E PLURIBUS UNUM: CHALLENGES OF DIVERSITY IN THE FUTURE OF MATHEMATICS EDUCATION RESEARCH

by E.A.Silver & J. Kilpatrick

(Journal for Research in Mathematics Education, 25 (6), 734-754, 1994)


この論文の目的は、数学教育における研究(research)の将来を考え、JRMEという雑誌の今後10〜20年位の「人生」にとっての重要な問題を議論することである。このために、著者は単に自分の意見を述べるのではなく、何名かの研究者にインタビューを行ったり、記述によるコメントを集めている。彼らは1994年5月にICMIの研究の一環として行われた「数学教育における研究とその成果」についての会議にも参加し、そこでの発表内容も利用している。インタビューをうけた人にはN.Balacheff, A.Bishop, T.Carpenter, P. Gomez, A.Kristjansdottir, G.Leder, W.Secada, J.Sowder, I.Wistedtが、コメントを寄せた人にはP.Cobb, J.Hiebert, C.Kieranがいる。インタビューの項目としては、自分が重要と考える研究の例、そうした研究の特徴といったことが含まれるとされる。彼らは、数学教育(mathematics education)において研究と呼ばれるに相応しいものをあげてくれるよう求めることで、研究者達が我々の学問領域をどのように規定しているのかも、探ろうとしている。以下では、論文の構成に沿いながら概略を述べたい。
1. 数学教育における研究の本性と役割
1.1 学問的活動としての研究の特性

 あることが研究と呼ばれるために必要な特性について、今回の回答に明確な一貫した見方はなかった。歴史的研究は認められることが多いが、教育的経験に根ざさない哲学的な研究に対しては懐疑的であった。また教師による研究は可能としながらも、反省や振り返りによる教授だけでは研究ではないとされた。ほとんどの研究者が言及したのは、数学の教授や学習についての我々の理解を増すものかどうかという点である。  こうした回答の多様性の中で、二つの要素が多くの回答に共通していた。一つは理論とのつながりであり、もう一つは教育実践のリアリティとのつながりであった。理論とのつながりでは、必ずしも前以てそのつながりが確立されている必要はなく、理論の開発が研究の目標であってもよい。むしろ強固に確立された理論との前以てのつながりは、その視点を見えにくくする危険を持つことを、何名かの研究者は指摘している。リアリティとのつながりでは、研究の手続きもチェック可能なものとなるようにし、ある条件下で前提が成り立たない場合は、リアリティに即して結果を検証すべきだとしている。ただし、リアリティとのつながりをあまり字義通りにとるべきではないとの意見もある。「成長」は理論とのつながりだけであるのではなく、実践に対してもあるべきである。リアリティに密着し過ぎると「今あるもの」にばかり目を向けさせ、「あるべきはずのもの」を見えにくくする危険がある。また研究の初期には実践とのつながりが必ずしも見えないこともあるとして、基礎研究の重要性を考える人もいる。
 人々が言及した一つの深刻な問題は、全ての研究は自らの重要性とオリジナリティを示す必要があるという考えから生ずる。この見方のために、自分の仕事の重要性を誇張したり、他の研究とのつながりを最小限に見せようすることになる。また実質よりも、上のことが示しやすい研究を研究者が選択するということにもなりかねない。この傾向は、研究者が数学教育の歴史や以前の成果について知らない場合に一層悪化する。一つの予防策として、以前の研究の追試や拡張を奨励する必要性をあげた人もいる。低学年の自然数の理解についての一連の研究は、研究の連続や体系性がうまくいった例としてあげられている。また今後、他の研究者とのコミュニケーションを活発にする努力をし、強い意味でのコミュニティを築く必要については、多くの人が言及していた。とは言え、関連した研究の爆発的な増加により、先行研究の上に自分の研究を作り上げることは、ますます複雑化してきていることも事実のようである。

1.2 他の学問とのつながりと教育的適切性
 現在、数学教育の研究は様々な分野とのつながりを持っており、それらの理論や方法を利用することで、自らの研究の枠組みを作り、そのことで自分の研究の質や厳密性を保証し、体面を保ってきた面もある。しかし、教育実践との強いつながりも必要とする数学教育学では、他の学問領域とのつながりを強めることが、本当に可能で賢明なことなのか、という問題が生じてくる。他の学問とのつながりにばかり注意を向けると、実践とのつながりが疎かになる。数学教育の研究が、過去において実践家から疑いの目で見られてきた理由の一つはここにある。A.Osborneは「JRMEがなくても数学の教授の実践は進歩しえたであろう」とさえ述べている。
 教育心理学でも、より良い教育方法を探す中で学問的なツールやテクニックを展開していくのか、それともツールやテクニックをある程度完全にした上で実際の教育を考えていくのか、というジレンマが論じられているが、これは数学教育にも当てはまる。こうした問題をよく考え、今後我々の領域の研究をどのように規定すべきか、またそれをどのように実行していくかについて、意思決定をする必要がある。この規定や意思決定に関してJRMEは大きな役割を果たしてきた。査読や出版方針を通して、この25年間、数学教育の研究の性質を規定してきたのである。また、他の研究者による質の高い研究を意識させ、その結果の上に自分の研究を築けるようにすることで、数学教育の研究の成長に寄与してきた。これからも、JRMEがどのような研究を正当なものとするかにより、研究の形態がかなりの程度決定されるであろう。その意味では、JRMEがどの程度の学問的基礎や実践による基礎付けを要求するかは、大切な問題である。
 教育心理学からの示唆に学ぶならば、学問的方向を目指すか教育的方向を目指すかにより、探求すべき問題の決定や研究課題の定式化にも違いが生まれる。例えば、実践の文脈であまり馴染みのないメタ認知や乗法的構造という構成要素により研究を定式化することの価値を、考えてみる必要はあるだろう。一方で、数学教育の学問としての独自性に関わる問題もある。Wittmannが、教授の単元のデザインについての科学として数学教育を扱おうとすることは、独自性についての一つの見方である。教育心理学からの示唆とWittmannのアイデアとは異なったものでありながら、他の領域とのつながりを注意深く考えようという点では共通している。
 ここで注意すべきは、回答者の全員が、他の学問とのつながりを問題視しているわけではないということである。例えば、数学とのつながりをもっと密にしようとする人や、これまでの認知心理学との実り豊かなつながりを再考しながら、慎重に進んでいくべきだとする声も聞かれた。実践と他の学問とのつながりの問題が長期的にはどのように解消されるかはともかく、しばらくの間は多様な学問とのつながりは続くであろう。

1.3 パラダイムの多様性
 JRMEに掲載される論文の特徴もこの25年間で大きく変わってきた。統計的手法が徐々に少なくなり質的な研究が目だって増加してきた。近年では質的研究の方が主要な形態となっている。このことは、論文の質の判定を難しくするという問題を生んでおり、書かれたものが本当に研究なのかすら判定しにくいという点を、インタビューで応えている人もいる。またパラダイムの多様化は、研究を提示するフォーマットの多様化も引き起こし、AERAなどでも問題になっている。しかしその一方で、今回インタビューをした人の中には、数学教育の複雑な諸側面を捉えるためにも、複数の方法論を併用することを勧める人もいた。したがって、多様なパラダイムの下での研究の質の問題や、研究をコミュニケートする効果的な方法の開発を考える必要もあろう。

2. 国際的なコミュニティという観点から見た数学教育の研究
 国際化の高まりは、言葉の問題、雑誌の国際的入手可能性、他国の教育状況の理解の困難性といった点により新たな問題を産み出している。PMEの活動は国際化の高まりを示すものであるが、短くしかも最小限の査読しか経ていない論文の流通は、正規の雑誌への投稿を妨げ、研究の成長を阻害している、との言及もあった。一方で、JRME自体が高まる国際化に応え、どのような役割を果たすかは大切な問題である。

2.1 JRMEの国際的性格
 JRMEが国際的に研究をリードする雑誌であることは、今回インタビューした人々の意見の一致するところであったが、その国際性は明らかではない。例えば投稿論文の著者では、論文の約30%は米国外の人となっている。またここ10年に実際に出版された論文では、28%が米国以外の著者を含み、22%は北米以外の国の著者を含んでいる。JRMEは国外にも多くの購読者を持ち、査読者についても17%は米国外の研究者である(1994年現在)。一方で、論文の受理率を見てみると、米国の研究者が約16%なのに対し、米国外の著者によるものでは約8%となっている。全体としてみると、JRMEが北米に限られているという批判には当たっている面も当たっていない面もある。しかしEducational Studies in Mathematicsでも似たような状況にあり、JRMEだけが特別というわけではなさそうである。
 別の問題としては、米国の研究者の引用が圧倒的に多いということがあるが、これはJRME以外の雑誌・本(例えばGrouwsのHandbook)でも同じである。また数学教育に限らず一般に、米国の研究者は、他の国の研究者とのつながりや、他の国の雑誌を読むことを重視しない傾向がある。これがJRMEにも反映されているのであろう。
JRMEをより国際的なものにするかという点については、今回インタビューした人々の間には賛否両論が見られた。ある人々はJRMEが北米を中心としたものであることを当然と考えているが、他方でJRMEが地域的な雑誌に留まることは問題だとする人もいる。また、JRMEが米国の教師の団体に基づいている以上、別のより国際的な雑誌を作るべきだとの意見もあるが、これに対しては、雑誌を多くすることは論文の質の低下につながるとする反対もあり、簡単には解決ができそうにもない状況である。

2. 2 国際的な諸問題
 国際的なコミュニティが成長しつつあるが、国際的な会話では、明確な定義や相互理解の欠如が一層顕著に現われる。そのため複雑でない議論しやすい問題に焦点が当てられる傾向がある。これまで国際的な場での主たる話題はカリキュラムについてであったが、その場合でも一般的な数学的側面に焦点が当てられ、地域的、社会・政治的特性についてはあまり目が向けられなかった。したがって、国ごとの教育の伝統や実践の違いに関わる微妙だが重要な問題については、触れないことがしばしばであった。また、国際的な議論で扱われてきたものとして、数学の学習の内容や基本的な思考プロセス、認識論的問題がある。この分野での国際的な議論もまた、国ごとの教育実践の条件や伝統という重要な側面を扱っていないが、本当はそうした条件や伝統が、生徒により学習されるものの多くを決定しているはずである。多くの重要な問題が、あまり普遍性を持たず、地域的な教育状況のニュアンスに目を向けることを要求するという理由で、国際的なコミュニティの中で無視されているのである。
 ここで、数学教育の研究問題は全て国際的なコミュニティの中で考察可能か、ということが疑問になる。より具体的に言えば、全ての重要な研究問題について、国際的なコミュニティで考察できるように、文脈的な詳細から取り出すことがどの程度可能か?文脈についての背景的情報をどのようにすれば他の人に伝えることができるか?特定の国の数学教育では明らかに適切であるにも関わらず、国際的なコミュニティでより一般的に考察されることがない、といった状況は許されるか?このことは国際的なコミュニティ自身に対してどのような示唆を持つか?コミュニケーション上の問題やコミュニティの視野の狭さの為に重要な研究が無視される危険性はないか?といったことである。
 しかし上の問題を扱うための場が現在は必ずしも保証されていないし、JRMEやESMといった雑誌だけでは扱いきれるものではない。一つの可能性としてはPMEのWorking Groupがあるが、そこで研究の具体的細部や文脈的要因について議論がされることは希であるし、適切な出版物を持たないという弱点がある。モデル的なケースとしてはBACOMETプロジェクトがある。メンバーの連続性により地域的なニュアンスについての持続した話し合いが可能になっているし、出版物を通してより広いコミュニティとの意見の共有も行われてきた。JRMEなどの重要性は変わらないにしても、国際的視野から重要な問題を考察するには、BACOMETのような新たな形態の組織が必要となろう。

3. 将来的な方向性
 多くの人が、数学教育研究における(研究問題、検討される現象、採用される方法論の)複雑さは次第に受容されると見ている。教室を基本とした研究が中心となることも認めているが、それは一方で生徒等のミクロプロセスに向かい、他方では学校内の諸関係や教師の専門性などの外側へ向かうと考えられている。また、教室の置かれた教育的、社会的、政治的文脈にも敏感になる必要があるとする人もいた。民族や言語に関する生徒の多様化も重要な側面であり、この面への敏感さやそうした状況で研究のできる人材の育成の必要性も指摘された。
 社会的、政治的文脈は研究にも影響を与える。例えば評価の研究に言及した二人の人は、それが政治的示唆を伴うものと考えている。研究問題の選択、研究の実施の仕方、研究費の配分にも政治的要因が影響する。政治的圧力が、すぐに実践的な見返りが得られたり、既設の政治的方針に合ったものへ研究の重点を移行させてしまうのではないか、と危惧する人もいた。  テクノロジーの問題も、かなりの人数が将来的な話題として認めていた。ただし、彼らの関心は教室での利用に限られるものではなく、社会における賢明な利用にも及んでいる。ある人々が指摘したのは、コンピュータによる雑誌やネットワークなど、研究やコミュニケーションのあり方を考えるということである。今後10年位のテクノロジーの進歩により、研究やコミュニケーションの効果的な手段が得られ、国際的なコミュニティの形成に役立つことであろう。
 単一の視点を捏造することは好ましくないが、重要な問題(それが地域的なものであれ国際的なものであれ)について質の高い研究を促進するという共通の目標に沿い、国際的コミュニティが一体化していくことは可能であろう。そのためには、自分と文化や伝統を共有しない人々の研究やアイデアに心を開き、尊敬の念を持っていくことが必要であろう。(以上要約)

 タイトルにあるラテン語「多からの一(多数の統一)」は1782年に制定されたアメリカ合衆国の紋章の中に書かれたモットーであり、今も米国のコインに刻まれているそうである(富士通・依田秀昭氏のご教示による)が、本論文はいままさに"数学教育学"という合衆国を確立したいとする米国の研究者の願いを伝えている。


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