When Negotiation of Meaning Is Also Negotiation of Task

by Iben Maj Christiansen
(Educational Studies in Mathematics, 34 (1), 1-25, 1997)


 タイトルの meaning が何の意味を指すのかは少し分かりにくいのだが、この論文で論じられているのは、次のような現象である。すなわち、数学的モデル化に関わる課題が数学の授業で取り上げられているときに、その課題にどのようにアプローチするかが議論されていると同時に、実はその課題により目指されている (教育的な) 目標も同時に考慮されている、というものである。Christiansen 氏はこのことを、「ハイスクールの応用数学におけるコミュニケーションの分析」(=論文の副題) を通して示している。  氏は、与えられたデータがあったときに、それだけに基づいてモデル化を行う「データ集合によるモデル化」と、扱われている事象 (今の例では人口の変化) についての知識を加味して考える「常識的モデル化」を区別している。前半では、人口のデータを1次関数で考えるかどうかを議論している小グループに、教師が介入した場面のプロトコルを示し、次の2点を考察している;(i) 教師が1次関数によりモデル化する方向へ導いたことは、教師のコース全体の意図を参照してのこと;(ii) 課題の共通理解は数学の授業という文脈を参照して得られ、「今のは〜という問題なんだから」といった規定による活動の方向付けは生徒にも受け入れられる。もとの課題は「データの点の位置から見て、人口が1次関数的に増えると仮定することは合理的か?」なのだが、この課題へのアプローチに関する教師の介入は、実際には教師の意図や数学の授業という文脈を参照することに基づいている、ということになる。

 論文の中盤では、教師が介入する以前の生徒だけのやりとりが分析されているが、この分析で示されているのは、生徒だけのやりとりの中にも、この課題の目標が分かち難く絡まっている、という点であろう。生徒はこの時点で既に、データにおおよそ当てはまる直線を引くべきか、人口についての現実的な状況を加味すべきかを議論しているが、この議論の背後には、今の課題を「通常の練習問題として扱うべきか、それとももっと一般的な問題と見なすべきか」という議論が見え隠れしているのである。これは氏に言わせると、今の状況にどのような意味を読み込むのか、そして今の状況での有意味な活動はどのようなものか、についての議論であり、「教育的状況に入る」試みである。

 後半再び教師の介入のあった場面の分析に戻る。ここでは、教師が自分でも意図しないうちに、通常の課題として扱う方向に生徒を向けるようなメッセージを出していることが指摘される。この中では、生徒と教師の力関係、それによる二重拘束的状況が重要な側面として言及されている。まとめでは、生徒は教師の言動から方向性を引き出そうとすること、生徒が課題へのアプローチとその教育的目標の結びつきを仮定している一方で、教師にはその結びつきが識別しにくいこと、また数学の授業に現実を持ち込むときには、現実と数学化による "仮想現実" との関係が起こり、それが暗黙の目標の決定により部分的には収束されてしまうことなどが取り上げられている。

 教師という特別な存在がいる、数学の授業という状況での社会的相互作用を考える上で、この論文は興味ある側面を示しているように思われた。


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