99年度版
『学習心理学特論』(修士:前期金4限)のレポートで気づいたこと
ありゃ~! 気がついたらもう次の年度。月日のたつのはおそろしく早いものです。おもしろいレポートはWebで紹介しますから,そのつもりで書いてくださいと公言しておきながら,なんだかんだと雑用に紛れてすっかり遅くなってしまい,2年生の受講者はすでに修了してしまいました。今ごろこのページを覗いてくれる人なんて,いるのだろうか? われながら情けないかぎりではありますが,まあとにかくいきましょう。
ホントのところ,今年(というかもう昨年だけれど)は力作が多かったのです。けっして,紹介する内容がなくて遅れていたわけではありません。むしろ,これもコメントしなきゃ,これも紹介しなきゃと考えているうちに,新コースの準備で忙しくなってしまったというところなのです。
ですので,今回は全部書きあげようと気負わないで,少しずつおもしろいレポートを紹介していきたいと思います。
はじめに,ひとつだけいやなことを。
今回,2人のレポートに“D”をつけました。いずれも,理由ははっきりしています。「授業の中で扱った動機づけ理論を使って」という要求に答えていなかったのです。1人はぜんぜん別の理論を,もう1人は「達成動機」ではありましたが授業では一度もとりあげたことのない説を使って,分析してありました。
レポートの説明をしたときにも強調したつもりなのですが,授業で扱った理論以外の理論を持ち出してきても,私は評価できません。このレポートの目的のひとつは,授業で説明した動機づけ理論をみなさんがどのように受け止めたか,理解したかを知ることです。みなさんが,よそで動機づけの勉強をしたかどうかは,ここでは問題にしていないのです。興味を持って発展的にいろいろな理論に当たってくれるのはうれしいのですが,「授業のレポート」という範囲の中では,問題をきっちり切り分けて考えたいと思います。だから,問題文にも「授業の中で扱った動機づけ理論」ときちんと限定して指示しています。受講生のみなさんが忘れたり書き漏らしたりしないように,プリントも配っています。それでもこうやって,どこかからへんな(?)理論を引っ張り出してくるというのは,いったいどういうことなのでしょう?
97年度の,授業で話したことと正反対のことを書いてきたレポート以来,こういうレポートをどう処理したらいいかは,毎年悩みの種だったのですが,けっきょくのところ,事実として「条件を満たさないのでD」というのがいちばんスッキリした処理であろうと,今年は決めました。どんなにしっかりしたレポートだったとしても,出題の要求にあっていないものはDです。来年度以降もこの基準でいきます。
今回は,内発的動機づけと外発的動機づけを対立的に見るのではなく,連続体の一部として考える立場のことを強調したせいか,これまで以上に多彩な,内発か外発かグレイゾーンな「動機づけ」が,たくさん報告されています。これはその一つ。
器物の破損・紛失,生徒同士の暴力,授業ボイコットが日常茶飯事というある中学校で。清掃時間になると,校舎中至る所,壁にもたれて座り込みまったく動こうとしない生徒たちばかりという状況に対して,先生は生徒たちに,なぜ掃除をしないのかと問いかけます。するとかえってくる答えは,「平気でサボっているヤツがいるのに,自分だけがまじめにやってもわりにあわない」というものでした。そこで先生は,こんな提案をします。すなわち「清掃ポイント制」。
「すすんで水くみにいけば+1点」「すすんでぞうきんがけをやれば+1点」,逆に「開始時間までに清掃場所にこなかったら-1点」「身仕度が悪かったら-1点」…というように,一人ひとりの清掃労働を,先生は具体的に査定していきます。そして,ポイントが+10点になったら清掃1回免除。堂々とサボれるわけです。一方-10点になると,受け持ちの特別教室(かなりの広さ)を一人で清掃することになります。ただし,+10点でも善意で手伝うのは自由,-10点の人を気の毒に思って他の人が手伝うのも自由です。
かくして,先生は判定者に徹します。ガミガミ怒ったり注意したりは,いっさいやめ。全部自分のポイントに跳ね返るので,注意する必要がないのです。その代わり,判定するためには生徒たちよりも早く掃除場所にいき,いっしょに掃除をします。さらに,先生の査定が不当だと思ったら,反省会でいくらでも反論してよいし,仲間たちが同意すれば,先生の判定をひっくり返すこともできます。
さて,これまでろくな清掃を経験してこなかった生徒たちのこと,最初のうちは減点ばっかりだったのですが,先生が加点ポイントを甘めに査定してあげると,やがて見ちがえるように熱心に取り組むようになります。開始時間に間に合うように走ってくる生徒,棚を隅々まで拭き掃除する生徒。清掃の後の反省会も,先生の査定をめぐって大いに盛りあがります。
これはみごとな実践。生徒たちの清掃への内発的動機づけを劇的に高めることに成功した。パチパチパチ…とふつうなら思ってしまうところですが,さすがに私の授業をまじめに聴いていた先生(!?)は,この動機づけがメッキの動機づけであることを見抜いています。たとえば。
ポイント稼ぎに一生懸命のうちはいいのですが,ポイントがだいぶ貯まってくると,雑巾がけのような重労働をパスする生徒が出てきます。ときには全員が雑巾をパスする日も。
しかし,先生はあわてません。「後ろ姿で指導する日」と,生徒が見ている中で先生が雑巾がけをします。他の先生が見とがめて叱っても,ちゃんとルールを説明して了解を得ます。
校長先生が「一生懸命やっとるなあ」と声をかけると,生徒たちはそれなりにうれしそうな表情を見せます。先生も,「このごろこの教室がきれいになったって,評判いいよ」と伝えます。それでも,そうした清掃の内発的価値や意義を内在化して,自発的に清掃に取り組むようになった生徒など,いそうになかった,と先生は述懐しています。
先生は,この実践が清掃の根本的な指導ではないことを認めつつも,次のように総括しています。つまり,清掃ポイント制は,「自分だけイイ子ぶっている」と言われたくないし,むかつく教師の言うことにも屈伏したくないから掃除をしない,というような生徒たちにとって渡りに舟だったのではないか,と。これはゲームなのだからと理由づけることで,カッコ悪い清掃にも取り組むことができたのではないか,というのです。
表面的に見れば,この実践は典型的な「外発的動機づけ」です。加点→清掃パスという「アメ」と,減点→1人清掃という「ムチ」を導入することで,生徒たちを清掃活動に動機づけたということになります。それなら,この実践は生徒たちの内発的動機づけに対して妨害的にはたらくはずですが,さてどうでしょう?
だいたい,もともと生徒たちに清掃活動への内発的動機づけがないのだから,妨害的な影響を心配する必要はない,ということも言えるでしょう。でも,ここではその問題はおいといて,先生の働きかけ自体について考えてみたいと思います。
清掃ポイント制を導入したのと同時に,先生の生徒たちに対するかかわり方が大きく変わったこと。これがこの実践の大きなポイントなのではないかと思います。まず先生は,生徒を怒鳴りつけ,清掃を強制する存在から,客観的に個々の生徒の活動を査定する存在へと変化しています。「客観的な査定」といっても,生徒を監視し評価するのですから,プレッシャーをかける存在にはちがいありませんが,先生は生徒といっしょに掃除をしたり,あとの反省会で反論を認めるなど,全般に生徒たちといっしょの視点に立とうとしています。生徒が罰当番に当たったときなどは,じゅうぶんに手助けをしてあげながら「抜け目なくラポート作りに役立てた」のだそうです(おっと計算が入っていたか…)。
そのうえで,ルールは厳格に,公平に適用していきます。なにしろ生徒たちといっしょに掃除しているのですから,みんなの作業をちゃんと見ています。査定のしかたも,「清掃するか/しないか」ではなく作業の質を対象として,こまかく設定しています。成績随伴性報酬ですね。そのうえ,生徒がだれも雑巾がけをやらないときでさえ,ルールを曲げたりせずに自らが雑巾を持ちます。これがすごいところです。
子どもの内発的動機づけにかかわるおとなの働きかけのモデルに沿っていえば,従来「制御的」だった働きかけを,「関与」と「自律性支援」を中心とした働きかけに変え,そのうえでしっかりと「構造」を提示しているといえるでしょう。この点で,この実践は成功しているのだと思います。もちろん,ゲーム化することで,カッコ悪いとかイイ子ぶっていると思われたくないという,不平等感やヘンなこだわりがはずれたという分析も,とても納得できますが,この先生のかかわり方自体が,自律性支援的な志向性を強く持っていたと思われるのです。
では,ポイント制が終わったらどうなるでしょう? 読んだかぎりでは,残念ながら生徒たちは元にもどってしまう可能性が高いように思います。学校の清掃という行動に限定してしまえば,それが限界でしょう。しかし,だからこの実践が効果がなかったと結論してしまうのは早計です。「ポイントのため」という制御的な成分が優勢か,それとも先生の自律性支援的な働きかけが優勢かによって,その影響性は変わってくるからです。
ともかくも,そうやって一生懸命清掃に取り組んだという経験が,生徒たちのその後の生活の中にどんな形で生きてくるか,清掃後の反省会で先生を交えてみんなでワイワイ盛りあがった経験を,あとで彼らがどんな思いで振り返るのか。ぜひそこまでたしかめてみたいものだと思います。
とても考えさせられる,おもしろい実践報告でした。
いきなりワザあり! もう,タイトルだけで中身をすっかり言い表しています。
さて,場面は16mm映画の映写にかかわる資格の講習会。最後に資格認定のための実技テストが行われます。そのテスト前に,講師の先生が言った言葉が,これ。
「実技テストと言っても簡単なもので,今まで落ちた人はいませんからご安心ください。」
実際,テスト内容はフィルムを映写機にセットしたりとりはずしたりという簡単なものだったそうですが,作業手順がじつにこと細かく決められているのだそうです。さらに悪いことに,映写機の台数に限りがあるのでグループで実習。テストも,ほかの受講生が見ている中で順番に操作していくのです。
操作途中で,見ている人たちの間から「あっ」と小さな声があがります。まちがったかなと動揺する筆者に,追い打ちをかけるように「あと何分です」との講師の声。あとはもうパニックです。
“このままでは時間がきてしまう。そして,合格できないかもしれない。何とかしなければ。” 気持ちは急くのに手は動きません。次に行うべき手順が,頭に浮かんでこないのです。
何をどう操作しているのか完全に上の空のまま,操作を終えます。
これは典型的な「あがり」の事例です。ふだんなら何でもない課題実行なのに,テスト不安による妨害を受けて作業レベルが低下してしまいました。
むかし私が車の免許をとったとき,最後の路上の試験で,前の人が車に乗り込む直前に,私にそっと聞いてきました。「あの,発車するときは方向指示器を左に出すんでしたっけ,それとも右?」 あまりの唐突さとあまりの基本的質問に,私びっくりしてしまいましてすぐには返事が出来ないでいたのですが,ちょうど試験官に乗車を促されたので,あわてて「右,右」と教えてあげました。聞こえたでしょうか。私は道順を覚えるのに後ろの座席に乗り込んだのですが,案の定彼女は,最初は異常にノロノロ走っていたのですが,途中工事箇所で思い切り加速して検定中止になってしまいました。そうとうあがっていたのでしょうね。なんか,注意すべきポイントをことごとく逆に操作するような感じの運転なのでした。
さて,このレポートの場合,結果はどうだったのでしょう? 残念ながらレポートは結果にふれていません。でもきっと無事合格したのでしょうね。それにしても,です。
講師の先生はきっと受講生の不安を解くために言ったのでしょう。しかし,結果的にこの言葉は,安心させるどころかかえってテストへの不安を高めてしまったのです。それではどこに問題があったのでしょうか。
私は,言葉と現実とのギャップの大きさが,重要な要因になっている気がします。先生は「安心してください」と言ったわけですが,手順は細かく決められていて緊張が続きますし,おまけに周りの人みんなに操作を見られてしまうわけです。だいたい,前の人がサササッと鮮やかな手さばきで操作を終え,周りの人から感嘆の声があがったりしたら,次の人には大きなプレッシャーになりますし,逆に前の人が大きなミスをしでかしたとしても,自分も同じようになるのではないかと,やっぱり不安になるものです。
だから,安心しろといわれたって実際にはどこでも気が抜けないわけです。「だれも落ちない」といわれたら,「自分が第1号になるのではないか」と気を回してしまいます。それがテスト不安というものです。
もし先生が,「多少手順が前後しても全体の作業の流れがまちがっていなかったらOKだから」みたいに,具体的に安心できる根拠を示していれば,結果はもっとちがっていたかもしれません。授業で例示した実験では,「この課題はとてもむずかしいので,解けなくても心配しなくていい」と教示していました。失敗したとき,ただちに自分の能力不足に帰属しないための情報を,提供してあげるわけです。「簡単な問題だから」と言われて失敗したら,よけい不安になるだけですよね。
そして,他者の存在です。手順をリハーサルさせるために他の人に見せるということも必要かもしれませんが,せめて次の人一人だけに見せる(もちろん,立ち会う目的をちゃんとみんなに示したうえで)とか,配慮があるべきだと思います。
なにげない言葉で,あちこちで使われていそうですので,気をつけなければいけませんね。私も思わず自分の過去を振り返ってしまいました。
他のレポートへのコメントは,
また別の機会に…。