Problem Solving as aBasis for Reform in Curriculum and Instruction:
The Case of Mathematics


by James Hiebert, Thomas P. Carpenter, Elizabeth Fennema, Kare Fuson, Piet Human, Hanlie Murray, Alwyn Olivier, & Diana Wearne
(Educational Researcher, 1996, vol. 25, no.4, 12-21)


 本論文は、カリキュラムと指導の改革を具体的に行うための一つの原理を提出し、その原理の持つ意味や他の類似の概念との関わりを述べたものである。その原理は次のように述べられる (以下では問題視の原理と略す) ;「生徒には教科内容を問題視することが許されているべきである (Students should be allowed to make the subject problematic)」。ここで、教科内容を問題視することを許すとは、「なぜものごとがそうなっているのかを不思議に思い、探求を行い、解決を求め、そして不調和を解消しようとすることを許す」(p. 12) ことである。彼らはこの原理を全ての教科に当てはまるものであるとしながらも、自分たちの最も得意とする数学という教科に焦点を当てて説明をしている。

 彼らはこの問題視の原理に関わる様々な事柄を、1つの事例で説明している。その事例は、2年生の子どもが、37と62の差を、10個の丸が描かれた棒などの教具を使ったりしながら自分なりの方法で見つけ、それをクラスの子どもたちに説明している、というものである。教師は、それぞれの子どもの考えの似ている点や違いを考えるように、子どもを方向付けている。62と37の差を求めるという、繰り下がりのある引き算のやり方についてのなにげない学習の場面でありながら、「真の問題解決」(p. 13) に子どもが参加しているという点が、この事例において彼らがまず示したかったことのようである。例えば、問題解決に関わる一つの古典的な見方には、数学の知識を獲得した後にそれを他の問題や具体的場面に応用するという、知識の獲得とその応用という二分法が含まれている。日常的な場面から始め、そこでの問題を考える中で数学の知識を見出させようとする近年のアプローチは、一見すると知識の獲得と応用の二分法を崩しているように見える。しかし、日常的な場面という特定の問題場面に教育者の注意を向けることは、二分法の含む本当の論点を曖昧にするとHiebert らは考えている (p. 14)。彼らが問題視の原理を提唱するときは、日常的な場面だけでなく、上に述べた差を求める手続きについての場面であっても、その内容に疑問をもち、探求を行い、その中で知識を獲得することが期待されているのである。

 彼らは問題視の原理を支える理論的根拠として、Dewey の反省的調査 (reflective inquiry) を取り上げる。反省的調査の特徴は三つである(p. 14);(1) 問題を見出すこと;(2) 積極的な関与により問題を研究すること;(3) 問題が (少なくとも部分的に) 解消され結論に達すること。これらの特徴だけ見ると、今さらなぜこんなことをHiebert らが述べるのかと思えるが、それぞれの特徴の説明の中で彼らが重視する側面を見ると、彼らの取り上げた理由が見えてくる。まず問題を見出すことについては、彼らは、問題が反省的調査を引き起こすだけでなく、「反省的調査に関わる者こそが問題を探す」というDewey の命題を引用し、さらに「[反省的調査に関わる者] は自分の経験をもっと十分に理解するために、それを問題視する」(p. 15) と述べている。つまり、ここで問題を見出すことは、創造性といった大袈裟なことではなく、目の前にあることをよりよく理解したいという気持ちに関わって述べられているのである。

 解決を求めることに関しては、能動的な関与とともに、はっきりしない状況の中で不安に耐え、ねばり強く調査を続けることが重視されている。すぐに答えを求めるような授業は、不安への耐性とかねばり強さという点で不適切であると考えられる。結論に達することに関しても、やはり理解が重視されるが、それは具体的には新たな関係を示す新たな場面であると述べられている。「反省的調査で得られるものは、問題の解消にあるのではなく、明らかにされた新たな関係、より深く理解された場面の新たな側面にこそあるのである」(p. 15)。差を求める手続きの事例でも、重要なのは差を求めるアルゴリズムではなく、数システムについていろいろと調べることになった結果構成された、数システムの中の新たな関係がもっとも重要だと考えられている。

 このように Hiebert らは反省的調査のアイデアを、理解という概念を中心に捉えている。そこで次に彼らは、数学教育に見られる二つの理解のとらえ方を取り上げ、問題視の原理が実はその両者の視点から有意味に解釈できることを示す。その一つは機能的理解であり、その立場では、理解は数学的コミュニティへの参加として捉えられる。この場合には、参加へと誘うような教室の活動を引き起こすには、子どもに教科内容の問題視を許すことが必要だ、として問題視の原理は解釈される。理解のもう一つのとらえ方は構造的理解であり、その立場では、理解は情報間の関係を明確に持った知識の組織化として捉えられる。この場合の理解と問題視の原理を結びつけるために、Hiebert らは R. B. Davis による "理解は解決の後に残る残留物" というアイデアを引き合いに出す(p. 17)。ここでの残留物としては、教科内容の情報の構造だけでなく、メタ認知的な方略、数学に対する傾向性といったものも含まれる。問題視の原理に基づき教室で反省的調査が広く行われるようになれば、"理解は解決の後に残る残留物" というアイデアにより、これら残留物が残り、子どもの理解が促されることになるのである。以上のように、機能的理解の立場からでも構造的理解の立場からでも、問題視の原理は意味のある原理として解釈が可能なのである。そして、理解と多様に結びついているからこそ、問題視の原理は問題解決について考える際の、強力で実用的な方法であるとされる(p. 18)。

 ところで、Hiebert らは問題視の原理が Dewey の反省的調査の理論に基づくとしながらも、2つの点でそれを拡張していると述べている(p. 15)。その1つは、前の段落で述べた残留物の範囲をより広く捉えた点である。そしてもう1つは、問題視される場面を日常的なものに限らず、通常の教科の内容をも含めるようにした点である。これは、近年見られるアプローチへの彼らの批判や、最初に差を求める手続きの学習を事例として出してきたことにも現れている。彼らが重視するのは、課題が生徒の日常生活に密着しているかどうかではなく、反省的調査が認められるような条件下で課題が課されていることと、課題の解決により適切な残留物が残ることである。その意味で、日常場面に注意を向ける立場 (日常場面からの知識の構成、日常場面への応用、日常場面の利用による動機付け)とは、彼らの考えは必ずしも一致するわけではない。

 結局、問題視の原理は、子どもの探求活動と数学の理解という双方を保証しようとする原理のように思われる。翻って、我々の議論においては、この双方はどのように扱われているのかを考えることは、彼らの議論を生かす一つの方法ではないだろうか。


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