ひとりごと

保存箱 2013.01-06

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13.06.18. 取材を受ける

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  珍しくインタビュー取材の依頼が入った。ほんと久しぶりだ。原稿執筆なら,友人・知人・先輩後輩のネットワーク経由で,片隅でひっそりと生きている私のような研究者にもときどき声がかかるのだが,インタビュー取材となると,(私の乏しい経験からいえば)編集者から直接ご指名がかかるので,したがって編集者の目にとまるほど活発な著述家でないと,なかなか縁遠い世界なのだ。

  今回は,昔分担して翻訳したDeciの本がきっかけだとのこと。となれば,しっかり動機づけの話ができそうだ。しかもその本を読んでいるのなら,自己決定理論まわりの話も,面倒な基本の説明なしで話せそうだ。ということで,一も二もなくお引き受けすることにした。まあ今までの乏しい経験から,きっと小さな囲み記事程度の取材なのだろうと,軽く考えていたのだ。

  ちょっと様子がちがう,と気づきはじめたのは,取材前日の確認メールからだ。なんと総勢4人で見えるという。1人は別件の相談で来るので実質は3人。編集者・ライター・カメラマンの構成だという。今まで受けたことのある取材は,編集者・ライターの2人で見えるのがふつうで,ライター1人だけのこともあった。写真といえば,インタビューのあとコンパクトカメラを取り出して撮影,というパターン。しかし今回は,わざわざ本職のカメラマンが来るという。なんだか本格的だ。

  基本的に私の研究室は,大人数の来客向けのセッティングになっていない。標準来客数1名,最大3名の仕様だ。実際,春の研究室訪問の時期を除けば,それで十分だ。仕切り代わりの書架が耐震のため固定してあることもあって,急に4人で来ますといわれても,スペースを空けることもできない。実際,翌日ドアを開けて4人が次々に入ってきたときには,さすがにあせったが,そうはいっても何もできないので,ガマンして詰めて座ってもらう。

  ところが先ほどのカメラマン,狭い室内で各自のポジションを見つけて腰を落ち着けるまもなく,準備作業を開始した。なんと彼は,照明機材を持ってきていて,おもむろにそれを広げはじめたのだった。まさかそこまで本格的だとは! 顔の近くに露出計?を置き,フラッシュをたいて入念にチェックしているのを見ると,なんだか急に有名人になったような気分が…

  などと楽しめたのも最初のうち。そんな慣れない待遇の中でのインタビューは,やはり妙に緊張する。何か体を動かすたびにシャッターが切られるので(実際には,そんなに頻繁に撮影しているわけではないが,感覚としてはそんな感じ),身ぶり手ぶりもつい意識してしまう。まさにPlant & Ryanの監視状況下での内発的動機づけの研究,あるいは鏡に映った己の醜い姿にたらりたらりと脂汗を流すガマにでもなった気分である。あせる,あせる。あせるとよけいに言葉が出なくなる。

  もともと“しゃべり”は苦手だ。それは,講演のあとの質疑応答でも何度も感じていたことだ。あらかじめ準備して臨む講演はなんとかなるのだが,即座に質問の意図を理解し,その場で回答を組み立てなければならない質疑応答では,とたんにぐだぐだになってしまう。TVを見ているときは,大学の先生たちの説明が要領を得ないとか,長すぎるとか,聞かれたことに答えていないとか,勝手なことをいいながら見ているくせに,いざ自分がその立場に置かれてみると,当意即妙に的確な答えを返すことがいかに難しいかが,身にしみてわかる。

  なにしろ訂正が利かない。聞き手の反応によって,話がいろんな方向に流れていってしまうから,あとから補足するのも難しい。うっかりすると,自分が言いたいことからどんどんズレていってしまう。そしてそのことに,話題が一段落してようやく気づくのである。そのくせ沈黙するのがコワイから,とにかくしゃべる。まったくひどい話し手だ。

  インタビュー取材でいつも感心するのは,ライターさんの筆力である。こちらがどんなにぐだぐだな話をしても,ちゃんと要点を短くまとめてくれる(もちろん,向こうが求めているであろう方向性を踏まえて,内容を取捨選択しているわけだ)。読者のレベルに合わせて言葉を補いつつ,話の中に出てくるキーワードは確実におさえてくれるから,なんだか自分がきっちり理路整然と説明したかのような錯覚に陥るほどである。今回もきっと,有能なライターさんがさんざん苦労して,なんとかカッコよくまとめてくれるにちがいない。

  編集者氏の説明によると,やはり今回の記事はけっこう大々的に出回るものらしい。ターゲットは中学校らしいので,中学校の先生方,もし見かけることがあったら読んでみてください。おもしろいことが書いてあったなら,それは90%ライターさんの力です。


13.04.03. 村上・新発田

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  入試業務がようやく片づいたので,年休をとって夫婦で“1年間ご苦労さんの旅”に出かけた。

  今回のメイン・テーマははじめてのいちご狩り。ちょっとひねくれて,あえて関東の有名どころには目もくれず,「越後姫」にこだわってみる。大粒で甘く,スーパーではちょっとした高級品だ。下越の農園にあたりをつける。2月中から営業を始めているとの情報に安心していたのだが。

  きっといちご狩りエキスパートの人たちから見れば,無謀な選択だったのだろう。実際,行ってみたら時期が早すぎた。水っぽいだけで甘くない。農園のおばさんの話によると,ようやく気温が上がってきたところで,まだ収量が少なく,週末に観光客が入ると,月・火は実が熟さないので休園しないといけない状態だとか。行ったのは水曜だったのでセーフだったが,当日朝に電話で問い合わせることをすすめられた。

  まあ,今回はとにかく雰囲気を味わえたし,混雑のない中で,のんびりと赤みの強い実を選びながら食べられたので,よしとしよう。

  そこからもう少し足を伸ばして,夕日の見える瀬波温泉に泊まる。こちらは予想以上の晴天のおかげで,ほとんど雲に邪魔されることなく,夕日が海に沈む様子を見ることができた。しかも露天風呂から。最初はまぶしかった太陽がだんだん輝きを失っていくのを,ずぅ~っと,ただぼんやり湯に浸かりながら眺めていられるというのは,なんとも贅沢だ。

  さて,いちご狩りと瀬波温泉は早くから決めていたのだが,それ以外の時間の過ごし方については,ほとんど何も計画していなかった。時期的に,天候も気温も予測がつきにくかったこともあり,その場対応でもいいかなと,とりあえず直前になって観光情報を仕入れておいた程度だった。ところが,この「その他の日程」が,案外面白かったのだ。

  ひとつは村上の町屋巡り。町屋づくりの家は高田でもおなじみだが,村上の町並みは,高田とはまたちがった趣がある。町並みの中に点在する古い建物(多くはお店)を巡るコースが紹介されていたので,ひととおり回ってみたのだが,どこもただ古い建物を保存しているという感じではなく,現代の生活に合わせて,うまく使われているように見える。意外に明るいし,広くも感じるし,いい雰囲気なのである。

  で,ふと思った。この雰囲気の良さは,もしかしたら「人」の要因によるのかも知れない,と。

  村上はちょうど『人形さま巡り』というイベントの真っ最中であった。旧家に代々受け継がれているひな人形(江戸時代の作という人形も珍しくない,なかなかの人形たちだ)を中心に,それぞれの家に「人形さま」が展示してあり,そこに上がり込んで見学できる,というイベントである。たしか70軒以上が参加する大きな催しである。見学は無料,ただし「出入りの際には家の人に挨拶を」というルールがあるのがいい。

  面白いのは,ただ人形を見るだけでなく,たいていのところで家の人がいろいろと説明してくれるのである。人形さまの来歴や村上の歴史はもちろん,客足が途切れて余裕が出てくると,家のことやら家族のことやら,ご近所さんのことやら,話はあちこちに飛んでいく(この場合,主に会話しているのは妻で,私は聞いているだけだが)。

  そんな感じなので,説明がちっとも観光ガイドっぽくない。いい意味で,「客慣れ」しているなあと思った。ヘタな観光ガイドを聞いていると,すぐに「おなかいっぱい」になるところだが,観光とか町おこしとかヘンに気負わず気どらず,ふつうにその家のお客さんであるかのように話しかけてくれる。だから,人形を眺めている時間より,話し込んでいる時間の方がずっと長くなる。

  で,それがきっと,この町の雰囲気の良さにつながっているのだろう。村上は,ときどき「町おこし」の成功例としてTVでとりあげられているのを見ることがある。たしか,リピーターが多いという話だった。私が行ったのは3月も末,もうひな人形の季節でもなかったのだが,町はガイドマップを広げて歩き回る人たちでけっこう賑わっていた。なるほど,と思った。

  ついでに新発田に立ち寄る。名所・清水園と足軽長屋,その奥にある石泉荘。そして郊外にある市島邸。石泉荘は,直前の予習ではじめて知ったところだが,庭園の池の代わりに川をそのまま引き込んでいて,建物の下を川が流れているように見えるところが優雅だ。ゆったりとした流れを,座敷から眺める。そして市島邸は,建物も庭園もとにかく広大で圧倒される。

  そしてここにも,楽しく説明してくれる人がいた。清水園では,庭園内で枯れ木を片づけていたおばちゃんが突如茶室の説明をはじめるし,閉館間際に訪れた市島邸では,建物の雨戸を閉める作業中の人と話し込んだ。市島邸前の道路ではなんと,自転車に乗った通りすがりのおばあちゃんが,わざわざ自転車を降り,マスクをはずして「市島邸に行ってきたかね?」と声をかけてきた。「いえ,これから行くところです」と答えると,閉館が近いことを察してか,何も言わずに立ち去っていったけれど,おばあちゃんはいったい私たちに何を教えてくれようとしたのだろうか。

(今回の旅の写真を,facebookに掲載しています。)


13.03.15. 統制感の錯覚

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   (前回の続きです)

  投稿収入で生計を立てようとして失敗した人の話で,思い出したことがある。

  その人は最初,なにげなく電車の先頭に乗って外の景色を撮影していたらしいのだが,そのカメラが,たまたま線路内に入り込んでのんびりと歩いているシカをとらえた。それを動画サイトに投稿したところ,そのシカの可愛らしいお尻が大人気で,それに気をよくした彼は,勤めを辞めてしまったそうだ。

  思うに,この人のそもそもの失敗は,最初のシカの映像の人気から,「自分は投稿動画で食っていける」と判断したことだろう。シカは彼が演出したものではない。ただの偶然だ。彼がカメラをかまえたとたん,可愛い野生動物がじゃんじゃんフレームインしてくるわけではけっしてない。それを,自分のチカラだと誤解したところに,この人の悲劇の源泉があるのではないだろうか。

  いってみれば,帰属の誤りである。もともと人間は,自分が世界をコントロールしていると過剰に思っている傾向があって(統制感の錯覚),客観的には偶然の成功でも,自分の力で成功したと思いがちである(だから,宝くじの『必勝法』などという本が売れるわけで)。まあ,それがあるから人生ポジティヴに生きていけるところがあるのだが,その錯覚が,場合によっては人生を左右するような大きな決断にもつながるとなると,そうのんきにかまえているわけにもいくまい。やはりもう一度立ち止まって,よく考えてもらわなければ。

  で,思い出したのは,以前,いわゆる方向音痴の人たちの認知特性に関する実験風景がTVで紹介されていたのである。彼らに車の運転席から見た前方の風景を投映しながら,視線が何に向けられるかを記録していく。さらに,そのあと実際にその道路を車で走り,先ほどどこで右折・左折したかを言わせる。すると面白いことがわかった。方向感覚が“鋭い”人たちは,それぞれの交差点の特徴を,大きな建物や固定された看板といった固定的なモノで覚えようとしていたが,一方で方向音痴の人たちが着目したのは,交差点近くに停まった派手な車や店の幟(のぼり)といった,よく目立つけれども一過性の特徴だったのだ。だから,実際に走ってみてそうした目印がまったく見当たらないと,ちょっとしたパニックに陥ってしまうというのだ。

  判断の誤りや不安定さの奥には,判断のもとになる手がかり選びの失敗という問題が隠れている。シカのお尻にしても,いつでも望みどおりの時に撮れるわけではない。出没ポイントや“穴場”を熟知しているとか,自由自在に呼び寄せられる人なら別だが。

  実験をTVで見た当時は,「ふうん」程度の感想でしかなかったのだが,あらためて考えてみると,もしかするとこの手がかり選びの失敗は,想像以上にいろんなシーンで,われわれの判断の失敗に影響を及ぼしているのかも知れない。やはりもう一度立ち止まって,よく考えてみなければ。


13.03.14. お金を得る

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  どうも最近はネタがTVか新聞に限られている。気がついてみれば,もう半年も英語の論文を読んでいないし,学会もこのところ入試と重なって出たり出なかったりが続いている。研究から遠ざかっているどころか,活動範囲がほぼ大学と宿舎との間の6km圏内に限定されつつある今日この頃。つくづくなさけない。

  さて,そのTVの話題だが。

  先日TVを見ていたら,投稿動画で生計を立てている人たちのことがとりあげられていた。なんでも,動画再生に連動したCMの収入で生活しているらしい。視聴回数の多い投稿動画にはCMを入れさせてくれという申し込みが届くのだそうで,承認すれば再生数に応じて料金が支払われるという仕組みだ。話には聞いていたが,それだけで生活できるほどの収入になり得るとは思わなかった。なかには年収1,000万越えもあるそうで,さすが全世界とつながっているネットの力はあなどれない。(もっとも,生計を立てられるレベルの人は,日本では数十人だろうとの解説だったが。)

  一方で,人気を得ているにもかかわらず,CMをいっさい断っている人というのが紹介されていた。投稿された動画は,録音した自分の子どもたちの歌や会話に,顔のイラストとテロップのアニメーションを重ねたもので,私も見てみたが,たしかにクオリティが高い。一歩間違えば,ただの子ども自慢に終わってしまう素材だが,アニメーションが気が利いている。

  詳細は忘れたが,たしかもともとは,子育てに悩んでいた作者が,あるとき気分転換にこれを投稿したら,同じような母親たちに大きな反響を呼んだことから,交流の場として投稿を続けている,というような話だった。

  VTRが終わってスタジオでの解説。なぜ広告を入れないのだろうか,との問いかけに対して,ネット・ジャーナリストだという人が解説してくれたところによれば,「ママ友サークルみたいなのがネットの中でできあがっているので,仲間への遠慮や後ろめたさがあるのだろう」という。さらに彼は「われわれ今,話してますけど,話す前に広告入ったらどう思いますか。お互いによしとするのであれば,お小遣いが増えていいんじゃないでしょうか。」(記憶が不鮮明ですが…)といっていた。

  それを聞いて,思わず夫婦で顔を見合わせた。ずいぶんお気楽な意見だなあ,というのが私の正直な感想だ。「仲間への後ろめたさ」が原因って,ほんとだろうか。さらに言えば,この解説の人はどうも創作の対価としてお金を受けとるのは当然,と考えているように思えるのだが,なんだかそっちの価値観の方に違和感を感じてしまうのだが。

  じつは,VTRの中でこの投稿者は,ちゃんと理由を答えているのだ。彼女は,金銭を受けとると作品の質が変わってしまうことを恐れていた。プレッシャーを感じ,「つい面白くしようとして」しまうのではないか,と述べているのである。

  さらには,その実例も,VTRではちゃんと取材しているのだ。別の投稿者が,電車から撮った風景を投稿したら大人気。給料を上回る広告収入があったので,業績が悪化していた会社を思い切って退社し,投稿収入生活をはじめたのだが,以後ヒット作はなし。迫力のある映像を撮ろうとするあまり,電車に近づきすぎて危険な目に遭うこともあったという。その人が,「最初は自信もあり,調子にも乗っていたが,しだいに趣味の領域を超え,精神的に追い込まれていった。『次はいいものを撮らないと』というプレッシャーが強かった」と述懐しているのである。

  報酬を受けとると活動の質が変わってしまう,というのは内発的動機づけ理論の基本テーマである。最初は自分自身の楽しみのために,好きなようにやっていた活動が,いつしかお金めあての行動へと変質し,すっかり情熱が冷めてしまうというのはよくある話で,その点では,広告を拒否した投稿者の方が,ずっと現実をよく知っているような気がするのだ。

  けっして,報酬を得ることを全否定するつもりはない。解説者は,エンタメの人はどんどん収益を得たらいいと言っていたが,それはそうだと思う。TVに露出する機会の少ない芸人やパフォーマーの人たちが発表の機会を得,同時に活動資金を得られるというのは,うまい仕組みだ。しかし,すべての人にこのモデルがあてはまるわけではない。

  お金に縛られず,あるいは一般の人たちにウケるかどうかにこだわらず,自由に創作活動をしたい。ごく一部の人たちに喜んでもらえればそれで十分,というスタンスの人だって当然いていい。というか,創作活動って本来そういう性質のものなのではないだろうか。


13.01.28. 順延

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  1月14日,成人の日。

  楽しみにしていた高校サッカー決勝戦。しっかり観戦の準備を整えてTVのスイッチを入れたら,画面は真っ白な国立競技場。ずっと昔の,帝京-東福岡の雪の決勝戦を思い出すような光景だ。

  実況を担当するアナウンサーの説明によれば,積雪はその当時よりさらにひどいらしい。そして画面は切り替わり,カメラは「積雪により中止」の掲示をとらえて,しだいに寄っていく。そしてアナウンサーが言う。

  「場内の掲示では中止となっていますが,決勝戦は今度の土曜日,19日に順延となりました。」

  あらあら。困ったものだ。アナウンサーは言葉のプロだろうに。まったくまちがいに気づいていないのだろう。何度も何度も「順延」を強調する。

  翌日,ネットニュースをのぞいてみたら,ここでは「順延」派と「延期」派に分かれた。さすがにちゃんとした(?)報道機関は,校閲がしっかりしているということか。正解は「延期」だ。順延は順送りに日延べすることだから,翌日に開催するという意味。日付はつかない(正確には,開催可能な天候になるまでずっと翌日送りになるはず)。

  まあ,スポーツ実況にまちがいはつきものだ。とくに試合中の緊迫した状況で,瞬間瞬間に変わっていく出来事をすばやく正確に伝えようとする中での言いまちがいは,しかたのない面もあるだろう。

  たとえば,今年の箱根駅伝で聴いた最高傑作は,大阪出身で同学年の3人が,別々の大学の選手として同一区間でデッドヒートを繰り広げているときに,同郷・同学年でのライバル心を強調してアナウンサーが発したひとこと。

  「小さいころから同い年!」

  そりゃそうだ。

  こういうのはご愛敬だが,じっくり考える時間のある中でのまちがいは話が別だ。昔,あるニュース番組のスポーツ・コーナーで,プロ野球での負け試合をふり返った監督の談話を紹介して,最後に局アナがこう締めくくった。

  「……と,○○監督は報道陣に対してアワアワと語っていました。」

  な,なんだ? 何があったのだ,アワアワ?

  しばらく悩んだ末,気がついた。おそらくニュース原稿にはこう書いてあったのだろう。「淡々と語っていました」。う~ん。

  最近もうひとつ引っかかっているのは,フジのアナウンサーが,サッカーといいフィギュアスケートといい,ジュニア世代の女子選手をなんだかやたらとお子ちゃま扱いすることだ。

  たとえば,「なでしこのお姉さん」などと,なぜか上の世代を常に“お姉さん”と呼ぶ。先日のフィギュアでは,ある選手が演技をはじめた瞬間,これは彼女の2学期の通信簿だとかなんとか言っていた。

  もっとも,いつも女子の実況を担当するこのアナウンサーは,誰に対しても「詩的な」形容をつけて実況しようとするのが癖のようだが,その形容がまた,どれをとっても安っぽくて野暮ったくて,ギャグかと思うくらいひどい。せっかくの緊張が台無しだからやめてくれ。

  仮にも国際大会に出場している,あるいは上の世代と同じ大会で競っている選手たちに,このお子ちゃま扱いは失礼ではないか?

  最近,副音声が実況なしの会場音だけという中継放送がちらほら出てきているが,たしかにヘタな実況が入るよりは,こっちの方が試合の緊張感・臨場感を楽しめるかも知れない。