ひとりごと

保存箱 2010.07-12

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10.12.27. 山道

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  べつにシリーズ化しようと狙ったつもりはないのだが,春の坊ヶ池に続いて山方面へのドライブ Part 2。どうも今年は,結果,山道ドライブになってしまうケースが多いみたいだ。

  坊ヶ池といえば,あのあと実際,夜に出かけてみたのだ。星を見に。天気のよい9月はじめのある土曜日。夕方,空模様を見,Webで観望会の開催予定があるのをたしかめたうえで,真っ暗な山道を登っていった。5月には工事中で通れなかった道路が復旧していたので,迂回路のようなコワい道ではなく比較的スイスイ行けたのだが,たどり着いたらなぜかあたりは真っ暗闇。観望会をやっているはずの天文台が,なぜか閉まっている。あやうく最後の標識を見落としてしまうところだった。

  いったいどうしたというのだろう。気まぐれで休まれても困るのだが…。まあ,その頃ひときわ明るく輝いていた土星や,秋に見やすい星雲たちを大口径の望遠鏡で観察できないのはがっかりだったが,晴れてさえいれば星は見えるので,光害のまったくない真っ暗な山の上で,くっきりと流れる天の川と,そのまわりの星々とをゆっくりたっぷり眺めてきた。私たち夫婦のあとからも,3家族ほどがやってきて口々に文句を言っていたから,私の確認ミスではないはず。田舎のルーズさなのか,何か特別な理由でもあったのか(だとしたら,何か貼り紙ででも告知しようがあるだろうに),ほんとに困ったものだ。

  それはさておき,秋の山方面ドライブ Part 2の話だ。妻が,とある名水の情報を見つけてきた。日本海が眺望できる場所というので,そんなに山奥ではない,ある程度開けた場所をなんとなく想像し,じゃあ行ってみるかということに。念のため「マピオン」で道順をたしかめる。ところが―。

  何度か分かれ道を曲がっていかなければならないのだが,その曲がり角がやっかいだ。どこも山道の細道なので,交差点名はもちろん,目印になるような建物がまるでない。ナビもついていないし…。いやな予感が頭をよぎったが,まあ,名所らしいから何かしら道案内が設置されているだろうと,根拠のない淡い期待だけを頼りに出発する。しかしこういう場合,事実はたいてい期待よりもマイナス方向にズレていくものだ。

  最初の分岐点は,地図上では小さな集落の中にあり,反対側に神社らしき地図記号があったのだが…,いくら走っても神社が見つからない。小さな神社なのかも知れない。もしかすると,木々に囲まれて見えないのかも。きょろきょろ探しているうちに,ところどころ見えていた家々がしだいに消えていき,道はどんどん狭くなり,勾配もキツくなって,いかにも“山道”の様子に変わっていく。さすがに道を間違えたらしいことを確信し,引き返す。

  少し戻ったところにそれっぽい分かれ道があったので(さっきは神社が見えないからと却下していたのだ),そちらに曲がってみる。しかし,この選択が失敗だった。よさそうに見えたのはほんの200mほどで,すぐに車1台がようやく通れるくらいの山道になる。まわりは一面のススキの原。かと思えば,木々や雑草が両脇から覆いかぶさってくる暗い道に変わる。なにしろ,人の生活のにおいがまったくしない,自然の領域へと紛れ込んでしまった。まるでキツネにだまされて迷い込んだような山の中だが,とりあえず道路が壊れていないところを見ると,廃道とか行き止まりとかではなさそうだ。

  しかし,これはさすがにコワかった。春の迂回路の比ではない。あの道は明らかに地域の生活道路だったし,周囲の山も手入れされていたから,どこかに行き着くだろうという安心感はあったのだ。ここは何もない。名水どころか,このまま進んで帰れなくなったらどうしようと,ちょっと本気で考えた。しかし,前が見通せない急カーブをしばらくのぼり続けたあと,道はいきなり下り坂に変わり,視界が開けたと思ったら,目の前に生活臭たっぷりの橋が現れ,その先にはアスファルト舗装の道路が見えた。センターラインはないが,すれ違いはなんとかできそうだ。きっとこれが「本道」なのだろう。迷わずそちらの道に入る。ほんの少し進んだらバス停が見えた。それはなんと,名水があるはずの地名のバス停だった。なんとかたどり着いた。

  ところが,依然,案内標識らしいものが見当たらない。いったいどこに名水があるのだろう。しかも,バス停はあっても民家はどこにも見えない。バス停は,いかにも集落の入口らしきT字路にあるので,とりあえずそちらの方に曲がってみる。またまた狭い道を少し走ってみたが,やはり家はない。

  ふと横道に目をやると,崖下にガソリンスタンドの小さな給油車が停まっていて,おじさんが,崖に向かってホースを伸ばしながら,なにやら格闘している。何かと思って崖の上に視線を移すと,なんとそこには,木々に囲まれた民家がひっそりと建っていたのだ。おじさんは,その家のタンクに灯油を入れようとホースを送っているのだろう。まわりをよく見ると,同じように崖に沿ってポツリポツリと民家がある。これが集落だったのだ。失礼ながら,正直こんな山の中にもちゃんと人が住んでいるのかと,ある意味感動する。とはいえ,そんな集落もすぐに終わり,名水の看板は見つからずじまい。

  けっきょく,名水は集落のすぐ上にあった。集落の方に曲がらず,まっすぐのぼっていけば,すぐに看板が見つかったのだ。名水は想像以上の水量で湧き出していた。名水といわれるその味は…,残念ながら,特徴を的確に識別できるほど舌は肥えていない。へんにクセがなくて飲みやすいのはたしかである(評価はそれだけだ)。せっかくなので,ペットボトルに詰めて家に持ち帰る。

  帰りは,妻のリクエストでそのまま道を先に進むことにした。上へと向かう道のほかに,下っていく道が見えたからだ。道なりに降りていくと,やがて街中と同じような外観の住宅が並ぶ,大きな集落に行き着いた。まちがいなく麓へと降りていく道だ。そしてさらにその道を降りてみて驚いた。そこはなんと,先ほど,ここから先は家はなさそうだと判断して戻った山道だったからである。

  う~む。やはり新潟は山深いところだと,あらためて思う。


10.12.27. バリマックス回転

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  心理学の学術論文をみんなで読み合うという,だれがどうみても面白い要素などどこにも見あたらない,しかし卒論指導の一環としてはたいへん重要な学部の授業でのことだ。調査結果の因子分析について,レポーターがレジュメを読み上げたとたん,みんな笑い転げる。

  私にはさっぱり事態が飲み込めない。なにしろ因子分析だ。心理の学生なら,わけのわからない専門用語の羅列に,少なからずビビるところだ。人によっては,ほかの人からツッこまれないように,わざと説明を省略してレポートし,「(説明が抜けているせいで)結果がわかりづらい」,などとかえってツッこまれたりもする部分なのだ。

  じつはこの授業,ちょっと変則的だ。本来は心理の学生のためだけの専門科目なのだが,保育士資格の単位にもなっているので,たまに他コースの学生が聴講する。というか,そんな事情でもないかぎり,他コースの学生が履修するはずのない授業なのだ。他コースの学生にとっては,大変なだけで何のメリットもないわけだから。

  ところが今年,たまたまオトナの事情によって,他コースの学生が大挙してこの授業にやってきた。なんと6人! 心理の学生に対しては,卒論のことがあるのでなるべく手続き的なところを詳しく読みとらせているのだが,心理学のシロウトである彼女たちに同じようにやってもらうわけには,さすがにいかない。かといって,彼女たちに合わせてレベルを落としたら,心理の学生たちの力がつかない。そこで,他コースの6人だけを分離して,別の時間にもう1コマ設けてしまったのである。だからこの授業は,心理<以外>の分野の学生たちが,みんなで心理学の学術論文を読むという,単位のためとはいえなんとも不思議な授業になってしまったのである。ちなみに6人は全員女性。なかなか華やかな授業ではあるのだが。

  さて,因子分析である。笑いのツボは“バリマックス回転”にあった。きょとんとしている私に,学生が解説してくれた。「だって先生,ただ回転するとかじゃなくて,マックス回転するんですよ。しかもさらに強調してバリ・マックス回転! どんだけ振り回したんですか?!」

  なあるほど。彼女たちがイメージしていたのは,とにかくバリ・マックスなスピードで何かを全力でビュンビュン振り回したら,やっとムニュ~と因子がにじみ出してきた,というイメージだったのだ。これはたしかに,想像してみるとなんだか楽しい。さすがに人力ではないが,代わりにPCクンががんばってフラフラになりながらも,何十項目もある質問紙を回転してくれているわけだ。ときには一般のPCにはない“プロ”級のワザで“マックスの回転”をしてくれて,複雑に絡まりあっている項目の中から,無理やり因子をとりだしてくれたりもするわけだ。そうだったのか,PC。このあと,学生のレポートを神妙な顔で聞きながら,頭の中には,ハンマー投げよろしくバリ・マックスでビュンビュン質問紙の束を振り回すPCクンが繰り返し現れて,ほんとはおかしくてしょうがなかったのだ。

  それにしても,われわれギョーカイ内部の人間には考えもつかない発想である。さすが,シロウトは恐れを知らない。なにしろ彼女たちときたら,負の相関を「“ある意味逆にぃ”の関係」ということで理解してしまうし,Tukey法は「月井さんが発明した方法」ということにしてしまうし(AICは赤池さんが考案したという説明をしたのがまずかったか…),「○○について,高校で教わらなかった?」と聞くと,即座に「私たち“ゆとり世代”ですからぁ」と切り返してくるしで,まったく恐れを知らない。

  しかしこういうノリは,私は嫌いではない。というより,こんなふうに難解な研究を楽しんでくれるのは,うれしい以外のなにものでもない。心理の学生の授業でも,年によってはこういうノリになることもないわけではないが,まあ「ないわけではない」としか表現できないくらい珍しいことなのだ。「卒論のためのお勉強」とかまえてしまうせいか,めったなことは言えない雰囲気が,どうしても出てくる。結果,最初から最後までひたすら静か~な,どう考えてもわかっていないはずなのに,何度も促さないと質問が出てこないような授業が続くことになる。残念。

  翌週,別の人のレポートに対しても,ちゃあんと「逆にぃ」や「月井さん」のツッコミが入って,すぐにみんなが反応している(つまり,ちゃあんと覚えている)のを見ると,やっぱりこのノリはだいじだよなあと思うのである。


10.11.26. ピグマリオン

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  なんだかふりかえってみると,今年はつくづく「ピグマリオン効果」の一年だった。

  年明け早々に原稿依頼が届いたのが,すべての始まりだ。ピグマリオン効果をネタに「子どもを伸ばす教師」について書いてくれと。

  教師が期待をかけるだけで,なんだかよくわからないが子どもが伸びるなんて,そんなアヤシげな現象,心理学としてホイホイ無責任に他人にオススメしてはいけない,というのが私の基本的立場で,それは日頃から授業でも言っているから,<なんでよりにもよって私なのだ?> と最初はかなり腰が引けていたのだが,この雑誌はけっこう好きなことを書いても文句を言われない雑誌なので,思い切って引き受けた。けっきょく,編集者の思惑を完全に無視して,ピグマリオン効果のうさん臭さについてさんざん語り,それを越えてどのような考え方をすべきか,なんていう話の方向に強引につなげてしまった。ちょっとがんばってしまったせいで,いつもより生硬な文章になってしまったが,それでも編集者からは何も言われず,字数オーバーの分が削られただけであった。

  秋になって,見知らぬ高校生からメールが届く。彼女の学校では,生徒が「卒論」を書くのだそうで,彼女が選んだテーマは,ズバリ「ピグマリオン効果」。それで,実験計画を立ててみたのだが,見てほしいというメールだった。これまた,なぜ私なのかよくわからないのだが,とりあえず実験計画を読んでみた。ピグマリオン効果といったら,かなり微妙な操作が必要で倫理的な問題も絡むから,研究者でも手を焼く実験なのだが…,とコワゴワ読んでみたのだが,これがなかなかどうして。

  実験は,要するに正の言語的フィードバックの効果に関するものであった。ピグマリオン効果の本質は,教師の期待そのものというよりは,期待することによって教師の行動が変化することによる効果だというのがその後の研究成果だから,彼女がピグマリオン効果という言葉からそこにたどり着いたのは,いいセンスしてるといえるだろう。というか,私と見解が近いというべきか。それに,はっきりした言語的フィードバックを操作することで,実験の組み立てもずっと考えやすくなる。なにより,高校生がここまでスッキリしたデザインの実験を考えたこと自体,尊敬に値する。あとは細部だが,そんなに細かいところで条件統制を求めてもしょうがないので,むしろ内省報告など,一人ひとりの変化の様子をていねいに見ることをお薦めする。

  というわけで,何度か質問に答える形でやりとりが続いたのだが,論文は無事に完成したのだろうか。

  そして11月になり,とある人物と話している中で,思いがけずまたもやピグマリオン効果が話題になった。その“とある人物”,あえて属性を秘すが仮にA氏としておこう。A氏はしみじみと私に語りはじめたのだ。「先生,ピグマリオン効果ってほんとにあるんですね。」

  A氏がある小学校を訪れたときのことだ。はじめてその学校に行ったA氏,招かれるままに校長室に入って校長先生にご挨拶。するとその校長先生は開口一番,「うちの教員たちは,授業の力のない人が多くてねえ」と言い始めたというのだ。

  その後,仕事で何度もその学校に行ったA氏の観察によれば,先生方に力はあるように見えるが,学校全体に「やる気」があまり感じられない。それに先生方と校長先生との間に,どうも大きな溝ができているようだ。あるときなどは,「校長先生のいうことなんか,気にしなくていいわよ」と,近くの先生から声をかけられたこともあるとか。A氏いわく,「これって逆ピグマリオン効果ですよね。校長先生が何も期待していないから,先生方が力を発揮しようとしない。ほんとは力を持っているのに。」

  この話を私は,半分ドキリとしながら聞いていた。というのも,ついその前日のことだ。講演に出かけた先で,私を呼んでくれた校長先生(私のゼミの修了生)と昔話になり,ついでに今の院生の愚痴になって,ついつい「最近は院生もずいぶんと手がかかるようになりましたよ」などと口走っていたからである。私も院生に何も期待していなかったのだ。逆ピグマリオンか。

  そういえば,とさらに思い出す。その校長先生は,私とちがってたいへんできた人で,自分の学校には,小さい学校なのになぜか力のある先生がたくさん集まっているので,自分は楽をさせてもらっている,と何度もおっしゃっていた。その校長先生を相手に,なんと浅はかな打ち明け話をしてしまったことか。

  A氏と別れたあと,つくづく自己嫌悪に陥りながら,帰りの新幹線に乗り込んだのだった。


10.08.23. 脳は体に依存している

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  ネットが便利に使えるようになったとはいえ,やはり専門外の脳神経科学の話は,内容的にもとっつきにくいし,文章の言い回しにもなじみがない。そこで,その領域での文章の雰囲気や表現のしかたを知るため(?)…たとえば脳が「指令を送る」とか,手術で「切除する」といった表現を知る…ために,あの『のうだま』の著者である池谷裕二さんの本を買い込んでお勉強。とはいっても一般向けの本ばかりなので,息抜きと個人的興味の方が大きいのだが。

  その中にハッとさせられた言葉があった。「脳にとっては体こそが環境である」というのである(『脳はなにかと言い訳する』・新潮文庫,p.65)。脳は頭蓋骨という暗箱に入っていて,外界と直接接していない。つまり外界がどんな様子なのかを直接知ることができない状態にあるわけだ。その脳に,外界のことをいろいろと教えてくれたり,脳からの指令を受けて外界にはたらきかけるのが体だ。つまり体は,脳と外界とのインターフェースなのだ。体があってはじめて脳が働く,といってもいい。

  バイオリニストやピアニストは,指を動かす脳領域が普通の人より広いが,これはそういう特異な脳領域を持っている人がバイオリニストになるというよりは,バイオリニストをやっているから脳領域が広がったと考えるべきだ,と池谷さんは説明する。さらには,人間の脳は人間という(それほど優れていない)体をコントロールするという目的のためだけに存在する,とまで池谷さんは言い切る。だから,「潜在能力の開発」などといっていくら脳だけを鍛え上げても,たかが知れているというのだ。基本となるのは体だ。

  遠い昔,「学習情報論」という学部の講義を担当していたとき,最初の回に必ず言っていたことがこれだった。「私たちは体全体が情報処理装置なのです。生活全体が情報処理過程なのです。」 情報処理しているのは脳ではない。私たちは体全体を使って情報を処理しているのだ。コンピュータだって,CPUだけをコンピュータとして買ってくる人はまずいない。ふつうは,入出力装置までを含めたコンピュータ・システム一式を買ってくる。キーボードもマウスもモニタも,コンピュータには欠かせないからである。キーボードやマウスを使って正確な情報を素早く入力し,また処理結果を瞬時にモニタに表示してはじめて,CPUの性能が生かされるのである。

  家電製品などに入っている,「シングルチップ・コンピュータ」というのだろうか,あれなどは単体で存在しているように見えるが,これもやはりセンサーや指令を受けて動作する部位とつながって機能している。これら全体を見わたしながら考えないと,「情報処理」というものの本質は見えてこない。

  とまあ,授業ではたんに情報科学の話から認知心理学の話へとつなげるための前置きとして話していただけだったのだが,専門家にきちんと説明されるとあらためて納得させられる。

  話を大きくまとめて教訓にしてしまうならば,けっきょくのところ脳を鍛えるためには,体全体,五感全体をフル活用し,体全体をしっかりと動かしていく必要があるのだろう。最近の過剰な「脳科学ブーム」に対して日本神経科学会が,科学的根拠のない「疑似脳科学」がひとり歩きすることがないよう,研究成果の慎重な公表を求める声明を出したことに,池谷さんも言及しているが,たしかに,脳(と心臓)だけが特別な器官でも万能なわけでもない。我々はきっと,いつも体を動かしながら考えているのだ。


10.08.20. 翻訳してました

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  春から翻訳の仕事をしている。Deciの著書以来だから,ほとんど10年ぶりか。前回は一般向けの本とはいえ,内容は専門中の専門。引用してある研究論文もたいてい読んでいたくらいだから,翻訳という作業自体のたいへんさはあったものの,とくに問題なく作業を進められた。しかし,今回はまったく勝手が違う。

  だいたい「motivation」の章だから,というので何も考えずに引き受けてしまったのが失敗だった。motivationはmotivationでも,教育心理学的な動機づけではなく,我々がヒトという種として生き残っていくために必要な生理的欲求に関連する動機づけ。いわば基礎心理学的なmotivationの解説なのだ。動因だの誘因だの,脳神経だのホルモンだの難解な専門用語が飛び交う。書き手の違いなのかも知れないが,文章の“匂い”からして,我々教育心理学畑の人間が書いたものとはずいぶんちがった趣に見える。

  じつは,今回の仕事は「改訂版」の訳なので,旧版の訳はすでにある。書き換えられたり新たに加わった部分もほとんどないので,そういう意味では楽な仕事のはずだった。しかし,訳しはじめてみると,やはり旧版の訳者と私とではどうしても文体がちがう。誤訳を発見して文の一部を書き換え,全体を読み返してみると,どうにも文章がかみ合わなくなる。こうなると,とことんやらないと気がすまないのが困った性格で,けっきょく,ほぼ全文にわたって私の“匂い”がするように書き換えてしまった。ま,そんなことをやっているからたいへんなのだけれども。

  前回の作業と今回とでいちばん大きくちがっているのは,たぶんネットの“成熟”である。今回はほんとうにネットの力にお世話になっている。原文に出てくる専門用語を調べるのに,前回は図書館の事典類のコーナーに何度かこもったが,今回はまず「ネットで検索」。これでたいていは訳語にたどり着ける。情報の信憑性にさえ気をつければ,十分実用に耐える。

  旧版では「神経性大食症」と訳されていたものを,もしかすると「過食症」の方が一般的なのではないかと気になって検索してみたら,「神経性」につながっているのはやはり「大食症」であるらしい。引っかかったサイトの件数をみても,差は歴然としている。

  さらに,大食症の説明の中に,"binge eating"という症状が出てくる。「大食」と訳してしまうのは簡単だが,それでは大食症の説明にならない。「過食」もすでに別の単語に当てていて,乱用するわけにはいかない。食べ過ぎ,大食い,暴飲暴食の暴食と,いろいろ当てはめてみるがイマイチしっくり来ない。そこでまたネットで大食症を調べてみたら,あるではないか,「むちゃ食い」という訳語。なるほど,これはピッタリだ。しかも,よく見るとこの「むちゃ食い」,れっきとした専門用語であるらしく,「むちゃ食い障害」というのが載っていた。英訳もそのまんま"Binge Eating Disorder"と。

  以前ならきっと,医学事典やらDSMやらを何冊も読みあさってようやく「この訳語でいこう」と覚悟を決めたところだろうが,それが小一時間で結論を出せるようになったのだ。これはとても助かる。

  とはいえ,専門用語はすべて専門用語として訳せばいいかというと,そうでもないのが日常の心理現象を扱う心理学書のむずかしいところだ。たとえばattributionといえば我々はすぐに「帰属」と訳してしまうのだが,下訳を読んでくれていた妻からダメ出し。一般の人には帰属なんていってもさっぱりわからない,と。たしかに。ここは「~のせいにする」とかみくだいた表現にした方がいいかもしれない。ほかの章できちんと取り上げていれば帰属でもいいのだろうが,我々は下請け作業員なので,他の章の内容はわからないのだ。

  ちょっと悩ましい誤訳も見つけてしまった。脊髄レベルでの行動制御の説明で,ある反応は脊髄損傷で体を動かせない患者でも反射的に生起する場合がある,という部分がある。eliciteだから,間違いなく反応は引き起こされるのだが,これを旧版では,「反応が起こらなくなる」と逆の結論に訳していたのだ。最初,eliminateと取り違えただけなのかと思っていたのだが,これも妻の指摘で,旧版の訳の方がスジが通っていると。つまり,脊髄反射レベルの話なのだから,脊髄が損傷すれば反射は起こらなくなるのが自然だろう,というのである。

  これは,おそらく原文が説明不足なのだ。脊髄は背骨に沿ってたくさん並んでいて,一部を損傷すれば脳からの信号がその先に伝わらないので体が動かせなくなるのだが,損傷を受けていない脊髄は正常に働くから,その部位が関与している脊髄反射はちゃんと生起する(場合がある)ということなのだろう。ただこれは,いくらなんでもこんなに原文を補足説明するわけにはいかない。このあたり,どう処理するかはじつに悩ましい。

  まあ,そんなこんなでだいたいの訳は終わった。もう一度通して読んでみて最後の調整を行ったら,あとは編集にお任せることにする。どこまで改変が認められるか,あっさり旧訳に戻されるかはわからない。初校を楽しみに待つことにしよう。


10.08.04. 幼稚園と保育所

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  またずいぶんと乱暴な分析結果を,いとも簡単に公表してくれたものだ。例の全国学力テストの結果概要が公表された。各メディアが取り上げているのはこのうち,幼児教育経験との関連である。調査結果によれば,小6・中3とも,また国語・算数数学A・B問題とも,幼稚園出身者>保育所出身者>どちらもなしの順に学力が高かったのだそうだ。

  問題はここから何が言えるか,あるいは何が言えないかであるが,「何も言えない」というのが正解であることは,おそらく多くの人が気づくところだろう。各新聞記事でも,有識者のコメントはおおむね批判的である。それぞれの背景にある家庭環境のちがい,教育方針のちがいをきちんと統制しない限り,結論めいたことを言うのは不可能だ。

  それにしても,いったい何の目的でこのような分析を行ったのだろう。文科省側にどんな意図があるのかは,ちょっと気になるところではある。だって,今の政府の方針は専業主婦への配慮をやめて共働き家庭を中心に据えようとしているのではなかっただろうか。それに対して,幼稚園教育の方が優れているからやっぱり幼稚園,と言い出すのなら,夕方以降,家庭でしっかり子どもたちを見守る体制を整えなくてはいけなくなる。つまり,家庭に主婦がいる(もちろん主夫でもいいのだけれど)状況を推進することになるのではないだろうか。

  いやもしかしたら,そんなに深くは考えていなくて,ただ調査したからには何か分析にかけなきゃいけない,くらいの感覚で,とりあえず群分けして比較してみた,なんていうんじゃないだろうかと,私は密かに疑っている。研究者でもよく,仮説にも何にも乗せていない性差の分析結果から,平気でステレオタイプな性別役割論を繰り広げる人がいるが,案外そのレベルなのかも知れない。しかし,だとしたらこんな意味のない,よけいな偏見を助長するだけの分析を平気でしているようでは,全国学力テストの将来が思いやられる。

  今回の結果はいわば「速報」で,じつはもっとていねいに分析できるデータがある,というのならまだ期待が持てる。しかし,この先もまた思いつきでいろいろな調査項目が付け加わり,そのたびにアリバイ的な分析を行って,なんだかわからないが有意差が出てきましたと報告されては,迷惑なだけだ。


10.07.27. アニメの設定は最悪です

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  さて,Office2010である。ふだんだったら,新製品の評価が一通り出てから(メーカー寄りのライターたちの記事ではない評価が出回ってから)買うかどうか考えるのだが,今回はちょっと事情があって,あわてて新製品を買うことになってしまった。その事情というのは―

  これまで,家で使っている古いPCにはOffice2003が,研究室のPCにはOffice2007が入っていた。互換をとるため,文書の保存は「97-2003形式」(拡張子の最後にxが付かない形式)で行っているのだが,大学の2007で編集した内容の一部は,自宅の2003では編集ができなくなってしまい,これがけっこう不便なのである。凝ったデザインのSmartArtを使った場合などはしょうがないとも思うが,基本的な表組みも内容を修正できなくなったりする。さらに,2007に慣れるにしたがって,少しずつ2007独自の新機能を使いたくなってくるから,そうするとますます2003では編集できない聖域が広がっていくばかりなのである。これは困る。

  もう一つ気がついたことがある。2007形式(拡張子の最後にxが付くファイル)で保存したファイルの大きさが,2003形式よりだいぶ小さいのである。複雑なプレゼン資料ほど,大きさの差ははっきり現れる。日頃プレゼン資料はネット経由で研究室のPC,自宅のPC,それに教室に持ち込むモバイルPC間のやりとりをしているので,ファイルサイズは小さいにこしたことはない。読み込みの時間も短縮される。で,そのためには2003をやめてバージョンアップしないといけない。

  それで,全部2007に変えようかと思っていた矢先に2010のPreview版が発表になったというニュースが入り,基本的なインターフェースは2007と同じとの記事もあったので,それならもうちょっと待って,2010にバージョンアップすることにしたのである。そこへもってきて春からのプレゼン資料作り。2003・2007併用の不便さはますます募るばかり…。ということで,発売されたというニュースをみてすぐに,2010の購入を申し込んだのだった。

  しかし,肝心のPowerPointに関する限り…,そのうちとくに私が多用しているアニメーションの設定に関する限り,2010の出来はさんざんである。だいたい,何が「基本的なインターフェースは2007と変わらない」だ? 2003→2007→2010と,毎度毎度こんなにインターフェースを大きく変えてくるメーカーっていったい何? 開発チームの人たちは,負の転移によるストレスを感じなかったのだろうか?

  2007では,アニメーションの設定関連の操作はすべて右側の「アニメーションの設定」(2010では「アニメーション・ウィンドウ」)にまとめられていたのだが,2010ではこれがどういうわけか右側がスカスカになり,画面上の領域に設定項目が分散してしまった。アニメーションのスタイル,タイミング,オプション,速さ…と,各項目を設定するのにマウス移動がやたらと面倒だ。2007ではたった4段ぶんにこれらの項目がまとめられていた。この上下4段を移動するだけで設定できていたのだ。いったいどうしてこれが廃止されてしまったのだ? どんな不都合があったというのだ?

  さらに,アニメーション・スタイルを選ぶと,PowerPointはご親切にもオススメのスタイルをいくつか提案してくれるのだが,これがまたいかにも中途半端だ。まず,それぞれのスタイルのアイコンにマウスを乗せると,サンプルのアニメーションを見せてくれるようになっているのだが,スタイル選択のドロップダウンリストが肝心のスライドの上に重なっているので(このドロップダウンリストがまた,よせばいいのに全部アイコン表示なものだから,やたら巨大なのだ)肝心のアニメーション効果がさっぱり見えない。こんなの,開発段階で誰か気づいてもよさそうなものだが,よっぽど我々庶民とはちがった環境で開発しているらしい。

  それと「タイミング」。タイミングはクリック時・直前の動作と同時・直前の動作の後の3種類選べて,その選択の状態が上に表示されるのだが,この表示窓が異常に狭い。私のところでは,「直前の動作…」としか表示されないので,動作と同時なのか後なのかまったく区別ができない。じつに間抜けな表示だ。せめて「直前の動作と/の」まで表示されていれば推測はできるというのに。これは致命的である。どうしてこんなミスが残っているのか理解に苦しむレベルだ。もしかしたら開発チームは誰もアニメーションを使っていないのか? それとも私のPC環境がよほど特殊なのか? 律儀に英語を訳さなくても,「クリック・同時・後」とでも書いてくれたら一目瞭然だろうに,何の工夫も見られない。

  それにだいいち,私がふだん好んで使っている「ストリップ」がオススメの中に入っていない。そうなると,毎回「その他の開始効果」を選んでそこから選ばないといけない。このあたりは2007も同じだが,2007だと,使っているうちに使用頻度の多いスタイルは「その他」からトップに昇格してくるはずだ(「速さ」の設定も連動して変わってくれれば,文句なしだったのだけれど)。2010ではどうもそんな気配が見られない。いつまでたっても,わざわざ「その他」に移動するしかなさそうなのである。これでは,2007と比べて手順が増えてしまっている。まったくよけいなお世話だ。

  こういう「オススメ」は,おそらくユーザが通常使うものを自由に登録できてはじめて実用になるのだと思う。スタイル・オプションを一括して登録できるようなしくみや,利用頻度に応じて自動的に先頭に表示してくれるようなしくみがあれば,きっとずっと使いやすくなるはずなのだが,なんか改良の方向性がずいぶんとズレているような気がしてならない。

  よけいなお世話といえば,以前から気になっていたのは同じファイルを使っているのにPCによって表示が微妙にちがうことだ。きちんと1行に収まるように文量を調整したのに,教室用PCで表示させるとなぜか2行になって,あふれた下の方が見にくくなってしまったり,といった現象がたまに起きる。フォントの大きさは指定してあるし,画面の解像度も同じだし,Windowsのバージョンも同じ。これで表示がまちまちだったら,事前の準備が非常にやりづらい。全部教室用PCで最終確認しないといけなくなる。

  この問題がPowerPointの設計と関連があるかどうかはわからないが,一般的にいってこの会社の製品は,よけいな気を回しすぎて自分たちのスタイルを押しつけている気がする。自分たちの提案するスタイルがいちばんなのだ。それに従っていればまちがいない。細かなところは気にしなくても,ソフトが最適に直しておくから任せなさい,と言われているような感じなのだ。それが,ユーザにとって不便になるかも知れないなんてことにはおかまいなし。

  しかし私は逆に,細かなところまで自分で好きなように作りたい。ソフトに要求するのは,その指定や指示を正確に,忠実に再現してくれること,それだけなのだ。きっと私は,この会社とは決定的に相性が悪いのにちがいない。


10.07.23. アプリが実行できません

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  発売されたばかりのOffice 2010を,家で使っている古いPCにインストールした。そのわけは別に書くとして,ともかくインストール作業自体はとくに問題もなく終了。しかし,問題はそのあとやってきた。

  愛用のファイラに,ExcelやPowerPointのショートカットを登録して,いつでも起動できるようにしているのだが,バージョンアップしたら当然前のショートカットは無効になる(フリーソフトの多くがそうであるように,同じフォルダに同じ名前で上書きしてくれればショートカットもそのまま使えるのだが)。そのため,新しいショートカットを登録しようといじっていたら,急に挙動がおかしくなった。ドラッグ・アンド・ドロップしたはずのショートカットが行方不明になったと思ったら,その直後から,アプリの起動がまったくできなくなってしまった。何の反応もなくなってしまったのである。

  こういうときはシステムの再起動が原則。迷わず再起動をかけてみたのだが…。事態は予想以上に深刻だった。症状はなくなるどころか,スタートアップに入っているアプリさえいっさい立ち上がらず,なぜかExcelがそれぞれのアプリを開こうとして延々エラーメッセージを吐き出すようになってしまったのだ。念のためセーフ・モードでも起動してみた。これだと,アプリの自動起動は行わないので,一見正常に立ち上がったように見えたのだが,手動でアプリを起動してみると,やっぱり症状は変わらない。

  症状からすると,どうやらファイルの拡張子ごとに関連づけられているアプリが書き換わっているらしく,おそらくexeファイル(通常は「アプリケーション」としてそのまま引数をつけて立ち上がるようになっている)がExcelに関連づけられてしまったらしい。だからなんでもかんでもExcelで開こうとして,うまくいかなくて悩んでいる,ということなのだろう。

  原因の想像はついたが,ではいったいどうしたら元に戻せるだろうか? 関連づけの変更は通常,エクスプローラ(というのか「マイ・コンピュータ」というのか)のフォルダ・オプションでできるのだが,そのエクスプローラが起動しない。もう少しプロっぽい直し方はレジストリ・エディタを使うことだが,これもダメ。今どんなプロセスが動いているかを確認しようとしたが,タスク・マネージャーも動いてくれない。こういうときはネットに相談してみるのがいちばんなのだが,FirefoxもIEも反応してくれない…。とにかく,修理するためのツール類がすべて使えない状態なのである。そのうえ,日頃使い慣れている漢字変換の支援ツールやマウス操作の支援ツールなど,いわゆるアクセサリ類もすべて使えない。なぜならすべて,exeファイルのアプリケーションだから。

  想像していただけるだろうか,マウスカーソルだけはキビキビと動くのに,文字通りなあんにも起動できないWindows画面を?

  しかたがないので,別の正常なPCをネットにつないで「exe 関連づけ 変更」で検索すると―,あるんですねえ,似たようなケースが。さすがネットの力はすごい。自分だけの特殊なケースと思っていても,たいていは他の人がすでに経験し,しかも便利なことに,上級ユーザがその対策をアドバイスしてくれている。

  ポイントは,上にあげた解決法はどれも基本的にはWindowsの制御の枠内なので,関連づけの問題から抜けられないという点である。「ファイル名を指定して実行」も,Windows内で,DOSプロンプトの動きをエミュレートしているだけだから,問題は変わらないというわけだ。だからここは,「ファイル名を指定して実行」からcommand.comを呼び出せばよい,ということなのだそうだ。なるほど,同じ実行ファイルでもこれはcomファイルでexeではないから関連づけの影響を受けない。そして起動してしまえば,そっくりcommand.comに制御が移行するから,exeファイルを起動できるようにもなる,というしくみだ。

  それにしても,comとexeとは懐かしい。昔々のMS-DOS時代にはいろいろ勉強したが,今ではすっかり記憶の彼方に飛んでいた。しかも,切り札であるcommand.comが,うまいことにexeの関連づけから外れているなんて,なんと鮮やかな解決法だろう。そのうえ,DOSプロンプトから1行ずつコマンドを打ち込んでドキドキしながらEnterキーを押すなどという作業も久々に経験したし,たしかに一晩分の仕事を棒に振ったのだけれど,こういうトラブルは,意外に嫌いではなかったりする。


10.07.23. プレゼン型に変えました

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(今年前半はちょっと思いのほか忙しくて,更新している時間が物理的にとれず,例によってまとめて更新になりました。日付も書きかけの下書きの日付です。)

  ふと思い立って,今年の「学習心理学特論」は,長年続けてきた黒板にチョークの授業から脱却し,他の講義と同じプレゼン方式に変えてみた。この講義には何となくこだわりがあり,また授業の進め方も,一話完結方式でやっている他の講義と違って,この講義はダラダラとずっと連続モノで続いていくので,前もって1時間の内容をカッチリ決めてしまうプレゼン型には適さないと思っていたのだが,年をとるにつれてだんだんこだわりも配慮も薄くなり,字のまちがいを気にしつつ黒板に汚い字で書き続けるのも苦痛になり…。

  プレゼン型に変えたもう一つの理由には,そろそろゼミ生お手伝いへの依存体制から脱却せねば,という思いがあった。他の講義は完全に自立しているのだが(当たり前だけど),この講義だけは,ずっとゼミ生にお願いして資料を印刷してもらっていた。しかも,毎週授業の直前にならないと資料が完成しないという,わがままなお願いである。(念のためにいうと,黒板ふきもいつのころからかゼミ生の引き継ぎ事項になっているようだが,私が指示したわけではない。ただまあ,前の時間におびただしい数式を書き散らしたまま平気で出て行く教員がいるという現実をみると,ゼミ生たちの気持ちもわかるが。)

  学生数減少傾向が続く昨今,そういつまでもゼミ生に面倒をかけ続けるわけにもいくまい。それにだいたい,来年うちのゼミに入ってくる院生が0になったら,確実にお手伝いはあてにできなくなる。最近は若手の教員たちに積極的に学生をつける方針でもあるので,その可能性はけっして低くはないのだ。

  そこで,「講義支援システム」を本格的に使ってみようと考えた。資料をシステム内に掲載し,各自でダウンロードするよう指示しておけば,こちらで受講生の人数を気にしながら印刷する手間も省けるし,もちろんゼミ生によけいな仕事を頼まなくてもすむ。わざわざ印刷するほどのことはないと考える学生は,ダウンロードするだけでもいいわけだし。そうなると,いきおい関連資料は全部電子化したくなる。中途半端に一部の資料だけアップロードするのではなく,関連する資料は何でも掲載し,その中から必要なものをダウンロードしてもらえばいい。すると,やはり行き着く先はプレゼン型の授業になる。

  唯一の問題は,受講生が事前にダウンロードする都合上,資料を早めに作成しておかなければいけないことだが,これは自分で何とかするしかない。

  昨年,博士課程の講義のために内発的動機づけのパートについてはプレゼン原稿を作っていたのも,プレゼン方式への完全移行に踏み切るきっかけとなった。あと半分の原稿を作成すれば乗り切れる。それに,1年たいへんな思いをすれば,次の年からは部分修正だけだから,準備はぐっと楽になるはずだ。

  そんなわけで,プレゼン方式での講義が始まったのだが…。

  ほどなく自分の決断を後悔した。なにしろ時間がない。準備した内容を時間内にこなすだけでせいいっぱい。まったく余裕がない。ほとんどPCの画面しか見ていない。

  用意した原稿は,これまで黒板とチョークで扱ってきた理論や研究をそのまま並べただけなので,黒板に書く時間が不要な分だけ,余裕を持って授業を進められるはずだった。ところが,そんな余裕はまったくなく,なぜかかえって以前より窮屈になっている。終了時間前に終わる,ということがほとんどないのだ。いったいどうしてこんなふうになってしまったのだろう?

  で,あるとき気がついた。今までは手元にネタは用意していても,時間の進行に合わせて詳しく解説したり短縮したり,場合によっては完全にスルーしたりと,細かくというか,その場次第で適当に調整していたのだ。用意したネタは学生には知られていないから,短縮してもスルーしてもわからない。まったく教員の自由裁量である。ところが,プレゼン資料化すると進行のスジ書きが公開されてしまうので,何となくその通りに進行しないといけなくなる。それで,どうしようどうしようと思いながら,PCの画面とにらめっこになってしまうのである。「時間がないのでここは飛ばして…」とスライドを早めくりしながら話す人もいるが,どうも私はあのやり方は趣味じゃない。

  そんなこんなで暗い気持ちになりながらも,今年はなんとか最後までたどり着いた。金曜午前中には資料をアップするという約束も,どうにか1回も遅れずに達成することができた。とはいえ,さて来年はどうしたものか。

  まあ,だいたい初年度はこんな感じで,その年の出来を参考に修正を加えて,2,3年後には安定してくる,というのがいつものパターンだし,プレゼン型にしたメリットもいくつかはあるので,このまま続けてみてもいいのだが,直感的には,やはりこの講義の「連続モノ」的な進め方と,一話完結型のプレゼン授業とは合わない気がしてしかたがない。今のところ,続けるかもとに戻すかはちょうど半々といったところだ。ただ,M1のゼミ生0という事態は毎年あり得ることなので(ゼミ決定はもちろん前期の授業が始まってからだ),そのつもりで準備をしていくことにはなるのだろう。