『学習心理学特論』の
レポートについて

2002年度版


『学習心理学特論』(修士:前期金4限)のレポートで気づいたこと


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■ 今年の評価

  後期に入って,新しい授業やら学会やらでちょっとあわただしかったせいで,またコメントがおそくなってしまいました。では,さっそく始めましょう。まずは今年の評価について。

  今年は,C評価の人がいます。これは,課題のテーマに沿った事例が見あたらないというので,テーマと異なる内容を書いてきたものですので,この評価でも納得してくれるでしょう…というか,納得してくれなくては困ります。正直,テーマに関連していないのでDでもいいかと悩んだレポートでしたから。

  またB評価になったレポートは,今回は事例に対する理論の結びつきがイマイチはっきりしないケースがほとんどでした。多いのは,一般的な「意欲」論に終始していて,どの理論から説明しようとしているのか理解できないものです。たとえば,たぶんどこかで研究発表した指導案をそのままレポートにしていて,だから「意欲」という言葉はあちこちにちりばめられてはいても,どれがどの動機づけ理論と関係しているのか,判読にひじょうに苦労するケース。書いているうちに説明が破綻してしまうのでしょうか,急に他の理論が入り込んだり,完全に別の理論に移ってしまったりというのもありました。

  例年ですと,理論だけきちんと書いてあって事例がお留守になっているのもあるのですが,そういうのは,今回はなかった気がします。その点では,今年はきちんとしていたと言っていいでしょう。

  さて,今回は偶然,部活に対する生徒の動機づけの変化と教師の動機づけの変化とを対比させたレポートがいくつか集まりました。はじめはその競技に対して内発的だった教師が,生徒の「めざせ優勝」の姿勢にいつのまにか外発的にかかわっていく過程を描いたレポート,逆に内発的に競技を楽しんでいるチームの様子と,強豪校という名前から来る勝利へのプレッシャーに悩む教師とのギャップを描いたレポートなど,なかなかおもしろい視点ではありました。

  一方,今回は動機づけの移行過程(内在化過程)について述べているレポートが多かったのですが,その中に,何に対する動機づけなのかが明確に意識されていないために,動機づけのターゲットとなる行動そのものが,どんどんズレてしまっているケースがいくつか見られました。ターゲットの行動がそれぞれ違うのだから,動機づけ要因が違うのは当たり前。移行過程でも何でもないのです。(あ~,具体的に書かないとわかりにくいと思うのですが,具体例を出すと書いた人がかわいそうなので,やめておきます) 移行過程を扱おうとするときには,どの行動をターゲットにして論述するかを,念のためもう一度見直してみてください。

○

■ ドラマのような Part 1

「おまえの体に一万円札が何枚張り付いていることか。」

  さて,これはどういうシチュエーションで語られた誰のコトバでしょう? なんか映画やTVドラマの中で,ヤクザがその女に対して吐いたセリフのように見えますが,じつはこれ,習い事がイヤになってサボりはじめた子どもに対して,母親が吐いたコトバなんですねえ。すごいです。コワいです。私はこの言葉を読んだとたん,のけぞってしまいました。で,そのついでに思わずAをつけてしまいました,先もまだ読まずに。だって,この言葉がすべてを物語っています。

  もともと,たいしてやる気もないままに,小学校低学年から親に言われたとおり数々の習い事に通っていたこの人,多少の有能感を感じつつも,高学年になっていよいよ自分の思いとのギャップを意識しはじめたのですが,そこにもってきてこの言葉。これが決定的きっかけとなって,自分は「親からやらされていたのだ」とはっきり気づいたのだそうです。

  ホントはなんの裏付けもない彼女のオリジン感覚は,この一言によってもろくも崩れ去り,実際的にも心理的にも母親のポーンとなってしまったのですね。

  ある意味このお母さんはとっても「正直」だったといえるかもしれません。習い事をさせるというのは,親にとってみれば子どもの将来を見据えた先行投資であり,その額もけっしてバカになりません。途中でイヤになったからといってやめられては,それまでの投資がすべてパーになるわけですから,そう言いたい気持ちも(子どもの気持ちを抜きにして考えれば)察せられます。それにしても,こんなにストレートに言わんでも…とは思いますが。習い事の意義や,それに対する親の思いについての言及を一気に飛び越えて,お金の問題に還元してしまっては,ミもフタもありません。

  ま,しかし,これは極端かもしれませんが,程度の差はあれ,発達の一時期,子どもたちはみんな,これと似たような思いを抱くのではないでしょうか。習い事だけでなくいろんなことで,それは起こり得ます。そうして親の支配に気づくところから,親からの「自立」が始まるわけですからね。小さいころは絶対的だった親が,いつのまにか「支配者」・「圧制者」となり,疎ましくなっていくのが第二反抗期。それを乗り越えて子どもは自立していくのです。自立しちゃえば,また親のことを冷静に見られるようになるはず…だと思うのですけどね。

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■ ドラマのような Part 2

  さて次は,ある新採の先生が体験した,読んでいるだけでもコワいお話。

  話は秋の写生会でのこと。この先生は,いかにも理想あふれる新採教員らしく,「個性の時代」だから,その子らしく描いてもらおう,描く楽しさを感じてもらおう,と目標を立て,子どもたちを見回りながらみんなの絵をほめていきました。そうして,子どもたちが楽しく描いている様子を確認し,満足して帰ってきたのですが,そのあとに「事件」は起こります。

  しばらくすると,私は学年主任の先生に教室に呼び出され,そこで思いも寄らぬことを言われました。彼女はAさんの絵を指して,

「この絵なんだけどね。文化祭は保護者の方や地域の方がたくさん見に来るから,学年の中であまり差があると困るんですよ。だから,もっとちゃんと描かせてもらえませんか。」

と言うのです。私は唖然としましたが,Aさんがその絵を気に入っていること,一生懸命描いていたことを伝えました。すると,

「ダメダメ,こんなのじゃ。どこの展覧会にも出せないわよ。ほかのは?」と言って,他の子の絵を1枚1枚チェックし始めました。そしてあきれ顔で,

「どれもダメだわねえ。もう1回(写生に)行ってくる?」

と言い,自分のクラスの絵を私に見せました。絵を見た私はますます唖然としてしまいました。どれも同じ絵だったからです。もちろん描かれている景色はそれぞれなのですが,構図や筆のタッチ,人物の表情などはパターン化されているように同じでした。中には,

「これは,空が少なかったから私が手術してあげたの」

という,画用紙の下5分の1ほどを切って同じだけ上に貼り付け,空を入れたものもありました。



  翌日の図工は今までと全く違う世界になりました。次々とダメだしをする学年主任の前にズラリと行列ができ,計算ドリルを解くような顔で色を付けはじめたのです。私はなんとフォローしたらよいかわからず,ただただ子どもたちに申し訳ない気持ちでそこに立っていました。

  いろんな人が見に来るとはいえ,文化祭の展示ぐらいのものになぜそこまで力を入れるのか。その理由は2ヵ月後に判明します。描いた絵は各種コンクールに応募され,その結果入賞した子どもたちが全校朝会でまとめて表彰されるわけです。そしてどうやらその入選者数を,クラス間で競っているらしいのです。

  ありゃりゃ,こういうことですか。これはまた筋金入りの外発的動機づけ体制を敷いているようで,他者の評価を意識させる点といい(文化祭でいろんな人から見られる),制御的な報酬使用(上手に描けたからコンクールに出品ではなく,最初から出品ねらいで絵を描かせる)といい,競争構造といい,なんでここまで徹底的に「絵を描く」という活動から子どもの目を逸らせよう,別のもので気を惹こうとするのか,考え込んでしまいますね。まあ,内発的動機づけについて復習するにはオイシイネタではありますが。

  ところで,その効果は翌年あらわれます。

  翌年,私はその子たちを持ち上がりました。写生の時期になると,子どもたちは口々に

「せんせい,これって入賞できるかなあ?」

「私,賞状もらえると思う?」

と言い,どこをどう描けばいいか,何色に塗ればいいか,その都度その都度尋ねてくるようになっていました。



  でも,今思うと変わっていたのは子どもたちだけではなく私の方でした。少しばかり勉強して,入賞させるための絵を描かせるようになっていたのです。文化祭と表彰が終わり,入賞者は少し増えました。ほっとする反面,強烈な虚しさを感じずにはいられませんでした。

  ほんと,同情します。新採教員だったら,そうそうひとりでツッパるわけにもいかないでしょうからね。ところで,これはたぶん,ちょっと昔の事例でしょうが,今はどうなんでしょうね。ちょっと興味あります。楽しく描けてりゃいいってもんでもないとは思いますが,「絵画の指導がしっかりしている,コンクール入賞者を毎年多数輩出している」みたいなのが学校の伝統として定着してしまうと,変えようにも変えられなくなってしまいます。

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■ 支援するということ

  「学習心理学」の授業では,自由に自己決定・自己選択させるというと,生徒に任せて先生が楽になれるように見えるかもしれないが,選択の機会が増えるほど先生の手間も増えるのが本当だ,というようなお話をしているのですが,具体的な事例がないのでイマイチ説得力に欠けます。このレポートは,ちょうどその例として最適な事例です。

  題材は小学校のリコーダーのテスト。リコーダーのテストといえば,ふつうは課題曲が決まっていて,みんながその曲を練習してきて,順番に先生の前に出て演奏する,という風景を思い浮かべます。リコーダーの技能のテストなんだから,曲が好きかどうかなんて,当然関係ありません。

  しかしこの先生は考えました。「リコーダーで演奏する曲目は子どもが自分で選ぶ」ようにしたのです。はじめに,先生は「歌える曲の方がリコーダーでも吹きやすいよ」とアドバイスし,実際に吹きやすい曲と吹きにくい曲を演奏して見せます。しかし,そのあとはすべて自由。シャープやフラットがあろうがなかろうが,かまいません。

  とまあ,口で言うと教師は楽に見えますが,この自己選択制を成功させるために,この先生が準備に費やした労力は半端ではありません。先生は,子どもたちが申告してきたアニメソングや歌謡曲の楽譜をすべて購入。それをすべてコンピュータに入力します。それらの曲はもちろん,リコーダーのために作られたわけではないので,子どもたちに演奏させるためには,リコーダーの音域や演奏の難易度に合わせて移調したり,長い曲の一部をカットする必要があるのです(どの部分をカットするかは,子どもたちと相談しながら決めます)。だから,その作業を容易にするためにコンピュータに入れておくわけです。そして,最終的に楽曲をリコーダー用の楽譜にして,それぞれの子どもに配ります。課題曲を1曲(あるいは2,3曲から選択),教科書の中から選んで子どもたちに提示すればすむところを,ここでは1クラス38人のテストで,20~25曲の楽譜を作ったそうですから,ものすごい作業量です。

  さらにこの先生は,子どもが好きなときに自分で練習できるように,それぞれの曲をピアノで弾いた録音テープ(支援テープ)を作成して子どもに配りました。テープレコーダーも21台準備し,ときにはコンピュータからMIDI楽器に出力して,聞きたいところだけを繰り返し聞けるような工夫をしています。さらに,リコーダーの指使いを1音ずつ示した指使いカードや,楽曲ごとにむずかしいところの練習のコツを書いた「お助けカード」を作成しました。

  こんなふうに,自由に選択させるといっても,すべて勝手気ままにやらせるわけではありません。それぞれの選択にしたがって子どもたちがちゃんと学習活動を進めていけるよう,教師がしっかりとそれぞれの選択をフォローしていかないといけませんから,教師の作業は選択肢の数に比例して多くなるわけです。場合によっては,予想して準備したのに子どもたちが選択しないものもあるわけで(この事例の「お助けカード」がそうです),そういう徒労感も予想しつつ,でも必要になったらいつでも使えるよう,準備しておく必要があります。自律性を支援するということは,今まで以上に教師が細かく,また手厚くケアしていかなくてはならず,つまりは子どもたちに数多く手出し・口出しをしていくこと(しかも,あくまで黒子に徹して)なのだと言ってもいいでしょう。

  さて,「学習心理学」の授業ではもう一つ,子どもたちに責任を持たせないと自己決定の意味がない,子どもたちが失敗しないように支えるのは間違いだ,というお話もしました。その点では,このような手厚いケアはまちがいなのではないかと思われるかもしれません。しかし,それはちょっと違います。ここで行っているさまざまな支援は,子どもたちが「自分で練習」できるように,いろいろなものを用意してあげているわけで,それを使って練習するかどうかは,基本的に子どもたちに任されています。もちろん,練習せずうまく吹けなければ,悪い点を取ることもあるわけです。つまり,自己選択に役に立つ環境を整備しつつ,選択自体は子どもに任せ,その責任をとらせていることになります。

  本題に戻りましょう。先生のこの苦労はちゃんと報われています。そこを確認しておきましょう。

  このようなしくみの「わくわくリコーダー」の授業は,私の予想を大きく超えて子どもたちに絶大なる支持を得た。トトロの曲から歌謡曲,歌集の歌などなど,子どもたちは自分のこだわりの歌を持ち寄り,それぞれのペースで一心不乱に練習していた。この活動への取り組みのエネルギーには,構想した私自身も驚くばかりだった。

  演奏できるようになった子どもたちには,私のピアノ伴奏に合わせて演奏してもらった。他の子どもは各自で練習しているので,はじめのうちはだれも賞賛してくれるわけでもないのだが,それでも,自分が演奏したいと思っていた一曲を吹ききった喜びは大きいらしく,同じ曲を何度も伴奏させられることが多かった。そして,その後お互いの演奏を聴き合って賞賛しあう姿も見られるようになった。その後はまた,自分の曲を一心に練習する姿が見られた。

  さて,これも「学習心理学」の授業でお話ししたことですが,たんにオモシロオカシク活動し,苦労を避けるのが内発的動機づけというのは誤解です。むしろ,楽しいことをしているときは,ハタからは苦労に見えることでも苦しくない,というのが内発的動機づけの世界です。これも,話だけだと単なるご都合主義な理想論のように見えますが,この事例はそのことをうまく説明しています。教科書の中から決められた,好きでもない曲を練習するのであれば,それは苦痛でしかないかもしれません。自分の好きな曲を練習するからこそ,楽しく,一生懸命がんばり,そして吹ききった達成感を強く味わうことができるのです。どうせテストのために練習させるのなら,こういう練習の方がいいとは思いませんか? もっとも,そのためには先ほどのような教師の支援が(理想を言えば,そういう苦労を,苦労と思わず内発的にやってくれる教師が)絶対に必要なのですけどね。

  う~む。教員の数を増やさないことには,どうにもなりませんかね。

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■ 習熟度別クラスという挑戦

  今年のレポートでひとつ気になったテーマは,習熟度別クラスに関するものです。しかし,この問題に対して私は,直接的にコメントできるような知見を持っていません。それで,ちょっと書こうかどうか躊躇していたのですが,来年度以降,問題を掘り下げてくれる人もいるかもしれませんので,とりあえず論点だけはあげておこうと思います。

  新聞に出ていた世論調査でも,以前はほとんどタブー視されていた習熟度別の授業に対して,最近は肯定的な見方が広がっているようで,実際にも,理解の遅い子どもたちが丁寧な指導を経て達成感を得たり,理解の早い子どもたちがどんどん自分たちの力量に応じて高いレベルの学習にチャレンジできるなど,効果をあげているようです。子どもたちの学力によって自動的にクラスを割り当てるのではなく,一人ひとりに選択させるようにしていることも,クラス分けによって「ランキングされる」という否定的なイメージを解消するのに役立っているようです。

  そうした中で,今問題になっているのは,いわゆる「中位クラス」なのだそうです。名称や授業の内容はそれぞれの学校で工夫されていて,「上中下」・「ABC」などとランクを意識させるような単位にはなっていないと思いますが,ここでは話を簡単にするために「中位クラス」と総称することにしましょう。

  いわゆる「補習クラス」や「特進クラス(進学ではなく進度の意味で使っています)」のような場合は,授業の性格づけが比較的容易ですが,その間に挟まった「中位クラス」は,なかなか特色が打ち出しにくく,その結果このクラスは「消極的選択者」が大半を占めることになる,というのが問題の一つです。成績は低いが通常の授業についていけないわけではない,「補習クラス」はカッコ悪いから「中位クラス」にしておこう。あるいは,学力はけっこう高いが,かといってガンガン勉強を進めたいわけでもないから「中位クラス」にしておこう。こんな選択がはたらき,結果的に,このクラスに含まれる生徒の学力は幅が非常に大きく,授業に対する動機づけも非常に多様性が高くなってしまうようなのです。

  またもう一つの問題は,純粋にその教科に対する自己評価でクラスを選ぶ子どもだけでなく,友だちといっしょのクラスになりたいというような,ヘンな理由からクラスを選択する場合が少なからずあることだそうで,これもまたこのクラスの子どもたちの多様性を高めてしまっています。結局,この「中位クラス」の運営はとてもむずかしく,子どもたちの満足度も低いままで終わっているようなのです。さあどうしたらよいでしょうか。

  ここで私がパパッと解決策を提示できれば非常にカッコいいのですけれど,残念ながら私は今,これに関して示唆できるものを持ち合わせていません。しかし,ここに挙げられている内容についてはよくわかりますし,私の子どもたちの話を聞いていても,これはたしかにあり得る話です。ここはぜひもっと皆さんの実践例や意見・提案を聞いてみたいところです。来年に期待しましょう。



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