ひとりごと

保存箱 2013.07-12

(リンク切れ等があっても修正しません)

● CONTENTS ●


13.12.27. 御用納めの日に

to_HOME

  さんざんだったこの1年を締めくくるように,御用納めの今日,研究室備え付けのガス・ヒーターが壊れた。朝いちで電源を入れたら,すぐにエラー表示が出て,止まってしまったのである。よりによって今日から本格的な冬型の気圧配置になるらしい。まったく,なんという絶妙なタイミング。

  とにかくここは定石通り,電源プラグを抜いてしばらく放置し,また接続し直してみる。改善の徴候なし。関係はないだろうと思いつつ,いちおうフィルターに掃除機をかけてみるが,やはりつかない。

  御用納めの日にまで新たな仕事を事務に持ち込むのは気が引けるが,しかたがない。明日から事務が休みに入ったあとは,カレンダーの巡り合わせで1月6日まで丸々10日間も休みになってしまうことを考えると,今日中に,少なくとも状況を知らせておかないといけない。休み中に仕事をしに来る可能性もあるし(修論関係ですね),新年になっても修理がどんどんあとにずれ込んだら困るからだ。すぐに事務に電話を入れる。

  急な依頼だったが,幸運なことに午後にはメーカーの技術者が駆けつけてくれた。またその手際のよいこと。さすがにプロだ。症状について質問しつつ,すぐにヒーターのカバーをはずし,頭を突っ込んで何やらゴソゴソやっていたと思ったら,ものの5分もかからずに再び電源を入れ,そしたら何ごともなかったようにボォッという着火音が聞こえてきた。すばらしい。

  説明してくれたところでは,外につきだしている排気筒部分の異常を検知する回路の接触不良だそうで,排気管が排気筒につながっていないと判断したらしい。不完全燃焼を防止するために自動的に安全装置が働いたようだ。たぶん使ったのは,カバーをはずすドライバー1本。あとは文字通り手作業。


  小さい頃,田舎の電気屋さんは「ラジオ屋」と呼ばれていた。テレビが普及する前の時代の名残なのだろう。近所の若いラジオ屋さんは,電気器具が故障すると,その巨体に似合わないミニバイクに乗って坂道を上ってきてくれた。荷台にテレビを載せているときなどは,タイヤが半分くらいつぶれていて,いつパンクするかと,子どもながらにハラハラしていたものだが。

  彼がドライバーを器用に操って電気器具を「解体」していく様子は,見ていてちっとも飽きなかった。なにしろ電気器具のカバーをはずすと,そこには真空管だのコンデンサだの,なんだかよくわからないけれども当時の「技術の粋」がぎっしりと詰まっているわけで,回路図をにらみながらその「技術の粋」と対決している彼の巨大な背中は,無条件にカッコよかった。しかも,あちこちいじっているうちに,ひょいと直してしまうわけだし。

  そんなこともあり,たぶん私だけではなく同じくらいの世代の男子はたいてい,ドライバーだのペンチだのの工具をわけもなく買いそろえ,やたらと電気製品やおもちゃ類を分解して回り,そしてそのいくつかは元に戻せなくなってしまった苦い体験を持っているはずである。

  だから,たまに研究室に修理にやってくる技術者の人たちの手元を見ていると,なんだかとてもワクワクするのである。

  さて,思いがけずヒーターの故障はあっさりと直ってしまった。もちろん,私にとっては「あっさり」でも,その陰ですばやく動いてくれた事務の人たちや業者の人たちにとっては,それなりに手間のかかる仕事納めだったとは思うが。

  いろいろとトラブル続きの1年だったが,まあ「終わりよければすべてよし」で,最後にスッキリ解決したことで,来年は少しは運気が変わってくれるだろうか?


  (14.01.07.記)

  と期待したのも束の間,元日早々,昔治療した歯が大きく欠け,電気カーペットの片面が暖まらなくなってしまった。なあんだ,やっぱり今年もおんなじか。

  というか,今年は何か「半分ダメになる」運命でも背負っているのだろうか? う~む。


13.12.10. 駅弁

to_HOME

  東京出張の帰りはたいてい,18時か20時の新幹線になる。帰宅してから夕食をとるのでは少々時間が遅すぎて,翌日の胃の調子と体重にモロに影響するので,最近はもっぱら東京駅構内の駅弁屋か,駅に近いデパート(あそこですね)の食品売り場で弁当を調達し,新幹線の中で食べるようにしている。

  先週末の出張もそうだった。とくに何か思い入れがあったわけではないが,今回は久しぶりに山形に縁の駅弁を購入し,すぐに新幹線改札をくぐった。電車が動き出すのを待っていたように,周りで弁当を広げる音がしてくるので,私も袋から弁当を取り出し,ふたを開けていつものように食べ始める……はずだったのだが。

  ないっ!

  なんと箸がついていないのだ。たいてい容器のどこかにテープでくっついているのだが,どこを見てもついていない。底をひっくり返してもみたが,やはり見つからない。こんなこともあるのか。なまじ,ふたを開けて中身を見てしまったぶん,よけいに食べられないのが恨めしい。

  ふだんであれば,しょうがない,家に帰ってから食べるか,ということで一件落着なのだが,この日は特別の事情があった。翌日は病院で検査の予定が入っていて,夜7時以降は食事ができない。大宮あたりまでに食べ終わっていないといけないのである。

  どうしようもないので,この夜は食事をあきらめた。当然翌朝も食事抜き。検査は午前中なのだが,追加の検査もあってたっぷり12時半までかかってしまった。前日,昼休みにいっしょに行った事務の人たちとラーメンを食べたのがちょうど12時半頃だったので,丸一日のプチ断食を意図せず実行してしまったことになる。

  ふと,数年前のできごとを思い出した。飛行機の機内食サービスで,なんと私は往復便の両方でナイフ・フォークのセットを入れ忘れられるという苦い経験をしているのだ。そのときは,珍しいこともあるものだと軽く流していたが,ここまで来ると,これはもしかしたら私の人生を象徴しているのではあるまいか。

  おいしそうな料理は手に入れて目の前にあるというのに,肝心の箸がなくてお預け,という人生? あまり考えたくないが…。


13.12.06. 最下位脱出

to_HOME

     (… 前回の続きです …)

  こんなふうに言うと,きっと順位というのはただのきっかけで,そのあとの取り組み方はけっきょく,「学力向上」でも「順位競争」でも同じではないかと思われる人がいるだろう。しかし,「順位を上げる」ということが目標になっている限り,取り組み方も違ったものになる。学力向上という目標と順位を上げるという目標とは,同じように見えて必ずしも同じではないのである。このあたりは,目標理論でいうマスタリー目標とパフォーマンス目標の話なので,詳しくは省略する。

  ただ,2つの目標が如何にかみ合っていないかを示す事例を,一つ紹介しよう。

  前回の某知事の発言のきっかけになっているのは,全国学力調査の一部の学年・科目で,その県の平均正答率が全国最下位になったという事実である。私が読んだ新聞でも,わざわざ名指しでその「転落」ぶりを紹介していた。全国最下位という結果はよほどショックだったと見え,地方紙では,これを受けて,上・下2回にわたる特集記事を組んでいる。その下巻では,学力向上プロジェクトのモデル校に取材しているのだが,記者の受けとめ方がいかにも偏狭なのだ(元記事はこちら)。

  冒頭,「テストの点数が上がればいいとは考えていない」という校長の言葉が象徴的に紹介されているが,記者はこれを「県教委と同様に…全国学力テストの順位を重視する姿勢は見せない」と受けとっている。つまり危機感を持って学力向上に取り組もうとしていない,というふうに解釈している。しかしこれは誤解だ。

  教育関係者がこの冒頭の言葉を読めば,きっと何の違和感もなく受け入れることができるだろう。学力向上プロジェクトは,目先の学力テストの得点アップをめざした取り組みではない。前回述べたように,21世紀型の「確かな学力」を着実に子どもたちに身につけさせるための取り組みなのだ。記事の中の学校ではこれを「本物の学力」と言っている。学力調査は,授業改善のためのPDCAサイクルの一環という位置づけであり,つまりは日頃の実践を評価し,問題点を洗い出すためのツールになっているはずだ。

  この目的に沿ったモデル校の取り組みについてはきちんと取材してあり,記事でも紹介されているから,読んでいても内容はよくわかる。学校側の主張も首尾一貫していて,しっかりと取り組んできたことをうかがわせる。だが,どうも肝心の記事を書いた記者本人がその意味を理解していないようで,

指導と評価の一体化を掲げる●●校長は「授業のやりっ放しでは学力が上がらない。本物の学力をつける」と述べ、テスト対策の“特効薬”はないと強調する。

という意味不明な文章も出てくる。この文章,何度読んでも何が言いたいのかわからないのは私だけだろうか? 文の前半と後半とがつながっていないのである。前半の校長の言葉はモデル校での取り組みを説明していて,おそらくはテスト対策の特効薬などというものはなく,地道でも「本物の学力」をつけていくしかないのだ,というようなことを「強調した」のではないかと思うが,この記者のまとめ方だと,あくまでテスト対策が生ぬるい,という文脈に埋め込まれてしまっている。

  だからその直後の文では,

ただ、学力テストの点数アップを目的としない同校の考え方は改善の成果が見えにくい欠点も抱える。

と,恐ろしいことを書いている。学力テストの点数アップは,改善の成果が見えやすい指標だから,それをめざすべきだと言っているのである。改善の成果が点数として見えにくいのは「欠点」とまで言っているのである。なんだか,「偏差値教育」全盛の時代にタイムスリップしたような錯覚に陥る。

  記事の締めの文でも,

県教委の●●学校教育課長は「安易なテスト対策ではなく本物の力をつけたい」と強調するが、最下位の汚名返上の処方箋は見えてこない。

と,「本物の学力」論はあっさりスルーし,何が何でも「最下位の汚名返上」だ,それが至上命題だと結んでいる。これほどまでに,「ホンモノの学力」論と「最下位脱出」論とは相容れないのだ。これで具体的な取り組み内容が同じようなものになるとはとても思えない。

  なんだかここまで来ると,ほんとうにため息しか出てこない。全国最下位というショッキングな結果は,「これからの社会にとって必要なホンモノの学力とは何か」「それをどうしたら確実に子どもたちに定着させることができるか」といった重要で本質的な,しかし時間のかかる議論や取り組みを根こそぎ吹っ飛ばしてしまうほどの破壊的威力を持っているのだろう。そして,順位という判断基準を採用する限り,毎回どこかの県で同じような悲劇が繰り返されることになる。いいんですか,それで?

  それに今回の場合,だいいち「学力向上」の主語は児童生徒だが,「最下位脱出」したいのは児童生徒よりむしろ大人の方だろう。県のプライドとかメンツとか,そういうのをなんとかしたいということであって,子どもたちはいわば,県代表というゼッケンを胸につけさせられて,代理的に競争させられているに過ぎない。学力に問題があるのは事実であり,何らかの対策が必要だということまで否定するつもりはもちろんないが,とはいえ,学力向上が最下位脱出という目標のための手段と化してしまっては,本末転倒としか言いようがない。

  もう一度繰り返すが,学力調査は県別対抗イベントではないはずだ。


13.11.29. 順序尺度

to_HOME

  また,ため息をつきたくなるような出来事が起こった。全国学力・学習状況調査をめぐる某県知事の発言である。成績下位100校の校長名を公表するとした,アレだ。まあ,この人が特異というわけではなく,きっと多くの人が似たようなことを考えてはいるのだろうが,一般人とはちがい,教育行政において直接の権限を持つ立場の人が公の場で発言したわけだから,それなりに影響力は大きい。

  私が問題だと思うのは,知事の主張の根底に,順位という相対的評価基準がつねに存在していることだ。全国最下位というのも順位なら,対応策である成績下位100校というのも順位であり,どうもそれが発想の原点になっているらしい。

  相対評価の弊害,たとえば努力が結果にストレートにつながりにくいとか,勝者がいる一方で必ず敗者を生み出す評価システムであるとかの問題については,教育現場ではこれまでさんざん議論されてきており,結果,むやみに相対評価を持ち込むようなやり方は,とっくに過去のものになっているのだが,全国規模,世界規模の学力テストの結果が公表されるたびに,突如としてあちこちから相対基準ベースでの議論がわき起こってくる。なかでも,とりわけ精度の低い指標である順位が基準として幅を利かせるのは,じつに困ったものだ。

  心理統計を勉強しようとすると,たいてい最初の時間に出てくるのが「尺度の水準」の解説である。名義尺度・順序尺度・間隔尺度,そして比例尺度の4種類。この順に精度が高く,したがって得られる情報量も多い。

  心理学で扱うデータは,厳密には名義尺度かせいぜい順序尺度。それをなんとか間隔尺度以上であると見なして各種統計技法を適用しようと,研究者はさまざまに工夫を凝らしてきた。ガットマンとかリッカートあたりが代表格といえようか。

  学力テストの成績は一般に間隔尺度として扱われる。だから平均値なり標準偏差なりの統計値を使って,その特徴を表現することができる。その意味において,学力テストの結果には,さまざまな情報が埋め込まれているといっていい。(もちろん,学力テストでは測れない情報もさまざまにあるのだが,そのことはここではおいておこう。)

  ところが,順位というのは順序尺度であり,間隔尺度に比べて精度が格段に落ちる。大差がついての2位もハナ差の2位も,同じくただの2位。低調なレースでも記録を塗り替えるようなレースでも,同じく2位は2位。それ以上の情報はない。 ――順位を判断の基準にするということは,まさに間隔尺度であるテスト成績を,順序尺度として扱っているのにほかならない。せっかくそこに詰まっているさまざまな情報を切り捨てて,わざわざ精度の低い,粗い情報にもとづいて判断しようとしているのである。

  逆に,順位がヘンな動きをすることもある。たとえば,マラソンを考えてみよう。お互いに牽制しあって,なかなかスピードがあがらず,いわゆるダンゴ状態のままでで推移するレースがある。先頭を走っていた本命の選手が,風よけのために先頭を譲って集団の中に入る。ちょうどそのときに途中の通過タイムが計測されると,同タイムのランナーがずらりと並び,先ほどの選手の順位が,かなり下の方になってしまうことがある。順位だけを見た人は,何かアクシデントでもあったのかと心配になるくらいだ。

  つまりダンゴ状態のレースでは,ちょっとしたことで順位は大きく変動するが,じつはトップの選手も10位の選手も,タイムはそう変わらなかったりするのだ。中継をちゃんと見ていれば惑わされる心配はないのだが,これは順位だけが過剰に変動しているのである。

  今回,文科省の発表によれば,学力の地域差が改善し,とくに平均以下の地域で,平均との差が縮小しているという。つまりは,言い方は悪いがダンゴ状態だ。先ほど述べたのはレースの駆け引きだが,全国学力調査の場合は,各地域がそれぞれに工夫を凝らした結果,あるレベルまで追いついてダンゴ状態になったようである。しかし,がんばってがんばって努力してダンゴ状態になったとしても,無情に順位はつくので,たとえば20点差を1点差まで詰めたとしても最下位は最下位のまま。逆に最下位を脱出したと喜んだとしても,僅差の逆転であったため,あっという間に再逆転,なんてことも起こりうる。(今回がそうだというわけではない,念のため。)

  私が今回の調査結果の発表をニュースで耳にしたとき,まっ先に思ったのは,もしかすると文科省は,ダンゴ状態なのだから無用な順位争いはやめておけと,先手を打ってこの格差縮小傾向をわざわざ前面に出したのではないか,ということである。…まったくの憶測だが。

  にもかかわらず,よせばいいのに,あくまで順位を問題にしたい人たちがいるらしい。私が読んだ新聞では1面に調査結果の概要が掲載されている一方で,別の面では,各県の学力向上への取り組みが紹介されているのだが,その基準になっているのが第1回調査と今回の調査との順位の変動である。順位が上がった県ではこんな対策をとっていますよ,という取りあげ方だ。

  ご丁寧にも,その研究者が順位づけまでしてくれているのだが,それは国語のAとB,算数・数学のAとBの平均正答率を,それぞれ合算して順位づけしたものだ。

  この研究者は,よそのメディアの取材に対して,「平均正答率だけを問題にするのは意味がない」というような発言をしていたはずなのだが,平均正答率どころか,測っているものが異なるAとBの平均正答率をわざわざ合算してそれを順位づけるという,どんどん何を表しているのかわからなくなるようなグロテスクな指標を,でっちあげているのである。どうもこのセンスにはついていけない。

  しかもその記事も(こっちは記者が書いているのだろうが),ベスト3県,ワースト3県を表にしたり,順位が下がった県を「●●位から●●位へ29も転落」などと,明らかに順位争いを煽る書きっぷり。これはいったいどうしたわけだ?

  ため息。

  各県の学力向上策を紹介するというのは,何かと叩かれがちな学校現場の取り組みの現状を一般に知らせるという点で,おもしろい企画だと思う。しかし,せっかくの取り組みが,順位をあげるための施策であるかのように,短絡的に結びつけられてはかわいそうだ。おそらく昨今の各県の取り組みは,たんなる全国学力調査対策ではない。全国学力調査を意識しているのは間違いないが,基本的には,前の指導要領策定のあたりから続けられてきた「21世紀型学力とは何か」の議論をふまえ,それを確実に子どもたちに身につけさせる(文科省が「確かな学力」と呼んでいるのはこのことだ)ための取り組みだろうからだ。

  同じ取り組みを紹介するにしても,わざわざ順位に変換せず,6年間の「平均正答率の伸び」がとくに大きかった県,という紹介のしかたもあったはずだし(全体の正答率が2回の調査でちがうので,「伸び」というのは正確ではないが),A・Bをきちんと区別し別々の得点として扱った方が,それぞれの取り組みがどのような学力に影響したかの分析に役に立ちそうだ。それぞれの県で問題点の分析が行われ,それに応じて必要な対策が練られているはずだからである。たんに「こうすれば順位が上がる」という話ではない。

  しつこくいうが,学力調査の結果には,授業改善へとつながるさまざまな情報が詰まっていて,某研究者が指摘するように,平均正答率や順位などという粗い指標にこだわりさえしなければ,いろいろな使い道があるはずなのだ。

  なのに。

  どうも毎度毎度,調査結果が発表されるたびに,メディアも研究者も,さらには行政のトップに立つ人たちまでもが,突如としてこぞって順位争いに加担しはじめるのを見ると,悲しくなってくる。全国学力調査は,県別対抗イベントではないはずなのだが。

       (…… もう少し続きます ……)

【特別編】へ

13.08.06. 夏休みの工作

to_HOME

  授業のレポートの提出箱として,ずっと段ボール箱を使ってきた。ただのB4版のコピー用紙の空き箱である。A4のレポート用紙をスッと投入するには,B4サイズの箱がちょうどいい。しかし,いちおう授業名を書いた紙が貼ってあるとはいえ,外見上何の変哲もない段ボール箱なので,たまにゴミを投げ入れられたりもしていた。

  そのため,外装をもうちょっと凝ってみようか,というのはずいぶん前から考えていたのだが,なかなか最後の一押しをしてくれる動機がなく,ずっとそのままになっていた。それがついに今回,なんだか突然思い立って提出箱を作成することにした。

  といっても,本人の趣味により,使う素材はやはりコピー用紙の段ボール箱。段ボールの空き箱を使った工作は,じつは学生時代からの趣味というか,小物家具を安くあげるための生活の知恵であった。完全に板状にバラして,木工の要領で作り直した方がきれいなのだが,さすがに面倒なので,今回は箱のまま再利用する。B4のコピー用紙の箱といえば,昔はどこにでも転がっていたものだが,昨今すっかりA4サイズが主流になってきて,B4の箱はなかなか手に入らない。ストックしてある貴重な一箱を活用することにする。

  問題は“見ため”なので,とにかく“廊下に出してある不用な空き箱”っぽく見えない程度に,フィルムシートで表面を覆ってしまうことにする。デザインは凝り出すときりがないので,値段の安い黒単色のシートをベースに,多少色気を足す程度と,早々に決めてしまう。(ほんとはもっと目立たせたいのだけれども,そんなところで悩んでいたらとても完成しないので…。)

  ところで,現在でも,ただ段ボール箱を無造作に置いてあるように見えるけれども,じつは中身は少々凝っていて,レポートを入れやすいよう投入口をスロープにし,また投入したレポートが重さで丸まってしまわないよう,内部に傾斜をつけた中敷板を張っている。新しい提出箱でも,そのデザインは踏襲した。

夏休みの工作1 夏休みの工作2   できあがったのがこんな感じ。ま,ヘンなデザインはしょうがないとして,使い勝手だけはよさそうだ。投入口のスロープはフィルムシートで滑りやすくなったし,中敷板もいい角度でレポートをピシッと重ねてくれる…はず。

  また,箱とフタが分離しないようにもしてある。これは,誰かが勝手に開けてしまわないようにの対策の準備。いずれ必要になれば,これに手を加えてやればいい。マグネットでドアに貼れるようにしようかとも思ったのだが,そうなるとドアの開け閉めに気を遣うので,これは断念。今まで通り,パイプ椅子の上に置いておくのを前提としている。

(なお,レポートのタイトルは前・後期で変わるので,はがせるスプレー糊で貼っている。フィルムシートの上に貼っているので,たぶん貼ったりはがしたりは,やりやすいだろう。)

  会議の合間にがんばって作ったのだが,残念ながらレポート受付初日には間に合わず。早めに出しに来てくれた人たちは,旧型の段ボール箱に出すことになってしまったが,なんとか予定より2日遅れで,稼働しだしている。


13.08.02. アートロード

to_HOME

  授業期間が終わったので,取り損ねていた公務出張の振替休をとることにする…というか,事務からとれと催促されたのだが。

  雨続きの上越を離れ,めざしたのは長野・安曇野。その日の上越は大雨予報で,長野は雨のち晴れだったので,少しはましだろうと考えたのだ。せっかくの休み,陽射しがほしい。とはいえ,やはり現地も雨天になる可能性はおおいにあったので,屋内メインで美術館巡りをすることにした。

  安曇野から白馬にかけては,148号線に沿って多くのミニ美術館が点在している。「安曇野アートロード」と名づけられ,北アルプスを望む田園風景という“アート”もコミで,関係自治体が宣伝に力を入れているようだ。白馬周辺はだいぶ昔に回ったことがある。安曇野側は一昨年に続いて2回めだ。

  ミニ美術館の面白さは,それぞれのコンセプトがはっきりしていることだろう。ごくピンポイントなテーマ,あるいは特定の作家の作品のみの収蔵。たいていが現代美術なので,よく知らない作家の方が多いのだが,回っていると毎回,いろいろな発見や出会いがある。もちろん,ときには選択を失敗することもあって,超難解な作品をこれでもかというくらい見せられたり,この値段でたったこれだけ?!! と毒を吐きたくなる料金設定だったりと,それなりに当たり外れは覚悟しないといけないのだが,そういう感想も含めて,全体としては楽しめる。

  それに,なにより気軽に入れるし,他人を気にせずゆっくりと自分のペースで見て回れるところがいい。チケット購入段階からひたすら長い行列の中,他人の頭越しにしか作品を鑑賞できない大きな企画展とは,対極の世界である。

  そんな美術館巡りだが,今年ちょっとした変化に気づいた。アートライン上のミニ美術館が,いくつも閉鎖されているのだ。一昨年もらったパンフと見比べても,記載から消えたり,×印がついているところがある。白馬を回ったころの記憶からすれば,かなりの数が閉館になっているはずだ。つまりは,「ミニ美術館ブーム」はもう去ってしまったということだろう。そういえば,ひところは旅行ガイドを開くと必ずといっていいほど載っていた美術館巡りのマップも,最近は見かけなくなった。

  一時期,日本のあちこちでミニ美術館が作られた。よく覚えていないが,おそらくはジャパン・マネーが世界の美術や文化を買い漁っていた頃ではないだろうか。なかには,いかにも有名作家の名前だけで集めたらしい作品群が,雑然と展示されていたり(ほとんどの作品が習作だったり…まあ,それはそれで見る人が見れば価値があるのだろうが),ごくふつうの別荘風の建物に,けっこう名のある作家の油絵が無造作に展示してあって,真夏の陽光をたっぷりと浴びていたりしていた。

  また,何か話題にのぼった人がいると,その人に少しでも縁のある町が,作品や思い出の品々を並べてミニ記念館に仕立て上げた。そんなミニ美術館ブームが,不景気のせいだかなんだか知らないが,ついに終焉を迎えつつあるということなのだろう。

  アヤシイ美術館が,入館者からあきれられて閉鎖されたのなら,当然の帰結というか,喜ばしいことではあるのだが,実際はどうなのだろう。そして,そこに展示されていた作品は,いったいどこへ行ってしまったのだろう。まさか,展示する余裕はなくても個人が資産として抱えたまま死蔵している,なんてことはないだろうか。それはそれで気がかりではある。

安曇野ちひろ美術館   写真は,安曇野ちひろ美術館の花壇。言うまでもなくいわさきちひろをメインテーマに掲げる美術館だが,常設の展示室はけっして広くなく,むしろワークショップに使えるオープンスペースがかなり充実していて,実際にさまざまなアート教室が企画されているようだ。幼児が遊び回れるコーナーなどもあり,どちらかといえば,地域のコミュニティ・センターといった様相だ。

  そして,館の前には広い水辺公園があって,こちらは無料で利用できる。写真の花壇は館の横手にあって,ちょうど見ごろだった。地域の人たちがボランティアで育てているそうだ。曇り空だったがまずまずの天気。長野の山には不案内なのでよくわからないが,たぶん背景の山々は北アルプスだ。


13.07.29. 経験から判断?

to_HOME

  選挙が終わって,まあおおかたの予想通りの結果となった。相変わらずどこの局でも長時間にわたる選挙特番が組まれているが,最近は出口調査に基づく精度の高い当落予想が,番組冒頭にドン!と出てしまうのでつまらない。昔は,開票速報が出るたびに有名候補の順位変動に一喜一憂する楽しみもあったのだが,よほどの接戦区でもない限り,それはなくなった。開票率1%にも達しない段階で,あっさりと当確が出てしまうのである。

  さて今回の選挙では,朝日新聞が1日1テーマずつとりあげて各党の公約を比較し,解説を加えるという,有権者としてはたいへんありがたい連載を企画してくれた。しかも,かなり長期にわたり,テーマもさまざまであった。あまり関心のないテーマのときも,とりあえず対立軸に沿って各党の主張を空間的に配置した図をながめるだけで,ちょっとは勉強した気になった。

  ところが,その中で「教育」をテーマにした回になったとたん,読む気が失せてしまった。その企画には必ず,担当した記者のコメント欄が設けてあるのだが,そのコメントのタイトルが,記事より先に目に入ってしまったからだ。曰く,

「いい教育とは? 経験から判断を」

  コメント本文を読んでも,やはり,

「すべての人が教育を受けた経験があり,親として学校と関わった有権者も多い。身近なテーマだからこそ,考えの近い政党を探すのも比較的難しくないのではないか。」

などとまとめている。う~ん。教育は経験則でいいんですか。

  まあ,このような教育問題の扱いは,今に始まったことではない。“教育問題に専門家も素人もない。みんなが経験を持っているのだから。”…などというフレーズは,昔からいろんなところでいろんな人が言ってきたことで,たしかにそれはそのとおりではあるのだが,一方でみんなが口々に自分の経験から意見を述べてきたせいで,毎度毎度教育界が振り回されてきたという歴史もあるわけで…。

  いかんいかん。私はけっして,教育問題は専門家に任せなさい,などというつもりはない。経験に基づく実感が重要なのはたしかだろう。しかし,新聞の解説記事として,「経験から判断を」などと言ってしまうのは,なんかプロ意識に欠けるのではないか,と思うのである。

  TPPだって電力問題だって,身近といえばひじょうに身近な問題で,みんなの日常経験とつながっている。しかし,それらの問題に対して経験から判断するよう呼びかける新聞は,おそらくあるまい。たとえば,TPPに参加すれば輸入品が安く買えて大助かりだと考えている人に対しては,食料安全保障という問題もあることを説き,今すぐ再生可能エネルギーに転換すべきと主張する人には,電力供給の不安定さと料金の値上げに耐える覚悟があるかと問いかける(すみません,これはあくまで例でして,きっとこれくらいはみんなわかっていると思うけれど),つまり経験則では及ばない,もう一歩先の視点を提供して,読者の判断の幅を広げてくれる。そういうのがプロの解説ではないだろうか。

  教育もそうだ。21世紀前夜から,もう10年以上も教育界は「21世紀の教育はどうあるべきか」の論議で揺れに揺れている。立場はいろいろだが,従来型の教育ではダメだというのは基本的な前提となっている。だって子どもたちは,すでに親世代の環境とはかなり違った環境で生活しているのであり,しかもこの先またどう変化していくかわからない環境と,つきあっていかざるを得ないのだから。こういう問題では,経験則は場合によってはかえって邪魔になるということも理解してほしい。

  ところで,毎回掲載される各党の布置図だが,たいてい軸を2つとって2次元で分類しているのに,教育の回はなぜか軸は1つだけ。「国が主導」vs「現場に裁量」という対立軸なのだが,ひとくちに学校・地域に裁量権を持たせるといっても,それぞれの党でニュアンスはずいぶんちがっていて,「地域の実情に合わせて」という,いわゆるオンリーワン発想の裁量権を主張している党もある一方で,学校間・地域間で「競争させる」のを前提とした裁量権を主張している,つまりはナンバーワン発想の党もある。競争は,企業では低コストで成果を得るための常套手段だろうが,はたして教育になじむのか。なんてことを考えると,この1次元で各党の近さを表すのは,ちょっと無理なんじゃないだろうか。


13.07.09. 年功序列

to_HOME

       …(前回の続きです)…

  今回の辞職校長の給料についての発言は,同じ民間人校長どうしで見せ合ったら,その中で最低だったというところから来ているらしく,そのため,経歴が考慮されていない,年功序列だ,と批判しているようだ。

  すみっことはいえ,もう教員の世界にどっぷり浸かっている私などは,それを聞いて,「経歴といったって,校長としての経歴は未知数なのだから,考慮しようがないではないか」などと思ってしまったが,しかし考えてみれば,高い期待を持って迎え入れる人材である。プロスポーツの世界だったら,エース級の活躍を期待している選手を,その期待値込みの高給でよそから引っ張ってくることはよくあるわけで,そういう給与体系があってもよさそうだ。その方が,引っ張られてきた人もやりがいがあろうというものだ。

  しかし,期待を込めた高給を用意するのであれば,当然ノルマも厳しくなる。払っている給料に見合うだけの仕事をしてくれなければ困る…そうだれもが考えるだろう。それほど長くは待てない。比較的短期間に,目に見える成果を求めるだろう。これは,民間人校長にとっては願ってもない状況である。ビジネスの世界でさんざん修羅場をくぐり抜けてきた,それこそ経歴がものをいう。民間人校長は,ここぞとばかりに部下の教員たちに圧力をかけ始めるかも知れない。成果を出せと。

  問題はここのところにあるような気がする。なにしろ教員の仕事のほとんどは,そう簡単に成果が出るようなものではない。

  たとえば,不登校のケースがある。彼らは学校に来てくれないので,教員の側からさまざまな形ではたらきかける必要がある。本人が部屋に隠れて出てこないとしても,定期的な家庭訪問を欠かさないとか,いっさい返事がなくても,見てくれていることを信じて連絡帳を書いて届け続けるとか,とにかくコミュニケーションを絶やさないために,あの手この手を打ち続ける。ヘンに登校圧力になったりしないよう,言葉を慎重に選びながら。

  はっきりいって手応えは薄い。それでも,きっと何かは子どもに伝わっているはずと信じて,100粒のうち1粒でも芽を出してくれたらと願って種を植え続けるように,はたらきかけを続けるしかない。

  しかし,先生方の努力はなかなか報われない。けっきょく変化のきざしも見えないまま卒業していくケースも少なくないのだが,なかには不思議なことに,上の学校に入学したとたん,何もなかったように登校しはじめることがある。

  さてこの場合,この教員の努力はどのように評価されるだろうか。上の学校の方が教育環境が整っているから登校をはじめたのだ,それに比べて…などと言われたりはしないだろうか。あるいは,効果のわりにその子に手をかけすぎている,もっと他の子たちに力を入れる方が効率的だ,などと言われないだろうか。

  教育という仕事が最終的に目ざすのは,10年後,20年後の子どもたちの生き方である。何がいつどこで実を結ぶかわからない。何が正解か,どれが効率的かもわからない。というか,それは子どもによってちがうのだ。だからとにかく今は,できるだけたくさんの種をまいていくしかない。もちろん,それを口実に,はたらきかけの見直しと改善をサボっているというのは論外だが,効率が悪いからやめる,短期的に効果がないからやめる,とやっていたら,教員のはたらきかけはどんどんやせ細っていくばかりである。10年後どころか,現在でさえ影の薄い存在になりかねない。

  以前,日本の年功序列制は,若手社員の失敗を許容し,育てるよい制度なのだという意見を読んで,なるほど,と思ったことがある。若いうちはいろんなことにどんどんチャレンジし,トライし,失敗しながら鍛えられていくことが多い。年功序列制では,大成功してもすぐに昇給はできない代わりに,多少失敗しても切られる心配もない。だから開き直って,失敗を恐れずチャレンジすることができる,という趣旨だったと思う。上司もまた,鷹揚にかまえ,サポートしたりカバーに回ったり気配りをすることができる。

  成果主義・実力主義ではこうはいかない。多くの人は失敗を恐れるあまり,小さくまとまってしまい,上司も自分の査定にかかわるから,迂闊に応援することができなくなる。結果,人材が育たないという。

  もちろん教員は新人社員とはちがう。しかし,短期的な成果や効率に惑わされずに,将来を見据えてさまざまな試みを続けていかなければならないという点では,同じことが言えるだろう。そういうときに成果主義はなじまない。

  そして校長は,教員集団の方向性を決め,コントロールする重要な役割を担っている。そう考えると,仮に民間人校長限定の制度だとしても,成果主義的な給与制度導入の影響は,予想以上に大きいかも知れない。ここはよく考えてもらいたいところである。


13.07.04. 企業の論理

to_HOME

  橋下市長の号令のもと,大阪市でこの春始まったばかりの民間人校長。たった3ヵ月しかたっていないというのに,早くも辞職者が出たというニュースが流れてきた。やれやれ。

  年度途中で,それも1学期も終えていないうちに投げ出してしまうなんて無責任すぎる,というのがおおかたの感想のようだが,私がニュースを聞いてまず思ったのは,「民間企業の視点や考え方を導入するってことは,つまりこういうことなのだ」ということだ。極端ではあるが,考え方自体はいわゆる「企業の論理」に沿ったものだろう。

  まあ,私は企業の実情をまったく知らないから,すべて推測に過ぎないが,利益があるとにらんだ分野には積極的に資金と人材を投入し,見込みがないとわかったら,損害が拡大しないうちにさっさと手を引く,というのが企業の論理なのではないか。果断で的確な対処ができるかどうかが,企業の命運を左右するのだ。もう少し待ってみたらとか,そこでがんばっている人たちに申し訳ないからなどといって決断を遅らせたら,かえって致命的な損失を生みかねない。会社にとってであれ自分にとってであれ,損か得かをシビアに追求するよう求められているのが企業人だろう。

  学校の風通しをよくするために,民間の考え方を入れるというのならば,当然こうした考え方が入ってくることも想定しておかないといけないはずだ。(橋下市長も,こうした事態は「ある程度は織り込み済み」といっているらしいが。)

  それにしても,辞職した校長の言いぶんを読むと,教師という職業が,いかに企業とかけ離れた論理で成り立っているかを思い知らされる。給料がいくら安くても,自分のやりたいことがやれる優秀な学校に異動させてもらえなくても,たいていの教員はあっさり辞職したりはしない(もちろん,転職先のあてがあるかどうかという問題もあるが)。文句も言わずただ黙々と(あ,文句は言っているかも),自分がやりたいことではない日常の膨大なルーチンワークを,こなしているのである。

  それどころか,このまま定年まで勤めれば退職金が目減りしますよ,今やめる方がお得ですなどと言われてうっかり早期退職に手を挙げようものなら,生徒の保護者だけでなく,世間全体から一斉に非難されることになる。企業だったらおそらく,そのぶん若い(給料の安い)人材を雇用できるから,早期退職は歓迎されるのではないだろうか。それに,わざわざ別の会社の社員から文句をつけられるすじあいはあるまい。

  そんな,どうみても割に合わない仕事が教師という職業なのだ。だから橋下市長も,辞職校長を批判するのに,「公の世界」とか「覚悟」などという精神論を持ち出さざるを得なかったのだが(たぶん),そもそも民間企業の価値観を持つ人にそれを求めること自体,無理があるかも知れない。外資系の企業を渡り歩いたという,この辞職校長の経歴を知ると,よけいそう疑いたくなる。

  いや,だから民間校長なんてどだい無理,などと後ろ向きなことを言いたいわけではない。こうした根本にある価値観の違いを,お互いにしっかり認識しておく必要があるだろうと思うのである。この価値観の違いは,簡単に融合したり同化したりできるものではないし,そうすべきものでもない。それでは学校現場に新しい風を送り込むことにならないからだ。企業の考え方を,どこにどのように取り入れたいのか。そのあたりをきちんと詰めて「契約」しないと,たぶんうまくいかないし,無用な対立と消耗を生むだけになりかねない,と思うのである。

  ところでこの辞職校長は,子どもたちへの思いを聞かれて,「申し訳ないとは思わないが,残念だとは思う」と答えているそうだ。さしずめ,「君の提案はとてもよい企画だったが,役員会では採択されなかった。残念だ。」という,ドラマにありがちな意味での「残念」といったところか。人間相手の言葉としては,正直意味不明である。自分たちの校長先生から,「残念な子ども」呼ばわりされてしまった子どもたち(意味ちがうか…)の今後が気がかりではある。