ひとりごと

保存箱 2012.07-12

(リンク切れ等があっても修正しません)

● CONTENTS ●


12.12.31. オヤマボクチ

to_HOME

  ずっと昔,長野県境にある富倉という集落に,よくそばを食べに行っていた。そこは,民家をそのまんま使ったというか,民家の座敷にお呼ばれしてそばをいただいている感じの,なかなか味のあるお店だった。そこではじめて知ったのが「オヤマボクチ」。

  そばのつなぎにオヤマボクチを使っているというのが,お品書きに朱墨で鮮やかに書いてあるのだが,そのオヤマボクチ,名前だけではどんな物体なのか皆目想像がつかない。「なんだこれ」というのが正直な印象。あるとき,雑誌記事のコピーらしきものがテーブルの上に置いてあったが,当時のコピー機では写真はほぼ真っ黒で,かろうじてアザミのようなトゲトゲのあるらしい花の輪郭だけが確認できた。

  オヤマボクチがたしかにアザミの仲間で,通称ヤマゴボウと呼ばれているものの一種だと知ったのは,つい数年前だ。TVのふるさと番組で富倉集落が特集されていたからだ。どうやら山野に自生しているもので,栽培にはあまり適さず,けっこう希少なものであるらしい。短いながら映像も出てきたので,ゴボウの葉っぱらしい毛のついた葉っぱが元の姿であることがわかった。

  その実物に出あったのは,つい2ヵ月ほど前のことである。長野に出かけた帰りに立ち寄ったドライブインでそば粉を物色していたら,そこに置いてあった。いかにも地元の生産者が出荷した風情で,ビニール袋にワープロ打ちの説明書入りで売られていた。見た目も手触りも,とろろ昆布といったところだろうか。

  そのときはまだ,自分が打つ素人のヘタクソなそばと,その本格的な材料とが結びつかず,すぐに棚に戻してしまったのだが。

  家に帰ってきたら,どうにも気にかかる。昔,富倉で食べていたとき,隣に座った年輩の女性が,一口食べただけで「硬い」とつぶやいて残してしまった,あのしっかりどっしりした食感が,私は好きだ。やっぱりちょっと試してみたい。

  だめもとでネットで検索をかけてみたら,なんとあのドライブインで売られていた商品が,ネットでも買えるようになっていた。値段も同じ(送料は別)。ちょっと迷ったが購入。(品物が届いたあと,近所にある農産物直売所をのぞいてみたら,そこでも地場もの(?)のオヤマボクチを扱っていた。ちょっと残念。)

  さて,オヤマボクチ。乾燥したものを熱湯で戻して使うらしいのだが,熱湯をかけても毛玉のようなかたまりのまま。ドロドロ・ネバネバになるのかと思ったら大違い。これでどうやって全体に広がるのだろうと心配しつつ,とりあえず説明書どおりに粉の中心にどんと置いて,お湯を注ぐ。あとはふつうどおりの手順。

  しかし,こねていくごとに,手に伝わる感触がどんどんちがってくる。重い。力をかけないと玉が変形しない。すぐに汗が噴き出す。のしの段階でも切る段階でも,なにしろ体重と集中力をかけないといけない。さすがオヤマボクチ。しかも,いつのまにかその成分が全体に行きわたったようで,繊維成分が練り込まれているらしき様子が,表面に浮き出ている。不思議。

  そんなわけで,今年のわが家の年越しそばは,東京農大が桑取地区で作ったそば粉と信州産オヤマボクチのつなぎを使った,本格「風」手打ちそばへと,華麗に変身したのでした。


12.12.27. 落ち着いたのは

to_HOME

  最終的に落ち着いたのは「秀丸メール」。

  古いひとりごとを「保存箱」に移す作業をしていたら,ちょうど1年前にこんなことを書いていたのに気がついた。しまった。これはまちがいだ。というか,ほぼ秀丸に決まりかけていたのだが,土壇場の大逆転で,決まったのは「Eclair」というメールソフトだ。秀丸を2ヵ月ほど試用して,これでいくかと決心がつき,お金も払い込んだ矢先,Eclairというソフトがメジャー・バージョンアップしたとのニュースが目に入ったのだ。

  ビストロSMAPのゲストが判定を下す直前に,かなりの確率で「選ばない」方の一品に最後の一瞥を投げる(これは妻が昔発見した法則です)ような気分で,試しに立ち上げてみたら,これが意外にいけるヤツだったのだ。

  そんなに一気に事態をひっくり返すほど,Eclairの実力はすごいのかと言われれば,じつはそんなことはない。たぶん全体的な性能は秀丸の方が優れている。まあ,私が使用した機能だけ,私個人だけの感想であるが。実装している機能も豊富で,やりたいことはたいてい,設定画面でチェックを入れてやりさえすれば,実行させることができる。

  Eclairは,けっこう特殊な作りをしている。着信したメールに定型文を自動返信するための設定がやたら詳しかったりするので,おそらく業務用に使うような状況を想定しているのだろう。初期設定項目もちょっと他のメールソフトとはちがっていて,なかなか手ごわい。

  にもかかわらず,なぜに突然,このEclairに転換したのかといえば,要するに画面まわりが好みだったからだ。というより,私はどうもあの秀丸シリーズ独特の,ちょっとクセのあるエディタ画面になじめなかったのである。秀丸エディタからパソコン生活をはじめた人ならきっと,何の違和感も感じないのだろうが。

  たんなる個人的な偏見である。しかし,毎日頻繁に使うソフトともなれば,そういう微妙なところが,積もり積もって大きな違和感になっていく。

  Eclairの画面まわりは,その点ひじょうに“素直”でスッキリとしている。これまで使ってきたAL-Mailとも比較的感覚が近い気がする。一部,アイコンのデザインを変更してさらにAL-Mailに近づけてみた。快調だ。そんなわけで,試用をはじめてすぐに正式登録に変更。めでたく1年間使い続けている。

  一方,秀丸メールのもう一つの魅力は,検索がひじょうに速いところである。これに関しては他のソフトから頭ひとつ飛び出ている。メール保存のための機能も充実していて,htmlメールのパートを自動削除したり,不要なヘッダを除去したりして,保存データをかなり軽量化してくれる。大学にいると年単位のルーチンワークが多いので,1年前,2年前にやったことを参照する機会が多い。メールデータを長期的に残しておき,すばやく検索できるために,軽量化は欠かせない機能である。

  せっかく秀丸メールを正式に購入しているのだから,この性能を使わないのはもったいない。ということで,今は古くなったメールを秀丸にエクスポートして,検索用のデータベース兼バックアップを構築し,過去分の検索は秀丸で行うようにしている。これでたぶん,ほんとうに「最終的に落ち着いた」状態だと思う。


12.11.30. 「教授!」

to_HOME

  それにしても,TVドラマの大学生たちは,なぜみんな教員に対して「教授,教授」と呼びかけるのだろう。今見ているドラマでも,女子学生が教授を見つけると,すぐに「教授!」と呼びかけて近寄っていく。

  不思議だ。

  なぜって,現実世界ではふつう「先生」だから。教員同士でも教員と学生との間でも,また直接呼びかけるときも,第三人称で使う場合も,一般的には「先生」だろう。文書では,とくに事務の人たちが厳密に教授・准教授・講師を区別することはよくあるが,ふだんの会話では,「○○教授」などという呼び方はまず聞いたことがない。

  まあ,私はけっして交友範囲が広い方ではないので,いろんな大学を見て回ったわけではないが,非常勤に行った先で学生から呼ばれるときも,学会で見かけるゼミご一行様らしき人たちの会話などを聞いていても,「教授」などと呼び交わすケースには,まだ一度もお目にかかったことがない。なぜにドラマだけ??

  以前,高校生から質問メールをもらったときのことだ。その子がまさしく「教授」コールの連発だったので,あるとき「気持ちが悪いからやめてくれ」と返信したら(あ,もちろん実際の表現はもっと穏やかに),彼女の返事がまさに,

「TVではそう呼んでいるので,てっきりそういうものだと思っていました」

というものだった。う~む,TVドラマの影響,恐るべし。

  個人的には「中山さん」で十分だ。「先生」も昔は抵抗があったが,慣れてしまった。「先生」は,ぎょーかい用語としてはとても便利で,学校という場ではとりあえず「先生」を使えばたいていは失礼に当たらない。しかし「教授」は勘弁してほしい。なにせ,ふだんそんな呼ばれ方はしたことがないのだ。私はドラマの世界の住人ではない。

  それに。

  教授などという職業に関わるドラマといったら,たいていが教授昇任や学部長選挙を巡るドタバタとか,学生を巻き込んだドロドロとか,人間関係のぐちゃぐちゃとか,もうそんなのばっかりだ。たまに出てくるまっとうな教授は,殺されたり大学を追われたり,ろくなことにはならない。

  ありゃ? ということは私もTVドラマに十分毒されている,ということか。まったく,TVドラマの影響,恐るべし。


12.10.18. 気合いを入れる?

to_HOME

  番組改編期の特番をなんとなく見ていたら,とある番組に,某タレントというか某元格闘家というか某元政治家が出演して,インタビューに答えていた。“闘魂ビンタ”などという妙な特技で有名な,あの人である。

  彼がインタビューに答えていうには,彼自身はけっして“闘魂ビンタ”がやりたいわけではなく,ただ周りの人たちがやれ,やれと言うからやっているのだそうだ。

  ― バカな話だ。腹が立ってきた。いったい何を言っているのだ,この人は。幼稚園児じゃあるまいし,自分はやりたくないのに,周りの人がやれと言ったらヘラヘラそれに従うのか。年齢を重ねたオトナの発言とはとても思えない。

  インタビューはつづいて,“闘魂ビンタ”のそもそもの始まりの話になる。そのシーンは私も何かの記録映像で見た記憶がある。ただ某タレントによると,相手はどこかの新聞記者だそうで,私が記憶しているのは大学生だから,もしかするとちがう場面だったのかも知れない。

  ともあれ,何かのイベントで,その元格闘家であった某タレントの腹にパンチを入れたいということで,一般人がリングにあがってきた。一発目。相手はかなり手加減して打っていて,にもかかわらず観客に向かって,なにやら手を振ったりしてにやけている。それで,某タレントが「本気でやれ」と挑発し,もう一度,今度は全力でパンチを入れる。その瞬間,某タレントはほぼ反射的に反撃のビンタを入れている。格闘家の本能とでもいうのだろうか。おそらくそこには,本気でなかった相手,にやけていた相手に気合いを入れるというような意図は介在していない。ただ反射的に殴り返しただけのように(少なくとも素人目には)見える。

  私にとっては,見ていて寒々しくなる光景でしかなかった。一般人を相手に自分の力をコントロールできないのなら,プロの格闘家とはいえまい。何か問題にされてもよさそうなものだ。なぜそれがこんなにもてはやされるのか,私にはさっぱりわからない。

  さて,話はスタジオに戻る。“闘魂ビンタ”が一躍有名になり,自分も気合いを入れてもらいたいという人が大勢いると紹介したあとで,司会者が,「じつはこの中にも,ビンタされたいと思っている人がいます」と発言する。すると,カメラはすぐにひとりの芸人に寄る。このメンバーならこの人だろうと,誰もが予想できる,いわゆる「いじられキャラ」の人だ。彼は,「そんなことはひとことも言っていない」と驚き焦る。しかし,きっと事前に打ち合わせがあるのだろう。ブツブツ言いながらも,その人は背広を脱ぎ眼鏡を外し,立ち上がる。はやし立てる司会者と周りの人たち。そして,笑いながら“闘魂ビンタ”を入れる某タレント。

 ― まったく,バカな話だ。これはまんまいじめではないか。「いじられキャラ」といわれて,いやなことを一手に引き受けさせられる人たち。それを周りがはやし立て,本人が嫌がっているにもかかわらず無理やり実行させ,またその様子が「笑える」といってひとしきりみんなでからかう。そして,そうした観衆にのせられて,笑いながら暴力をふるう某タレント。みなさん,笑えますか? 私は笑えない。ほんの少しも笑えない。不快感だけである。まったく,なぜこのような演出が許されるのか,理解できない。

  いじられキャラの芸人はそれを売りにしているのだからそれでいいというのか。それとも,某タレントのような,あるいは某司会者のような有名人なら,何をやっても許されるのか。

  だいたい,いじられキャラなどというのは,いじめる側にとって都合のよいネーミングでしかあるまい。相手はそういうキャラだと設定してしまえば,そのとたん何をやっても許されてしまう。だってあいつはそういうキャラなのだから。あいつは悪者だとキャラ設定してしまえば,自分は正義のヒーローになって,どんな手段をとってもやっつけることができるのと同じだ。こういうバラエティ番組の存在が,そして何をやられても喜んで受け入れるいじられキャラの芸人たちが,問題を見えにくくしているのではないだろうか。

  そしてその某タレントだ。相手がはっきり嫌がっているにもかかわらず(もちろんそれも演出なのだろうけれど),周囲にのせられてうれしそうに暴力をふるう彼は,ほんとうに彼の言葉通り,「周りがやれ,やれというから」やっているのだろう。自分では何も考えていないのにちがいない。まったく困ったものだ。


12.10.05. 通学路

to_HOME

  今年はちょっと夏にいろいろと仕事が重なって帰省できなかったので,後期が始まる直前の週末を利用して,ひとりで実家に帰ることにした。予定は何もなし。完全に実家でのんびりしているだけの週末だ。

  さすがに何もしないでいるのも退屈なので,近所に散歩に出かけたら,いつのまにか小学校へと足が向いていた。いったい,いつ以来だろう。子どもが小さい頃に,1回くらいは来たことがあったかも知れないが,よく覚えていない。はっきり覚えているのは,中学を卒業したときに,友だちといっしょにまだ残っていた恩師に挨拶に行ったときだ。生徒会の特権(?)で,誰も行かない物置の古道具や,屋根裏に放置してある古雑誌の位置まで知り尽くした校舎だったが,その後,完全に建て替えられて新しくなってからは,すっかり足が遠のいていた。

  週末だったが,人がいるようで玄関は開いていたが,さすがに昨今は,卒業生が懐かしいからといって勝手に校舎内に立ち入るわけにもいかず,校庭をぐるりと回ってみる。新しい校舎は,元のグラウンドをつぶす形で建てられたので,校舎とグラウンドとの位置関係がまるっきり逆。当時の面影はまったく残っていない…かと思ったら,意外にも校庭の遊具類は,私が在校生だった頃とまったく変わっていなかった。もちろん代替わりはしているのだろうが,配置も大きさもそのまんま。

  雲梯つきのジャングルジムもシーソーも,汽車の形のトンネルも,変わらない姿でそこにあった。学校のシンボルであるヒマラヤ杉のすぐ近く。風が吹くと枝や葉がザワザワと騒ぎ,秋になるとときどき大きな実が落ちてくる,そんな遊び場だった。私が高学年の時に新しく作った「ひょうたん池」も,当時のまま,そこにあった。最初は,うまく給水できなかったり,水が漏れたりとトラブル続きだったので,妙に印象に残っているのだが,今はもう自然の池のように苔に覆われて,ひっそりと水をたたえていた。

  帰りは通学路を通ってみることにした。畑道だ。私が低学年の頃は,車が行き来する大きな道を通っていたのだが,交通事故を心配して,5年生の時に通学路が変更になったのだ。

  小学校は小高い丘の上にあり,実家からは上り坂になるのだが,あらためてその道を歩いてみると,こんなに急な坂だったのか,こんなに暗い道だったのかと今さらながらに驚く。今でも子どもたちは,この道を通って登校しているはずである。こんな道を文句も言わず,毎日何十分もかけて登下校するなんて,やっぱり子どもはえらい。

  いちおう,今は通学路全体が簡易舗装されているが,私が子どもの頃は草の生えた自然の農道で,通学路になってからはたまに砂利をまいたりする程度だった。雨が降れば周りの田んぼから水を集める水路がしょっちゅうあふれていたが,子どもはかえって長靴でバシャバシャわたるのが楽しみだったりした。

  途中には,両側に林が迫る“難所”があった。昼間は日陰で涼しい林だが,用事で帰りが遅くなると,とたんに恐怖に変わる。街路灯などというものはまったくなく,ひたすら暗闇の中を歩かないといけない。急にカラスが鳴いたりすると,心臓が破れるくらいドキリとする。女子は走って通り抜け,男子はやせ我慢をしながらふつうに歩いてみせる。そんな道だった。その林も,当時と変わらずそこにあった。

  とくに意図したわけでもなく,足の向くまま訪れた小学校だったが,おかげでいろんなことを思い出した。それはきっと,子どもの頃の風景が何も変わっていなかったからにちがいない。思いがけず,ちょっとした感傷旅行になった帰省であった。


12.08.30. 入試改革

to_HOME

  またまた免許更新講習である。一時は廃止を期待したのだけれど,どうやら継続が既定路線化しつつある気配…どころか,今度の中教審答申では,新しくなる教員免許制度との絡みで,むしろ強化の方向に傾きそうだ。やれやれ。

  さて,私が担当しているのは,悪名高い必修科目「教育の最新事情」だ。好むと好まざるとにかかわらず受講しなければならない必修科目だから,受講生のモチベーションも低く,批判的な目を向けられやすいのは,大学の授業でも同じ。講師の立場から見ても,必修ということで,扱わないといけない内容はけっこうカッチリ決められているので自由度は少なく,なかなか自分の専門の話につなげられない。なかでも私が担当している領域は,「学習指導要領総則の解説」がメインとして入っているので,最新事情といいながら,悲しいことに指導要領が改訂されるまでは,毎年代わり映えのしない話を繰り返さざるを得ず,しかも先生方にとっては釈迦に説法もいいとこなわけで,なかなかに苦しいのである。

  で,そのぶん,それ以外のところはできるだけ毎回大幅に内容を入れ替えるようにしているのだが,とくに今年は,中教審答申や大学改革実行プランの策定といった大きな動きがあったので,少しだけでもそのことにふれようと,最後の最後の残り10分ほどの扱いだが(しかも,たいていは前半の話が押して,時間調整に使われてしまう時間帯だ),組み入れてみた。

  速報的な意味で語りたかったのは,教員免許制度の改革(いわゆる修士化)と,そしてもう一つは大学入試の改革である。入試改革は,そうか,いよいよ来たか,という感じである。説明資料(9ページめ)でその概要がわかるが,なにしろ,「教科の知識を中心としたペーパーテスト偏重による一発試験的入試」から脱却すると,華々しくぶち上げている。これはほんとうに,やってくれそうな( ……のだろうか?)

  今回の講習でも,たった10分足らずの話題だったにもかかわらず,最後の論述テストでは2人もこの話題をとりあげていた。いずれも高校の先生らしく,入試改革に期待しているという趣旨の答案だった。

  じつは,大学入試改革の検討は,10年以上前から静かに進んでいる。「大学全入」の時代になり,学生確保のために推薦やAO入学が増える中で,学力検査としての入試が機能しなくなり,高校生にとって,「大学に入るために勉強する」という,かつては強力だった動機づけ要因がすっかり弱体化してしまった。それはそのまま高校生の学習意欲と学力レベルの低下につながっており,高校教育にとって深刻な問題となっているだけでなく,受け入れる側の大学にとっても,けっして他人事ではすまない大きな問題となってきている。

  これではいけない。少なくとも大学進学希望者には全員,高校での学習レベル(正確に言えば到達度レベル)を証明するような学力検査を受けさせる必要があるのではないか,ということで検討が進められてきた。文科省の委託を受けて北大の研究グループが検討した「高大接続テスト(仮称)」は,高校段階での達成目標に準拠した到達度テストと割り切っていたり(考える力は別のテストで測定),受験機会の複数化を提案していたり,さらには項目反応理論の適用を提案していたり(理想的には,タブレット端末に向かって各受験生が解答すると,問題ごとの解答内容に沿ってその人の学力レベルが推定され,次はそのレベルに合わせた問題が各受験生ごとに出題されて,さらに推定の精度を上げていく,というようなテストになるだろう),なかなか斬新なものであった。

  斬新すぎたのか,どうもその報告書(2010年)があがった後の動きが鈍いなあと思っていたら,幸い今回の改革プランでは,センター試験の改革に,少なくとも大きな枠組みは反映されているようである。具体的な改革はこれから,というか,どうもこの枠組みは「論点」としてしか残っていないようで,今回の実行プランを受けて中教審に設置された特別委員会では,また一から議論を始めるらしい。なんだか遠い遠い道のりだが,注目していこう。

  ただひとつ気になるのは,「ペーパーテスト偏重による一発試験的入試」から転換した先に構想されているのが,「志願者の意欲・能力・適性等の多面的・総合的評価に基づく入試」である点である。標準偏差の小さい等質な受験生集団の,そのまた真ん中付近のいわばダンゴ状態のところから1,2点の差で合否の線引きをせざるを得ない現行の試験制度は危うい,もっと多面的にとらえ確実な根拠をもって合否を判定した方がいいというのは,私にもよくわかる。とはいえ,その代わりとして真っ先に出てくるのが意欲というのは,いったいどんな根拠があるのだろうか。意欲などという,定義さえ曖昧なものをまともに測れるわけがない,と思うのだが。一人ひとりの採点官が,それぞれ別々の価値観で点数化するようなテストは,かえって危険ではないだろうか。というか,そういう曖昧な基準を取り入れて客観的な学力審査から離れてしまったのが,AO入試なのではなかったか。このあたりがどのように具体化されていくのかにも,しっかり注目していこう。


12.08.10. お礼のことば

to_HOME

  珍しく中学校に呼んでいただいて,講演をすることになった…,というかぎょーかい用語では,保護者対象なら講演だが,生徒対象の場合は「講話」というらしい。講話ですか。知らんかった…。

  最初から講話ということでお話をいただいていたにもかかわらず,無知な私は,その意味にまったく気つかず。てっきり保護者対象のお話だと決め込んで,窓口の先生との打合せを進めていたのであった。
 「で,対象者は何人くらいですか?」
 「100人以上になります。」
 「生徒の数から見てずいぶん保護者が熱心な学校ですねえ!」
 「????」
というあたりでようやく,双方かみ合っていないことに気がついた。大恥。

  講話などといわれると,自分が子どもの頃の記憶では,何やら年配の卒業生が人生を語っちゃうとか,郷土の有名人が道徳的なありがたい感動話を聴かせてくれる時間でしかなかった。だから,まさか自分がそのありがたい話し手になるなんてことがあろうとは思ってもみなかったわけで…。

  さて講話のテーマは,「メディア・コントロール」だという。はじめて聞く言葉だ。調べてみると,要するに,メディアへの接触を子ども自身が自覚的にコントロールできるようにしよう,ということらしい。背景には,子どもたちの生活時間の乱れという問題がある。子どもが自分の生活時間をきちんと自覚し,主体的にコントロールできるようにもっていく必要がある。その一環としての,メディア接触に対する自覚的コントロール,というわけだ。

  なにせ,大学生相手でも授業が難しいと言われる私のこと,よいこの中学生に心地よい昼寝の時間を提供しました,てな結果になるのは目に見えているのだが,まあ,そうなったらそうなったときのこと,と開き直って組み立てを考えてみた。せっかくだから,かねてからの持論(!!)に沿って,「あえて専門用語を使う」作戦でいく。内容はよくわからなくても,ヘンな言葉だけでも頭の片隅に残ってくれればいい。なんだかちょっと気になって,あとでふと「聞いたことあるかも」程度に思い出してくれれば,上々だ。

  中心にすえたのは「メタ認知」という専門用語。なんか見るからにアヤシいところがいい。とくにこの「メタ」という響き!

  暑い夏の午後。給食後の,きっといちばん眠い時間だろう。生徒たちはみんな下敷きをうちわ代わりにあおぎながら,話を聴いている。先生は「こんな時期だから不作法ですみません」と気を遣って声をかけてくれたが,いやいや全然気になりません。かえってこの暑さの中,ビシッと行儀よくさせられている生徒を見る方が,ヘンな汗をかく。うちわパタパタ,ときどきメモをとったり,周りとヒソヒソ話をしたり,いろいろやってくれている方が,こちらは気が楽である。

  さて,それはそれとして。

  講演というものの“お作法”に慣れていなかった若い頃は,話が終わったらさっさと壇を降りようとして,あわてた司会者から呼び戻される,という失敗を繰り返していたのだが,最近はようやく,“聴衆の鳴り止まない拍手を浴びながら控室に下がっていく”という無理やりな演出にもなんとか慣れてきたので,身構えながら壇上で待機していた。

  すると,生徒の代表がお礼のことばを述べるという。おやおや。保護者代表とか教頭先生が最後の挨拶,というのがいつものパターンなので,そんなつもりでいたら,意外にも生徒代表が挨拶するそうだ(いつもは講演だから当然そうなるわけで,そういえば今回は「講話」だった)。

  そして,さらに驚いたのは,その挨拶の中身である。「メタ認知」というキーワードはもちろん,どうすることがメタ認知なのか,という私の例示をきちんとおさえながら,簡潔に要約している。最後,定番の決意表明(「先生から教えていただいたことを心に刻んで…どうのこうの」ってあれだ)まで,流れに沿ってみごとにまとまっている。講話をしっかり聴いて,要点をちゃんと理解していなくてはできない挨拶だ。じつにすばらしい!

  正直に言うと,そんなに期待していなかったのだ。どうせ,事前に練習してきた,当たり障りのない挨拶文を読みあげるだけだろうと。生徒代表の子が,なにやら紙を大事そうに持ってきたので,「ほらね,やっぱり」と確信してもいたのだ。しかしその紙は,当日の私の話をまとめるためのメモ用紙だった。そういわれてみれば,講話が始まる前に,先生方が生徒みんなに紙を配っていた。私は事前に資料を配っていないから,どう考えても当日,話を聴いてまとめたはずなのだ。ほんと申し訳ない。すっかりステレオタイプな予断を持ってしまっていた。

  さて,肝心の「講話」の出来はといえば,きっと,わけのわかない難しい話をして,生徒たちにはいい迷惑だったのだろうが(私が子どもの頃に聴かされた「講話」がそうであったように),私にとっては,中学生の実力を見直すたいへん貴重な経験であった。


12.07.23. 公務員の活躍

to_HOME

  『プロメテウスの罠』という,朝日新聞の原発事故関連の特集記事が,長く続いている。やはりこのシリーズはおもしろい。

  現在のシリーズは,唯一住民全員(40歳未満が対象)に安定ヨウ素剤を配布・服用させた,三春町の副町長と職員の人たちの奮戦記。これがなかなか迫力がある。社会面ふうの味つけ(若い頃のエピソードが挟み込まれていて,登場人物の人となりを想像させる,あれだ)も,嫌味にならない程度に効いていて「読ませる」記事だ。ちょうどその直前のシリーズは,原発から30km圏内にありながら重症患者を抱えて避難することができず,行政の支援がない中で孤軍奮闘する病院の話だったので,なおさら今回の“行政側”の活躍には,救われる思いがする。

  この,どこかの自治体で町民全員に安定ヨウ素剤を配って飲ませたというニュースが新聞の片隅に載ったことは,私もよく覚えている。ただ,記事の最後には,「ヨウ素剤を服用すべき放射線量ではない」みたいな識者のコメントが載っていたこともあって,当時は,震災後の混乱と放射性物質に対する過剰な不安による“勇み足”的な判断,というようなイメージでしかとらえていなかった。それが,今回このシリーズを読んで,綿密な分析と計画にもとづいて行われた決断であったことをはじめて知って,全体のイメージが一変した。

(当時の記事が残っていないかと思って探してみたが,見つからず。代わりに,福島民報による今年3月付の震災検証記事が見つかった。それによれば,やはり服用の是非そのものについては,専門的な観点から否定的あるいは懐疑的な見解もあるようだ。)

  最終的に判断が正しかったかどうかに関しては,別に議論しないといけないのだろうが,その決断に至るまでの過程は,とても興味深い。事故直後の,正確な情報が入ってこない,国や県からの指示もない,しかし一刻も早く決断しなければならない,というギリギリの状況の中で,町長・副町長,そして職員たちがどのように動いたかは,学ぶべきところが多いのではないだろうか。

  なにしろ最初は,安定ヨウ素剤というもの自体,原発周辺から避難してきた人たちが持っているのを見てはじめて気がついた,くらいのところから出発したらしい。放射性物質の拡散予測図が存在することも,住民といっしょに避難してきた職員にPCを貸したのがきっかけで知ったそうだ。

  その後,県にヨウ素剤の備蓄を確認して受け取り,服用のしかたを避難してきた人たちに学び,副作用について医師に確認し,マニュアルでは非現実的なやり方だった低年齢児への投与方法を現実的なものに改良し,対象者に確実に配布し,服用方法をわかりやすく指示するための作戦を練り…,としっかり手続きを踏んだ上で,一斉配布に踏み切るかどうかを最終的に決断する幹部会議。新聞記事では長い連載だったが,実際にはほんの2日かそこらでの決断だったわけだから(最終の会議は14日深夜とのこと),そのスピード感には驚かされる。

  最後に,会議の結論を伝えたときの町長の言葉がまたちょっとカッコいい。「判断を尊重する。責任は町で取るから。」だそうだ。

  こういう記事を目にすると,われわれがあたりまえの市民生活をあたりまえに過ごすことができるウラで,公務員と呼ばれる人たちがいかに地道な努力を重ねているかを,垣間見ることができる。ふだんはまったく目立たず感謝もされないが,こういう非常事態でようやくその活躍を知ることができるのだ(あまり歓迎したくはないが)。それも最終的には,もしかしたら「配布は無駄だった」と結論されるかもしれないのである。万一副作用が出たりしたら,感謝されないどころか,逆になぜ国や県の指示を待たなかったと批判されかねない。

  そうした重圧の中で彼らが日々市民のために決断を下し,市民のために実行しているという事実は,もう少し世間に知られてもよさそうな気がする。


12.07.18. プロフェッショナル

to_HOME

  NHKの『プロフェッショナル・仕事の流儀』という番組で先日,菊池省三さんという小学校教員の仕事ぶりが紹介された。「崩壊した学級を再生するカリスマ教師」(不正確だが,おおむねこんなような形容のしかただったと思う)という番組予告が何度も流れていたので,ちょっと楽しみにしていたのだ。

  大きなエピソードとしては,2つの実践が取りあげられていた。ひとつは,クラスメートに対して攻撃的に出てしまう子どもに対して,ディベートというルールにもとづいた討論を使って,感情のコントロールを促した実践。

  もうひとつは,運動会の応援団のリーダーに選ばれた子どもに自信を持たせる実践(というまとめでいいかどうか微妙だが)。この実践がなかなかおもしろかった。

  まず先生は,応援団に対して,昨年度とまったく同じじゃつまらないから,自分たちでダンスを考えて作ることを提案する。これは,あえて困難な課題に全力でチャレンジさせ,それを乗り越えたときに人は大きく成長するという,先生の信念にもとづくものだそうだ。

  さて,ここで2人の子どもが登場する。2人は応援団のリーダーに立候補したのだが,メンバーから選ばれたのはそのうちの1人,A君。もう1人の子B君は残念ながら落選し,ついでに希望していた係にもジャンケンで負けてしまう。ふてくされて練習に加わろうとしないB君。一方A君もどことなく頼りなさげで,B君のことをなんとかするどころか,他のメンバーも勝手にフラフラやっていて,ちっとも練習が進まない様子。A君もまた悩み出す。

  そんなとき先生はどうするのか。ここがとっても興味深かった。なんと先生は,いつも子どもたちの様子を,ときに腕組みをしながらじっと見ているのだが,ひとことも声をかけないのである。それがまた,みごとなまでに徹頭徹尾沈黙を貫いていた。

  映像には出てこないが,ナレーションを聞いた限りでは,直接子どもに対してはたらきかけたのはたった1回。ナレーションの表現だと,「先生には秘策がありました」ということで,おそらく先生がA君にこっそり伝授したのだろう。映像に出てくるのは,A君がB君に,なんとかいうパートリーダー(ダンスを考える係だったかな? ちゃんと覚えていない)をやる気はないかと,交渉している様子。B君,二つ返事で「やる,やる!!」。俄然はりきり出す。

  これでめでたしめでたしかと思うと,そうでもなく,やはり振り付けを考えて練習を重ねて…となると圧倒的に時間が足りない。振り付けができていない部分は,比較的簡単で見栄えもよい隊形変化でいくことに話がまとまるが,それでもなお未完成。前日最後の通し練習でも,完璧な演技はできなかったとナレーション。まだ先生は動かない。

  先生がついに動いたのは,運動会の当日。本番の直前のことであった。つかつかと子どもたちに歩み寄った先生は,「○○先生にお願いして,グラウンドに目印の線を書いてもらったから,隊形変化のときはそれをめがけて動くように。」と指示。「じゃあみんながんばって」と子どもたちを送り出す。前日,隊形変化がきちんと揃わなかったのをみた先生が,こっそり手を回しておいたのだ。

  まさに,「これぞ自律性支援」と言うべき実践である。子どもたちを信頼して任せる部分は徹底的に任せつつ,周辺部分でひとつずつ穴を埋めていくような,地道な支援をしていく。それが効いている。

  ただ,私が想定している自律性支援は,もっと教師が口を出す形である。この先生のような形は,よほど経験を積んでいないとうまくいかないのではないかと思う。不慣れな教師が形だけまねようとすると,たんなる「放任」になってしまって,収拾がつかなくなる恐れがある。

  よく,「ベテランの先生は目で指導する」などと言われるが,この先生の場合も,たとえ口出ししてこなくても,先生が活動を見守っているだけで,先生が自分たちに何を期待しているかを,子どもたちは敏感に感じとり,行動しているのだろう。そういう日頃の関係性が成立しているからこそ,のことなのである。いい意味でも悪い意味でも,「にらみが効いている」状態といってもいいのではないだろうか。

  だから,けっしてこのスタイルをみなさんにそのままお勧めするわけではないが,それでもこの実践は,教師の自律性支援の典型的な実践例と言っていいだろうと思う。


12.07.04. 効果は確認されていません

to_HOME

  EM菌が水質浄化に効果があるというので,培養してプール掃除に使うとか河川に流すとか,学校の環境教育の一環として実践しているという話はよく耳にする。が,その効果は確認されていないという記事が朝日デジタルに載った。記事では青森を取りあげているが,それはたぶん行政が積極的に関与していることを,とくに重く見たのだろう。EM菌の培養液を使った実践自体は全国的に広がっていて,新潟でも,どこかの小学校で実践していると,以前ラジオで紹介していた。きっと1校だけではないはずだ。

  じつをいうと,EM菌は私も昔,生ゴミ処理に使っていた時期がある。もともとEM菌(EMボカシ)は,生ゴミ処理や土壌改良の資材として名前が知られていたものだ。本格的なものは専用のコンポストを使うらしいのだが,私の場合はたんに生ゴミといっしょに,自作した段ボールコンポストの土の中に入れるだけ。使っている間も,ネット上ではいろいろアヤシげな噂は目にしていたが,とにもかくにも,しっかり発熱してくれさえすれば(つまり発酵を促進してくれれば)それでよいので,しばらくは使い続けていた。けっきょく半年ほどで,たかが生ゴミ処理のためにEMボカシを買うのもバカらしいと思って,やめてしまったのだけれど。

  で,その後ずっと続いているのは,もみ殻燻炭とピートモスを土の代わりに使う方式だ。菌を投入するのではなく,土壌中にいる菌が繁殖しやすい環境を作ってあげるというやり方らしく,さすがにゼロ円とまではいかないが,かなり安上がりで発酵も安定している。

  そんなわけで,すっかりEM菌のことは忘れていたのだが,それを突然思い出させてくれたのが,原発事故後の放射能汚染を扱ったTV番組だ。なんとEM菌が放射能を除去してくれるというので,チェルノブイリ事故で汚染されたベラルーシで使われているらしいのだ。放射性物質を取り込むというならまだしも,無害化してくれるとは,いったいいつのまに進化したんだ,EM菌。もっともその話題を出した人も,一言ふれただけであとはごにょごにょ。周りの人もそれには反応せず,すぐに別の話題に移っていたから,きっと何かウラ事情があるのだろう,とは思っていた。今回あらためて調べてみたら,現地から当時のいきさつを詳細に語っているBlogを見つけた。なあるほど,そういうことでしたか。

  そして,その後の河川の水質浄化の話題。ラジオで聞いた小学校の実践である。

  私がひっかかったのは,培養液の作り方だ。米のとぎ汁を使うというのだが,米のとぎ汁といえば,ちょっと前には河川の富栄養化につながるといって問題になっていたはずではないか。EM菌が分解してくれるからいいのか,と一瞬納得しかけたが,学校によってはなんと,液体だけでなく,丸く固めた「EMダンゴ」を河川に流す実践もあるそうで,これはやはりアヤシイ。しかも学校活動だから,けっこう何回も,大量に投入しているはずだ。大丈夫か?

  …と思って調べてみたら,すでに2008年には福島県が「EM菌投入は河川の汚濁源」だと警告を発していた。やっぱりね。

  そんな中での今回の記事だ。

  どうも学校というところは,ちょっと根拠が不確かな,それでいていかにも「教育的」な言説が入り込みやすいところであるのかもしれない。ただのオハナシでなく,ちょっと科学っぽい味つけがされていて,子どもたちが実際に「実行」できそうなものであれば,なおさらだ。少し前の「水からの伝言」騒ぎが,まさにその一例だろう。水に「ありがとう」と言い続けるときれいな結晶ができ,植物に「きれいだよ」と言葉をかけるとよく育ち,さらには食べ物の容器に「バカ」と書いた紙を貼りつけるとカビが生えるとかいう,あれだ。

  まあ,学校に限らず,科学っぽい味つけのTV番組に踊らされる消費者がいかに多いかは,ダイエットであれがん予防であれ老化防止であれ,誰もが経験し,見聞きしているところだろうが,学校にはもう一つ,そういった情報が入り込みやすい素因がありそうだ。

  今回の記事で取材を受けた青森県の担当者は,活動を継続している理由を「学校が水質浄化に関心を持ち,活動してくれること自体が有り難いことだから」と話している。そうなのだ。厳密な効果の検証はさておき,とにかく子どもたちに関心を持ってもらいたい,子どものうちから意識づけしておきたい,というおとなの思いが,学校にいろいろなものを持ち込ませる要因になっているのではないだろうか。誰もが善意からやっている。子どものためを思ってやっている。それが,この問題のちょっとやっかいなところだ。

  でも,やはり誰かがどこかで冷静に判断しなければ。

  ヘタをすると,学校自体が「科学っぽい味つけのTV番組」と化し,子どもを通じて一般家庭にアヤシげな情報を広めてしまう危険がある。

  「学校関係者」のひとりとして,気をつけていきましょう,お互いに。

  ところで,今回いろいろと読んでみたら,EMというのは有用微生物群の英訳なので,EM“菌”と呼ぶのはまちがっているという指摘があった。開発者たちはEMとしか言っていないそうだ。たしかに。批判するにしても,勝手に造語してはいけませんね。…とは思ったが,引用した記事の多くが“菌”つきなので,そのままにしておきました。あしからず。


12.07.03. 不気味の谷

to_HOME

  京大のサイトにこんな研究成果が紹介されている。

  「母親と他人の狭間 -赤ちゃんが示す「不気味の谷」現象を発見-」

  赤ちゃんは一般に新奇なものに興味を示すから,見慣れた人より見知らぬ他人の顔を注視するが,一方で母親の顔に関しては,さんざん見慣れているにもかかわらず,飽きることなく見ている。どうしてこんなことが起きるのか,両者をどのように区別しているのかを解明しようとする研究だそうで,ロボットと人の顔の区別に見られる「不気味の谷」現象と似たものが見いだされたという。

  これはなかなかおもしろい。なにより,こうした弁別メカニズムが赤ちゃんの中に備わっていること自体が驚くべきことだ。それだけ,母親の顔を認知し注目し続けることが,赤ちゃんが生き延びていくために重要だということだろう。

  そしてこの,まったくちがうカテゴリー間の境目付近に,わざとネガティヴな反応を引き起こす領域を設けて,判断基準の変換を容易にするというのは,なんだかとても“気の利いた”しくみのように見える。

  さて,本家ロボットの不気味の谷に関して。

  この,「人と中途半端に似てくると急に嫌悪感が強くなる」という現象,これはすごくよくわかる。最近,生身の人間にかなり似せたロボットが開発されているが,私はどうもあの路線は苦手だ。まったく魅力を感じない。むしろ見たくない。昔の映画にあったような,人間らしき姿をした表皮がベリッとむけると,緑色のトカゲの体を持つ異星人が出現するのではないかというような,妙なコワさを感じてしまうのだ。

  ロボットはロボットのままでいい。あの金属的な質感,あのちょっとぎこちない体の動き,あれでいい。なにも無理やり人間に似せなくたって,ロボットにはロボットなりの「かっこよさ」,「かわいらしさ」があるはずだろう。私がいちばん気に入っている高橋智隆さんのROPIDは,できたらこのまま,高橋さんのデザインセンスのまま進化してほしい。けっしてシリコンの皮膚をまとうようなことになりませんように。

  一方,ロボットの発する声に関しては,今のところまだまだ人の声との間に開きがあるので,さしあたっては安心していられるのだが,それでもいつだったかROPIDがしゃべりはじめたときには,かなりがっかりした。以前は人の指示に無言でうなずいて,そのしぐさが愛らしかったのだが。

  まあ,いずれは人とやりとりをしないといけないだろうから,おしゃべり回路がつくのは必然的な流れなのだが,たとえそうでも,人としての自然な会話をめざすのではなく,いつまでも「ロボット語」でしゃべってほしいのである。以前見ていたドラマ『Q10』で,しだいに人間の表情や動作,しゃべり方を学習していくのに,人に対して応答するときはつい「ぱふ。」と言ってしまう前田あっちゃん(が演じるロボット)は,ロボットの正しい進化の在り方なのではないかと,私などは思ってしまうのである。

  ロボットたちが,不気味の谷をわたって人間に近づく日は,もう間近に迫っているのだろうか。それともまだまだ谷は深いのだろうか。たしかに映画に出てくるロボットたちは,人間そっくりでも違和感を感じないが,それはもちろん人間が演じているからであって,実際にロボットが人間と変わらない生活を始めたら,いったいどんな感じになるのだろう。生きているうちに見られるかなあ。