What Is Mathematics, Really?

by Rueben Hersh
(Oxford University Press, 1997年, 343pp)


 これは「数学的経験」などでおなじみの R. Hersh 氏による新しい著書である。タイトルからもわかるように、数学とは結局何なのかを考える際の、さまざまなヒントを与えてくれる本である。彼の基本的な立場は、「ヒューマニスト」という用語で代表されている。これは、「数学を人の活動、社会的現象、人間文化の一部、歴史的に進化してきたもの、そして社会的文脈の中でのみ理解しうるもの、として理解しなければならない」(p. xi) という見方である。
 本書は第一部、第二部およびまとめからなる。第一部では、数学の捉え方に関わりよく問題になりそうな話題について、他の立場とヒューマニストの立場とを対比させながら、それらの話題がヒューマニストの立場からはどのように見ることができるかが示されている。数学の対象はどのような性質のものか、数学の舞台裏をどのように扱うか、プラトニズムと形式主義を揺れ動く数学者の心情、数学における確かさ、何を証明とするか、直感の役割等々。これらを論ずる中では、次のような小気味いいフレーズも飛び出してくる;「『リアルな』4次元立方体というのは、『リアルな』ミッキーマウスと同じようなものである」(p. 20);「数学に絶対的な確かさはない。あるのは、生活の他の領域と同様、ヴァーチャルな確かさである」(p. 47);「再現可能な性質を持った心的対象の研究が数学を呼ばれる」(p. 66);「オブジェクトはゆっくりしたプロセスであり、プロセスはすばやいオブジェクトである」(p. 80)。
 なお、数学を社会−歴史的現実として捉えることは、「大きく社会という点では『内的』であり、あなたや私個人という点では『外的』」(p. 17) にあることを意味する。ある意味での社会的制度であり、その点ではソナタ形式、価格、連邦裁判所等と同じに扱われている。また社会的ということを述べる際に、「数学は金銭、戦争あるいは宗教などと似たようなものである。すなわち物理的でも心的でもなく、社会的である」(p. 248) という言い方もされている。人の手で作られ我々の社会には「内的」でありながら、子どもにとっては「外的」なものをどう扱うかは、教育にとっても興味ある点であろう。
 第二部ではさまざまな数学の哲学の見解が検討される。そこで扱われる事実はよく知られたものであるとしながら、配列や解釈には本書なりの新しさがあると著者はしている。配列は2つに別れる。一つは「主流」とされるものであるが、これは数学には確かな基礎があるという前提を持ち、それが何かを論ずる立場である。ここにはピタゴラスから始まり、プラトン、デカルト、ライプニッツ、カント、フレーゲ、ヒルベルト、ブラウワー、ゲーデル、カルナップ、クワィンなどへとつながっていく。もう一つはヒューマニストの流れであり、アリストテレスから始まり、ロック、ヒューム、ミルを経て、パース、デゥーイ、ヴィトゲンシュタイン、ポッパー、ラカトシュ、ティモツコ、キッチャーへとつながる。また哲学者以外として、ピアジェやアーネストらの名前も挙がっている。ヒューマニストの立場からの検討としても、これらの哲学者の見解が流れに沿って論じられているというだけでも、数学の哲学を概観するための、適当な書物といえるのではないだろうか?
 まとめでは、本書のようにヒューマニストの立場が、数学の哲学の大きな問題を自動的に解いてしまうのではなく、むしろその問題を正しい文脈に置き直し、解決のための新しい可能性を与えるものであると述べている (p. 249)。ここではこの哲学の話を逆に数学のたとえで説明している。つまり、こうした置き直しが複素数への数の拡張にたとえられ、実数直線を離れ、複素平面に移るようなものとされている。そこでは健全な感覚のすべてが放棄されるわけではなく、保つべきもの (例えば経験との一貫性、科学哲学との一貫性) は保たれているのである。エピローグでは新フレーゲ主義の現在も続く台頭への批判が述べられ、最後に感情的な本音が見えるような気がする。なおこの最終章のタイトルは「数学は生活の一形式である」である。
 本書には 60ページ以上にわたる註がつけられている。これは本文での数学的な定理などの内容を簡単に紹介したものだが、デデキント−ペアノの公理からゲーデルの不完全性定理の簡潔な証明まで、この部分はこれだけでも数学についての読み物としても面白そうである。また20ページにわたる文献リストは、この分野をさらに勉強するために有用であろう。
 結局本書で目指していることは、実際に行われている「数学」という営みを適切に考慮に入れた数学の哲学の構成ということであり、その方向で考えればヒューマニストの立場にならざるをえないということなのであろう。また適切な数学の哲学は、認識論や科学哲学といった隣接学問とのつながりを持つべきことや、数学の研究、応用、教授、歴史、計算といった分野に関して検証されるべきであるとも述べられている (pp. 24-34)。
 数学の哲学というと難しそうであり、取っ付きにくい感じがする。しかし本書は数学とは何かという点をきちんと考えながらも、その記述は平易なものとなっている。数学の事例としても初等・中等レベルのものが多く用いられており、また数学以外の事例もうまく用いられている。最後にその例を一つあげよう。
 上でも述べたように数学の対象は物理的なものでも、個人の頭の中にある心的なものでもないが、かといって超越的なものでもないと Hersh 氏は考える。それは社会の網目の中に組み込まれたものと言えよう。そうした物的でも心的でも超越的でもないような対象の存在を示すために、彼は医者に予約を入れたときのエピソードを取り上げている。忙しい医者に予約を取ろうと電話したところ、一個所空きがあり無事予約がとれた。このとき、この「空き」は勿論物理的な "もの" ではない。しかし個人の心的対象でもない。Hersh 氏自身も知らなかったし、医者本人は受け付けの係りに聞かねばその存在は知らなかった。しかし受け付け係が見落としたとしても「空き」は存在する。結局この「空き」は社会的な配列の織物の中に存在する対象であるということになる (p. 72)。何気ない出来事を捉え、その意味を巧みに説明してみせる Hersh 氏の機知に感心してしまった。


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