ところで本論文中では、近年の数学教育のコミュニティに影響力を持つ理論として、構成主義と Lakatos理論が検討されている。そして、前者の「子どもが知識を構成すべき」および後者の「数学的知識は疑似実証的である」というキャッチフレーズが、数学的な証明の役割を低めるものとなっていることが、論じられている。しかし氏は両理論のこれまで普及してきた解釈に異を唱え、これら二つの理論が必ずしも証明の役割を低めるものでないと述べるとともに、証明の教授における教師の役割を低めるものでもないことに言及している。むしろ、証明に必要な推論のツールや思考の様式を生徒だけで確立することは無理であり、教師の積極的な役割が決定的に重要であると、主張している。つまり、氏は構成主義を認めながら、教師が積極的に教授を行い生徒に関わるべきであると、述べているように思われる。
実は、構成主義の立場に立つことと教師の積極的な役割を求めることが矛盾しない、ということを主張する際に引用されているのは、あのP. Cobb氏の論文である。このCobb氏の論文 "Constructivism in Mathematics and Science Education" は、Educational Researcherのvol. 23, no.7 に載せられた3本の構成主義についての論文への導入として書かれているものであるが、確かにこの論文を見ると、最も権威主義的な指導場面であっても生徒は自分の知る方法を構成しなければならないこと、また、重要な問題は生徒が知識を構成するか伝達されるかということではなく、社会的あるいは文化的に状況に結びついた構成の質であることが述べられている。つまり、構成主義に立つことと、教師の役割が生徒の探求の促進に留まるべきであることとは、必然的に結びついているものではないようである。
このような欧米での見解を見てくると、構成主義と教師の役割について、我々ももう一度考えてみることが必要なのかもしれない。