基本的な知識・技能における初期の小さな差は、学年があがるにつれ大きな差となって現れてくる。新たな知識・技能を身につけるには元になる知識・技能が必要だからである。学校がこうした知識・技能を保証しないときには、これらを補ってくれる家庭の子とそうでない家庭の子では不平等が生じ、その差は徐々に大きくなる。知識・技能を学校が保証することが教育における平等を保証する、というのはこうしたことを指す。米国のヘッドスタートでは初期の教育を考慮したものの、基本的な知識・技能が明確にされていなかったり、正規の教師が採用されなかったために、十分な効果が得られなかったとされている。また米国は人の移動の激しい国であり、その中で知識・技能を保証するには、全国規模での統一が求められるのである。こうした言わば「知的資産」(p. 19) は国の労働力の質を表わすとともに、個人レベルにおいても現代社会のあらゆる局面で関与してくるのである。
上のパラドクスで取り上げられた内容のほかにも、問題解決、高次思考技能などの、いわゆるプロセス重視の「改革」も同様に批判の対象である。もちろん、プロセスを全く無視ということではないであろうが、「一般の」問題解決や技能といったものは批判の対象となっている。彼はこうした主張を述べるにあたり、それらが主立った諸研究の流れにおける知見とは合わないことを指摘する (p. 131)。例えば、問題解決については転移の研究が、弱い曖昧な結果しか示していないことが指摘されている。つまり、一般的に通用するような問題解決力はその存在すら疑わしく、知識の獲得を犠牲にしてまでその育成に時間を割く必要があるのか、ということである。
また、今日のいわゆる「改革」を支える原理として構成主義が持ち出されることが多い。これについても、構成主義のもととなった1930年代の記憶研究を参照しながら、主体が有意味に何かを獲得しているときには必ず構成が生ずるのであり、それは教師の説明を聞いているときでも例外ではないことが指摘される。つまり、構成主義を認めても、そこから特定の教授方法 (例えば子どもに知識を発見させる) が導かれるものではないことになる。彼に言わせれば、今日の「改革」がはかばかしい成果をあげられないのは、こうした諸研究に合わない方向を向いているからであり、「現実の復讐」によるものである。
とは言えHirsch氏も知識の詰め込みを提唱しているわけではない。知識の詰め込みを批判するあまり、知識そのものまで軽視する傾向に異を唱えているように思われる。知識・技能と子どもたちを取り持つ学校を、彼は必要と考えたのではないだろうか。
Allen氏の記事でも述べたが、本書のような主張に全面的に与することには抵抗を感ずるし、また米国の特殊事情もあろう。また彼の言う「改革」の失敗は国際調査などでの成績の低迷を指す部分が多いので、そうした調査で吟味されている内容は「改革」の目指すものではない、と言ってしまえば無視できることかもしれない。しかし一方で、ここであげられた疑問や批判が自分の胸元に突き付けられていることもまた確かであろう。
この他に本書を読んでいて感じたことを2点書き添えておきたい。第一は「改革」「改善」に浮かれることへの警告ということである。日本でも大正の新教育、生活単元、発見学習など、多くの試みがあったが、こうしたものには今日の「改革」の精神に通じるものがあるように思える。それらの試みの検討を視野に入れながら今日の「改革」が成されているのかを考えないと、日本での「改革」もHirsch氏の批判をそのまま浴びそうである。第二は、本書のタイトルにある「我々が必要とする学校」とは今日の日本ではどのようなものか、ということである。個性を伸ばすといった目標のためには本当に学校という社会的制度が適切なのか?学校の社会的役割は何なのか?さらにはそこでの算数・数学という教科の役割は何なのか?それから見て算数・数学という教科は何を目標とし、どのような内容を含めるべきなのか?こうした問いが頭をよぎった。 。