ギフティッドってなに?
米国のマーランド・レポート(1972)による定義は,現在も世界で共通理解されている概念的定義です。そこには以下の4つのポイントが記されています。(1) 並外れた才能ゆえに高い実績をあげることが可能な子ども。(2) 実際目に見えて優れた成果をあげている子どもだけでなく,潜在的な素質のある子どもも含む。(3) 才能の領域:知的能力全般,特定の学問分野,創造的思考や生産的思考,リーダーシップ,音楽,芸術,芸能,スポーツ。(4) 資格を有する専門家による判定が必要。
このように定義されてはいるものの,世界的によく見られる素朴な疑問や抱きやすい誤解もあります。そのいくつかをご紹介します。
「すべての子どもがギフティッド」という言葉は,受容的で美しく響きます。しかし,ギフティッドに関する知見をもつ研究者や実践者の間では,このように捉えることは一般的ではありません。
すべての子どもは尊重されるべき存在であり,それぞれに固有の才能や興味・関心があります。一方で,すべての子どもが,教室の中で明確な少数派となるほど高い知的能力をもち,その特性ゆえに周囲との無理のない共感的やりとりが難しくなるわけではありません。
「その子はどのような環境を必要としているのか」を考える際に,「すべての子ども」と一括りにしてしまうことは,個々の理解をかえって難しくすることがあります。
このため、「すべての子どもがギフティッド」という表現は,ギフティッドの特性や支援の必要性を正確に捉えるうえでは適切とは言えません。
いいえ。もちろん,アインシュタインやモーツアルトのような天才のように感じられる子どももいます。でも,そのような人たちばかりではありません。一見普通に見える子どもや,特に小学3年生くらいまでは,困難のほうが目立つ子どものなかにもギフティッド児はいます。
ギフティッドであるかどうかと,テストの点数の高さは同じものではありません。
確かに、テストの点数と知的能力には一定の関連があり,成績のよいギフティッドの子どもも多くいます。しかし一方で,さまざまな困難の影響により,本来の力を発揮できず,学業成績が振るわないギフティッドの子どもも少なくありません。
そうした子どもたちにこそ,「ギフティッドである可能性」に気づく周囲のまなざしと理解が求められます。
ギフティッドは,障害のカテゴリーではありません。
ただし,ギフティッドの子どもの中にも,様々な障害のある子どもたちがいます。このような子どもたちは,2E(twice-exceptional 二重に標準から離れた特性のある)児と呼ばれます。
ギフティッドであることを本人に伝えることで,子ども本人が傲慢になるわけではありません。ギフティッドの子どもたちは,幼児期からすでに,周囲の子どもたち,とりわけ同年齢の子どもたちとの違いに敏感に気づき,うまくなじめない感覚を抱くことがあります。そして,その違いを「自分に原因があるのではないか」と受け止めてしまうことも少なくありません。
しかし,自分がギフティッドであることや,自身の特性が同様の子どもたちに広く見られるものであると理解できたとき,深い安堵感につながることがあります。
いつ,どのタイミングで本人に伝えるのがよいか,その必要があるかは,今の日本では,個別の状況に応じて考えていくのがよいと思います。
なお,ギフティッド児が傲慢になるのは,周囲の大人が「この子はギフティッドだから〇〇をしてもいいの(しなくてもいいの)」という態度をとったり,なんの努力もせずに常にトップの座に君臨し続けるような経験を積んだ場合に多いとされています。
ギフティッドの子どもに広く見られる社会情緒的特性として,「激しさ」や「繊細さ」が挙げられ,これらが適応の難しさと関係することがあります。ただし,すべての子どもがそのような特徴を強く示すわけではなく,穏やかな気質の子どももいます。
また,ギフティッドの子どもの適応は,学校環境の柔軟性や理解の程度に大きく影響されます。
そのため,「ギフティッドであれば必ず学校適応に困難を示す」と捉えるのではなく,「学校生活に困難が見られる場合,その背景の一つとしてギフティッドの特性が関係している可能性がある」と理解することが重要です。
