ひとりごと

保存箱 2011.07-12

(リンク切れ等があっても修正しません)

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11.12.28. メールソフト

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  Windows XPのサポート終了が間近に迫っているとの告知を受けて,使っているPCを順次Windows 7マシンに入れ替えようと決心して1年になろうとしている。PCの買い換えとWindowsのアップグレードを使って,予定より早く置き換え計画が進行中である。

  新しい環境にもすっかり慣れてきたところで,気づいたことがある。以前書いた,かな入力派にとっての基本ソフト「AltIME」が動かない,というのはまちがいだった。自宅で授業の準備をしていて,無意識に昔のキー操作をしてみたら,ふつうに動いたのだ。あれま。

  どうやら問題は,オプション設定を保持してくれないところにあったようだ。必要な機能をオンにしたのに,いったんソフトを終了して再度立ち上げると,デフォルトに戻っていた。それでその機能が使えなかったらしい。別のPCにも同じオプション設定をしようと,久しぶりにオプション設定をのぞいて見て,ちょこちょこと設定をいじったら,今度はちゃんと設定を保存してくれたらしく,使えるようになっていたのだ。あきらめていたから,すぐにその機能を試していなくて,気づくのが大幅に遅れてしまったのだが。

  一方,使えたはずなのに,いつの間にか問題が起きるようになったのが,「Al-Mail」というメールソフトだ。なぜかメールを送信するたびに本体が落ちるようになってしまった。メールは無事に送れているので心配はないようなのだが,やはりメールを送るたびに毎回毎回落ちていてはうっとうしい。異常終了するのは端末1台だけで,他のPCではちゃんと動いているから,きっと他のソフトとの相性なのだろうが,いちいち調べるのも手間だ。それに,そろそろWindows7に正式対応したメールソフトを使いたいというのもあって,新しいソフトを探すことにした。その紆余曲折はまた時間のあるときに書くことにして,最終的に落ち着いたのは「秀丸メール」。先月に移行して,ようやく基本操作に慣れてきたところ。まだまだ使いこなす段階には至っていない。


11.11.25. 研究者の視点

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  朝日新聞の片隅に,このところずっと原発事故と科学者との関わりについての連載が続いている。自由に行動できないからと,勤めを辞めて放射線量測定に奔走した研究者の話や,放射性物質の飛散状況をシミュレートして環境への影響を予測するSPEEDIのデータが,住民の避難に活用されなかったいきさつなど,取材相手の実名をあげながら丹念に検証した,迫力あるレポートが展開されている。

  つい先日までの連載では,1957年から続いていて国際的に評価も高いという,気象研による大規模な環境中の放射能観測が,原発事故後に中止に追い込まれた“事件”とその後のことを扱っていた。

  もう明日からは新年度,という3月31日。本庁である気象庁から気象研に,新年度の放射能観測の予算を凍結するとの電話連絡が入る。雇用していた専門技術者には「明日から出勤しないよう」連絡しろという,それくらい突然の通知だった。気象庁の説明によれば,原発事故に関連して,緊急に必要となる放射能測定に予算を振り向けるため,通常業務に絞り込みをかけるよう,文科省から指示があったらしい(おおもとは財務省からの指示らしいが)。

  納得のいかない研究者は,自分でできるかぎりの測定を継続する一方,事業の意義をアピールすべく,事故後の放射線量の計測データをNature誌に投稿した。その論文はみごと採択になったのだが,内容を見た気象研の所長からストップがかかる。原発排水口付近の海での線量が「チェルノブイリの一万倍」という内容(論文中に明示的に書かれてはいないが,そう読みとれる)がセンセーショナルで,過剰な反応が心配されるため,気象研の名前を出しての投稿は認められないとのこと。研究者は,汚染がひどいのは事実であり誤りはないこと,「30km離れれば同程度になる」ことも示してあり,きちんと読みとれるはず(メディア向けの解説資料も用意したそうだ)であること,チェルノブイリと比較しなければ,よけい平常時との差が誇張されて受けとられる可能性があること,などを指摘して反論する。またこれでは,管理職のさじ加減ひとつで研究内容に制限が加えられかねないと危惧する。

  実際,当該箇所を削除しようにも,そこを執筆したのは別の共著者なので無理。執筆者から降りることも検討したが,Nature誌はトップが反対する論文は掲載できないとして,けっきょくこの論文は掲載とりやめとなる。そしてそれ以降,気象研は放射能汚染に関して情報発信力を失う。気象研の名前を出しての発言はできない雰囲気となり,メディアの取材も講演依頼も断り続けた。こうして2ヵ月ほどたったあるとき,国会議員の視察によって事態は一変する。その議員がすぐにどこかに(文科省らしい)電話を入れ,即座に予算が復活したという。

  これでめでたし,めでたしでこのシリーズが終了するのかと思いきや,おまけがあった。連載記事には,予算が止まった中で細々と観測を続けていた研究者に,よその機関の研究者たちが「消耗品をこっそり分けてくれた」という美談(?)が紹介されているのだが,記事が掲載された直後,当事者たちに(なんと取材した記者にも!),文科省から調査が入ったというのである。どうも,まるでホラー映画でも見ているようだ。モンスターを倒したと思ったら,なぜか必ず一度は息を吹き返して最後の反撃。

  文科省の理屈は,他人に譲渡できるような余剰品があるなら研究費を返納すべきだ,ということらしい。記者が逆取材してみると,これは財務省からの指示ではなく,「財務省から聞かれかねないから」あらかじめ事情を把握しておきたいためとのこと。しかし財務省に取材してみると,「予算執行は各省庁の権限で,財務省からそんな細かいことを聞くことはない」のだそうだ。そして気象研は,調査に対して次のように回答した。「記事は事実ではない。無償で譲渡したわけではなく,観測データがほしいとの依頼があり,代わりに消耗品を受けとったものだ」と。

  このあたりのいきさつは,どうもひじょうに親近感がある。同じギョーカイの人間としては,いかにも「あり得る」話に見えてしょうがないのである。あくまで「あり得る」話であって,実体験があるわけでも周囲で見聞きしたわけでもないので,ただのイメージでしかないのだが。

  ただ,私も歳をとってきたせいか,今回は管理者側の事情にも,ちょっとは共感できてしまうのだ。

(だいいち,もし万が一私が管理者の立場に立たされたとしたら,私も「チェルノブイリの一万倍」という結果には,正直ビビると思う。今だからこそ,事実を正確に迅速に公表する重要性を大声で主張できるけれども,あの当時である。ちょっとした情報で買い占め騒ぎとなり,不買運動が起こっていたあの当時である。「事実なんだから科学者として堂々と発表しなさい」と肩をポンと叩いてあげられればカッコいいのだろうが,自分がその後の対応の矢面に立たされることを考えると,とてもそんな勇気はなさそうな気がするのだ。ま,それはさておき。)

  たとえば,最後に出てきた事実関係の調査だが,いかにも杓子定規な「お役所仕事」のように見えるかもしれないが,こんな細かいことを言い出すようになったのは,たぶん最近のことである。ある時期,科研費の不正流用が立て続けに明るみに出たことがある。大学の予算も厳しくなり,定員削減の圧力も強まっていた頃である。その頃から,大学でも「説明責任」ということが盛んに言われるようになった。研究費は国民の血税である。ゆえにその使途は,国民の前にすべて透明でなければならない。ということは,予算算定のもとになる大学の事業計画も,国民に納得してもらえるような(直接的には予算を決定する財務省に納得してもらえるような)わかりやすい説明をするよう,文科省から指示されることが多くなった。

  「もとは国民の血税なのだから,1円たりとも無駄にしてはならない」というのは大原則である。予算が余っているなら返しなさい,というのも当然だ。となれば,事務サイドとしては「こっそり分けてくれた」の中身を把握しておく必要がある。記事には「消耗品」としか書かれていなくて,量も値段もわからないのだ。しかも,普通の研究者間で融通しあうのとは事情が違う。正式には中止になった事業,つまり不要と判断された事業への投資なのだ。「知らなかった」では済まないし,「研究者の良識に任せています」なんて言い訳も通用しない。それでは国民の理解は得られないだろう。

  その点でいうと,「財務省から予算執行について細かく聞くことはない」という財務省の見解は,ちょっとズルいと思う。国民からの突き上げがあればきっと,手のひらを返すように,詳細な説明を求めてくるのは目に見えているからだ。なにせ,そちらの方が正論なのだから。…少なくとも文科省はそう推測し,先手を打ったのだろう。つまり,財務省に対して,ちゃんと説明できるように準備したのだ。だれがそれを過剰反応と非難できるだろう。

  この記者は,気象研の事業の価値を認めているから,他の研究者たちからの支援を自然に受けとめたのだろうが,みんながみんなそうとは限るまい。とりわけ,昨今の公務員への視線の厳しさや,事故対策関連予算の緊急性に比べて,地道で気の長い基礎研究の意義が一般に伝わりにくいことなどを考えれば,事務サイドとしては悠長にかまえているわけにもいかないだろう。また,この事業の特殊性(国際的に評価が高い)と,一般原則(緊急的な事業を優先するため,不要不急な事業は中止とする)をきちんと切り分けないと,話がおかしなことになる。事務サイドとしては一般原則に則って作業を進めるのは当然で,「中止された,優先度の低い事業」としての扱いになるのはやむを得ないのではないだろうか。この記者が研究者の視点に立ってくれているのはうれしいのだが,とはいえ,なんだかちょっと批判の向け方が,一昔くらい前の考え方に思えてしまうのだが,どうなのだろう。私がすっかり管理者側の考え方に染まってしまっているからなのだろうか。


11.11.22. なまかじりか?

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  まあ,われわれだって畑違いの文献を参照するときは,きっとその分野の専門家からすれば,ずいぶんトンデモなことをやっているんだろうが…。

  最近よくのぞいているビジネス誌系のサイトで,「モチベーション・マネジメントの秘策教えます」なる連載が始まった。いかにもアヤシげな連載タイトルだが,ちょっと興味をそそられる。動機づけの問題はビジネスの世界でも大きな問題らしく,以前からこのサイトでも動機づけに関連する記事はちらほらと出ていて,けっこうおもしろく読んだものもあったからだ。

  リンクをたどって記事を開いてみると,いきなり自己決定理論の図が目に飛び込んできた。おおっ,自己決定理論を使うとは珍しい。こりゃ,ひょっとすると意外に本気な記事かもしれん,と一瞬思ったのだが,それはほんとうに一瞬で終わってしまった。

  やっぱりアヤシいのである。

  先ほどの自己決定理論の図,つまり動機づけの連続体に中間段階があることを示した図の,各段階につけられた説明文を見てみよう。

[外的]  …(省略)
[取り入れ的]
 やっていることに価値を認め,自分の価値観に取り入れる
[同一視的]
 やっていることの価値の重要性を理解し,自分の価値観と同一視する
[統合的]
 自分の価値観と,やっていることが統合されている

  う~ん,取り入れから統合まで,どこがどう違うかわかるだろうか? 取り入れの説明が「~取り入れる」,同一視の説明が「~同一視する」と,あんまり説明になっていない説明なのだが,おそらくこの記事の著者自身も,きちんと理解できていないのではないだろうか。

  たとえば,取り入れ。これ,ほんとうはもっと否定的なニュアンスで,簡単に言えば上司の顔色をうかがいながら行動している状態だ。直接上司から,ああせいこうせいといわれていなくても,きっと上司はこう思っているだろうとビクビクしながら,叱られないように無難に仕事をこなしている段階。だからまだ本人は「価値を認め」たりしていないはず。価値を認めているなら,たぶん同一視段階に分類される。

  取り入れも同一視も,じつはフロイトを知らないと意味がとりにくい。取り入れというのは,子どもが親や権威者からの評価的視線を自分の中にそのまま取り込んで,自分で自分を監視する心の働きだから,実際上,親や権威者から直接ガミガミ言われて仕事をするのと(=外的),大きくちがってはいないのだ。日常用語的というか日本語的には,「取り入れる」といえば「(アイディアや意見を)採用する,受け入れる」というような主体的な判断過程がイメージされる。おそらく著者も,「価値観に取り入れる」などと表現しているところから見て,日常用語的に解釈しているようだ。しかし,それだとだいぶニュアンスが変わってしまう。英語だとintrojectionという特別な用語が当てられているから,もとの文献をちゃんと読めば,日常用語の取り入れとはちがうのがわかると思うのだが。

  しかも,なんのことはない,けっきょく後半で述べられている「秘策」には,この段階はまったく利用されていなくて,単純に「内発化するためには自己決定がだいじですよ」と言っているだけなのだ。なあんだ。本文でも,字数を割いて4段階について詳しく説明しているから,この4段階の特徴と照らし合わせて,部下がどの段階にいるのかを分析しつつ,それぞれに独自の動機づけ方略を提案する,くらいのことはやってくれそうな展開だったのだが…,残念。

  で,その秘策だが,「若い営業担当者の売り上げが伸び悩み,離職率が高いという課題を抱えて」いる会社へのマネジメント事例が述べられていた。そこでは,上司にあたる営業所長に,「所長が指示するのではなく,部下の思いを聞き出し,整理し,部下自身に判断と決定を促すような質問とフィードバックを繰り返す」スキルをつけさせるプログラムを実施し,成果を得たそうだ。これはまあ,自己決定を促すための正統派のアプローチと言ってもいいだろう。

  具体的には,アプローチ中の営業案件について,まずは「君はどう考える?」「君が受けた印象はどう?」と全体の評価を聞き,部下の回答に対して「なるほど。そう思う理由も聞かせてくれる?」とフィードバックをしたうえで,「もし,お客様が他社と当社を比べているとしたら,どうだろう?」「そのご担当者の上司の目から見ると,当社製品のアドバンテージはどこだろう?」と,複数の視点から課題を検討するような質問を加えるのだそうだ。

  これってつまり,「相手の立場に立って考える」という,営業のキホンのキを実践的に伝授しているだけなんじゃないの? という疑問はひとまずおいておくことにして,ちょっと気になることがある。「自分で考えろ」というアプローチは,じつはけっこう高度な要求をしているのだが,ほんとうにこのアプローチで,うまくいくのだろうか。「実際に効果があったのだから文句ないでしょ」と言われそうなので疑問の方向性を変えると,はたしてこの部下たちは,そもそも営業に対してモチベーションを持ち合わせていない人たちだったのだろうか。

  ある程度モチベーションがあって,でも営業のノウハウが足りないために思うように成果が上がらない状態の若手社員に対してなら,このアプローチはよくわかる。「成果をあげろ,やる気を見せろ」とガミガミ言われたって何の解決にもならない。部下自身が抱えている案件に沿って,具体的・実践的にヒントを出しながら,自分で考えさせ判断させることで力がついていき,モチベーションも高まるのだろう。

  しかし,営業そのものに対するモチベーションが低い社員に対しては,どうだろう。たとえば,本文では「外的」段階の例として,こんなケースがあげられている。「希望していない営業部門に配属された人が,いわゆる飛び込み営業を指示されたケースを想像してほしい。飛び込み営業に効果があるとも思えないままに嫌々やっている状態だ。」 こんな状態で,営業先に対する自分なりの分析をこまごまと言わせられたら,かえってモチベーションを下げてしまうのではないだろうか。なにせ彼らは,「オレは営業なんかやるためにこの会社に入ってきたわけじゃない! オレの才能はもっと他のところにあるのだ」と思っているのだから。

  自己決定理論のおもしろさは,何が何でも自己決定,何でもかんでも自分で考えろ,とお題目を唱えるのではなく,これらの段階に沿って一歩ずつステップアップさせていこう,と考えていることにある。たとえば,モチベーションのまったくない人には,まずは外発的な働きかけを,外的に動機づけられている人にはそれを取り入れさせるように,取り入れ段階の人には,しっかりと価値や意義を伝えて同一視できるようにする,というように,一気に内発段階に持っていくのではなく,隣の段階をめざす方がやりやすい。それが,全体としては「内発化」を促していることになる,と考えているのだ(中山の解釈がだいぶ入っていますが…)。だから,最初に部下がどの段階にいるかによって,対応のしかたも変わる。

  せっかく,本文でも行数をとって各段階について解説しているのだから,それが生かされていないのはひじょうにもったいないと思うのだが,ただこのあたりは,研究レベルでもなかなか分析が進んでいないので,応用レベルの人たちにそこまで期待するのは,無理があるかもしれない。(それにしても,研究レベルでも,単なる高自律(=自己決定)段階と低自律段階との比較に終始している研究の如何に多いことか! それだったら,内発-外発の二分法と実質変わりがないのだが)

  まあ連載だそうだから,次回以降の記事を見てみることにしよう。


11.11.11. 並ぶ

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20111111
  だったら何なの? と言われれば何の意味もないが,ちょっとした記念だ。なにせ,これだけ同じ数字が並ぶのは,次は100年後。

  今日がそんな日だというのは知っていたが,べつにそんなに気にしていたわけでもない。しかし,たまたまメールの着信音が鳴ったのでメールソフトを開いてみたら,あと1分あまりで1が並ぶ。なんというタイミングの良さ。というわけで,せっかくなので,ちょっとだけ仕事をサボって記念すべき時刻を待ってみた。クイズ番組の解答者よろしく[PrintScreen]のキーに置いた指に神経を集中させながら。


11.10.25. プロの仕事

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  研究室のレーザープリンタが動かなくなった。スイッチを入れると,少しの間初期チェックをカタカタとやっているが,すぐに止まってしまう。

  じつを言うとちょうど昨年の同じ頃,後期の授業が始まって,授業用の資料を作るため大量の印刷をしなければならなくなる,まさにこの時期に,前のプリンタがまったく同じ症状で壊れてしまったのだ。この機種は,たぶん重量物だからだろう,出張修理しか受け付けてなくて,当然修理代(技術料)+出張費用が必要になる。出張費用は基本料金に営業所からの距離に応じて払う部分が加算される,とメーカーのサイトには説明がある。これに,部品交換ともなればその部品代がプラスになる。けっこう高くつくのだ。

  それで昨年は,ちょうどその頃メーカーがキャンペーンをやっていて新品が安く買えるという情報を,出入りの業者に教えてもらい,もったいないとは思ったのだが修理をせずに,新しいプリンタを購入した。その方が安くあがりそうだったからだ。買ったのは,前とまったく同じ機種。それが,なんということか,たった1年で同じ症状。いったいどういうわけだ? この機種は欠陥品なのか? それともメーカー全体の品質管理がなっていないのか? と,授業の準備で忙しい時期でもあったので,一時はメーカーに対して一方的にキレていたりもしたのだが,問題は意外なところにあったのだ。

  さすがに2年続けて新しいプリンタを購入するのははばかられるし,また同じ機種を買う勇気もなかったので,今回は出費覚悟で修理を依頼することにした。で,午前中にメーカーに連絡を入れたら,なんとその日の午後には新潟の営業所から技術者の人が駆けつけてくれた。えらい! さすが,日頃企業を相手にしているサービスだけのことはある。大学だったら修理に2,3日かかります,なんて言われたら我慢して待ってしまうが,きっとビジネスの世界では一刻一秒を争うのだろう。

  さて,さっそくいろいろと中を開けて見ていた技術者さんだが,ものの2分もたたずに問題を突き止めてしまった。本体に表示されるエラーコードは,あらかじめこちらから連絡してあったのだが,彼は「このエラーコードからして,これしか考えられません。」と断言したのだ。じつに頼もしい。

  最近のプリンタは,いろいろなところが消耗品化されていて,定期的に取り外して交換するようにできているのだが(昔はせいぜいトナーカートリッジだけだった),その一つに感光体ユニットがある。使っているのはカラープリンタなのだが,技術者さんの説明によれば,各色のトナーを印字する際,印刷開始位置を正確に合わせないと色がズレる。その位置合わせ情報を感知している部分が,プリンタ本体にではなく,感光体ユニットについていて,その部分が,何らかの原因で感知できなくなってしまったらしい。彼がユニットを取り外してみてみると,まさに彼が指し示した部分がトナーで真っ黒に汚れている。予言通りだった。

  口には出さなかったけれど,私は1年前のことを思い出していた。さっき書いたように,1年前に買ったのは前と同一機種だったので,まだ使える消耗品類はもったいないと思い,すべて前のプリンタから取り外して,新しいプリンタに付け替えていた。つまり,問題の感光体ユニットも,気づかずに新しいプリンタに付け替えて使っていたのだ。どうりでたった1年で同じ症状に陥るわけだ。センサーが汚れたまま使っていたわけだから。これはメーカーを呪ってはいけない。自分の責任だ。1年前にちゃんと見てもらえばよかったのだ。

  で,前のプリンタの消耗品を付け替えているおかげで,新しいプリンタ付属の消耗品類は,箱に入れたまましまってある。技術者さんにそのことを教え,さっそく新しい感光体ユニットを取り付けてみると,プリンタはあっさりと動き始めた。

  いやあ,さすがプロ。見事な手際だ。おまけに,今日は工具箱を開いていないからといって,彼は技術料はいらないと言ってくれた。基本料金のみ。2万弱の出費だが,新しいのを買うよりは当然ずっと安く済んだ。それよりなにより,故障の原因とか技術的な説明を聞いているだけで,なんだかちょっぴり自分が賢くなったような気がして,幸せな気分になる。私の中では,それだけでも十分技術料に値する。あるいはそれ以上の価値がある。だって次回からは,サービスに電話をかけて,初歩的な確認事項を根掘り葉掘り聞かれなくてもいいから。


11.10.21. 何も考えちゃいない

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  それにしても,放射能汚染を巡る騒ぎはいっこうに収まる気配がない。先日は世田谷で,ある一区画だけ放射線量の高いところが見つかったとして,区長が緊急の会見を開いた。原発から飛散した放射性物質が,こんなところにまでホットスポットを作っていたのかと世間を驚かせ,メディアが現場に殺到して,「ここはあっち側からもこっち側からも下り坂になっていて,ちょうどたまりやすい地形です」などとまことしやかに解説を加える騒ぎとなった。

  一夜明けて専門家の調査結果が明らかになった。すると,なんと原因は,民家の床下にしまってあった夜光塗料の原料とのこと。福島由来のものではなかったのだ。あるワイドショー番組では,さっそく「記者発表が早すぎる。住民がパニックを起こすので(実際に小さな騒ぎはいくつかあったらしい),発表は専門家の調査を待ってからでもよかったのではないか。」という,とある「識者」の見解を紹介していた。昨日までさんざん,20km圏外にも高い汚染地域があることの公表が遅れたことを批判し,もっと早く情報を出していればもっと早く避難できていたはず,と怒っていた番組が,である。

  政府が早い段階で発表しなかったのはまさに(その適否は別にして),住民のパニックを懸念してのことだろう。すでに道路は避難する人たちでかなり渋滞していたらしいし。それを遅いと攻撃するのであれば,今回,住民の汚染不安をきちんと受けとめるために(通報したのは住民だったそうだから),素早く会見を開いた区長はほめられてもよさそうなものだが。まったく,見事な変わり身の早さだ。あるいは何も考えちゃいないのだろう。ただ行政を批判したいだけなのだ。

  おまけに,まだ不確かな原発事故由来説に乗っかって,いいかげんな現地リポートをでっち上げ,住民の不安をあおっていたのは自分たちではなかったのか。冷静に専門家の調査を待て,とでも言えばいいところを,わざわざ火に油を注ぐような報道を率先してしておきながら,そのことには目をつぶり,識者の口を借りて,発表した区長だけを悪者に仕立て上げる。困った人たちだ。

  放射能問題の報道を見るにつけて思うのは,どうもワイドショー番組の司会者たちは一様に冷静さを欠いているようだ。「大衆に迎合する」…というか,視聴者が多かれ少なかれ持っている不安の部分をことさら大きく取り上げ,感情的な発言を繰り返して,視聴者のダークサイドな感情をどんどん増強しようとしているように見える。きっと自分は視聴者の代弁者だ,視聴者が口に出せないホンネをあえて口に出すことで,視聴者の味方をしているのだ,と思い込んでいるのだろう。

  今回の“事件”でも,ある番組では,放射線の専門家(大学の先生)をスタジオに呼んでいろいろと話を聞いたあと,その先生が「放射線量は十分に低いし,常時浴びるわけでもないので,心配しなくていい」と,きちんと数字を挙げながら発言すると,司会者は「絶対大丈夫と言い切れますか」などと絡んでいた。で,確率論では放射性物質がある以上「絶対安全」などということはあり得ないので,「危険性はたしかにゼロではないが,気にするほどではない」と冷静に答えると,「ゼロではない」の部分にだけ反応して,やっぱり安全とはいえないじゃないか,最大限注意を払うに越したことはない,などとまとめていた。これでは,福島の製品はなんでも汚染されているから買うな,といった極端な自己防衛策を奨励するだけではないか。

  コメンテーターといわれる,威勢がよくてハッキリした意見の持ち主は,ある意味視聴者のホンネの代弁者という役割を期待されているのだろうし,いろいろと極端な意見を言う人がいるのは望ましいことだとも思うのだが,そうした発言を仕切らなければいけないはずの司会者が,それに輪をかけて感情的になっているのはいただけない。聞き手をパニックに陥れるような不確かで刺激的な発表はよくない,という先ほどの識者の意見は,ワイドショー番組にこそ向けられていると気づくべきではないだろうか。


11.09.08. 防災の日

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  9月1日,防災の日。たまたまNHKを見ていたら,これから総合防災訓練についての首相会見があるというので,画面が官邸記者会見場に切り替わった。おそらく菅首相最後のお仕事。東京湾北部を震源とする地震が起こったという想定で行われていること,被害状況や津波の情報(津波の心配はないという想定らしい),政府として対策を指示したことなどを矢継ぎ早に述べる中で,「通勤途中など自宅外で被災されたみなさん」と特に限定したメッセージが読み上げられたのにはちょっと驚いた。3.11で明らかになった首都圏の帰宅困難者の問題をよほど重視したのだろう。やけに具体的に,むやみに動くと危険だからどこか屋内に一時避難して指示を待て,と訴えている。

  意図はわからないでもないが,それを首相のメッセージとして出すことがいいのかどうかは疑問だ。菅首相の,あのけっして聞きとりやすいとはいえない話し方(これについては,私も他人のことをとやかく言える資格はないのだが)もそうだが,なにせ原稿がやはり「書き言葉」だ。一文が長すぎるし,言葉もまだ難しい。「集団転倒に巻き込まれたり,火災や沿道建物からの落下物等により負傷するおそれがある」などという説明は,目で見ればパッとわかるが,耳で聞いて理解するには不向きだ。とくに地震直後でパニックになりかけている人たちにとっては,ほとんど理解不能なのではないだろうか。首相も気にして,ゆっくり区切りながら読んでいたが。

  この点,TVのアナウンサーたちはしっかりしている。きわめて短い言葉で,繰り返し注意を促す。おそらくこちらの方が,動揺している人たちの頭にすんなり入っていくのではないだろうか。さらに,私がみた限りでは,NHKのアナウンサーたちは,視聴者が聞きとりにくいと思われるような単語が出てくると,必ず平易な言葉で補うということが習慣づいているように見える。これはよいことだ。たとえば同音異義語がたくさんある場合。熟語が何個も連続する長ったらしい名前の場合。震災直後に現地の状況を電話で確かめるときも,相手がうっかりふだんの役所用語を使って説明すると,すかさず「それはこういう意味ですね」と確認を入れる。これはわかりやすいと思う。被災した人たちへの具体的なメッセージは,こういうプロの人たちに任せた方がいい。

(それでも,さすがに記者会見での言葉はずいぶんとわかりやすくなっていたというべきなのだろう。夜になってニュースを見ていたら,関係閣僚が集まる会議での首相の挨拶では,「被害が著しく異常且つ激甚であり,総合的な災害応急対策(?)を効果的に実施する必要が認められる」んだそうだ。こりゃ,ただの早口言葉だね。)

  ところで,会見場に来ているメディアの人たちの後ろ姿を見ていると,みんなふつうにPCに携帯をつないで原稿を書いているように見えるのだが,想定しているのは首都直下型地震だとすると,現地は大規模な停電に見舞われ,電話回線もダウンしている可能性が高い。大丈夫なのだろうか,その取材方法で。

  官邸そのものはきっと非常用発電設備を持っているだろう。各種メディアの本社も,きっとしっかり防災対策をとっているのだろう。今回の震災でも,東北各地のTV局が元気に(という言い方はヘンだが)状況を伝え続けていたから,その辺はきっと心配ないのだろう。だが,原稿を自社に送るのはどうだ? こちらはさすがに一般回線ではないのか? 通信がダメなら人力頼りで,会見が終わったらすぐに自社に駆け戻る? せっかくの防災訓練。そこまできちんとシミュレーションしているところを見せてほしかったところだけど。ちなみに閣僚の人たちは,汗をかきかき徒歩で官邸に向かっていた。

  それで,ふと気になった。関係者が歩いて災害対策本部に集合しなければいけないような状況で,官邸に本部を置いてほんとうに大丈夫なのだろうかと。なにせ,被災地のまっただ中という可能性が高い。瓦礫の山というだけでなく,あたり一面火の海という可能性もある。火災現場に要人全員が集合,なんて事態にならないのだろうか。また情報収集という面で考えても,情報を送る側も被災地の中,受けとる側も被災地の中という状況である。官邸そのものは頑丈にできているとしても,周りとの通信・交通が相当に制限されるはず。本部に被害状況を報告しにいくのに,戦場の伝令よろしく決死の覚悟で出向かなきゃいけないとしたら悲惨だし,首相が被災地をヘリで視察,などというパフォーマンスも難しい。どこか被災地の外に本部を置かなくていいのだろうか,と素人の目には映るのだが,はたしてどうなのだろう。心配だ。


11.08.22. 食卓携帯

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  ケータイの話題が続いているついでだけど。

  最近,TVを見ていて愕然としたCMがある。某食品会社のCMである。

  食卓にケータイを置いて座った娘。両親と一緒に食事をはじめる。

  途中,娘のケータイが鳴り出す。見つめる両親。

  娘,ケータイに手を伸ばす。が,すぐにケータイを切って,食事を再開。大喜びの両親。

  いったいどうなっているのだろう,この風景は。最初,私には何が言いたいのかさっぱりわからなかった。ちょっと考えて,つまりケータイを切って食事を続けるくらい,その食品がおいしいと宣伝したいのだろう,とようやく理解した。

  理解はしたが,ちっとも納得はできない。昔だったら,全国PTAなんとか協議会みたいな組織が,すぐにクレームをつけていたのではないだろうか。だって,そもそも食事のしつけがまったくなっていない。「食べるのかメールを見るのかどっちかにしなさい!」と言って,ケータイを持たせないか,娘を食卓から追い出して食事を片づけるのが,食事のしつけってものではないのだろうか。

  いったいいつから,おいしい料理でご機嫌をうかがって,子どもに食事をとってもらわないといけなくなったのだろう。

  まったく悲しくなるCMである。


11.08.18. 制御不能

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  折も折(これは12日のひとりごとの続きです),新聞の,職場の不満を投稿し回答するコラムに,こんな投書が載った。会社の上司がTwitterをはじめたのだが,その内容が同僚の批判ばかりだというのである。たとえば,「会議で自分が発言したのに,誰それに反対されたせいでつぶれた」というようなつぶやきを繰り返しているらしく,社内の人間なら,会議の中身も出席者も一目瞭然だ,とその人は心配する。

  もっともな心配である。Twitterなどという舌足らずなメディアにはまったく興味がなかったのだが,「合コン事件」でにわか勉強してみると,その恐ろしさがよくわかる(もちろん,ほんの聞きかじりだから,ほんとの恐ろしさはきっとわかっていないのだが)

  それよりも問題なのは,この投書に対する回答者が,なんだかちっとも危機感がないというか,居酒屋での愚痴と同列にしか考えていないような回答だったことだ。書き出しこそ,Twitterの問題についてきちんと触れてはいるものの,後半は完全に居酒屋での愚痴の延長としか見ていない,いたってのんきな回答なのだ。

  もっとも,このコラム全体の基調が,「トラブルをあまり深刻にとらえすぎず,軽く受け流しましょう」「ヘンに正義漢ぶって正しい行動をとっても,あとで自分に被害が及んでは大変なので,そっとしておきましょう」という方向で,私もたいていの場合は,認知行動療法的にもサラリーマンの処世術的にも納得できるのだが,この問題に関しては,なにかズレている気がしてならないのだ。

  心配しないといけないのは,情報漏洩なのではないだろうか。レベルの低い悪口を並べ立てたのがもとで,その上司の立場が危うくなるのなら自業自得で済むが,たとえば重要な会議の内容がライバル社や取引先に知られたらどうなる? 誰がどういう主張をしているかわかってしまったらどうなる? あるいは投資家がそれを見たらどう判断する? あまりにも無防備ではないだろうか。

  もしかすると,そんなローカルな話題,身内しか興味を持たないだろうと高をくくっているのかも知れないが,ネット上の情報はほんとうに,どこで誰が見ているかわからない。居酒屋だって,衝立の後ろでライバル社の人たちが飲んでいて,聞き耳を立てている可能性がないわけではないが,ネット情報はその比ではない。しかも,何かあるとあっという間に広がっていく。とくに文字情報は,話し言葉とちがって記録される。投稿者がマズイと思って元記事を削除しても,その前に誰かがコピーし保存していたらアウトだ(これを「魚拓」というのだそうで,今回はじめて知った)。そこからまた広がっていく。簡単に制御不能に陥るのである。

  情報というものは,メディアが何であれ伝え手のフィルターがかかって伝達されるものだから,あちこち転送されていくうちに変質してしまいやすい。基本,個人発信であるソーシャルメディアでは,情報の信憑性さえアヤしかったりする。たとえば情報を中継している誰かの感想が,いつのまにかもとの情報発信者の意図と混同されて伝えられる,というのはよくあることだ。こうして伝言ゲームを繰り返す中で,もとの発信者の意図からかけ離れた内容やニュアンスが,瞬く間に広がっていってしまう。これが飲み屋の愚痴なら,尾ひれがついて周りに広まるより先に,情報の鮮度が落ちて誰も耳を貸さなくなるのだろうが。

  しかもTwitterである。情報はもともと断片的。一部だけを切り取られてヘンなふうに話が伝わっていく危険性は大いにある。

  まあ,よほど問題のある発言をしなければ,魚拓をとってまで広められることはないだろうが,私などが妄想するのは,そういうのを商売にする人たちが出てくるのではないかということである。企業内にある摩擦を嗅ぎつけ,詳細を調べ上げてライバル社に売り込む。対立している事柄について,誰がどっち派かまで調べてあれば,切り崩しを図るのにも都合がいい(経済ドラマの見過ぎ?)。Twitterでの悪口などは,格好の情報源になってしまうのではないかと心配するのである。コワイコワイ。


11.08.12. 理解不能

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  前から男子よりは早いだろうといわれていたが,まさかこんなに早く実現するとは思わなかった。説明するまでもないだろう。女子サッカー「なでしこJAPAN」のW杯優勝である。決勝前までは,おそらく「そんな大会知らない」程度の人がほとんどだろう。女子サッカーの存在自体,知っている人はどれくらいいたのだろうか。彼女たち「なでしこ」の名は,文字通り,一夜にして全国レベルで知られることとなった。もちろん,十分それに値する快挙であったわけだが。じつをいうと私も,グループリーグからすべての試合を生中継で観戦していたのだが,肝心の決勝戦だけは,親戚の結婚式に出かけていて見られなかった。帰宅してすぐに,録画放送に見入ったのはいうまでもない。

  その彼女たちが帰国してきた。「日本がこんなに盛り上がっているとは思わなかった」と彼女たちが驚くように,一躍有名人となった彼女たちはさっそく,例によってあっちこっちに引っぱり出されていた。朝から晩まであらゆる番組に顔を出しては,うんざりするような質問にそつなく応答し(サッカー選手だというのに,きっと聞き手がサッカーに興味がないのだろう,質問のほとんどがおしゃれだったり恋愛だったりするのは,なんとかしてくれないか),表敬訪問した首相のできの悪い冗談にも,疲れた笑顔で応じているのを見ると,「時差もあるだろうに,早く休ませてやれよ」とついつい言いたくなってしまうのだが,ある選手は,そんな過密日程をものともせず,なんとその夜には合コンに繰り出していたらしい。たしか帰国の翌日である。さすがに若者は疲れを知らない。おじさんの心配などまったく無用だった。

  ところが。その合コンで事件は起こった…らしい。ふだんであれば即スルーしていたであろう,120%どうでもいい事件なのではあるが,何か妙に引っかかったのは,けっして私がなでしこ戦士たちに入れ込んでいたからではなく,一般のメディアからの情報では,何があったのかさっぱり要領を得なかった(少なくとも最初の段階では)からである。某選手が「番組出演を急にキャンセルした」とか「監督批判を謝罪した」とか,ほんの短いニュースとして語られてはいるのだが,そのわりに番組のコメンテーターが,いかにもいわくありげにコメントしていたりして,どうにも歯切れが悪かったのだ。

  それで,真夜中に思い立って検索をかけてみた(とはいっても,真夜中はいつもPCを開いている時間帯なのだが)。そうしたらまあ,出てくるわ出てくるわ,おびただしい数の“情報”がネット上では駆け巡っていたのだ。なるほど,こりゃあまともなメディアが詳細を報じるべき事件ではない,というのはよくわかった。一般人が絡んでいるし犯罪というわけでもないから,ヘンに騒ぎ立てて,関係者が迷惑を被るようなことがあっては大変だ,という配慮もあったのかも知れない。

  あらましをいえば,合コンの中でのその選手の一挙手一投足が,相手の男のTwitterによって生中継され,筒抜けになっていたらしい。監督批判というのも,その男が「今,監督批判をしている」とおもしろおかしく実況中継しただけで,具体的な中身が問題になっているわけではないようだ。ご丁寧にもメダルを持った写真まで載っていたこともあり,「これはホンモノだ」ということで一気にその情報が世間に広まってしまった,ということらしい。

  にしても,どこまでもろくでもない男である。プライベートな場であるはずの合コンでの相手の発言を,ホイホイ他人に漏らして何がうれしいのだ? しかもTwitterである。リアルタイムに不特定多数の人たちに逐一漏らして楽しんでいるとなると,いったいこの男は誰と合コンしたかったのだろうかと,疑わざるを得ない。目の前にいる生身の女性とか? それともTwitterの向こうで実況を楽しみに待っている不特定多数の人たちとか? まったくもって,私の頭では理解の限界を遙かに超えている。ただ有名人と一緒に飲んでいることを,周囲に自慢したいだけだったのではないだろうか。所有物や知人などという周辺的なものにもとづいて自己評価を高めようとするのは,自己評価の発達でいえば,きわめて幼稚なレベルではあるけれど。

  あれ,待てよ。と,急に別の考えが頭の中で回り出す。まさかとは思うが,これってイマドキの合コンのデフォルトなのではあるまいね。以前書いた「ひとりごと」を思い出して背筋が寒くなった。合コンしながら,じつはみんな机の下でケータイをいじって,おもしろそうなニュースを眺めている…だけでは足りなくて,こっちからニュースのネタを提供しようとTwitterに精を出す…なんてことが普通になってきたとしたら,これは大問題だ。なにしろ,私が学生のころに流行っていたプロクセミックスなどという理論も,日本人の特徴といわれているウチとソトの使い分けも,木っ端微塵に砕け散ってしまうからである。

  人は相手との距離に応じて親密感や言動が変わる,というのがプロクセミックスの基本的な考え方だ。距離の離れた聴衆に向けたコミュニケーションは,しぐさや表情などの微妙なニュアンスが伝わりにくいので言葉そのものが中心になり,公的で論理的・理性的な発言が多くなる。一方,距離が近い場合は,声の抑揚や表情・しぐさといった非言語情報が大きな役割を占め,個人的で親密なコミュニケーションが行われやすい。

  だから,飲み会というのは,あえて居酒屋の手狭な空間に人を詰め込むことに意味がある。わざとふだんより距離を近づけることで親密感を演出し,腹を割って話してもらおう,ひいてはほんとにお互い同士仲良くなってもらおう,という策略なのだ。ついでに「お酒」という魔法の偽薬も演出する。多少ハメを外したとしても,それが相手に気に入られればシメたもの。失敗しても,そこはお酒のせいにして,翌日は後腐れなく忘れることができる(私は大嫌いだけれど)。それが飲み会というものであり,互いに間近で顔をつきあわせ,互いに暗黙のルールを確認しあえるからこそ,それが可能になる。(まあ合コンともなれば,いろんな思惑が絡んで自分の言動を計算するだろうから,そんなに単純にホンネを打ち明けるとは思えないが,ウソも誇張も場違いな自己開示も全部ひっくるめて受け流すのが,暗黙の了解だろう。)

  そこに「Twitter漏らし」が出てきたらどうなるか。自分の言動がケータイの向こうにいる見知らぬ人たちに筒抜けになっていると思えば,聴衆との距離は無限大に遠ざかる。親密感はゼロ。そしたらみんな,きっと当たり障りのない応答以外は口を閉ざすだろう。それか,よそいきの言葉で,心にもない「正論」を吐くだけだろう。せっかく顔をつきあわせて飲んでいるのに,駅前の雑踏の中で通行人に向けてスピーチをしているような会話しかできなくなってしまうのだ。そんな会の,いったいどこが楽しいのか。少なくとも,参加者同士がより親密になるなんてことは,まずあり得ない……

…… はずなんだけど,「いやいや,合コンなんてそんなものです。場が盛りあがればいいんです。誰ももっと仲良くなりたいなんて思ってませんから。」なんてサラッと言われそうだなあ。どうなんでしょう,ほんとのところは。まあ,この男個人の問題だとしても,イマドキの若者全体の傾向だとしても,どっちにしたっておじさんには理解できない行動ではある。


11.08.10. 増えたり減ったり

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  授業の受講生数って,意外に毎年増減が激しい。各年度の入学者数はほぼ一定だし,うちの場合,免許関連の科目がぎっしり詰まっている関係で,ほとんどの学生が標準履修年次通りに履修しているから,そうそう年によって人の変動がありそうには思えないのだが,なぜか毎年受講生の数が読めないのである。

  何か問題を起こして評判を落とし,以来受講生が減少の一途,というのならわかる。すばらしい内容が噂となり受講生が増加の一途(私の授業ではあり得ないけれど),というのもわかる。上がったり下がったり,いつまでたっても落ち着かないのが,どうにもわからない。

  今年,私がメインで担当している2つの授業,すなわち大学院の「学習心理学特論」と学部の「学習心理学」が,そろって受講生大幅減という事態に陥った。特に学部の授業は,前年度は過去最高に迫る受講生数で,それまでずっと続けてきた,毎時間,質問を書いてもらってその回答をコピーして全員に配るという,この授業オリジナルでやっているサービスを維持できるかどうか冷や汗をかいたばかりだというのに,本年度は一転して過去最低レベル。学部生向けにはもう一つ「授業の心理学」という講義もやっていて,こっちはかなりアドバンストな内容と,月曜午前という開設時間帯のために,例年少数しか学生が集まらないのだが,今年は開設以来はじめて,この授業の受講生数が「学習心理学」を超えた。いったい全体どういうわけだ? ちっとも理由がわからな…。

  いや今年に限っていえば,理由は大アリだ。たぶんだが。

  大学院と学部,2つの授業に共通していて,授業の評判を落とすきっかけとなった(であろう)昨年度の出来事というと,思い当たるのは配付資料だ。昨年度から,PowerPointの印刷資料など,授業で使う各種資料はすべて学内のネット上にあげている。以前はこちらで印刷して授業のはじめに配っていたのだが,これがけっこう作成にも配付にも時間がかかる。昨年度のように人数が多ければなおさらである。

  おまけに,意外に欠席者が多いため必要部数が予想しにくく,結果的にいつも大量の残部が出てしまう。PowerPointの資料となると,A4判で毎回6枚平均だから,残部とはいえバカにならない枚数である。変更がないなら次年度に配付すれば済むが,けっこう毎年細かいところをちまちま修正しているので,前年度からまったく変わっていない授業は5回にも達しないくらいだろう。けっきょく残部は無駄になるのである。

  そんなわけで,資料は受講生自身に印刷してもらうことにした。しかしこれは,学生にとっては当然ながら負担だろう。なにしろ,さして面白みのない授業である。毎週1時間黙って聴いているだけでも苦痛だろうに(ひたすら教員のしゃべりを聞かされるだけの授業だから)。そのうえ,授業時間外にまで毎週作業をさせられると聞いたら,とる気が失せるのもしかたがあるまい。今年受講生が激減したのは,おそらくそんなところが原因なのではないかと私は踏んでいるのだが,どうだろう?

  ちょっと探りを入れてみようと,前期の大学院の授業では,最後に資料提示のしかたに関して簡単なアンケート調査を実施してみた。結果は8月末にまとまるはずだ。どんな結果が出てくるか,ちょっと楽しみである。まあ,最後まで出席してくれた人に聞いても,何もわからないかも知れないのだが,まあ,どんな結果が出てくるか,集計を楽しみに待っていることにしよう(アンケートはレボート提出と連動しているので,見るタイミングによっては,匿名可にしても誰の回答なのか推測できてしまう可能性もあるから,念のため,途中経過をのぞき見るのは自粛しているのだ)。


11.07.12. 泥箱

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  Dropboxという無料のファイルストレージサービスを,春から利用している。用途は授業の資料づくり限定。いろいろなサービスを比較したわけではないが,使ってみた範囲でいえば,なかなか使えるサービスだ。ちなみに,ネットの世界では妙な略称がつけられることが多いが,これは「泥箱」と略すらしい。どれだけ広く用いられているのかは知らないが。

  最近,外部のサーバにデータを蓄積して,PCのバックアップをとったり,複数のPCやモバイル端末でデータを同期・共有しようという考え方が急速に普及している。大きくくくれば,クラウド・コンピューティングの一種といえるだろうか(クラウドの本流はデータだけでなくソフトウエアも外部サーバに置いて一元的に管理し,ユーザはソフトもデータもその都度ダウンロードして使う,言い方を変えればユーザはブラウザさえあれば仕事ができる,というような環境なのだろうが)。写真や動画の公開・共有は,たぶん最も浸透しているサービスだ。

  私の場合,共有したい写真があるわけでもなく,このテのサービスには縁遠かったのだが,唯一必要性を強く感じていたのが,授業の資料づくりだ。現在,授業の準備は研究室と自宅と2ヵ所で行っている。さらに,研究室の中でも,資料づくりに使うのは大きなモニタのついたデスクトップだが,実際に教室で使うのは持ち運びに便利な軽量モバイル。つまり,最低3台のマシンでデータをやりとりしないといけない。はじめは,USBメモリを抜き差ししてデータを持ち運んでいたが,これがまたよく忘れる。帰宅途中で寄り道をする機会はめったにないので,他所に置き忘れて個人情報流出で大騒ぎになる,というような心配はまずないが,研究室にも自宅にも,よく置き忘れる。翌日大学に出てきてみると,前日カバンを置いておいたすぐわきに,USBメモリがポツンと転がっていることはざら。「持って帰らなくちゃ」とまでは思って準備していたはずなのだが,いざ帰ろうとするころには,すっかり忘れているのだ。

  次に導入したのが,有料の(といってもかなり安い)ファイルストレージサービス。これは,一定時間ごとに自動で同期してくれるので手間が省けるのだが,あまり頻繁に動作されてもうっとうしいので,同期の間隔を30分とか1時間とかに設定する。すると,たとえば大学での仕事を終えて帰宅しようとしたときには,最後に保存した最新データは自動では同期されないので,手動で同期を指示することになる。アイコンをクリックするだけの,手間とは言えないくらいの手間なのだが,これがまたよく忘れる。データをPCに保存してソフトを終了した時点で,頭の中はもう仕事モードから帰宅モードに切り替わっているから,新たにデータ同期のためのソフトを起動して…,という方向には,なかなか目が向かないのである。おまけに,サーバと接続を確立するまでの時間が,なぜか異常に長い。ヘタすると,まだサーバの応答待ちなのに,間違って電源を落としてしまうこともあって,便利さ半分,不便さ半分という中途半端な評価だったのだ。

  Dropboxは,専用のフォルダ(専用とはいっても,サブフォルダは自由に作れるので,実質マイドキュメントと変わらない)にユーザがデータを保存した段階で,ほぼ同時にサーバに同期データを送ってくれる。同期をユーザが指示する必要はまったくない。転送の速度も,少なくとも私が使っている1~2Mbyteクラスのファイルなら申しぶんない。授業の直前にデスクトップと教室持ちこみ用モバイルを同時に立ち上げていると,デスクトップに保存してまもなく,モバイルの画面に「データを更新した」旨のメッセージが表示される。これはお気楽に使えてうれしい。

  Dropboxの場合,フリーで利用できるのは2Gbyteまで。写真や動画を頻繁にやりとりするなら,この容量は十分ではないかも知れないが,授業データ(主にPowerPointのデータ)だけならかなり余裕がある。私の場合,年間で作成する授業資料は,全部の授業を合わせて300Mbyteに収まる。実際は前期と後期で入れ替えているので(終わった授業のデータは同期する必要がないので,保存用のスペースに移動してリードオンリー属性をかけてしまう)もっと余裕がある。さらに,以前はモバイルPCがPowerPoint2003搭載だったのだが,すべて2007に統一したので(以前書いたように2010からダウングレードしたマシンも),2007以降の形式で保存できるようになった。これがまただいぶファイル容量の節約につながっている。

  保存と同時に同期…となるとひとつ心配になるのは,間違ってヘンなファイルを元ファイルに上書きしてしまった場合である。これも私は意外によく経験する。たとえば昨年度のファイルを開きながら今年度用ファイルの修正を行うとき,昨年度のファイルから一部の図だけ取り込みたかったりする。このとき,コピー&ペーストのつもりがうっかりカット&ペースト(元データを切り取ってしまった)になったりするのだが,最後に修正を終えて終了しようとすると,「更新したファイルが保存されていない」という警告が出てくる。ここでまたうっかり,これは今年度のファイルを保存し忘れたのだと錯覚して「保存しますか?」に対して「YES」と答えてしまうと,一部の図が抜けた昨年度のファイルが上書きされてしまうのである(今は,過去のファイルにはすべてリードオンリー属性をかけているので,間違った上書きの心配はなくなったが)。Dropboxでは,ファイル更新の履歴が保存されているので,間違って上書きしたファイルを元に戻すことができるようになっている。これは安心。

  セキュリティに関しても,きちんと暗号化しながらデータのやりとりをしているらしいのだが,ここはちょっとわれわれ素人にはよくわからないし,フリーのサービスともなると万が一の場合の補償は期待できないだろうから,とりあえず,個人情報などアブナイデータのアップはオススメしない。私も授業データ限定。(授業データも,授業の範囲内で許可されているコピーや顔写真などをネット上に出しているわけだから,厳密に言えばアブナイデータではある。)

  こんな感じなので,学生のレポートや論文原稿の保存には,けっこう使えそうな気がするがどうだろう。たとえば,家で必死に作成して大学で印刷する,というようなイメージ。昨年の授業で,レポートは書いたのだが大学で印刷しようと思ってUSBメモリに入れて持ってきたら,途中で落っことして物理的に壊れてしまったと,ひとりの学生が訴えてきた。ファイルストレージサービスを使えば,そういう不可抗力なトラブルの心配は,だいぶ少なくなるはず。(まあ,そういうトラブルを提出遅れの言い訳に使えなくなるということでもあるのだが)


11.07.06. 震災後 (2)

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  そんな中で,今ちょっと気になっていることがある。

  先ごろ行われたイタリアの国民投票で,脱原発(というか,すでに過去に全廃した原発を復活させないということだそうだ)を支持する票が95%に迫るという圧倒的な差となり,原発復活の方針を推進してきた首相も敗北宣言をせざるを得なかったそうだ。なんでも,投票率が50%を超えないと投票自体が無効となり,ここのところ何度か不成立が続いていて今度も不成立になるとの予測もあったそうで,投票が成立したこと自体に関心の高さがうかがわれるという。ドイツの原発廃止方針などとともに,「フクシマ後」の具体的な変化のひとつであることはたしかだろう。

  私ももちろん,そのことは大いに歓迎するのであるが,ちょっと引っかかるのはその先である。ニュースの聞きかじりでしかないが,どうもイタリアは現在,原発を推進する近隣国(主にフランス?)から電力を輸入しているとのことで,それは維持されるらしい。これってつまり,東電を巡る首都圏と福島(新潟も!)との関係と同じことになるのだが,それでいいのだろうか。原発は危険だからと,国内では原発をつくらせないが,よその国で稼働している原発から電力を得るのはOKだと。脱原発とはいっても,なんだか虫のいい話に聞こえないだろうか,ということである。(そういえば,イタリアの前にいち早く脱原発を宣言したドイツはどうなのだろう? 自然エネルギーを大幅に推進する方針だというのはたしか大きく報道されていたが。)

  今のところフランスは原発を推進しているのだから,べつにやましいところがあるわけではない。フランスが原発による電力を大切な輸出商品と考えている限り,よその人間が口を出す余地はない。日本でも,首都圏の電力を供給するために新潟や福島がリスクを負うのはおかしいという意見に対して,原発を誘致した地域も,多額の交付金や雇用確保の面でそれなりに潤っていたのだから,という指摘があった。報道でも,今原発が廃炉になったら周辺自治体の中には立ち行かないところも出てくるのでは,ともいわれている。けっして喜んで名乗りを上げたのではないにしろ,一定の利益を受けてきたという側面は否定できないだろう。

  しかし,今度の原発事故で福島の人たちが身にしみて感じているのは,いざ事故が起こったときの首都圏の人たちの「冷たさ」ではなかったか。人といい車といい農作物といい,福島と名前がついただけで何もかもが汚染されている,即刻排除すべきだ,近づくなといわんばかりの対応をあちこちで見せつけられて,福島の人たちはどう感じただろうか。いや,福島の人たちにかこつけてはいけない。私自身が,どうにも割り切れないモヤモヤを抱えているのだ。自分たちがリスクを背負って生産した電力を享受してきたはずの相手から,差別されなければならないという現実に。なにも日ごろから感謝してほしいなどと思っているわけではないが,せめて事故が起きたときくらいは,自分が受けてきた恩恵に思いを致して,被害に遭った人たちをいたわってくれてもよさそうなものだと思うのだが。

  ましてや国と国との関係ともなれば,もっとずっとドライだろう。事故が起きれば輸入を止めて,ハイおしまい,あとは関係ありません,てなもんだろう。ほんとうにそれでいいのかなあと。

  まあ,そもそもその問題は今回の国民投票の範囲外なのだから,何もなければ現状維持なのはしかたがない。この段階で配慮せよというのはそうとう無理やりな話だ。それは重々わかったうえで,それでもどこか引っかかるのである。

  一方で,ヨーロッパでは送電網が張り巡らされていて,広域的に電力の融通がしやすい環境が整っているというのは,狭い国内でさえほぼ完全に東西2つに分断されている我が国と比べると,何ともうらやましい話である。自然エネルギーは天候に左右されやすく不安定という欠点が指摘されているが,広い範囲で相互に補いあえれば,もしかすると,その欠点もかなりの程度カバーできるかもしれないではないか。北アフリカに広大な太陽光発電施設をつくってヨーロッパに送る計画などを聞くと,ほんとうにうらやましくなる。なにせ,うちの大学にも太陽光発電パネルが設置されているのだが,真冬の積雪期はほとんど休眠状態で,発電量を知らせるモニタ画面には,むなしく「ただいまの発電量0」の文字が映し出されるという(当然,別の電力を消費して),ちょっとシュールな状況があるわけで…。


11.07.01. 震災後 (1)

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  「震災後」とか「フクシマ後」という言葉を,このところよく目にする。昔,“戦後”という言葉で象徴される時代があったように,これからの時代は“震災後”と呼ばれるだろうとまで言っている人もいるくらいで,今回の震災がもたらした(そして,今後もたらすであろう)インパクトの大きさと広さは,ひとつの事故として片づけるにはあまりに膨大かつ深刻だ。まさに時代を画す事件として記憶に残っていくのだろう。直接的に被害を受けた地域が広範囲にわたるだけでなく,放射能の問題や電力不足の問題,農作物や水産品の生産・流通の問題,観光客の流れの変化など,日本全国,影響の及ばなかった地域はないくらいだ。きっと昔だったら,厄払いのために元号くらいは変えていたのではないだろうか。もしかしたらさらに,都も移していたかも。

  連日連夜,TV番組のほとんどを報道特番が占め,もちろんそのほとんどを震災関連のトピックが占める,というような日々がほぼ1ヵ月の間続いた。しかし,それでも追いつかないほど,いろんな領域でいろんな問題が次から次へと起こり,またひとつの問題についての評価をガラリと変えるような新たな事実や情報が毎日のように報道されて,ほんとうにこの短い間に,頭の中が右へ左へ上へ下へ大きく揺さぶられる思いだった。おかげで,思うに任せて考えをメモしておくところからはじまるこの「ひとりごと」も,翌日には新しい情報が入って修正が必要となり,それがまた翌日の情報で覆され,の繰り返しで,なかなか完成版までこぎつけないでいるうちに,そのテーマ自体,書く気が失せるという明らかな負のスパイラル。結果,未完成のメモ書きすら,きれいさっぱり残っていないという珍しい状態が続いている。

  たとえば。

  専門家といわれる人たちでさえ,口をそろえて想定外だといっている津波が,原発事故のそもそもの原因という当初の説明に対して,ある人が「こと原発に関する限り,『想定外』などという事態があってはならない」と主張していたのだが,それはまあ「べき論」としては反論のしようがないくらい正論だが,現実問題としては,すべての事態を想定して完璧に防御するのは限界があるだろう,と書こうとしていた。それこそミサイルが降ってきても大丈夫なくらいの堅固な施設を作ったとして,その費用負担のために電気料金が何倍にも跳ね上がったら,それはそれで批判が噴出するにちがいない。結果を知っている人が,予防的対策の不備を批判するのはたやすい。究極の後出しジャンケンなのだ。

  ところが,どうやら事故の発端である全電源喪失という事態を招いたのは,津波ではなく,電気を引き込んでいる送電線の鉄塔が,地震によって倒壊したためであるらしい。となると,話はずいぶん変わってくる。地震本体に関しては,想定を遙かに超える規模とは言いにくいからである(最大クラスではあったと思うが)。鉄塔の強度に問題はなかったのか,電源を取り入れる経路を複数用意しておくべきではなかったのかなど,素人目にはいくつもの疑問が浮かんでくる。

  もう少し詳しい情報を集めてみようと思うまもなく,また新たな情報が入ってきた。電源喪失の際は電源車が出てカバーすることになっていたらしいのだが,瓦礫が散乱していて思うように電源車が原子炉に近づけなかったのだそうな。こうなると,また話が違ってくる。これは中越沖地震のとき,同じ東電の柏崎原発ですでに経験済みのはず。あのときは,道路の崩壊で消防車が原発の火災現場に近づけなかった。だとすれば,これは当然「想定内」,どころか,このような事態に陥ることを「前提」に,防災体制を考えておかなければならなかったはずだ。

  これもまた,もっときちんと情報を確認してからでないと書けないのだが,こうなってくると,もうそろそろいいかげん面倒になる。だいたいまず,最初の「想定外という言い訳は可能か」という問題は,もうどこかに消えてしまっているから,修正とか追加では収まらず,何を書きたかったのか自体がわからなくなってくる。しょうがないのでゴミ箱送り。そんなこんなで,私も震災後いろいろと考えるところはあったのだが,けっきょくはひとつも日の目を見ないままにボツ…。ほんと,震災後は簡単にものが言えなくなった。いろいろな立場の人たちのいろいろな意見が,どれももっともに聞こえてきて,何も言えなくなるのだ。これも「震災後」の変化のひとつだろうか。

  ちなみに,心理学的にというか,人間工学的に考えるならば,「想定外」という事態を完全につぶすことはそもそも無理なので,想定外の事態は必ず起きるものだという前提に立つことになると思う。そのうえで,そうした事態に陥ったときにあわてないように,どのように対処するか,誰が情報を集約し,誰が対策を練り,誰が責任を持って決定を下すかという,体制づくりと動き方の訓練が重要,ということになるだろう(あまり詳しくないので,たぶん)。今回も,「想定外」の出来事がたて続けに起こったために,早い段階から対応マニュアルは使えなくなっていたという話だ。そんなときに,いちいち本社に判断を仰いでいては対応が遅れるし,かといって各現場ごとバラバラに判断していては混乱するだけだ。一人ひとりがどう動いたらいいかを日頃から考えておき,シミュレーションを繰り返しておく必要があるのだろう。

  原発事故への対応とはかなり性格が異なるが,今回,東京ディズニーランドの震災対応がすばらしかったと評判になっている。報道番組でみた限りでは,たしかにこれは,徹底した訓練のおかげであるとともに,社員の(9割がバイトだそうだ)意識づけを高めるユニークなやり方の成果といえそうだ。そのやり方は,すべてのケースを想定した分厚いマニュアルとは対極的な,ごくごくシンプルな行動規準だけなのだそうで,あとは一人ひとりに判断を任せている,というのは動機づけ論から見てもなかなか魅力的だ,…なんてことを,「想定外」と絡めて書くつもりで,最初のころはいたのだけれども…。