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遅ればせながら,教育心理学界でも学生のコピペ・レポート問題が関心を集めるようになってきている。数年前の学会で教大協の集まりがあったときも,学生のレポートが売買されているサイトがある(すでに有名ですね),なんとかしないといけない,という意見が出ていた。なんとかしようがあるのかどうかが大きな問題なのだが。
私も助手のころから,実験の授業で学部学生に何個もレポートを書かせてきたので,ひとごとではない。実際,アヤしいレポートは何度も目にしてきた。昔は,「こりゃ,2人で相談しながら書いたな」程度で大目に見ていた時期もあったのだが,過年度のレポートを下敷きにしている形跡を発見して以来,少し厳格に対応するようになった。再提出である。とはいっても,まさか過年度のレポートをずっと保管しておいてすべて照合するわけにもいかず,見逃してしまっているケースはきっとあるのだろう。
なんてことを今書いているのは,今年も一騒ぎあったからなのだが,まあ,それに関しては学生に直接対処したし,こんなところでぶちぶち陰口のように書くべきものでもないので,詳しくは書かない。それより,このところどうも気になるのが,著作物に関する学生の意識の低さである。
再提出させたときの学生の抗議の声をまとめると,「自分は写していません。みんなで話し合って書いたから,文章が似るのは当然です。」というようなことになる。みんなで結果の解釈について話し合うことは私も許可しているので,それはいいのだが,内容が類似していることと文章が類似していることとはまったく意味が違うということを,なんだか理解できないようなのだ。
さらにいえば,他人のレポートを下敷きにして修正を加えたレポートを,彼らはどうもオリジナルなレポートだと思い込んでいるフシがある。まるで無料のテンプレートを使ってレポートを仕上げたかのように。コピペ・レポートに罪悪感があるなら,もっとバレないような工夫をしていてもよさそうなのに,わりあいあっけらかんと酷似したレポートを提出し,「写していません」と主張してくるのだ。
バレたとわかってとぼけているのかも知れないが,むしろそっちの方が,罪悪感があるだけこっちも気が楽だ。何がオリジナルなのかを理解させるところからはじめなければならないとしたら,ちょっと気が遠くなる。先行きが暗いのだが,今はとにかく,卒論書く前に気がつけてよかったね,と考えることにしよう。
なんてことをつらつら考えていた矢先,タイミングよく(?)世間でもおかしな事件が起きた。例の「現代のベートーベン」のゴースト・ライター騒ぎである。
私自身は,ときおり新聞の広告欄に載る「ベートーベン」氏の演出たっぷりの横顔を見ただけで辟易していたので,彼がどうであろうとまったく関心がないのだが,一方ゴースト・ライターを務めていた方の人のことは,とても気になった。音楽業界の事情はまったくわからないが,彼は大学の教員だ。業界の事情とは別に,大学人として学生に著作権の重要さをきちんと教えないといけない立場にある人だ。その責任をどのようにとらえればいいのだろう。
と思っていたら,伊東乾さんがとてもわかりやすい解説を書いてくれていた。
・「偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけ」(JBpress)
なるほど。これを読む限りでは,作曲家にとってこれは片手間の仕事であり,著作権が厳密に適用される「創作」とは全然違う,「課題の実施」というものになるらしい。
・「音楽家の善意を悪用、一線を越えた偽ベートーベン」
・「偽ベートーベン事件、罪深い大メディアと業界の悪習慣」
にはさらに詳しい解説がある。作曲業界の“徒弟制”体質のことも書いてあって,ゴースト・ライターの裏事情も理解できる。(知人に肩入れして少々力の入りすぎた文章になっているきらいはあるけれども…) というわけで,これに関してはスッキリ納得である。もちろんこれは週刊誌の記事にもとづいた解説なので,その範囲内でという限定つきだ。作曲界の創作に関するとらえ方という点では納得できたが,ゴーストライター氏が100%善意の被害者といえるかどうかは,これだけでは何とも言えない。
ちなみに,私が物書きとしての伊東乾さんの文章にはじめて接したのは,震災直後の日経ビジネスオンラインでの連載「正しく怖がる放射能」のシリーズであった。そのときも,同じくわかりやすい文章で,放射線の初歩から勉強させていただいた。守備範囲の広い人だ。
たまに,子どもがネットで見かけた面白そうなニュースを送ってくる。これをお題に何か書けと。「ひとりごと」のネタにしろと。
まあ,自分で好きなだけ書けばいいのだが。
で,今回はリクエストにおこたえすることにした。お題はこれだ。
<http://gigazine.net/news/20140122-12-kids-college/>
自分の12人の子ども全員を,大学の学費を自分で払えるような人物に育てあげたという人が,実際にどんな「子育て術」を行ってきたかを紹介している。
「子育て術」は9つの“ルール”としてまとめられている。早くから家事をお手伝いさせるとか,勉強時間を決めていて宿題がないときは弟妹に読み聞かせをするとか,好きなスポーツを選択させ社会活動にも参加させるなどなど。みごとに徹底し一貫した教育方針だ。簡単にまとめてしまうなら,子どもを早くから一人前のオトナとして扱い,役割と責任を持たせ,選択と自己決定を経験させ,つまりはオトナとしての自覚を促しているといえるだろう。
動機づけ論的にはとくに違和感はない。かなり極端ではあるが,やり方としてはむしろ王道であり,“教科書的”範例と言ってもいいかも知れない。おそらく,動機づけギョーカイの人なら一般向けの講演で一度は話したことがあるだろう内容だ。それが9つ並んでいるというイメージだろう。もっともわれわれは,厳密に実現可能性を計算せずに話しているので,実際にこれだけまとめて徹底的に実践されていようとは,なかなか想像できないのだが。
しかし。
読んでいてどうにも引っかかる。何か直感的に受けつけない。記事が簡潔すぎて詳しく読み込む余地がないので,以下は大幅に推測に頼らざるを得ないのだが,いちおう書いておこう。
第一の問題は,この家の子育て術が9つのルールにまとめられたからといって,これらのルールが子どもを自立へと導いた決定的な要因といえるかどうかである。つまり,これらのルールを守れば,学費を自分で賄えるような人物に育つのか,ということだ。
新聞で見かけるビジネス書のタイトルによくあるパターンだ。「○○するためのN個の法則」といった類いのあれだ。サブタイトルを見ると,成功した企業の経営者の経験談が元ネタだったりする。「仰天のアイディア」であったり「逆転の発想」であったり,けっこう奇抜な法則がサンプルとして書かれていて興味を引きつける。
それは,伝記として読む分には面白いのだろうが,しかし,それを成功マニュアル的に受けとって,同じように実践したとしても,たぶんそううまくはいかない。それは,その人が成功したこととその人が実践したこととの間に,必ずしも因果関係がないからだ。
このあたりは,研究法の基本の一つで,見かけの関連性(アイスクリームの消費量が多いほど水死事故が多い)とか,因果関係の逆転(消防士がたくさん駆けつけるほど,大きな火災になりやすい)とか,相関関係を因果的に解釈してはいけないということを教わるときによく引かれる,誤った解釈の例を思い出させる。
たとえば,某体操選手は極端な偏食で有名だが(ホントかどうかは知らないが,オリンピック期間中も選手村で毎食ファストフードしか食べていなかったという噂があるほどだ),だからといって子どもを偏食にすれば体操が上達するとは誰も考えないだろう。
この親の場合,まず12人の子どもたちのために「十分な収入を得ていました」という時点で,どうも一般庶民とはちょっと違うっぽい感じがする。だいたい,15年半の結婚生活の間に12人の子どもをもうけたというのも極端だが,それもただの「貧乏人の子だくさん」ではなく,きちんとした考えがあってのことなのだろう。全体的に,親が相当はっきりしたポリシーを持っていて,子どもたちにも直接的・間接的にそのメッセージを伝えているようだ。
だから,ここにあげられているルール以外にも,親はもっといろいろなはたらきかけをしている可能性があるし,そもそもその陰にある,親の強烈なポリシー(きちんとルールを作って子どもたちに厳格に守らせようとする姿勢や,子どもたちの自立を促したいという価値観)が直接,子どもたちに影響を与えている可能性もおおいにあるだろう。
そういう舞台裏を知らずに,ポリシー抜きで表面的なルールだけをまねしたとしても,うまくいきっこないのは当然なのだ。
もう一つの問題は,さらに直感的だ。なんというか,“生理的に嫌い”くらいのレベルの話でしかない。いや~な気分になるのは,活動にいちいち効能書きがくっついていることである。たとえば,「キャンプに出かけるとテントの組み立て方や,サバイバル能力を養うことができる」とか,「社会では嫌いな上司とつきあっていかなければいけないから,飛び級させて年齢の異なる同級生や教師を体験させる(こういう言い方はしていないけれど)」といった具合である。もっとも典型的なのが,「家事当番の量によって子どもたちのお小遣いの額が決まる」というところだろう。飛び級や車の修理,PCの組み立てといったかなりの高難度課題を設定していることもあわせて考えると,なんだかせっかくの子どもたちの活動全般が,ただの「課題遂行」に見えてきてしまう。
言わせてもらえば,これは教育ではあるかも知れないが,子育てではないだろう。学校の教育方針としてなら理解できるが,家庭の中の活動をいちいちこんな能書きつきでやられたら,子どもたちは息が詰まる。家庭ってそういうところではないのじゃないだろうか。
もっともこれに関しては,もともとの話が「こういう活動をしたら<結果的に>こういう効果があった」というものであったのに,記者が記事をまとめる段階で,それを活動の目的であるかのように改変してしまった可能性もないわけではないのだが。
それにしても,先に書いたように,これらのルールの一つひとつを取り出してみると,どこかの講演でふれた覚えのあるような内容が多いのだが,こうやって9つまとめて見せられると,なんだかずいぶんグロテスクな「子育て術」に見えてしまうのに,あらためて驚く。講演を聴いた人が律儀に全部実行しようとするあまり,ガチガチに凝り固まった子育てになってしまわないよう,私もちゃんと「現実的な」話をしないといけない。