Intention and Significance in the Teaching and Learning of Mathematics


By Tony Brown

(Journal for Research in Mathematics Education, 27 (1), 52-66, 1996年)


 本論文のタイトルには intention と significance という単語があるが、これは、教授とは教師の意図を伝達することではなく、教師の入力に対して学習者が与える意味を啓発することである、とする解釈学的な発想を示している。そして、ガダマーとハーバーマスとの立場の違いを利用しながら、数学の理解の発達における言語の役割および言語の持つ限界の影響について論じたものである。

 この論文にしばしば顔を出す基本的な問題は、数学の教授が、生徒の創造的で数学的な力 (power) を育てることと、生徒を因習的な数学の実践へと導くこととに同時に関わっている、という点である。 これは、一方で生徒の豊かな活動を保証しなければならないとともに、他方ではある決まった数学という文化への導入を考慮しなければならない、ということと考えられる。このとき、個人の持つ源泉的な経験と一つの文化としての数学とを結ぶものとして、言語が考えられるわけであるが、経験と言語との関係についてのガダマーとハーバーマスの立場の違いが、本論文の一つの視点となっている。Brown によれば、ガダマーの立場では個人の経験といえども言語によって形作られるのであり、言語外 (extralinguistic) のものは考慮しないことになる。またハーバーマスの立場ではむしろ言語外の経験の方が言語に先立つことになる。前者では学習とは、世界の中で世界に働きかける自己を経験することで成り立ち、与えられた課題に対して生徒が意味を創り出すことが重視される。後者では、教育はイデオロギー的構造から生徒を解放することに関わるとされる。Brown 自身は、数学の提示はある種のイデオロギーを伴うが故に、イデオロギーの排除を目指すハーバーマスよりも、ガダマーに近い立場をとっているようである。

 こうした違いは (イデオロギーのような) 外からのものを膠着したものととらえ、そこからの解放を求めるのか、それと向き合い自分なりに意味づけをしていくのか、という違いとも考えられる。結果として、ガダマーの立場は、個人の現在の数学の構成を重視することになる。そしてこのプロセスで Brown が重視しているのは、フォーマルな陳述といえどもそれは個人により作られるのであり、言葉の意味も時間とともに変わっていくのだ、という点である。数学を構成する要素や構造も、個人の視点から分離しては考えられないのである。彼は、世界をあるがままに理解することと、世界に働きかけて別のものにすることとの間のやりとりを、解釈学的循環と呼んでいるが、ここでも「世界をあるがままに記述しようとする試み自体が、世界を変化させる」(p. 63) としている。その時点での言葉に制約された経験であっても、それが新たに世界を変えていく力を持つと彼は考えているように思われる。

 学習者の活動というよりも、むしろ社会的な構成要素である言語というものから数学の構成を見ようとしている点で、興味深い論文となっているのではないだろうか。


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