すぎてちっとも期待が高まらなかったりする。ワイドショーでの美人アスリート・イケメンアスリート特集も,苦労話や不幸話のバーゲンセールも,今やもうすっかりおなじみだし,芸能人たちが,何の根拠もなく,ただひいき目で予想するだけのメダル予想番組も,相変わらずだ。

  最近,新しい映画が公開になるときや,新しいTVドラマが始まるときなど,番宣と称して主要な出演者や監督があちこちの番組に顔を出して,同じような内容のトークを何度も何度も繰り返したり,得意でもなさそうなゲームに無理やり参加させられて笑いをとるのが流行りのようだが,これなどはさしずめ,選手をタレント代わりにして,それぞれの局が担当する五輪中継の番宣をやっているとしか思えないノリである。じつにくだらない。

  競技が始まった先日などは,夜,今日一日の動きを確認しようとニュース番組にチャンネルを合わせたら,その局の五輪「応援ソング」を歌っている某グループがスタジオ・ゲストとのことで,トップニュースも何もない番組冒頭から,さっそくキャスターのインタビューが始まる。どの競技を楽しみにしているかとか,誰がメダルが取れそうかとか,ひとりずつ語っていくのだが,そのたびに他のメンバーが突っ込みを入れ,笑いが起こる。人数が多くてなかなか先に進まない。正直,彼らが個人的に何に期待していようが,私にはどうでもいい。私はニュース番組にチャンネルを合わせたはずなのだ。早く一日の出来事を伝えてくれないか。

  その日は,柔道で日本選手がメダルを獲得した日だったのだが,そんなゲスト・インタビューの間に,ニュースとして映し出された映像は,その選手がメダルを獲得した瞬間,つまり技を決めた一瞬のみ。前後の流れもまったくわからない,あまりの短さ。あれだけの無駄なインタビューに費やした時間を充てれば,1回戦からの全試合,技が決まった前後だけでも映す時間はじゅうぶんにあったはずだ。話によると,ニュース番組で放映できる五輪映像の長さは,契約で細かく規定されているらしいが,そんな,試合の流れもわからないほんの一瞬しか映せないのなら,そもそも契約の失敗だろう。

  というか,思いきり偏見を込めて言えば,私にはどうも,試合の映像よりも人気グループの映像の方を優先させたように思えるのだ。なぜなら,インタビューがようやく終わった最後のキャスターの一言が強烈だったからだ。「後ほどこのグループには,応援ソングを生でたっぷり歌ってもらいます。どうぞお楽しみに。」 ううむ,どうやらこの番組はニュース番組どころか,五輪の番宣番組でもなく,ただこのグループの新曲プロモーション番組にすぎなかったようだ。そんなにまでして,このグループの人気に便乗する必要があるのだろうか。ニュース番組として,その日一日の出来事をしっかり伝えるという誇りはどこに消えてしまったのか。

  この応援ソングの扱いといい,メインキャスターとか称して各局が人選した芸能人たちといい,五輪中継全体が,スポーツ番組というよりは,バラエティのノリで制作されているように思えてならない。いったいいつから五輪は,芸能人の人気におんぶしないと視聴率が稼げないような,マイナー・イベントに成り下がってしまったのだろう。

  最近は,選手のすぐ近くにマイクが設置されていて,試合中の選手の声や音がとてもよく聞こえてくるのだが,そういうスポーツ固有の緊迫感というか,一流のプレーヤー同士の攻防を,息を潜めて見守る臨場感こそが,スポーツ観戦の本来の醍醐味ではないのだろうか。4年に一度の“お祭り”だと割り切れないこともないのだが,どうもわざわざよけいな演出に力を入れているとしか思えないのだ。まったくわけがわからない。

ポイント

08.08.11. 改造というイメージ

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  「学校実践解析法」の担当を,昨年は別の授業担当と重なったためにサボらせてもらったので,今年は1時間増やして,新しく実験・調査法に関する内容を扱うことにした(事情により,2回めの担当は0.5コマになってしまったけれど)。

  アイディアは以前から温めていたもので,ネタの一部はすでに,学部や大学院の授業の中で個別に紹介してきていたから,どれくらい学生に興味を持ってもらえるかは,ある程度は予測できる。そこへもってきて,昨年の「あるある」騒ぎである。これが大きなきっかけになった。

  ニュースでは実験結果のねつ造が問題になっていたが,そもそもあのテの情報番組は,みていると実験・調査の方法がかなりずさんである。まあ,ちゃんとした実験は研究者によって実証済みだから,番組ではその雰囲気だけ伝えればいい,それよりせっかくTVなのだから,視聴者がわかりやすいよう,視覚的効果を最優先しようと考えた…,などという言い訳ができないことはないが(私にも番組スタッフからそんな趣旨の電話がかかってきたし),たとえばこれを見て子どもたちが「実験ってこんなものなのか」とイメージを固定化してしまうのがコワい。みんなが見ているからこそ,しっかりと研究法をふまえた実験・調査を見せてくれないとね(多少のデフォルメは認めたとしてもだ)。

  だから,TVや新聞で見られるいろいろな実験・調査法が,いかにずさんな計画にもとづいて実施されているかを,少し体系的に考えてみようと思った。それが直接のきっかけである。

  体系的に,とはいっても1時間はあまりに短い。気になる事例はたくさんあったのだが,思い切っていっぱいカットしてしまった。それでも,問題点を学生に考えさせるための時間をとると,もう手いっぱい。なかなか難しい。

  さて,ボツになったネタの一つに,新聞社が実施する世論調査に見られる回答の「誘導」の問題がある。同じ趣旨の質問であっても,質問文の作り方や選択肢の区切り方によって,回答傾向がかなり変わってくるというもので,Web資料にあげたこの授業のネタ本(谷岡一郎『「社会調査」のウソ』,文春新書,田村秀『データの罠 世論はこうしてつくられる』,集英社新書)にも,事例は少し古いが,詳しく紹介されている。それを読むと,意図的か無意図的かはわからないが,明らかに各新聞社の立ち位置によって,質問文のニュアンスが微妙にちがっており,それがまたみごとに,首相や政策の支持率の上がり下がりに寄与している(ように見える)のである。

  このことと関連して。……前置きが長すぎたが,いよいよこれからが本題だ。

  先ごろ,ついに福田首相が内閣改造に踏み切ったのに合わせて,新聞各社が一斉に世論調査を実施し,その結果が公表されている。朝日新聞に載っていた池上彰さんのコラムから引用すると,内閣支持率は朝日で24%と7月調査と変わらず。一方,読売は支持率41.3%で7月調査の26.6%から大きくアップ,毎日は支持率25%で3ポイント増,共同通信は31.5%で4.7ポイント上昇と,新聞社によって横ばいから微増,大幅アップまで結果が分かれているようだ。そしてこれもまた,それぞれの新聞社の立ち位置と微妙に一致している。

  この結果について,ある番組では読売新聞の論説委員がこんな解説をしていた。内閣を支持するかどうかを聞くとき,読売新聞は「福田<改造>内閣を支持するか」と聞いている。これは読売だけで,他の新聞社の調査ではただ「福田内閣を支持するか」と聞いている。若者などの中には,政治にまったく関心のない人たちも多い。その人たちは,内閣改造があったことすら知らないかも知れない。そういう人たちは,ただ「福田内閣」と聞くと,これまでの福田内閣を想像して,低い評価を与えてしまうのではないか。その点,読売新聞ではちゃんと「福田改造内閣」と聞いているので,みんな新しい内閣のことだとわかったうえで回答してくれているはずだ。

  一瞬,納得しかけたのだが,やっぱりこの解説はヘンだ。

  だってそもそも,言われなければ内閣改造があったことさえ知らかった人たちなのだ。「改造したんだよ」と事実を伝えたからといって,それだけで彼らが改造内閣の顔ぶれを知り,どんな特徴があるかを理解できるわけではない。だとすれば,「改造」というコトバは客観的事実を伝えるというよりは,「以前とは違うんだぞ,新しいんだぞ」というポジティヴ・イメージを植え付ける役割を果たしてしまっているのではないだろうか。内閣改造が行われたのを知らなくて,以前の内閣のイメージをもとに低い評価をしていた若者たちは(もちろん,若者に限定しているのは,この解説委員の偏見だろうと思うが),まったく同じように今度は,「改造」というコトバのイメージにのっかって,高い評価をしているだけなのではないのだろうか。要するにどっちもどっちなのである。

  けっきょく,こういう人たちを統計の中に加えているかぎり,統計数値は,質問文や選択肢の文言の微妙な違いに振り回されて,ある程度の幅で変動せざるを得ないのだろう。より本質的には,改造したことも知らない人たちに対して,新しい内閣に期待するかどうかを質問すること自体,その妥当性をきちんと問い直す必要があるのではないだろうか。ほんとうは,まず内閣改造があったことを知っているかどうかを確認したうえで,知っている人の中で,期待できるかどうかを聞いていくべきなのだろうが,年齢別や支持政党別といった分析は目にするが,こういう肝心な問題への配慮は,残念ながら聞いたことがない。

ポイント

08.08.05. ポスト成果主義 (2)

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     (続きです)

  さて,こんなところでミョーに感心しているのはなぜかといえば,ビジネス界が「ポスト成果主義」に踏み出そうとしている時代に,教育の世界は逆に,成果主義への傾倒を強めようとしているように見えるからである。

  教育の成果は曖昧で,生きる力だのゆとりだの,わけのわからないキーワードをスローガンに掲げているだけで,子どもたちに何が身につくのか一般人にはさっぱりわからないし,実際ちっとも成果が上がっていないではないか。そんなことを言っている間に,OECDによる学習到達度調査をはじめ,国際比較調査では明らかに日本の順位が低下してしまったではないか。ここは「学力」という根本に立ち返って,きちんと数値化された指標である学力テストを使いつつ,その数値をしっかり公開しながら,今の教育を評価し直す必要があるだろう。とりわけ学力問題は,あちこちで目立ってとりあげられていることもあり,そこに焦点を当てないわけにはいかないだろうし,「ゆとり教育」への批判を考えれば,学力問題をてこに,教育現場に発破をかける必要があるだろう。……とまあ,ざっとこんな流れだろうか。

  教育的成果を一般の人たちにも分かりやすい形で評価していこうという流れ自体は,私も大賛成である。成果をきちんと分析し,改善につなげていくためには,明確な基準にもとづいてわかりやすく評価することは不可欠だろう。また,さまざまな立場の人たちにその作業に加わってもらえるように,その成果を積極的に公開していこうというのも,まちがってはいない。

  しかし,学校教育に関しては,おそらく「わかりやすい評価=数値化」という図式はあてはまらないのではないだろうか。数値化できる部分はもちろんあるだろうが,数字にのらない重要なエピソードも,数知れず存在している。そういった部分をどうやってわかりやすく,しかも客観的に評価するかは,相当にハードな作業のはずだ。

  たしかに「学力」は,てっとり早く数値化できる教育的成果である。しかしそれだって,現在の手法では測定しきれない学力がまだまだたくさんあるわけで,昨今の学力論争は,学習到達度調査に登場した新しいタイプの学力という問題にも振り回されているのである。そうした限界を考慮に入れず,いろんなタイプの学力をすべていっしょくたにして,とにかく総合点という数字的指標だけによりかかって,それで成果を測定したつもりになってしまうならば,それはビジネスの世界に起こった現象の二の舞であろう。評価に関する視野を極端に狭め,その基準の中に教師と生徒とを押し込めて圧力をかけ,その結果,本来あるべき学習への意欲を停滞させてしまうような状況に陥りかねない。前例は目の前にあるわけだ。

  心配はもうひとつある。さまざまな指標を公開したときに,一般の人たちが,その数字をちゃんと読みとってくれるかどうか,つまりリテラシーの問題である。

  全国学力調査の結果を公表すべきかどうかが話題になったときに,ある番組に出てきた某新聞の論説委員は,個々の学校の得点を含めてすべて公開すべきだと主張し,こう解説していた。「国民すべてに知る権利がある。われわれは自分の母校が隣の学校と比べてどうなのかを知りたいと思うし,比べてみることによって,いろいろなことがわかるはずだ。その機会を制限してはならない」と。ほんとうだろうか。

  かつて,通知表の記述を相対評価(集団準拠的評価)から到達度評価(基準準拠的評価)に変えようという動きがあったときのことだ。相対評価の通知表を見ても,保護者は5が何個増えた減ったというような表面的なとらえ方しかしてくれず,問題の改善につながりにくかったが,到達度評価にすれば評価の観点が明示されるので,どの側面がよくできたかできなかったか,という内容面に目を向けてくれるはずだ,というのが当初の期待だった。ところがいざ始まってみたら,保護者たちは観点の内容になど目もくれず,依然として○の数がいくつ増えたか減ったかという話に置き換えてしまっている,というのだ。

  昨年の学力低下論争も似たところがある。国際的な学力調査で「順位が下がった」ということだけで大騒ぎしていたが,順位という指標はかなり情報量の落ちた指標である,ということも認識しておく必要がある。たとえばマラソンで20人くらいの集団で走っているときは,タイムはほとんどちがわないのに順位が大きく変動してしまう。TVを見ている人は,集団の中にいて駆け引きをしている状態なのがわかるから,順位が変動してもそれほど気にもとめないはずだ。しかし,集団から遅れはじめたときは,同じ20位を保っていたとしても,とたんに心配になるだろう。学力の場合は,そういう周囲と比較した位置づけを考えることもなく,話題になるのはひたすら順位のみ。というか,メディアがヒステリックに煽り立てる。

  そんな人たちに,隣の学校と学力を比較できるような情報を開示して,ほんとうに大丈夫なのだろうか。ちゃんと冷静にデータを評価してくれるのだろうか。隣の学校より0.1点低かっただけでも,一斉に学校を突き上げはじめたりはしないだろうか。どうもこのあたり,私はかなり懐疑的である。こんなことを言うと「素人は口を出すな・情報は専門家の中だけに隠しておけ」的な主張に聞こえそうだが,そんな乱暴な議論をするつもりはまったくない。しかし,単純に知る権利があるからすべて公開,というのも同じくらい乱暴な議論なのではあるまいか。ただでさえ教育というのは,みんなが関心を持ち,みんなが自分の経験をもとに好き勝手に口を出せる領域なのだから。

  ちなみに先ほどの論説委員。また別の日に,今度は全国一斉学力テストの結果集計が出て,過去の学力テスト成績と比較して「学力が低下しているとはいえない」と総括した文科省の見解にくってかかっていた。パネルに主要4教科の成績を比較した表を提示して,「差はないというが,平均で比べたらみんな今回の方が低い。これは明らかに学力が低下している証拠だ。」というのである。つまりこの論説委員さんは,測定誤差などという調査統計の基本もわかっておらず,平均ですべてのことが語れると思い込んでいるわけだ。(もしこの人が,別の機会に,たとえば「クラス全体に対してだけでなく,生徒一人ひとりの個に応じた対応が重要なんですよ。」などという発言をしていたとすれば,大笑いなのだが。) そういう人でも,根拠の乏しい自説を声高に周りに(TVを通じて!)広めてしまうことができる。というのが教育を取り巻く環境なのである。ほんとうにこんな環境の中で,無防備に情報を完全公開してしまって大丈夫なのだろうか。

  みんな落ち着いて,冷静に情報を分析し議論できるような場と雰囲気ができれば,と願うばかりである。

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08.08.04. ポスト成果主義 (1)

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  「ポスト成果主義」という言葉を,このところ急にあちこちで目にするようになった。いや,もしかしたら「急に」と思っているのは,経済とかビジネスとかにまったく興味のない私だからなのかも知れないが,個人的な実感としては,このコトバ,ほんとここ数ヵ月の間にパッと出てきて,瞬く間に表舞台へと躍り出た感がある。

  ひところ,グローバル化のかけ声と日本企業の業績好調に支えられて,さかんに唱えられていた成果主義(“年功序列では働きがいがない,やればやるだけ賃金や昇進に反映されるシステムが必要だ”)だが,その後,期待したほどの成果をあげていない,と方針を転換する企業が出てきているという報道は,私もちらほら耳にしていた。リスクを負ってチャレンジするような仕事を引き受けたがらなくなったとか,チームワークが成り立たなくなったとか,成果主義にともなう働き方のネガティヴな変化や問題点を指摘する声もあがってきている。

  たしかにそれはありうる。成果主義を唱えた人たちは,そのバラ色の側面だけを強調し喧伝してきたわけだけれども,もちろん全員がいわゆる“勝ち組”になって,給料も地位もどんどん上がる,というわけではない。成果主義というシステムは,半数の敗者によって支えられているのだ。そしてその敗者は,「自己責任」と言われ,すべて自分のせいだと思い込まされる構造になっている。つまり敗者は,給料や地位で負けるだけでなく,それは本人に能力がないからだ,努力が足りないからだとレッテルを貼られてしまうという,二重のダメージを経験することになる。そりゃ,士気が下がるのも無理はない。

  成果主義のメリットを享受できる“勝ち組”層の人たちが颯爽とビジネスの現場を闊歩し,その華麗な私生活がメディアにさんざんとりあげられているうちはよかったのかもしれないが,その後,全体としての経済成長に明らかなかげりが見られる中で,勝ち組層が狭く限定されるようになり,逆に大多数を占める“勝ち組に手が届かない”層の人たちが,成果主義の負の側面に気づきはじめた,ということなのではないだろうか……などというのはまったくの素人考えだが。

  にしても,いつのまに「ポスト成果主義」などと名づけられるような,大きな動きができていたのだろうか。

  「日経ビジネス・オンライン」というサイトがある(購読には無料の会員登録が必要)。最初に書いたように,日頃,ビジネス書とかビジネス関係のサイトにはとんと縁がない私にしては珍しく,ちょっと読んでみたい記事があったので会員登録してあるのだが,このサイト,案外おもしろい。「ポスト成果主義」についても,リレーエッセイのような形で,様々な立場の人たちに語ってもらう連載が今続いていて,読んでみたらこれが,なかなか勉強になった。

  たとえば東大経済学研究科の高橋伸夫さんは,“日本型年功序列制”(それがどんなものなのか,詳しい説明がないので分からなかったが)に戻すべきだと唱えて,成果主義の問題点について述べているのだが,その中でこんなことを指摘している。

  優秀な人材は若いうちにいろいろな経験を積まなければ育ちません。いろんなことに挑戦して失敗を重ねながら成長していく。失敗をするのが当たり前なのだから,それをいちいちとがめるのはおかしな話でしょう。

  ですから,経験を積んでいる間は給与を固定すべきで,結果に応じて差をつけることはすべきではありません。成長して責任を取れるようになったら,そこで給料や昇進を結果にリンクさせればいい。かつて日本企業は年功制の下でそうした賃金制度を実行してきたわけです。

  なるほど。成果主義を強調すると,若い社員が喜んで仕事をし,その結果成長するように見えるが,そうではないと。むしろこの時期に必要なのはさまざまな失敗経験であり,そのためには負の評価を気にせず,自由に様々な活動にチャレンジできる機会を提供する必要があると。そこに成果主義はなじまないと,そういうことだろう。

  別のところでは,こんなことも言っている。

 ですが,例えば同じ100万円の売り上げでも,楽に達成した場合と額に汗してようやく到達した場合があるわけです。恐らくかつての日本企業の管理職であれば,「楽に100万円を売り上げても,お前の実績にはならないぞ」というようなことを言ったはずです。そうした上司の一言が,部下にとってもためになった。

  なるほどなるほど。100万円を売り上げるためにどんな苦労をしたか,どんな工夫をしたかが経験になるのだということを,「かつての管理職」はちゃんと伝えていたのだと。そういうちょっとした評価(特に仕事の成果ではなくそのプロセスに焦点を当てた評価)を細かく積み重ねることで,社員の士気を高めていたのが,成果主義では100万円の売り上げという客観的基準によりかかってしまい,細かな評価を怠っていると。

  もっとも,同じシリーズに登場する慶応大学総合政策学部の花田光世さんに言わせれば,これは成果主義そのものの問題ではなく,運用上の問題なのだそうで,成果主義といっても,単純に最終的なできばえを評価するだけ,というわけではないらしい。「実際には、ゼネラル・エレクトリック(GE)など成果主義を徹底していると思われている米国企業でも、短期的な結果だけでは決して評価していない。もっと社員の人間としてのありようを含めて評価している」のだそうだ。それを日本では,短期志向の強い欧米企業で普及している制度ということから,「成果は短期的な結果」と狭く捉え,「欧米企業の成果主義は短期的な結果重視」と思い込んでしまった,と指摘している。

  まあ,システムそのものの問題か運用上の問題かは議論の分かれるところのようだが,日本における成果主義システムが,どうも新人を育てていくという場面にはなじまないようだ,とはいえそうだ。

      (長くなったので,続きます)

ポイント

08.07.22. 離婚率って?

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  TVを見ていたら,ある人が日本の「離婚率」について解説していた。日本の離婚率は今や38%に達しており,それはつまり,結婚した夫婦の1/3以上がその後別れているということを表している。特に若年層の離婚率の異常な高さが,全体平均を大きく押し上げている,とのことだ。それでも,最近は離婚率の上昇が鈍化しているし,欧米諸国から比べれば,よくこの水準を保っているとも言えるらしい。

  そういわれてみれば,私が大学院生のころにはすでにアメリカの研究誌では離婚の問題が大きく取り上げられていて,子どもの心理的発達との関係がよく報告されていたが,日本も同じような状況になってきているようだ。

  ところで,それを聞いていて私がひっかかったのは,「離婚率」という統計そのものである。解説していた人は,「結婚した夫婦の1/3以上がその後別れているということを表している」と言っていたが,どうやって調べたのだろう? 徹底的な追跡調査をしなければ,そんな動向はわからないと思うが,国勢調査のデータからだって,そんな細かな,そしてプライベートなことを追跡をするのは不可能だろう。いったい離婚率というのはどうやってはじき出した数字なのだろう。

  そこで,ちょっとネットで調べてみた。すると案の定というか,離婚率というのはもう少し安易な(?)統計値らしい。離婚率の指標には2種類あって,ひとつは人口1,000人あたりの離婚件数,もうひとつはその年の離婚件数をその年の婚姻件数で割ったものである。38%という数値はもちろん後者の指標である。おそらく,1,000人あたり離婚20件とかいっても状況がわかりにくいため,イメージしやすい指標が作られたのだろうが,だとすると,この数字は単純に「結婚した夫婦の2/3以上が離婚するということだ」とは言えなくなる。分子と分母とは別々の夫婦であり,直接の対応関係はないからである(成田離婚のように,その年のうちに離婚すれば対応するが)。しかも,分母である婚姻数は以前と大きく変わっていて,分母として正しいのかどうか疑問になる。

  たとえば,20年前に1,000組が結婚したとしよう。強引だが,その25%の250組が20年後の今年一斉に離婚した。つまり「結婚した夫婦のどれだけが離婚するか」という本来の意味での離婚率は25%になる。ところが,今年は少子・晩婚化が進んで新たな婚姻数が700組にとどまったとすると,離婚率は250/700=0.357つまり35.7%に跳ね上がってしまう。明らかに,これは結婚した数が減っているためであり,結婚したカップルの35.7%が離婚したというわけではない。

  もちろん実際には,20年前に結婚した夫婦が同じ年に突然どっと離婚するなんてことはなく,また統計には10年前に結婚した夫婦も昨年結婚した夫婦も,その中間の夫婦も含まれているから,これほど大きな影響を受けることはないかもしれないが,とにかくこの数値は,ほんとうの意味での「結婚した夫婦のどれだけが離婚するか」という数値(めんどくさいので,以下累積離婚率と勝手に命名してしまうが)とはズレがあるのだ。

  それなら,もし分母に変動がなかったら,どうなのだろう。「結婚した夫婦の1/3以上がその後別れている」というのは,夫婦の一生に渡る累積離婚率のことを指しているはずだ。しかし離婚率の統計は,<今年の>婚姻数を分母に,<今年の>離婚数を分子にして計算している。分母と分子の夫婦が対応していないだけでなく,経年的変化としての累積離婚率も測っていない。ではこの数字は,いったい何を測っているのだろうか。

  こういうときは,私は数学的センスがないので,迷わず具体的な数字を置いてイメージしてみることにしている。先ほどのように,20年前に1,000組が結婚したとしよう。その夫婦が,毎年一定の割合Pで離婚していくと仮定する。1年後の離婚数は1,000×Pとなり,夫婦を維持している数は1,000×(1-P)となる。したがって,2年後の離婚数は1,000×(1-P)×P,以下n年後の離婚数は1,000×(1-P)n-1×Pで表せる(だろうと思うが,ちがっているだろうか)。つまりこの夫婦を追跡調査したとすれば,20年後の累積離婚率は,1年後,2年後…,19年後,20年後の離婚数を合計して,もとの婚姻数の1,000で割ればいいことになる。

  一方,翌年もその翌年も,毎年変わらず1,000組の夫婦が新しく誕生するとしよう。毎年の離婚率も同じPだとすると,翌年誕生した夫婦は今年19年めとなるわけだから,最初の年の夫婦の19年めの離婚数と等しくなる。同じく翌々年に誕生した夫婦の離婚数は,最初の夫婦の18年目の離婚数と等しくなり,以下同様に,昨年誕生した夫婦の離婚数は,最初の夫婦の1年めの離婚数と一致することになる。

  つまり,最初の年(20年前)に夫婦になったカップルの累積離婚率は,翌年・翌々年…に誕生した夫婦の今年の離婚数の合計と一致するのである。なるほど,なるほど。さっき安易な統計だといったけれど,これは訂正しないといけない。婚姻数に大きな変化がないとしたら,<今年の>分子と分母でも,けっこういい推計値になるようなのだ。今は20年前を基点として計算してみたが,統計はもちろん30年前,50年前…の夫婦も対象にしているわけだから,推計値としては,「いったん結婚したカップルが,一生のうちにどれだけ離婚するか」という数値に対応しているといえるのではないだろうか。ただし,それはあくまで婚姻数と離婚率を固定して考えたときであって,婚姻数も累積離婚率も大きく変動したときに,この数値がどの程度現実を代表してるのかは,ちょっと素人のシミュレーションの範囲を超えていてわからない。

  などと,Excelで作った表を眺めながら,数学脳のない頭でひとりで納得しているのだが,どなたかまちがいがあったら,あるいはもっとましなシミュレーションがあったら,どうか教えてください。

ポイント

08.07.10. 手づくり感

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  たしか4,5年くらい前のこと。

  もう「年賀状はプリントゴッコで」の時代ではない,これからはパソコン+カラープリンタの時代だと,年賀状を刷り終えた年末に,長年愛用してきたプリントゴッコを思い切って処分したというのに,年明けに偶然立ち寄ったあるホームセンターが,廃業のため在庫処分セールをやっていて,最新機種がなんと\500で売られているのを見つけた瞬間,衝動的に購入してしまったのはこの私だ。

  それほどまでに気に入っていたプリントゴッコが,ついにこの6月末をもって販売を終了したそうだ。残念。

  私がはじめてプリントゴッコを買ったのは,ちょうどその4月に就職が決まっていた年の,初売りセールのときだった。もちろん,ねらいは就職・転居の挨拶状作り。活字だけの挨拶状じゃ院生仲間に対しては堅苦しすぎるし,かといって1枚1枚手書きするには人数が多すぎる,というので,いっそ自分のイメージに合わせてデザインできて,数も刷れるということで,当時売り出し中のプリントゴッコなる機械を買うことにしたのだ。

  当たり前のことだが,当時にすれば,プリントゴッコもそれなりに“ハイテク機器”だったのだ。しくみは,学校で使っていたガリ版刷りに近いので,すんなり入れるし,いちいち鉄筆でカリカリ版を切るのではなく(私の小学生時代はそんな時代だったのだ),フラッシュバルブを使って一気に製版してしまうところがとってもお手軽。しかも当時普及しはじめていたコピー(カーボン粉末を使った現在のコピー…その前は湿式コピーというものだったのよ)原稿なら,写しとらなくてもそのまま製版にかけられる。それまでは印刷屋さんに頼むしかなかったようなデザインの年賀状が,家庭で簡単に出来るようになったわけだ,しかも多色刷りで。

  今でこそローテク・手作り派の代表のような存在になってしまったが,当時はたしか年賀状手書き派の人たちからさんざん叩かれていたはずだ。曰く,「年賀状は心を込めて自筆でひとりひとりに書くべきもの。いくらカラフルでも,印刷して大量複製したものでは,気持ちが伝わるわけがない」と。パソコン+プリンタで,文面も宛名も活字と出来合いのカットで一気に大量に刷ってしまう現代の年賀状を見たら,当時の批判派の人たちはきっと卒倒するにちがいない。

  とはいえ,私も最初の1,2年は,ほんのお手軽ツールとしか考えていなくて,ありきたりのイラストと手書き文字を使って,なんのこだわりもないごく普通の年賀状を作っていたのだった。それがあるとき,私がデザインのアイディアに詰まっているのを見た妻の一言で,その後のプリントゴッコとのつきあいは大きく変わったのだ。

  「自分でイラストを描いて印刷したら?」

  これだ。私の脳波の波長にピタリと一致した。

  以来,我が家の年賀状はずっと,冬の田舎の風景を描いたイラストを中心に画面を構成したものになっている。同じような構図と同じような色合いで(なにせ冬なので,そうそうカラフルにはできないし),毎年毎年,飽きもせず。まあ何年か続けると,ひとめで我が家からのものだとわかってもらえるようになったのはたしかだが。

  これを始めてから,俄然プリントゴッコが面白くなった。まずは配色。付属のインクはけっこう鮮やかな色ばかりなので,イラストの彩色にはあまり向かない。おまけに冬の風景だ。そこで,混色する。絵の具の溶き皿の上にチューブをしぼり,パレットナイフで混ぜるのだ。基本的には白・黒を混ぜて冬らしい落ち着いた色にするのだが,慣れてくると,どんどん中間色が出したくなる。しかし,あまりいろんな色を投入すると,くすんで使い物にならなくなってしまうのが難しいところだ。

  落ち着いた「日本の伝統色」シリーズのインクが発売されたときは,ほっと一息ついたが,それもけっきょくは原色で使うことはなく,文字も含め,ほぼすべての色を混色で出している。無駄なこだわりなのはじゅうぶんわかっているのだが,刷り上がりの配色を想像しながら,ああでもないこうでもないと色を混ぜているのは,案外楽しいものなのだ。苦労してイメージ通りの色を作っても,溶き皿の中での絵の具の発色と紙の上での発色はちがうし,印刷直後と乾いた後での発色もちがう。たいていは予想が裏切られてしまうのだが,偶然にできあがった色合いもまた楽しい。

  偶然といえば,色が混ざらないように2版刷りにしたときに,1版目と2版目の位置合わせがけっこうズレてしまうのがご愛敬で,この1枚1枚ちがうズレ具合がまた魅力だったりする。そのうち,わざと1版刷りにして,たとえば樹木の茶色の中に空の青を滲出させるようなことも試してみた。これも,1枚刷るごとに滲み具合がどんどん変化していく。こういう,いかにも手作りといった感じの仕上がり具合が,たまらなく好きだ。もとになるイラストは黒一色で描き,少し表情をつけるためにスクリーントーンを置く程度なのだが,色がつくとまったく別の表情になる。それに,位置がズレたり色が滲んだりといった偶然の味つけが加わって,その年の年賀状が完成する。

  それが。

  ここ2,3年のあいだに,めっきり部品が手に入りにくくなってきていた。マスターやランプといった定番品はともかく,インクは種類がガクンと減ってしまったし,こまごまとした消耗品は大きな文具店に行かないと見つからなくなった。これはひょっとすると…,と思っていたらやはり販売終了である。残念だけれど,私自身も一時は見切りをつけようとしていたわけだから,文句は言えない。

  消耗品はまだ当分は生産を続けるらしい。私も今年は,「日本の伝統色」インクを,通信販売で買いだめすることになるはずだ。そして,それを使い終わったときには,いよいよ私もプリントゴッコ年賀状から卒業することになるのだろう。

ポイント

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