修士論文についての考え方と構想発表の書き方


(試論:1995年10月5日)

★The proof of the pudding is in the eating.

★A lot of disappointed people have been left standing on the street corner waiting for the bus marked Perfection (Donald Kennedy)

 自分が修士論文(以下修論)について書いているときに一番わからなかったのは、結局修論というのは何を書けばよいのか、ということであったと思う。私がこの質問をある先輩にしたときに返ってきた答えは、「何を書いてもいいんだ」というものであった。その後、自分なりに修論を書き、またいくつか論文をかいてみる中で、数学教育学の論文とはこのようなものではないか、という考えがぼんやりとながらできてきたので、本稿ではこれを示し、皆さんが自分なりの「修論とは」を考える際の参考として供するものである。
 なお、本稿は筆者(布川)の独断であり、他の先生方の意見を必ずしも反映するものではないこと、本稿の内容について何か問題があればその責めは全て筆者にあることを、あらかじめお断りしておく。

1. 修論についての基本的考え方

★The secret of success is constancy to purpose. (Aristotle Onassis)

★When in doubt, tell the truth. (Mark Twain)

 修論はもちろん、2年間の大学院での研究生活の集大成であることは言うまでもない。しかし内容に関して言えば、結局修論は(あるいは数学教育学の論文は一般に)自分の数学教育についての立場や思いの表明であり、それを他の人々にも共有してもらおうとする努力の現われではないかと思う。つまり、自分はこんな算数・数学の授業がしたい、あるいは算数・数学の授業を通して子ども達にこのような経験をしてほしい、といったことを表明し、そのために自分はどのような工夫をするのかを提示していくのである。例えば、筆者は「ストラテジーの指導により子どもに真の問題解決力をつけてほしい」ということを、基本的な立場としている。
 しかし、ここで立場の表明や他の人々のとの共有ということから、いくつかの制約が修論に課されることになる。第一の点は、自分の立場をできるだけ明確に表現することである。私の上にあげた基本的立場では、「ストラテジー」、「真の問題解決力」という言葉で私がどのようなことを考えているのかがわかりにくく、他の人に自分の立場を表明するという点では不十分である。
 第二の点は、他の人々にも共有してもらうために、なぜ自分の立場が、他の人々に共有してもらうに足るものであるかを、論文の中で説得しなければならない、ということである。人を説得するには、脅し、泣き落とし、暗示にかける等いろいろな手段が考えられるが、論文においては相手の知性に訴える手段をとることが求められる。私がいくら「ストラテジーを教えれば解決力がつきますから、授業で教えてください」とただ言ったところで、相手が私の信者でないかぎりは、疑いの目で見られるのがおちである(実際、皆さんは心から上の主張を信じれますか?)。相手にわかってもらうためには、具体的なストラテジーにはどのようなものがあるのか、数学の問題を解くという営みから見てそれらがどのような働きをしうるのか、実験授業においてどのような成果が得られたのか、等を説明し、相手に納得してもらう必要があろう。
 しかも論文は基本的には、自分と会ったこともないような人も読むのであるから、論文さえ読めば自分の言いたいことが分かってもらえるように書く必要がある。読み手にわかりやすい構成や文章が求められる所以である。またえてして研究者には疑り深い人が多いので、下手な揚げ足を取られぬよう、先に手を打っておくことも必要かも知れない。
 ただ、このような制約はあるにしろ、とにかく修論は自分の立場の表明なのであり、その立場の大切さ、面白さを訴えることが大切なのだということは、忘れないで頂きたい。
 確かに、修論には2年間という時間的制約もつくので、必ずしも自分の立場や思いそのものの表明にならないこともある。というよりもむしろその方が多いであろう。「ストラテジー指導が解決力をつけることになる」という思いが私にはあっても、それ自体を人に説得するだけの材料もなければ、自分の考えも不明確な部分が多いことから、修論では「従来の解決過程モデルとは別のモデルを使えば、従来のストラテジー指導は異なった指導が可能である」といった程度のことしか言えなかった。しかしこれは、自分の思いをなんとか人に説得しようという過程から生まれた結論であり、またそのための一つのステップになると自分では信じている。書きやすさ、カッコ良さを求めることで、自分の思いを忘れないようにすることが大事であろう。

2. なぜ論文はあのような形式を取るのか

★Your most important sale in life is to sell yourself to yourself (Maxwell Maltz )

★子曰 學而不思則罔 思而不學則殆(「論語」)

 実際の修論をみてみると、研究の動機、現状の分析、先行研究のレビューなどが最初に続いている。自分の立場を表明するのが修論の主旨ならば、なぜあのようなことを延々と書くのであろうか。
 結論から言えば、最初の部分にあのようなことを書くのは、自分の立場の位置づけを示すことで、自分の研究の内容を理解しやすくするためである。
 研究の動機は自分の立場が、どのような問題意識についての自分なりの答えになっているのか、その根っこの部分を示すことになる。有名な例としてはvan Hieleの理論をあげることができる。彼は著書 Structure and Insight の中で、生徒が論証ができず、しかもその際に生徒達と言葉が通じないような感じのしたこと、また数年経つとその生徒達が自然と論証ができるようになっていくことに疑問を感じたことが、研究の端緒であったと述べている。これが書いてあることにより、我々は、彼の難解な水準論や構造と洞察についての議論を読むとき、それが彼の動機とどのように関わっているかを考えることで、その理解を深めることができる。
 現状の分析は、自分の立場が現在の教育の問題とどのように関わっているのかを示すのに役立つ。研究の動機がかなり私的な部分であるとすれば、現状の分析は他の人達の意見や調査を引用しながら、自分の動機をより公的な問題意識に高めていく過程であると言えよう。自分の研究が単に自分の好奇心を満足させるためだけのものでなく、数学教育のコミュニティの中で考えていくべき問題に関わっていることを示そうとするものである。これにより、読者は、読者自身の問題意識を参照しながら論文を読むことができるようになる。
 先行研究のレビューは、少なくとも二つの意義を持つ。まず、それ以前に問題意識が公的なものに高められているが、そのことから読者は当然、「そのような皆が大事だと思っている問題なら、すでに解決が試みられているのではないか」と考えるであろう。そこで、先行研究のレビューをし、そうした読者の疑問に答え、これまでにその分野ではどのようなことが考えられてきたか、を示すのである。これを示すことは、逆に自分がどのような意見を踏まえた上で同じ問題にチャレンジしようとしているか、を表明することになる。つまり自分の持っているその分野に関する思想的背景を読者に示すことで、自分の立場をわかりやすいものにするのである。
 もう一つの意義としては、他の研究者の意見と自分の意見を対比させることで、自分の立場を明確にすることがあげられる。木暮知弘氏(平成5年度修了)の修論はよい例である。彼は、元の問題の条件を変更することによる問題設定を扱った。条件を単純に変更すると答えがないような問題ができてしまう。従来の研究では、こうした解けない問題が現われないような工夫をしてきた。これに対し木暮氏は、解けない問題を正面からとりあげた授業を展開することを考え、これについて修論を書いたのである。
 このように、修論の前半に書かれるこうした部分も、実は自分の立場を読者にわかってもらうために役立っているのである。逆に言えば、動機や現状の問題点、先行研究のレビューも、自分の立場の理解に役立つ形で書いていくことが求められる。例えば、先行研究のレビューをするときに、読んだ論文の内容を長々と載せることはあまり意味がない。むしろ、その論文の主張を簡潔に述べた後で、その論文から(修論の問題意識に関わり)自分が何を読み取ったか、またそのどの部分に自分が賛同しどこに疑問を持つのか、といったことを述べ、自分と先行研究との関係がわかるように書く方が、読者にとってはわかりやすいであろう。
 同じことは、論文の後半を占める、実際の考察や、調査・実験の分析、具体例の展開などにも言える。
 例えば実験のことを考えてみよう。例えば私がストラテジーを算数の授業の中で指導し、次に事後テストとして指導で用いたのと類似の問題を解かせたとしよう。そこで子ども達がストラテジーを使って問題を解き、正答率が上がったとする。このデータを示したときに、「ストラテジーの指導により子どもに真の問題解決力がつく」という主張を読者は受け入れてくれるだろうか。おそらく無理であろう。指導の中で用いたのとよく似た問題を、しかも教えられた解き方で解いたからと言って、子どもに解決力がついたと主張するのは無理がある。したがって、どのような調査や実験をするか、あるいはデータをどのように分析し、整理して読者の前に提示するかは、自分の立場を説得するという点から見て適切なものであることが求められることになる。(数学教育学においては、心理学などと違い、〜を言いたいときは〜のテストを用い、〜の分析をすればよい、といった手続きがあまり確立していない。したがって自分の主張に合わせて自分なりの方法を考案しなければならない。だからこそ手作りの面白さがある、とは某先生の談である。)
さらには今後の課題についても同じことが言える。今後の課題には、もちろん自分の次の課題を書くことも必要であろうし、下手な質問をされないために「それは今後の課題です」と逃げを打つために書いておくこともあろう。しかし、そこに書かれた課題は、ある意味では修論での議論をしてみたから、ある問題を言葉に表明し、とことんまで考えたからこそ出てきた課題であり、自分のとった立場や持っていた思いの一つの帰結である。もしもその課題が面白いものであるとすれば、そうした面白い課題が出てきたこと自体、修論の価値とも言えるのではないか。修論の最後におかれることの多いこの今後の課題も、実は自分の立場や思いの「よさ」のアピールとなりうるのである。

3. 構想発表の原稿について

★Who reflects too much will accomplish little. (Friedrich von Schiller)

★A problem well stated is a problem half solved. (Charles F. Kettering)

 これまでに述べてきたことは、修論についての一つの考え方であるが、途中経過である中間発表(構想発表)については、必ずしも上の全てを満たすことはできないであろう。ただ、最も基本となる、修論で表明する基本的立場は必要であるし、その内容を他の人にわかってもらうための工夫(例えば事例をあげる、先行研究との関係を述べる等)は盛り込む必要があろう。また、修論で結局何をしたいのかということが、中間発表、特に初期の中間発表を聞くときに、回りの人間が知りたいことである。
 逆に言えば、修論の場合と同じく、構想発表の原稿の各部分は、修論でこのようなことを主張したい、という自分の気持を、他の人にわかってもらうための様々な手段であるとも言える。
 研究の動機や、目的については、第2節で述べたことと同じである。付け加えるならば、動機の中であげた問題意識に対して、研究の目的がどのように関係するのかは明確になっている必要がある。
 研究の方法は、その目的をどのように達成しようとしているのかについての、行動計画である。方法は最も書きにくい部分であるが、他の人が読んだときに、「ああ確かにこのプロセスを踏めば、上に書いてある目的が達成できそうだな」と思えるように書ければ最高である。それにより、目的が単なる妄想ではなく、達成の見込みがあることを人に示すことにもなる。また、妙高の合宿などでは章立てを書く場合もあろうが、これはある意味では研究方法をさらに具体的に書いたものと考えることが出きる。つまり、修論において、どのような順序で説明をし自分の立場を人に分かってもらうか、その流れを箇条書きにしたようなものである。
 研究の内容については、妙高合宿では実際に修論に書く予定の内容を記述できるかもしれないが、2学期の発表ではそれは無理であろう。したがって、これまで勉強した内容や考えたことを記述することになるであろうが、大切なのは、修論の目的との関係を念頭においた記述にすることである。例えば読んだ文献について述べるのは大切なことであるが、単にその内容を細かく説明されても、あまり有効ではない(そうした内容については案外他の人はよく知っているものである)。それよりも、その文献で自分が注目したり魅かれた部分は何か、それが自分の目的にどのように役立ちそうな感じがするかを述べてもらうことが、大切である。また、自分が実際にやってみた作業(他の人のデータの再分析、事例の作成等)は、自分の考えを暗黙的に示すことがあるので、書いておくとよいかもしれない。
 参考文献やこれから読もうと思っている文献も、研究の目的を分かってもらうための手段である。それは、そこにどのような文献があがっているかは、その人がどのような興味・関心や背景を持っているかを示すことになるからである。逆に言えば、あまり自分がピンとこなかった文献をあげておくと、読み手に勘違いをされる可能性もある。
 以上のように、構想発表の原稿は要するに、自分が修論で何をやりたいか、それをどのようにやろうとしているかを書くことにつきる。また、自分の立場や思いは案外自分ではわからないものである。構想発表を機会にそれを敢て紙の上に書いてみることで、また書いたものについて人と話をしてみることで、自分の気持が少しでもはっきりすれば、それで今回の発表をしたメリットはあったと言える。
 私の場合、最初は問題解決ストラテジーのことを勉強していたが、そのときに「何かが違う」と漠然と考えていた。そしてその「違い」は、修論を書く中で(少しではあるが)明確になり、自分なりの言葉でそれを説明できるようになった。構想発表はもちろんのこと、実は修論自体も、自分の思いをはっきりさせるための一つのステップなのかもしれない。所詮自分の顔は鏡に写さなければ見えないのである。

4. 構想発表の結果をどう生かすか

★The greatest obstacle to discovery is not ignorance-- it it the illusion of knowledge. (Daniel J. Boorstin)

★I have never in my life learned anything from anyman who agreed with me. (Dudley Field Malone)

 自分の立場や思いにはどうしても「思い入れ」が付きまとう。構想発表をしたときに質問されることは、この「思い入れ」に関わっていることが多い。要するに単純にこうだと思い込んでいたことが、他の人には受け入れてもらえない、かといってその場では自分でもうまく説明できない、という部分である。自分が宗教の教祖でない限りは、その「思い入れ」の部分を人にわかるような説明に変えていく必要がある。また、思い入れの故に欠けていた視点が質問の中に含まれている場合もあるので、それを補うのかどうか、あるいはその視点と自分の立場をどのようにバランスをとるのかを、そこで考えてみることも大切であろう。
 質問や問題点を指摘されたときに、それをどの程度の深さで受けとめ、自分の今後の方針に生かすかは、よく考えるべき問題である。問題点を指摘されると全くテーマを変えてしまう人がいるが、これは必ずしも得策ではない。私が最初に構想発表をしたときに、「今さらストラテジー指導なんて考える必要があるのか」と指摘された。これに対し、最も深い根っこの部分で受けとめ、ストラテジーについての研究をやめるという選択肢もある。しかし私は図をかくことや単純な場合を考えることが問題解決にとって有効であることは確かだと思っていたので、その方向はとらず、結局ストラテジーについての修論をかいた。その反面でストラテジーに対するその人の不信感が従来のストラテジーにあるのではないかと思ったので、従来のストラテジーと自分の考えるものとの違いを明確にすること、自分の考えるものが解決において役立ちうる可能性を示すことへと、研究の方向が変わっていき、修論になっていったように思う。
 人にけちをつけられたからといって、自分の根っこの部分まで否定する必要はない。しかし他者の質問や意見は、自分の思い入れや欠落した視点をついている可能性があるので、それを考える契機としてとらえて、自分の思いをはっきりさせるプロセスとして活かす必要はあろう。また、自分でははっきり述べたつもりなのに相手が納得してくれないこともある。このときは、自分の説明の仕方にも目を向け、もっとわかりやすく説明するのはどうすればよいかを考えなければならない。
 また、先行研究についての情報を知らされる場合もあろう。このときも、論文を読んで「自分のやろうとしたことと同じことがもうやってあった」と簡単に考える人がいるが、これもあまり得策ではない。表面的には同じでもどこかが微妙に違っていることが多く、またそうした微妙な違いの中に本質的な違いが含まれることも多い。そうした違いをはっきりさせることができれば、自分の意見の引き立て役として先行研究を使うことも可能である。これとは逆に先行研究なんかどうでもいいと考えることも、得策ではない。言い古された意見は魅力が薄いからである。これまでの意見を踏まえ、それとの違いを述べていくことは、自分の立場を魅力的にみせる一つの方策である。また、自分の思いを言葉にするにしても、そのための言葉や概念が必要となる場合がある。先行研究の中にそうした武器を求めることも、ときには必要かも知れない。  先行研究をあたるときに大切なのは、それが自分の立場や思いを表明するためにするのだ、という気持を忘れないことである。文献、特に外国語の文献を読むことは大変でもあるし、また英語の論文を読むとなんとなくそれだけで「研究」をしたような気になるときも確かにある。しかし、それで終わったのでは意味がない。文献のための文献になることなく、あくまでも自分の立場や思いを語るための手段として考えるべきであろう。(その分野で読むべき文献については、同じような内容をやっている先輩に聞いておく方がよい。場合によっては文献の内容まで教えてもらえるかも知れない。)

★The art of overcoming the word No is something you must learn (James R. Cook)

5. 餅と包丁 −おわりにかえて−

★一流の研究者の机の中には反故が山のようにたまっている。

★All things are difficult before they are easy. (Thomas Fuller)

 上に述べたように、個人的には、研究というのは自分の立場や思いを表明し、それを人が納得できるよう説明し、さらにはその魅力(自分の立場や思いに基づく算数・数学の教授=学習がどのようにすばらしいのか)を語ることではないかと思っている。しかし、その自分なりの立場や思い自身がぼんやりとすら見えないこともある。そのときには当該の対象についてのリアリティを持つことも大切であろう。私の場合であれば、基本的には問題解決のことをしているので、問題を解くこと、あるいはそこで絵をかくなどの活動について、それがどのようなことなのかの自分なりのイメージを豊かにすることが常に求められる。よく知らない対象について、自分なりの思いを持つことは不可能である。
 対象のリアリティとともに必要なのは(あるいは自分なりのリアリティの中に既に含まれているとも言えるが)、その対象を見るためのアイデアである。問題解決やそこでの活動をどのような側面に着目してみるのかが、私の場合求められるであろう。適切なアイデアにより対象を切ることで、自分の思いを人にわかりやすくするのである。
 対象は餅であり、アイデアはそれを切る包丁である。ついた餅がそのままでは他の人は食べたいとは思わないし、食べにくい。逆に餅がないのに包丁を振り回せば、単に危ない人である。餅を包丁で切って自分なりの形にしあげ、他の人が食べやすいようにするのが、論文ではないだろうか。
 リアリティを豊かにするにはそれなりの作業が必要である。授業を見ること、先輩の修論の付録にあるプロトコルを見ること、自分で問題を解いてみること等ももちろんある。また、先行研究に当たることも、リアリティを豊かにする作業の一環として捉えることもできる。例えば、問題解決についての論文ならば、問題解決とはどのような活動なのかについて、何らかのヒントが書いてあるはずだからである。
 研究は直線的には進まない。したがってリアリティが備わり自分なりの思いが出てきたとしても、その思いを持ちながら対象を見ると、すこししっくりこないこともある。そのときには自分の思いを修正する必要がある。また、他の人に説明する中で、自分の思いの無理に気づくこともある。その場合にも修正が必要かも知れない。こうした作業を繰り返していくことで、自分の立場や思いを安定したものへと育てていくことができる。
 棚に並んだ先輩の修論は、すでに出来上がった形であり、あっけないと言えばあっけない。しかし、餅を食べられるようにするまでに多くの作業があり手間がかかっているように、やはり修論も泥臭い作業をしなければ書けるものではない。多くの無駄をやった後に、沈殿物のように残るのが修論なのかもしれない。

★Keep your eyes on the stars, and your feet on the ground. (Theodore Roosevelt)

[文責:布川]


布川のページ