Twenty Questions about Mathematical Reasoning

By Lynn Arthur Steen

(In L. V. Stiff & F. R. Curcio (Eds.),  Developing mathematical reasoning in grades K-12: 1999 Yearbook (pp. 270-285).
Reston, VA: National Council of Teachers of Matheatics. 1998年)



 本稿は上記NCTMの1999年報の最終章=第23章である。Steen氏は20の問いに先立って、2つのウォームアップ問題から その稿を起こしている。第1の問い「なぜ数学は、K-12のカリキュラムにおいて、不可欠な部分なのか?」に対しては、 自明であるとして、基本技能を教えるため、子どもが論理的に考えることを学ぶのを助けるため、生産的な人生や仕事に対して 生徒を準備させるため、量的リテラシーを持った市民を育てるため、と答えている。第二の問い「数学的推論はこれらの目標を 如何にして進展させることができるか?」については、「数学的推論」の解釈に依るとして、その解釈の曖昧さが 多くの問いを生み出すとして次に続けている。

1. 数学的推論は数学的なのか?
 コンピュータ利用のように、今日の数学は多様な方法を含み、推論は多くのツールの 中の一つに過ぎなくなっている。今や、数学的推論は、証明を気にせずにうまくいく解を見いだす、優秀なエンジニアの 本能を含むのであろうか?「ノイズを多く含んだ」データから推測を行うことも含むのか? 数学は演繹的でなければならないのか?視覚的、機能的、発見法的な 推測はどうなのか?結局、数学的推論の何が「数学的」なのか?

2. 数学的推論は有用なのか?
 普通の場面で数学を使うというと、知っている公式や手続きを適用して標準的な問題を解くか、数学的な方略を利用して 複雑に対処するかであり、厳密な演繹を行うことはあまりない。人々が生活や 仕事の中で行う類の数学にとって、数学的推論はどの程度必要なのだろうか?

3. 数学的推論は学校数学の適切な目標なのか?
 数学の学生は、文脈を考慮せずに厳密な解法を 探そうとして、実際の仕事でうまく対処できないことがある。 実際の仕事の場面で必要となる批判的思考や問題解決力は、他の教科や統合的な文脈において よりよく学ばれるとする見解もある。少なくとも、演繹的な数学的推論は、将来の学校数学の公的目標 としては不十分である。数学の利用は全ての人に必要だとしても、数学の正確な理解や 数学的推論は結局、誰が必要とするのか?

4. 教師は数学的推論を教えられるのか?
 まずは、数学的推論を扱えるだけの教師が見つかる(あるいは教育できる)ようでなければ、 数学的推論を基礎においたカリキュラム改革は成功しない。しかし、そうした教師が見つかったとしても、 世間(public)は、彼らが学校で数学的推論を教えることを認めるであろうか?「曖昧な数学」(こちらを参照)になる恐れが あるとして、理解を強調しようとする教師にさえ圧力がかかるのではないだろうか?

5. 数学的推論は教えられうるものなのか?
 数学的推論がどのように発達するのかについてもあまり分かっていない。能動的あるいは反省的であること、 生徒や場合に応じた多様な手法や経験の重要性は分かっている。 しかし、それがあれば数学的推論がちゃんと生ずるのか?明示的な 指導を必要とすることはないのか?生徒の構成や反省によってのみ発達するタイプの数学的推論があるのか? 明示的に教授できないタイプがあるとしたら、全ての高校生にそれを要求することは適切なのか?

6. 技能は理解につながるのか?
 大人の多くはまず技能を習得し、その後に高次の推論を学ぶことを期待している。しかし、技能は自然に理解を導くのであろうか?あるいは逆に、理解は技能を助けるのであろうか?知識や手続きについての有能さが数学的推論を必ず伸長したり、逆に、知識や技能を欠く生徒において数学的推論が発達することがあるのだろうか?技能と推論の関係は、スペリングと作文のそれのように、一方の有能さは他方の有能さとあまり関係がないのであろうか?

7. ドリルは数学的推論の発達を助けるのか?
 ドリルの強調が生徒の関心を奪い、不安を抱かせることは指摘されてきている。本当の能力はかなりの練習によってのみ得られるという結果もあるが、他方で、練習は理解を保証するには十分ではないという結果もある。九九は分かっても答えがそうなる理由や、乗法が適切となる場面を認識できない生徒もいるし、証明を憶えても、他の文脈でそのアイデアを使えない生徒も多い。練習された記憶が推論や理解につながるという、本当の証拠はあるだろうか?

8. 証明は数学にとって本質的なのか?
 いわゆる「実験的な」数学により、証明が数学的真実にとっての必要不可欠のものではないとする意見まで出ている。多くの人にとっては、証明は「証拠の優勢さ」の検証に過ぎないが、もっと厳密な基準を要求する人もいる。数学のルーチンな利用においては、うまく働くものが証明可能なものに勝る。数学のそうした利用にとっては、フォーマルな証明の理解はそれほど必要ではない。一方で、数学の進んだ研究のためには、証明はかなり必要であろう。

9. 証明を学ぶことは数学的推論を促進するのか?
 証明をどのように、いつ、なぜ、誰に対して教えるのかについては、あまり共通の見解がない。数学的な真、厳密さ、確実性は生徒にとって自然な習慣ではなく、証明の早期導入は数学的推論の発達の妨げにはならないのか?数学者は、生徒が数学の論理的本性を学ぶようにカリキュラムに証明を含めることを提唱するが、数学教育における証明の最も重要な寄与は、数学的理解をコミュニケートするという役割である。教室における証明は、目標としてよりも手段として適切なのではないか?

10. 「数学不安」は数学的推論を妨げるのか?
 多くの生徒が自分は数学ができないと信じており避けようとする。しかしそうした生徒の多くが、実際は数学的に考えることができる。彼らが恐れているのは数学ではなく、学校数学である。自分で作った推論が優勢になれば、学校で習った形ではないにしろ、妥当な数学的推論が生じてくる。学校は如何にして、それぞれの生徒の数学的推論に対するユニークなアプローチを尊重しながら、かつ社会が期待するようなものを教授することができるだろうか?パニックが減少したら推論は伸長するだろうか?指導を弱くしたら理解は深まるのであろうか?

11. 共同活動は個人の理解を促進するのか?
 共同学習においては数学的実践に生徒が携わり、数学的推論が効果的に学ばれたり、共同活動への参加の仕方が学ばれたりすると考えられている。しかし保護者サイドからはこれに反対の声もある。教室におけるチームワークは、個人により達成されるよりも高次の推論を生み出すのであろうか?またその結果として、個々のメンバーは、数学をよりよく学ぶことができるのであろうか?グループによる活動は、どのようにして個々人の数学的推論を促進するのであろうか?さらに、数学教育関係者は、共同活動に対する世間の支持を、どのように取り付けることができるだろうか?[数学の学習と会話の関わりについてはこちら も参照]

12. 計算機やコンピュータは数学的推論を増進するのか?
 コンピュータの普及は「実験的数学の再生」という動きにも呼応している。 計算機やコンピュータはパタンの生成・確かめの道具を与え、それにより生徒が数学的推論を学ぶのを支援する。またコンピュータ言語は、生徒が論理的に推論するのを学ぶのに役立つ、と主張する者もいる。しかし、学校における実際の効果はプラスとマイナスが混じっている。期待されることと達成されることの間には、どうして大きなギャップが存在するのであろうか?

13. 数学がよその文化だとなぜこれほど多くの生徒が感じているのか?
 ある文化の人々が他の人々よりも数学に適している、と多くの人が信じている[このあたりは、Nunesらの路上の数学の話に関わるであろう]。それぞれの文化は自らの数学を発展させてきており、数学には無視できない文化的差異がある[このあたりは、民族数学の知見を考えてみるとよい]。しかし、数学的推論の発達においても、文化的差異があるのであろうか?数学に見られるような厳密さや推論様式を重視する文化で育った子どもは、学校数学に対し違和感が少ないかもしれない。ともあれ、どうして、ある生徒たちは数学を受け入れられる教科と感じ、他の生徒はこれを最も異文化的に感ずるのだろうか?どうしてある生徒たちは、数学を途方もなく難しいと感ずるのであろうか?

14. 文脈は数学的推論にとって本質的なのか?
 「状況的認知」や「文脈化された学習」が教育関係者の間で問題となってきた一方で、科学者、エンジニア、職業教育関係者などは、数学の教授での文脈の欠如が、学習の妨げになっていると主張してきた。この議論は転移の問題とも関わっている。数学的認知はどのように状況的なのであろうか?文脈の中での指導は数学の学習を促進するのか?それは他の領域への転移を制限するのか、促進するのか?数学的推論の他の領域への転移はどのような場合に起こるのだろうか?

15. 生徒は本当に自分自身の知識を構成しなければならないのか?
 理解は能動的な学習によってのみ生ずるとされている。その結果、 生徒が自分自身の理解を構成すべきだとする信念が広まってきた。しかし反対者の中には、構成主義は、系統的な指導や練習を軽視することになる、と批判する者もいる。教師主導の学習と生徒中心の学習の、適切なバランスはどのようなものなのか?生徒は全てを自分で構成する必要があるのか?何が記憶されるべきで、何が構成されるべきか?[構成主義に 関わっては、こちらこちらも参照されたい]

16. いくつの数学が存在するのか?
 家庭での数学、学校での数学、路上の数学、ビジネスの数学、職場の数学など、数学は多くの環境で生きている。ある生徒は数学のクラスで数学をよりよく学び、ある生徒は科学の中で、ある生徒は職業の中でと、様々な状況で学んでいる。こうした設定は異なる数学を提供するのか?抽象的な数学が適切なのはどのような場面で、具体的な数学の方がよいのはどのようなときなのか?生徒はそれを決定できるのか?教師はそれを決定するのに十分なことを知っているのか?

17. 我々の脳はどのように数学をするのか?
 近年の神経科学の発達により、数学的思考の神経メカニズムを考えることができるところに、来ているように思われる。生理学がスポーツ選手の成績を高めたように、個人の数学の成績を科学的に高めることができるようになるのだろうか?数学的推論の生化学を確立することができるだろうか?神経科学は、教育者が転移や、技能と推論の関係などを理解するのを助けてくれるだろうか?

18. 我々の脳はコンピュータのようなものなのか?
 我々は単純に、脳がコンピュータのようなものだと考えてしまう。神経科学の成果からするとこれは不適切であるが、これに代わるものがないために 根強く残っている。しかし最近の研究では、推論のための能力も、ニューロンの自然淘汰という不断の変化のプロセスにより作られるとされる。 こうした知見が新たなメタファーを提供してくれるかもしれない。

19. 数学に対する許容量は生まれつきのものなのか?
 幼い子どもが自分なりの数学の規則を作ることは、よく知られている。これは、言語を学ぶのと同じように、数学を学ぶ生得的な能力を持っていることを意味するのであろうか?もしも赤ん坊が、母国語と同じように、数学的パタンにあふれた環境におかれたら、数学的推論はどのように伸長されるのであろうか?

20. 入学の時点では手遅れなのか?
 脳が生まれつきにより決まる部分と環境により決まる部分があるにしても、シナプスやニューロンは最初の 数年のうちに急速に成長し変化してしまう。言語の学習などと同様、算術や代数の学習、 さらには数学的推論のための「窓」があるのであろうか? どのような刺激が、幼い子どもの脳の数学的思考に対する能力を促進するのであろうか?いつの日か、 我々が、子どもの数学的推論に対する能力を造形できるような日が来るのであろうか?[TIMSSの家庭の蔵書数と 算数の成績の関係についての結果なども、これに関わるであろうか?]

本稿は、このような問いで終わっている。ここにあげられた問いを見ると、数学的な推論や考え方に 関して、我々が考えねばならないことがまだまだたくさんあること、それ故に、話を単純化し、 一面的に考えることの危険性を感じるのである。


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