Unfinished Business:

Challenges for Mathematics Educators in the Next Decades

by J. Kilpatrick & E. A. Silver
(In M. J. Burke & F. R. Curcio (Eds.), Learning Mathematics for a New Century: 2000 Yearbook. National Council of Teachers of Mathematics. 2000年)


 毎年NCTMから出されている年報の2000年分は、「新しい世紀のための数学の学習」というタイトルの1冊であった。本稿はそのエピローグとして書かれている。

 Kilpatrick、Silver 両氏はまず、20世紀が始まった頃の北米の数学教育界の様子から稿を起こしている。その時代には数学教育というものが研究領域として勃興してきたばかりであり、研究団体・組織も確立されていなかった。そして20世紀が終わる今、数学教育界は大きく花開いたと言える。しかし、以前に聞いたのと似たような不満は今も聞こえてくる。「生徒が数学をちゃんと学んでいない」「生徒は数学を嫌いなまま卒業してしまう」「教師は効果的に教える方法を知らない」「学校のカリキュラムは表面的で退屈である」「生徒が学校の外の生活で数学を使うよう準備することに失敗している」等々。本稿では21世紀が始まろうとする今日に、数学教育関係者が直面している主要なチャレンジを考えているが、上のような状況があるせいもあり、それらのチャレンジは過去に扱われたものと全く違うというわけではない。学校教育や社会が複雑になるに伴い、そうしたチャレンジは相変わらず残り、変化し、増殖してきた。今より多くの生徒に、より深い数学をより成功的に学んでほしいと願うならば、ここであげるチャレンジに取り組まねばならないと、著者は述べている。

「全ての人に数学を」を確実なものに
 20世紀初頭の北米では、就学人口も増え、移民の増加などにより生徒の文化的背景も多様化していた。生徒を能力のあるものとないものとに分け、あまり能力のない大多数に学校教育を合わせる必要性も提唱され、その分類に標準テストのようなものが用いられた。著者はこの「能力」というものに疑問を呈し、「いわゆる能力が低い生徒は、数学を知ることが重要であると感じられ、数学を理解するための支援を誰かに求められるような、彼らにとって有意味な状況に出会えなかった、というだけではないか」(p. 225)と述べている。生徒をどのような状況や環境に置くかにより、生徒の成績はかなり異なるのではないか、ということである。

 能力が個人に固有のものであり、それに基づく数学の達成度の不平等は、20世紀の終わりになっても報告されている。「全ての人に数学を」がよく知られたスローガンだとしても、このスローガンが現実のものとなるために、大きなチャレンジに我々は直面し続けている。能力を個人に固有のものと考えがちだった教育制度、社会、政治的リーダー、そして一般市民も、全ての生徒に質の高い数学が提供できるようにし、高水準の量的リテラシーや数学を用いる技能の獲得と、数学の性質や重要性の感得を可能とする指導形態を促進・支援する必要がある。数学教育関係者はこのチャレンジにおいて重要な役割を果たさなければならない。

生徒の理解を促進する
 これまでの数学教育を振り返ったときに、Kilpatrick氏らは、自分が学んでいる数学について理解するもっと多くの、そしてもっと良い機会が生徒にとって必要であるとしている。そのために良い教授が必要であることは言うまでもないのだが、問題は「良い数学の教授」がどのようなことを意味するか、ということである。今世紀を通じて「良い数学の教授」は様々な仕方で考えられてきたが、それらを調和させるには、それぞれの仕方について、他の教授方法の視点から批判的な検討が加えられる必要があると、著者は述べている。

 こうした検討の一つの例として、偶発的モデル (contingent model) と予期的モデル (anticipant model) との対比が述べられている。前者はNCTMのプロフェッショナル・スタンダード (1991) に代表されるもので、教授の従う道筋は授業の中で発生してくると考える。教師の役割は、生徒が知的コミュニティとして活動するよう、議論を調整することであり、場面を設定し、生徒の発言に対応する。後者はアジア諸国の授業についての研究から示唆されるもので、事前に注意深く練られた道筋に従うことになる。各授業は明確な到達点を持ち、生徒の反応は(以前に行われた授業などをもとに)予想されている。いずれもモデルも生徒の思考を利用しているが、偶発的モデルでは発生的な目標に授業を向ける舵として用いられるのに対し、予期的モデルでは予め定められた目標に至るための手段として用いられる。両者の間の葛藤が、数学教育者が批判的に反省をする出発点になると、著者は述べている。大切なのはどちらの方が良いかではなく、それぞれのモデルが生徒が数学を理解するのを支援するのにどのように機能するか、与えられた場合において二つの緊張関係がどのように解消されるか、という点である。

カリキュラムにおけるバランスを維持する
 20世紀を見たときに、いくつかの目標が前面に出され、それに対応したカリキュラムが提唱されてきた。著者らのあげるものを大雑把に述べると、学校数学をリベラル・アーツとする立場、大人になったときに必要となる数学を提供するという立場、大人になったときに必要な数学を学ぶのに必要な技能や理解を提供する立場(new math もここに含まれている)、現実における数学の応用に重きをおく立場、が見られる。これらはなぜ生徒が数学を学ぶべきなのか、についての問いとも関連している。

 21世紀においてはカリキュラムにについての主要な挑戦のいくつかは、バランスに関わる、と著者らは述べる。個々人や社会が学校数学に対して持つ多様な目標について、どのようにバランスをとるか。数学の純粋数学的側面と応用数学的側面をどのようにバランスをとるか。技能と理解の間のバランスはどのように維持されるか。技能と理解のバランスに関わって、テクノロジーの問題も述べられている。そこでは、テクノロジーがカリキュラムを変えうる可能性や利点ばかりにではなく、その限界や問題点(例えば、テクノロジーにより引き起こされるミスコンセプションや誤った理解はないか)についても、真剣に問い、分析する必要性を述べている。また別のバランスの問題として、他の教科に対しての数学の持つ共通点と固有な点についても触れられている。例えば、帰納的なアプローチが強調された場合、演繹的な証明や形式化された抽象や一般化といった、数学を他の教科から区別するような側面を生徒に感得してもらうには、どのように支援をしたらよいかという挑戦を考えねばならない。

評価を学習のための機会とする
 90年代半ばに米国で出された文章を引きながら、評価が学習のための機会となり、数学の学習を促進すべきものであることが、まず述べられている。それを支えることとして4つの点に言及している。まずは学習場面との関わりであり、評価が学習場面からかけ離れるほど学習を促進することがなくなり、数学が学ばれ用いられる場面に評価が似ているほど、それが有用なものとなるとしている。第二の点は、外部からの評価の要求との関わりである。そうした要求に応える必要があるものの、他方で、そうした評価が生徒の学習を妨げたり葛藤を生じたりすることのないよう、そうした評価の分析や批評を真剣に行う必要がある。数学教育関係者は、新しい評価形態を提唱するのみならず、評価が行われる条件(事後の利用法なども含め)の改善についても研究を行うべきである。

 第3の点は生徒に関わる。評価の基準が示されることで、生徒は自分の達成度を自ら判断できるし、そうした判断を生徒ができるよう支援する実践を提供することにもなる。また、生徒はより「高い」目標に向かって自らの方向を定めていくこともできるようになり、学習の機会が生まれることになる。第4の点は教師に関わるものであり、時間と手間のかかる評価法について、それに見合うだけのメリットがあることを教師に確信してもらうことが、一つの挑戦となる。また、教師がどうしたらいいかを与えられるのを待つだけでなく、自分の評価する能力に自信を持つことができるよう促すことも、もう一つの挑戦である。生徒の数学的な達成の質や程度について健全な判断するという点で、教師ほど有利な位置にいる者はいないのであるから。

プロの実践を発達させる
 全項目最後のことに関わり、教師が自分たちの専門性を向上させるための条件を変えていくことが述べられている。他の教師と教材や評価問題を開発するといったことがなかったり、職場で専門性を向上させるような機会や参考物が提供されない、といった点に著者らは問題を感じているようである。専門性に関わり二つの点が述べられている。第1は、教師が現在の発展に遅れずについていったり、同じ志をもった同僚とコンタクトがとれるように、専門性開発のシステムをより効果的なものにすることである。現在のところ、ほとんどの教師の労働条件は、反省的実践が行いにくいなものとなっている。教師の実践(目標の特定、授業の計画と実施、評価のデザイン、生徒の思考や学習に注意を払うこと)が教師の学習の場となるには、どのようにしたらよいか、ということについて理解を深めなければならないとしている。

 第2の点として、教師の数学に関する準備状況をあげている。これは、数学に関する最小限の要件を満たさない教師が、中等学校の生徒5人に対して1人の割合で存在し、低所得やマイノリティが多く通う学校ではこの比率がもっと高くなること、また小学校の教師は最小限の数学の知識しか持たないために自信と能力を欠いていることなどの、アメリカの現状を反映している。教師の質が他の改革の成否に大きく影響を与えることになる。

振り返ることの重要性
 ここでは数学教育のコミュニティ全体による振り返り (reflection) の重要性が指摘されている。著者らは数学教育の変革を単に技術的な問題ではなく、ある種の社会的変化と捉える。つまり、生徒や教師がなすべきことの変化だけでなく、彼らがそうした自分たちの努力や環境をどのように見なすか(例えば価値あるものとして)に関わる変化も要求される。また関係者全員が目標に向かって相互に支え合うこと、上で述べたような挑戦を深く分析し、徹底的に検討し、議論をすることなども要求される。こうしたことを彼らは一語で「振り返り」と表現している。

 こうした反省的実践に関わることは、数学教育者が真の専門家コミュニティになるためにも必要なことだと述べている。そして北米では数学教育に関する取り組みが盛んになってきているが、自らの仕事に対する批判的反省の伝統だけは未だ発達していないとしている。こうした伝統では、従来の実践も新しい実践も疑問や議論に開かれており、自分の仕事を導く各種の仮定を批判的に検討することになる。この中では、NCTMなどにより出された文書も無批判的にありがたがられるのでなく、批判に委ねられることになる。

「スタンダード2000」:聖なるテキストか振り返りのためのツールか?
 ご存知のようにNCTMでは2000年に新たな”スタンダード”、Principles and Standards for School Mathematics を 発行した。著者らは、こうしたリーダー的な組織から出されれる文書が、諸問題への解決やあるべき指導のガイドとしてのみあがめ られるのではなく、我々が直面する問題や挑戦の本性をよりよく理解するためのツールとして用いられるべきであることを述べている。 その一つの前提として、特定の教室での数学の教授・学習はいろいろな条件を含み、外部の者が決定的なアドバイスを与えられるものでは ない、ということがある。したがって、そうした文書に書かれたことに固執してしまうのではんく、プロ的な振り返りや議論のための 踏み台としても用いていくべきだというのである。

 数学教育に関わる者が自分たちの仕事にもっと批判的なスタンスをとることができれば、上で述べてきたような挑戦が、効果的な実践に 向かうような仕方で取り組まれる可能性が十分あると、著者らは述べている。「ビジネス」というのは常に未完であり、行為と行為に ついての振り返りを含む過程を通して、変化を続けていくようにすれば、全ての生徒により数学がよりよく学ばれる方向へと 進歩するであろうとして、この稿を結んでいる。

 この論文は、北米の数学教育の事情を踏まえて書かれている。しかし、我が国の事情にも当てはまることが多いのではないだろうか。 数学教育の変わろうとしている今、我々は本当に、生徒の理解を考慮し、カリキュラムのバランスをとることを考え、そして自分たちの 仕事と批判的に直面しているだろうか?


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