math_thinking

On the Nature of Mathematical Thinking

By Norbert Wiener

(Australian Journal of Psychology and Philosophy, 1, 268-272, 1923年)


 この論考は、サイバネティクスで有名なWiener氏が、数学をしているときの思考について述べたものである。佐々木力「二十世紀数学思想」(みすず書房)の中で、ウィーナーが「数学は実験科学である」と述べていると書かれていたのを読み、その内容が知りたくなって原典にあたってみた。確かに、第10段落(全11段落)の第1行目に「数学は実験科学である」と書いてある。あるホームページにウィーナーの著書は構成が見えづらく読みにくいとあったが、この論考も構成が見えづらい部分があり、紹介者(私)の手に余る部分もあるが、読みとれた範囲で、実験科学であるという意味を考えてみたい。

 冒頭で、数学が、厳密さの質や論理的なつながりといった点で、一見すると他の学問領域と非常に違って見え、外部の人に神秘的あるいは恐ろしいものに思われるかもしれない、という点を述べている。しかし、それに続く部分では、論理だけでは数学ができないことが述べられている。一つには、数学的な問いを立てることの重要性と関わっており、「明確な問いが立てられるまでは、論理が問いに答えることはないであろう」(第2段落)としている。またもう一つには、重要な結果を見分けることに関わっており、「数学は論理的科学であるのと同じくらい想像的技芸 (imaginative art) であるとしている(第3段落)。導出されうる多くの帰結の中から重要な定理を見分ける点について、数学的審美眼 (mathematical taste) は、芸術における審美眼と似ているとも述べている(第4段落)。これらを受けて第6段落の最初では、「想像力 (imagination) は数学的作業の主ゼンマイであり、論理はその歯車である」、「主ゼンマイがある程度巻かれるまでは、歯車は動き始めない」と述べている。

 この次の文で「論理的推論の可能性が出てくるのは、数学的な問いを自らに出し、少なくともその問いに対する暫定的な答えを提出した後である」と述べられており、前の文との対応で考えると、問いを立てることや暫定的な答えを提出することは、想像力に関わる部分と思われる。ただし、この暫定的答えは非常に曖昧で、論理的思考に合わないどころか、紙に書けるほど決まった形をしていないかもしれないとされている。こうした曖昧だが有用な「仮説 (hypotheses)」を定式化する心の働きは驚くべきものと、Wiener氏は書いている。議論は、研究の多くの時間を占めるこうした「反省的空想 (reflective reverie)」における、意識の実際の内容に進められている(第7段落)。

 2〜3次元の幾何の場合、空間的想像力がここで働くことは理解しやすい(図形を頭の中でいろいろと操作してみることが、これに当たるのではないだろうか)。しかし同じ幾何でも、高次や無限次元になるとその働きはどうであろうか。さらに、解析学における幾何学的イメージの役割や、いたるところ稠密な不可算集合についてのイメージなどを考えると、その働きは断片的なものにならざるをえない。こうしたことからWiener氏は、「思考の習慣 (habits of thought)」という考えを出し、「蝶の体や器官が青虫の新たな獲得物であるように、あらゆる想像力を可能にする思考の習慣全体は、人間の心の新たな獲得物である」としている。

 数学的イメージング (mathematical imaging) において生き生きとした部分を構成するのは、知覚的なものよりもこの思考の習慣である。ただし、数学的想像力も後では論理の批判にさらされる以上、それは論理に調和するものであるべきであり、こうした習慣の中の第一のものとして、自分のアイデアを継続的に論理による試験 (trial) に委ねる習慣というものを、Wiener氏はあげている。例えば、彼があげる以下のようなことが論理による試験に委ねることになるのであろう(第8段落)。

こうしたことを通して、組み立てたり壊したりを繰り返すようにしなければならないと、書かれている。

 続く第9段落では、自分の結論を導いた方法が持つできるだけ広範な帰結に注意を向ける必要性が述べられている。不必要な制約が課されていたり、他のもっと根本的な性質で置き換えが可能であったり、問題に不十分にしか答えられていなかったり、といった状況が起こりうるとされる。バラバラなものを明快で単純なものに結合させることが、偉大な数学者の目印だとされる。この段落で面白いのは、適度な「一般性の水準 (one plane of generality)」という考えである。この水準にあるとき証明が最も容易であり、これより高くても低くても、不要な複雑さが生じてしまうのだという。

 そして、ここまで来て、例の「数学は実験科学である」という文が出てくる。氏によれば、実験とは「思い描いた考えを否定しがたい事実 (hard facts) に直面させること」である。上で述べたような仮説を定式化し、これを検証することが、化学、物理学、天文学、植物学と同じように、数学においても重要な役割を果たすことが、数学が実験科学だということの意味のようである。数学と他の科学との違いは、数学の知識が非常な永続性を持つことであるが、これは、我々の問いに経験が "yes" か "no" をささやくだけという環境によるものとされている。

 最後の段落では、数学が有利な点として、失敗が何の損害をも引き起こさないことに触れている。失敗しても、その残骸から1〜2のよいアイデアを拾うことができ、また自分のアイデアの影による全ての幻影 (every ghost of a shodow of an idea) を歓迎し、それを振り払う前に試してみるならば、何も損害を被ることはないとしている。それは、「新たな分野を創始したり、古いものを活性化するような視点を与えるものは、まさにこうした考えの漂着物 (waifs) だからである」。論考の最後は、「数学的な上品さの感覚によって自分の想像力の自由な流れを妨げる者」は、不自由な思いをすることになると締めくくっている。

 このように見てくると、数学が実験科学だとしたときの実験とは、自分のアイデアから導けることを出しそれをチェックするとか、分かっていることとつきあわせるとか、分かっていることを論理的に並べてみるとかいったこと、言い換えれば、数学的なイマジネーションをフルに働かせ、かつそれに対する吟味を怠らないこと、といったことになるのではないだろうか。数学も実験科学といったとき、ややもすると事例を調べたり測定して観察をすることが安易に提唱されることがあるが、Wiener氏の考えに沿うならば、むしろ「思考実験」といった活動が大切になるように思われる。一方で、直観と論理が対比される中で、イマジネーションを自由に膨らませるといった、思考の習慣に沿いながらしかし厳密な演繹ではないといった側面が、あまり取り出されてこなかったのではないかとも思われる。

 この論考を読んでいてさらに知りたいと思ったことは、最初の問いが出てくる部分、あるいはそれに対する暫定的な答えを出してくる過程がどのようなものかである。上の思考の習慣であげられていたようなことをするのかもしれないが(Lakatosの「証明と論駁」法を考えると、そうした活動の中で新たな問題やアイデアが生まれることは十分考えられるが)、そのあたりが分かると、主ゼンマイをまず巻くにはどうしたらよいかが、より明確になるように思われた。いずれにしろ、イマジネーションをフルに働かせるという点から、学校数学のあり方を考えてみることは、大切な課題であろう。


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