ひとりごと

保存箱 2012.01-06

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12.06.20. 男は立ち去り男性は重傷

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  このところ,通り魔事件が相次いでいるが,そのニュースを見ていて,ヘンなところに気がついた。ひととおり事件の概要が説明されたあと,「男性は全治○○の大けがを負ったが,命に別状はないとのこと。男はその場を立ち去ったため,警察が行方を追っている―。」というようなアナウンスとテロップが流れてきたのである。

  おわかりだろうか。「男」と「男性」の使い分け。とくに犯人とも被害者とも言っていない。「被害者の男性は」ではなく,たんに「男は」「男性は」,だけである。暗黙のうちに「男=犯人」,「男性=被害者」と言い代えられていて,視聴者の側もなんとなくそれで理解できてしまうのだ。考えてみると,おかしな話だ。今まで気づかなかったが,前からこうだったのだろうか。

  気になり出すと,なんだかとても気になってくる。他のチャンネルを見てみたら,やはり同じ表現が見られた。一方で「犯人は」,「被害者の会社員は」と言っている番組もあるので,とくにそういうきまりというわけでもなさそうだ。先日起こった高校生同士の傷害事件の新聞記事では,なんと「“女子生徒”が同級生の“少女”に刺された」ことになっている。いったいなぜ犯人は少女で,被害者は女子生徒でなければいけないのだろうか。同級生だというのに。

  ただこれに関しては,モヤモヤとした違和感があるだけで,明快に反論できるわけではない。とりあえず,メモ代わりに書いておくことにしよう。

  「男は」「女は」と連呼されるのは,なんだか「か・ぜ・の・な・か・の・す~ばるぅ~」が聞こえてきそうで気持ちが悪い,というのが根底にはある。あの番組も,ナレーションでの女性の役割がステレオタイプだと批判されていた。男は第一線で仕事をし,女は家庭を守るというステレオタイプである。被害者が男か女かで,かわいそうさがちがってくるわけでもあるまいに,事件の関係者を呼ぶのに,なぜ,ことさら男性・女性の別を強調しないといけないのだろうか。(断っておくが,事件の説明では必ず一度は加害者と被害者の属性について触れている。その1回で十分なのではないか,ということである。)

  まあ,性別の連呼だけならそんなに気にすることもないのだが,「男は・男性は」,「女子生徒は・少女は」という,この妙な使い分けはいったい何だ。本来,たんに性別を表す言葉を,わざわざ「男は」「男性は」と使い分けて,そこに明確な差別意識を持ちこんでいるわけであり,表現が間接的な分,かえってそこに強い悪意を感じてしまうのだ。なんだか,直接的な表現を避けて配慮しているように見えて,じつはとても横暴な報道のような気がしてしょうがない。

  「犯人は」「被害者は」ではいけないのだろうか(高校生の場合なら,たとえば「加害者の生徒」「被害者の生徒」とか…,長いか)。もしかするとこれらの呼称は,衝撃度が強すぎると考えられているのだろうか。犯人も被害者も,事実にもとづいた“客観的”な呼び方だと思うのだが。いずれにせよ,性別を表すだけの中性的な言葉に,妙な差別的価値観を詰め込むのはやめてもらいたい。


12.06.11. 読ませる広告

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  大学院説明会のため東京出張。なんだか久々の東京だ,と思ってよくよく思い出してみたら,前回来たのは一昨年の同じ説明会。ちょうど2年ぶりだった。ずいぶんと間が空いてしまったものだ。たしか,その夏早稲田での学会は大学院の入試と重なって不参加,翌春の学芸大での学会は,直前に例の震災が起こって学会自体がキャンセルになった。その後は学会も地方開催が続いていたりして,すっかり出て来る機会を失っていたのだ。

  さすがに2年も見ていないと,あちこち風景が変わっている。上野で地下に潜る直前にスカイツリーが見えることや,東京駅の丸の内側がいよいよ姿を現したことはもちろん大きな変化だが,歩き慣れた通りでも,お店が新しくできたりなくなっていたりで,街の表情が微妙にちがっていて,あれ?と思ってしまう。

  おっと,東京を「歩き慣れた」と表現するのはちょっとおこがましい。ただ,今回の会場はサンシャイン文化会館。定宿にしている池袋界隈だ。途中立ち寄ったお茶の水も,学生時代からよく通っていたところなので,こんなふうに感じるのだろう。

  慣れているといえば,電車の窓からぼおっと眺める線路脇の看板も,その地に縁のある病院とか学校とか,昔からちっとも変わらない風情で立っているのを見ると,なんだかホッとするのだが,今回はけっこう,広告の入っていない真っ白い看板が目立っていた。これも長引く不況の影響なのだろうか。

  そんな中で,いい広告を見つけた。上野から池袋に向かう山手線内のどこかの駅だ。ふと見ると,珍しく文字だけの看板が見える。白地に黒文字といういたってシンプルなデザイン。「負けるもんか。」というコピーだけが太く大きく書いてある。読んでみて思い出した。これは春からTVでも放映されているホンダの広告だ。TVCMでは,歴代のホンダの特徴ある車やバイクが次々と映し出され,最後に新しいNSXがシュインと走り出す,あれだ。

  あらためてコピーを読んでみると,これがなかなかいい。おじさん心をくすぐるというか,われわれ世代のDNAに刻み込まれた何かを共振させる力を持っている。なにより,読んでいると本田宗一郎さんのつなぎ姿の笑顔が頭に浮かんでくる。

  リンクを張ろうと思ってホンダのHPを見に行ったのだが,TVCMの動画はあったが,文字広告は残念ながら探し出せなかった。さすがに企業の広告を文字に起こして紹介するのもためらわれるので(一般の人のBlogにはいくつか写真が掲載されているようなので,よかったらそちらを見てください),ざっと要約すると,

“がんばっていればいつか報われる,なんてのは幻想で,たいてい努力は報われない。けれど,スタートはそこからだ。新しいことをやれば,必ずしくじる。腹が立つ。だから,寝る時間,食う時間を惜しんで,何度でもやる。さあ、きのうまでの自分を超えろ。…”

ということで,最後の「負けるもんか。」につながっていくのだ。

  TVCMに出てくる車は,どれもホンダらしい個性的な車ばかりで,それがナレーションの説得力を高めているのだが,一方,看板の文字だけの広告は言葉だけでぐいぐい迫ってくる。これがなかなか心地よい。ついつい見入ってしまったのは,文字を見つけると反射的に読んでしまう職業病のせいばかりではないだろう。

  近年,「がんばれと言うな」などと言われるようになって,「がんばる」とか「必死になる」という価値観が死滅しかかっているのだが,ここでの「寝る時間,食う時間を惜しんで」やるというのは,けっして悲壮な覚悟で過剰労働しているわけではなくて,そういう作業プロセスがおもしろくてしかたがない,あるいは職人としてのプライドが体を突き動かす,といった種類のものだろう。がんばりどころは本来,そんなところにあるはずなのだ。

  こういうストレートな言葉が,今の若者たちにどれだけ響くかはわからないが,とりあえず震災後,こういうストレートで強いメッセージが増えてきているのは,私にとってはうれしいかぎりだ。

(まあ,センスのいい広告だけではなく,なかには私でも恥ずかしくなるベタベタな広告もあるけれど)。


  ところで,最新流行モノにふれたくて東京に行ったわけではないのだが,期せずしてこの春流行のホットなトレンドに遭遇してしまった。「局所的豪雨」である。立ち寄った書店から駅まで,せいぜい500mくらいの距離だったのだが,みごとにつかまってしまった。建物から出るとき,すでにパラパラ来てはいたのだが,短い距離だから大丈夫だろうと出たのが失敗だった。(地元?の人たちは慣れたもので,早々にお店の軒先に避難をはじめていた。それには気づいていたのだけれど…。)

  ほんとうに,1歩踏み出すごとにどんどん雨脚が強くなる感じ。夏の夕立の激しいのを早送りで見ているような具合だ。地面がすべて舗装されているせいか,みるみるうちに道路に水があがってくる。水をはね上げてしまうので,うかつに走れない。

  折りたたみ傘をさしてはいたのだが,濡れずにすんだのは胸から上くらいで,あとはすっかりぐしょぐしょ。駅にたどり着いてみると,しずくがポタポタ落ちる。きっと服を脱いで絞ったら大量の水が出てきただろう。幸い,靴はかろうじて防水が効いていたので,ひどいことにはならなかったが。

  当然,電車に乗っても座るわけにはいかず,なるべく人から離れて立っていた。蒸し暑い日だったが,濡れた体にはエアコンの冷気がこたえる。おまけに,電車が駅を発つ頃には雨はすっかり上がっていて,これがまたよけいに腹が立つ。

  負けるもんか。


12.04.26. facebookデビュー

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    … 前回からの続きです …

  今回のHP改訂の目玉は,facebookへの展開だ。これは,提案したのは私だが,私自身はこの歳で新たにお友だちを作りたいわけでもないので,SNSはまったくの素人。幸い手を挙げてくれた若い人に開設も運営もお任せしている。

  話のきっかけは,私が受けとったあるスパムメールだ。

  私のところに,業者から「HP作成を代行します」というスパムが,けっこう頻繁に入ってくる。う~ん,お前の作るページはヘボいからなんとかしろ,ってケンカ売ってるのか? …と思って,ふだんは即ゴミ箱送りに設定しているのだが,何かの拍子にゴミ箱の中のそのメールをクリックしてしまった。すると,メールの後半には,HPだけでなくfacebookページ(facebookの企業向けサービス?)も作ります,と書いてあるのが目にとまった。「今や facebook は大学生の必須アイテム」などという売り文句も。だから受験生獲得にもゼミの運営にも効果が高いのだと,メールは語りかけてくる。

  そういえば,ちょっと前には,企業が就活にSNSを積極的に活用しているという新聞記事を目にしていた。その記事でも,企業の採用情報を手に入れるのに,学生にとってSNSが手放せない存在になっている,というようにまとめていたように思う。そのときは,まったく別の世界の話で,へえ,そうなんだ,くらいで終わっていたのだが,それが,突然このスパムメールと結びついた(Kohlerの洞察学習です)。

  大学生が就活に活用しているのなら,そこに入り込まない手はないではないか。

  私のように“何かの拍子に”うちのページにたどり着くことがあるかもしれないし,友だちつながりでどんどん(まではいかないだろうが)情報が広がっていくかもしれないではないか。HPのようにわざわざ毎回意図して見に行かなくても,一度「いいね」しておけば,新しい情報は勝手に入ってくるというしくみも,なんとなくよさげだ。

  で,ちょっと勉強してみた。だいたいの雰囲気はわかったが,やはり実感としてピンとこないところも少なくなく,自分ではじめるには少し荷が重い。ということで,科目群の会議に提案し,幸い若い人が引き受けてくれ,あっという間に開設してくれたというわけだ。

  もちろん,開設して,めでたしめでたしで終わるわけではない。むしろそのあとの情報発信が問題だ。HPでも,いっこうに更新されないページはかえって逆効果だが,facebookの場合は,たぶんもっと頻繁な情報発信か必要だろう。それも,「いいね」の数がけっこう影響力を持っているようだから(これについてはちょっと違和感もあるのだが,それはまた別に書こう),何でも書けばいいというものではなさそうだ。

  受験生確保のための宣伝目的という大きな使命を抱えてはいるが,中心は現在在籍している教員と院生とのコミュニケーション・チャネルの一つとしての運用だろう。それを公開することで,外部の人たちにも,雰囲気を感じてもらえばいいのではないかと思う。まだ始まったばかりなので,どこまで大きなチャネルになれるかはまったく未知数だが,とりあえず院生の「いいね」も少しずつ増えてきている。そのうち院生からコメントがつき出すと,またちがった展開が生まれるのかもしれない。

  ところで,今のところ,管理者ががんばって頻繁に更新してくれているが(私も共同管理者として,ちょっとだけは貢献している),息切れしないうちに,院生にも管理に加わってもらうとか,体制づくりを進めないといけませんね。


  ちなみに,共同管理者になる都合上,私もついにfacebookの住人となった。ほとんどの情報は友だちにのみ公開に設定しておいて,友だち作りはいっさいしていないので,事実上幽霊住人だけれども。

  ちなみに,共同管理者になる都合上,私もついにfacebookの住人となった。ほとんどの情報は友だちにのみ公開に設定しておいて,友だち作りはいっさいしていないので,事実上幽霊住人だけれども。


12.04.23. 構造と装飾

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  いったいもう何代目になるのだろう。またまた科目群のHPを作ってしまった。教育方法講座からはじまって,→心理臨床→学校心理→発達臨床と改組の足跡をたどり,→そして今の2科目群“合同”のページ。それぞれ,少なくとも1回は全面改訂しているはずだから,われながらよくがんばってきたものだ,と素直に驚く。

  基本,シンプルで軽快なページが好きなので(というか回線が細かった昔は,回線に負担をかけないため,無駄な装飾を施さないデザインが推奨されていたのだ),私が作ると,フラッシュもgifアニメも使わない,それどころか写真もイラストもほとんどないページになってしまう。しかし,しばらくぶりにご近所のコースHPをのぞいてみたら,いつの間にかどこも,けっこう凝った作りのHPに生まれ変わっていて,びっくり。相対的にわが科目群のページは,さすがにちょっと見劣りする。というわけで,やむを得ずちょっとだけ派手めのページに仕上げてみた。とはいえ,頭の隅にある昔からの“こだわり”が,「中身も薄いくせに,無駄な演出はやめとけ」と語りかけてくるので,なるべくよけいな演出はせず,テキストはしっかり増やす方向に力を入れたつもりだが。

  ところで。

  これまでずっと,HTML 4.01 Transitional というゆる~い文法仕様(DTD)に沿って書いてきたのだが,そろそろ潮時かと思って,今回はちょっと厳しい XHTML1.0 Transitional で書いてみることにした(Strict までいかず Transitional に逃げているのはご愛敬)。

  古い古い私の知識だと,htmlの進化は,文書構造とデザイン装飾とを明確に分離し,装飾用のごちゃごちゃした指定をスタイルシートに追い出して,html本体には文書の構造を示すタグだけを残す方向になっているはずなのだが,XHTML1.0準拠をうたうテンプレートを配布しているサイトで,ソースコードを見てみると,これがまた案外難解だ。なにしろ,なんでもかんでも<div>なのだ。それが何重にも入れ子になっているので,色分けでもしないとどこが何なのかさっぱりわからない。

  レイアウトを示すidが振られている(header,side,left,rightなど)タグは,たしかに全体の構造(というかレイアウトの位置)をわかりやすくしていると思うのだが,その中にまたいくつもの装飾用<div>がごちゃごちゃと入っている。開始タグの方はそれでも,idとclassにつけられた名前で区別できないこともないのだが,終了タグはどれも,</div>だけだから,場合によっては四重にも五重にも</div>タグが続き,どこまでで何が終了したのかの判別が異常に面倒だ。

  けっきょくのところ,<div>は範囲を区切っているだけで特定の意味を持たない“なんでもアリ”なタグなので,文書構造と関係なく好きなところで使えるし(正確には制限はあるが),実際便利に使われているということなのだろう。せめてレイアウト指定用の要素を別の名称にしてくれると,少しはソースコードが見やすくなりそうなのだが。

  それにしても,やっぱり文書構造とデザインとをきっちり区別するのは,たぶん無理。見た目にこだわればこだわるほど(そんな極端に凝った見栄えをいっているわけではなく,一般の読者にとって見やすく,程度の意味においても),構造を崩してでも装飾を仕掛けたくなる箇所は多々ある。完全に中身で勝負の論文や技術文書ならともかく,科目群のHPみたいに,商売っ気がチラチラ見え隠れするところでは,とくにそうだろう。見栄えと中身は別だというけれど,見た目が悪ければ中身を読んでくれないしね。


12.02.27. 電気人間

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  年をとるとともに体から水分がなくなっていくらしく,このところ冬になると静電気による電気ショック被害がひどい(って前にも同じようなことを書いた気がするのだが,これもまた“老い”のせいか…)。こちらの雪は湿気が多いので,以前は,雪が降る前の木枯らしの時期が静電気被害の最盛期で,根雪になる頃には少し落ち着いていたのだが,最近は冬中ずっとだ。天敵ドアノブはもちろん,書庫の扉,作業机の角,水道の蛇口,ときにはスプーンまで,いつどこから電撃が来るかわからない。さながらSeligmanのイヌである。さすがに行動が慎重になる。何に触るにも躊躇する。で,さんざん注意しているはずなのだが,ふと気を抜いたとたん,待ってましたとばかりにバチッと来る。毎日その繰り返し。

  いよいよアブナイと思い始めたのは,PCの筐体に触れたときだ。周辺機器のスイッチを入れようとして,手がPCの側面に触れたとたんに,バチッである。心なしか,ディスプレイの画面も一瞬大きく揺れたような気が…。

  もし静電気のせいで,メモリが不安定になってしまったり,HDDが飛んでしまったりしたら,これはちょっとしゃれにならない。大げさだとは思うが,これだけ頻繁だといつか何かが起こりうる予感がする。

  というわけで,研究費の残りで何か対策を,と探し回っていたら,「静電気除去器」なる仰々しい名前の商品が見つかった。「商品の写真がありません」というのが少々不安ではあったが,\1,000以内と安かったので,試しに注文してみた。研究費で買ってよいものかどうかちょっと悩ましい商品ではあるが,福利厚生というよりPCのデータを守るためだし,と納得する。

  商品が届いた。見ると,何のことはない,よくカー用品店などで売られているキーホルダー型のあれだった。ありゃ,失敗したかな(それだったらもっと安い商品があったはずだ)と思ったら,意外なオマケが付いていた。小型LEDである。ボタンを押すと先端が明るく光る。案外できるヤツだったのだ。

  じつは,昨夏の大規模な計画節電で,研究室前の廊下はセンサー点灯式になったうえ,蛍光菅自体が間引かれ,私の研究室の前は夜になると真っ暗。2つ隣の研究室前までいかないと,センサーが反応してくれなかった。だから,帰りに室内の電気を消して廊下に出ると,ドアの鍵穴を探すのにしばらく手探りをしないといけない状態だったのだ。これはなかなかイライラさせられた。やはり帰宅モードになったらさっさと帰りたいではないか。

  だから,この機能はうれしい。きっと,今年の夏は計画節電が実施されても大丈夫。よかった。


12.02.01. シューカツと個性

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  授業で「教育の個性化」について扱う回になったので,何か適当な導入ネタがないかと探していたら,おもしろい記事に出くわした。

  ソニーが今年,「日本特有の“シューカツ”というルールを変えます」と高らかに宣言して打ち出したいくつかの方針のうち,「就活はスーツ」という常識を覆して服装を自由化すると告知したことを伝える朝日デジタルの記事である。

  前半こそ,その事実が淡々と語られているだけなのだが,中段に来ると,突如,記者の論調が一変する。

ただ,ソニーが14~15日に東京で開いた会社説明会もスーツ姿が大半だった。

  あれあれ? と思っているうちに皮肉モードは全開となり,最後はこう締めくくられている。

ソニーが1990年代から掲げた「学歴不問」はトヨタ自動車などはとり入れたものの,広がりは限られている。今も志望書で大学名を記入させる企業が多い。

  なあんだ,けっきょくは,そんなことをしたって何も変わりませんよ,と言いたいための記事なのか? 案の定,ネット上では,というか2ch界隈では,一斉に非難の声が上がっており,その一部が,今回の検索に引っかかったというわけだ。

  批判コメントを読むと,もともとのソースにあたらずに反射的にコメントしているせいなのか,記者に対する批判とソニーに対する批判とを混同しているようなものも見受けられるので,まずはソニーの言いぶんを確認してみよう。服装自由化については,ソニーの新卒採用情報の中にちゃんと書いてある(なんか若干,新製品の宣伝のノリだが)。

  これを読むと,なぜ服装自由化なのか,はっきりわかる。ソニーはこう言っているのだ。

応募者には,普段のままの自分の考えをリラックスして表現してほしい。

大事なのは,中身。
自らの想いを素直に伝えられる,普段通りの服装で来てください。

  ね? ソニーが「自由な服装で」といっているのは,着慣れないスーツを着込んで身も心も窮屈になってしまっては,面接をやってもその人の「人となり」がわからない。もともと服装は評価対象外なのだから,よけいなところに気を遣わなくてよろしい。リラックスして本来の自分が出せる服装で来てくれればそれでいい,というかその方がその人の人となりを判断しやすい,ということだろう。

  つまり,スーツで来ようがアロハシャツで来ようが,そんなことは問題にしない,大事なのは受け答えの中身だ,と言っているのだ。

  だから,最後のところではわざわざ,「スーツで参加するのが「最も自分らしい」という人は,スーツを着ても構いません。」とちゃんと断り書きを付けている。

  なのにこの記者は,どういうわけか「スーツを着てくるかどうか」という問題レベルから離れることができないようなのである。これでは「就活ではスーツを着てくるべきだ」という主張と,何も変わらないではないか。何か自分はちょっと先進的な考え方に立っているつもりで,保守的な学生の考え方を見下している(ひいては,そんな方針を出したって無駄ですよ,とソニーをからかっている)ように見えるのだが,そのじつ,この記者自身が,「スーツを着てくるか私服で来るか」というごくごく表面的なところでしか,学生の個性を判断できていないということを露呈してしまっているのだ。ソニーが言っている「大事なのは,中身」の意味を,この記者は理解できないのだろうか。困ったものだ。

  そう思ってふと気がつくと,先ほどの記者の一文のすぐ上では,なんとソニーの広報担当者までもが,「服装でも個性を表現してほしい」などというコメントを,あっけらかんと出している。だから,ちがいますって。広報なのに,自分の会社の採用ポリシーをちゃんと理解していないと見える。あるいはポリシーが全社でしっかり共有されていないということか。ますます困ったものだ。これだから,学生は疑心暗鬼になってしまうのだろう。

  それに,いったいどんな服装でいったら,この記者のおメガネにかなうのだろうか。服装は自由です,といったとたん,どこぞの美大の卒業式みたく,あるいはどこぞの県の成人式みたく,至極「個性的」な服装の人たちが押し寄せて,一大コスプレ大会になったら満足してくれるのだろうか。そして企業が,その個性を認めて採用してくれると思っているのだろうか。はたまた,ソニーのブランドイメージに沿った服装を考えてこい,とでもいいたいのだろうか。どうもよくわからない。

  だいたい,「服装で個性を表現せよ」というからには,それが採用の際の判断基準となるということを明言しているわけだが,服装のセンスに表現される個性って,いったいなんなんだ? そんなもの企業が求めているものなのか? また,それをいったいどういう基準で判断できるというのだ? それでなくても企業の採用基準は外部にはわかりにくい。そのうえこんな曖昧な個性を押しつけられたのでは,学生はたまったものではない。

  「みんなスーツ」を個性がないと批判するのは簡単だが,これではあまりに無責任だろう。せいぜい,就職情報誌やアパレル業界が,有名企業別の傾向と対策を作って売り出すくらいが関の山である。もちろん,これは個性とはまるっきり逆方向。複数企業を掛け持ちして回る学生などは,きっとスーツケースか何かに各企業用の私服を詰め込んで,いちいちトイレで着替えなくてはならなくなる。バカバカしい話である。しかも,繰り返すがソニーは「服装で個性を表現せよ」などとはひとことも言っていない。ソニーの見解はたんに「服装なんか気にするな」であり,記者が勝手に話をねじ曲げているだけなのだ。

  もう少し話を続けよう。

  採用試験という特別な事情を脇に置いておくとして,説明会や面接の場というのは,突きつめていえば,初対面の相手とはじめて話をし,自分のことを知ってもらおうという場面である。どんな性格,どんな趣味,どんな嗜好を持っているか何一つわからない相手にはじめて会おうというときに,われわれはどんな服装を選択するだろうか。

  われわれ世代の(と大くくりにしていいかどうかわからないが)感覚でいえば,いくら普段着でよいと言われても,ほんとに普段から着ている派手派手原色のアロハシャツや(昨年の夏ならアピールできたかもしれないが),穴だらけのダメージジーンズ&腰パンできたりは,普通はしないものだ。中にはそんな人がいてもいいとは思うが,どうみても少数派だろう。まずは「相手を不快にさせない」という配慮を働かせる。第一印象が最悪では,これから仲良くなるだいじなきっかけを失うかもしれないし,商談だったら,まとまる話もまとまらなくなる。となれば,初対面の人に会うのに,カチッとしたおとなしめの服装を選択するのは,ある意味「常識的な」というか,オトナの気遣いができる人の選択(つまり個性の表現)といえないだろうか。

  で,最初の記事では,黒スーツで説明会に来た女子学生にインタビューしているのだが,彼女はこう答えている。

…女子学生(22)は「きちんとした私服は持っていないし,スーツでも個性は出せる」と,自分に似合うスカートを選んだという。

  これは,ごく健全な選択ではないだろうか。わざわざソニー1社だけのために私服を着くらべてあれこれ悩むよりは,せっかく買ったリクルートスーツを選択し,スカートでアクセントをつける。それはまた,「服装なんかによけいな気を遣うな」というソニーの採用ポリシーにも添っている。これを,「若者は個性がない」と批判できるのだろうか。

  ついでにいうと,心理学では多種多様な「個性」の測定を試みているのだが,その際の基本的前提は「正規分布」である。そこでは,母集団の約2/3は平均値±1SDの範囲内に収まってしまう。平均値±1SDといえば,群分けでは「中位群」などと呼ばれ,標準的・平均的・常識的な行動をする人たち,いわゆる「フツーの人」扱いである。どんな個性でも約2/3の中位群は存在する。だから,仮に百歩譲って,この記者のいうように服装に個性が表れると仮定しても,学生が各々の個性を普段どおりに発揮しようとしたら,結果的には無難なリクルートスーツで来る人が大半を占めるのは,あたりまえのことなのだ。逆に,みんなが「個性的な」格好をしてきたら,それはそれで「普段のままの自分」というソニーの意図とはちがう,何らかの作為がはたらいているとみるべきだろう。

  学生の立場に立つならば,記者がきちんと取材すべきなのは,ソニーの説明会や採用試験に参加した学生が「私服で来たかどうか」ではなく,彼らが「リラックスして自分の考えを表現できたかどうか」だろう。だって,それがソニーのねらいなのだから。もし,服装自由化でかえって面接官の視線が気になったとか,周りの人の服装とくらべて不安になったなどという回答が得られたのであれば,そこではじめて「周りから浮きたくない」若者像を論じられるのではないだろうか。

  私が検索をかけたときに,この記事への批判コメントで真っ先に目にとまったのは,次のコメントだ。たしかに,おじさん世代の人たちがここまで服装にこだわるのを見ると,こういう学生の不安はいつまでも消えないのだろう。

スーツで行く→個性が無い。→不採用

ラフな服装で行く→就活舐めてんの?→不採用



【2月16日 追記】

  なんと2/14の天声人語でも,まったく同じ論調のことが書かれている。冒頭に,「個性」というのが説明しづらい語の筆頭格だと断っておきながら,黒のリクルートスーツが「個性の封印」であり「画一化」であり,「無難という名の保護色」であり,「同調圧力だ」と断じている。(ここでは一般的な傾向として論じているから,先ほどの記事と同じではないが,ソニーも引き合いに出されている)。「むろん個性は外見よりむしろ中身だろう」と言いつつ,最後は「服装一つでも,同調圧力に抵抗力のある人は頼もしい。… …人との違いを楽しめる。そんな個性を応援したくなる。」と結んでいる。まったく,どうでも服装で個性を表現させたいらしい。「服装一つ」でそこまで若者の個性のなさを批判できるほど,サラリーマン世代の人たちが個性的なビジネス・ファッションを楽しんでいるようには,あまり見えないのだけれど。

  ともあれ,そこまで言うからには,人と思い切りちがったファッションで面接に来た若者に対して,いったいどんなふうに応援してくれるのか,一度見てみたいものである。