米国教育改革の新たな方向性の模索

(1998年5月1日)

 コブ氏のプロジェクトのあるミーティングで二つの文献が扱われたが、それらは統計教育に関わるものではなく、米国の教育改革のあり方を反省し、その新たな方向性を提案するものであった。一つは NSF に関わりのある Nora Sabelli と Chris Dede による "Reconceptualizing the Goals and Process of Research to Improve Educational Practice" であり、もう一つは James Hiebert と James Stigler によるタイトルのないドラフトである。いずれもドラフト状態なので詳しい内容の引用は避けるが、両者に共通に扱われている内容を簡単に述べることにする。なおミーティングにおいてはこれらの論文自体についてはあまり議論がされず、それらを踏まえたときに彼らのプロジェクトでは何を目指すかという点が多く話されていたようであった。
 両者の共通の問題意識は、これまで米国で多くの教育改革の提案がなされてきたにも関わらず、その改革があまり長続きせず、大きな変化が得られていない、ということにある。これらの原因として両者が考えているのが、 (大学の) 研究者と初等・中等学校の教師の間の関係である。要するにこれまでの改革は、まず理論や実験室での実験結果などに基づいて研究者がこれを提案し、次に普及活動に入り、州などの教育委員会に影響を与えたり、初等・中等学校で実践されていく、という流れになっている。しかし、このときにいくつかの問題が出てくる。つまり、研究者の側からすると教師が改革の意図や内容を十分に理解せず、適切な実践がなされないということになり、教師の側からすると研究者が理解しにくい形で改革を提案したり、あるいは現場の状況や地域の文脈に合わないような形で提案している、という不満である。
 Hiebert らのドラフトではこの研究 (知識の獲得) と実践 (知識の応用) の分離の起源を、シカゴの実験学校にあると明言している。Dewey がいた頃は知識の獲得と応用が一体化した形で運営されていたのが、Charles Judd が後任に座ってからは、教育研究の科学性がうたわれ、この分離が始まったというのである。
 これらのギャップを埋めるための努力としては、改革を教師にわかりやすい形で示すハンドブックやブックレットの出版、あるいは Fennema らの Cognitively Guided Instruction のように、教師に背景的知識を与えることで改革を理解してもら努力などがある。また研究チームに教師にも参加してもらうことで、研究自体が現場の状況に合うようにするとともに、研究成果に基づいた改革の重要性や効果を教師側にも理解してもらうという努力も考えられる。
 Sabelli らの論文では、この最後のような研究者と実践者の協力という形は、それなりに評価されているように思えたが、ただしそれも新たな観点が必要とされている。それは、学校教育というものをより大きな文化 (例えば行政レベルや親、地域社会) の中で考え、複雑な要素が関連し合った一つのシステムとみなすということである。こうした面を考慮せず、教師個人や単一の学校内部だけで改革を行おうとしても、結局は長続きせずに終わってしまう。こうした文化的なシステムとして学校を考えていく必要性は、Hiebert らのドラフトにも見えるところである。
 もう一つの方向性は、教師組織自身が教授についての知識を生み出し、教授を改善していくという動きを支持するというものである。これは教師が研究の必要性を理解するために研究に携わるということではなく、知識の獲得と応用の一体化を目指すということである。Hiebert らのドラフトでは「変化の努力はシステム内の力によるとき最も効果がある」という命題を引き、また変化がシステムの統合的な部分であるともしている。学校という場を、教師が自分たちの教授経験から学ぶ場にすることの重要性を、二つのドラフトは述べている。Sabelli らの論文には「我々の社会の教育システムの構造に装備された (built into) 進化的プロセスを通して学ぶ」という表現があるが、システムが改善されていくためには内的な進化的プロセスを持つ必要があるし、またシステムは本来的に持っているということなのであろう。
 こうしたシステム内部からの改善はしかし、教師に自分たちでの改善を求めるだけではどうしようもない。少なくとも教育システム全体として、そうした教師自身による学習を支援するようになっている必要がある。Hiebert らの言うように、教育の決定を一方的なトップ・ダウンで行うだけでなく、最も関連する情報を入手できる部署に決定を割り当てるようになっていなければならない。また教師が自分たちで見出した教授についての知識を他の教師も共有できるようなメカニズムが確立していることも必要である。
 なお Hiebert らのドラフトでは、教師が自ら知識を獲得する一つの例として、日本の教師のことが述べられている。日本の教師は学校のあいている時間に自分たちで集まり、いくつかの (少数の) 内容に限定して教授方法を皆で検討し、それを実践したものを皆で参観して再び検討し、ということを何カ月も (ときには何年も) 続け、またそうした成果を他の教師と共有するような場もある、と彼らは見ている。その中で彼らは、一つの授業に焦点を当てることが良い方法であると指摘している。それは一つにはそうした授業についての知識は他の教師が実行・検証しやすいからであり、もう一つには授業レベルの改善には経験の多寡を問わずすべての教師が参加しうるからだそうである。
 教師が授業について知識を獲得するためには時間的余裕が必要だが、Heibert らはこれにも言及している (もちろんこれは暫定的なものであり、これが良いというよりも、システム全体として動きを考えねばならないという、一つの例として出している)。それはクラスの人数を増やすことである。国際調査の結果を踏まえ、クラスの人数は成績にあまり影響を与えないとし、クラスの人数を多くして時間数を減らすことで、時間を捻出しようということのようである。彼らは日本で時間が取れるのはクラスの人数が多いからだと述べるが、時間に追われる日本の教師を見ると、この点については疑問を抱かざるをえまい。
 これまで述べてきたように文化的文脈を考慮したり、あるいは教師が自分たちで知識を獲得する方向を目指すとなると、大学の教育学研究者の役割も変わらざるを得ない (さすがに彼らもお払い箱とは言えなかったようである)。文化的文脈を考慮した場合、多様な人材を総合して研究を行う必要が出てくる。大学の研究者はこうした人材をコーディネートする役割を果たさねばならない。また教師が知識を獲得するという点に関しては、大学の研究者はそれぞれの教師グループの成果をさらに統合し、多様な状況に渡るパタンを見出したり、教授と学習の結びつきを探ることになるということである。
 以上述べてきた論点は、果たして日本とは無関係であろうか?彼らは、進化するシステムの事例として、企業・工場や医学の分野を挙げている。確かにそれらの分野では「進歩」がはっきりしている。それらと比較して、日本の教育システムは本当に進化しているのか?以前よく議論されていた教師の専門性の話はいかされているのか?考えるべき点はいろいろとあろう。一方で、Hiebert らの結びの言葉である「今から1年ではなく、今から20年」ということも注意しなければなるまい。


 余談ながら、Hiebert らのドラフトで、TIMSSのビデオ・スタディについて、興味ある考察があったので紹介しておく。彼らによれば、米国の教師は OHP を多用するが、日本の教師はほとんど使わないという。しかしこれは単に使うメディアの表面的な差を意味するものではないと彼らは言う。米国の教師は生徒の注意を引こうとして OHP を用い、日本の教師は授業中に出た考えを累積し、それを最後に振り返るために黒板を用いる。つまりここには、数学や数学の学習についての両国の教師の考え方・信念の差が反映している。このように、授業はさまざまな要素が複雑に絡み合っており、表面的な差だけに目をむけてもその違いは理解できないということを、彼らは言いたいようである。

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