The Missing Link:
Social and Cultural Aspects in Social Constructivist Theories

by Ute Waschescio
(In F. Seeger, J. Voigt, & U. Waschescio (Eds.), The culture of the mathematics classroom (pp. 221-241). Cambridge: Cambridge University Press.)


 本稿は、Voigt 氏と Cobb 氏の二人の見解を中心に、いわゆる社会的構成主義の議論を検討し、その考えの問題点を指摘するとともに、それとの対比で、ヴィゴツキー理論の基本的なアイデアを再確認したものである。近年の文化的道具や実践共同体に関わる研究の動向を紹介した、「情報交換」誌 No. 7-3 (1999年6月)の大谷実氏(金沢大)の記事にも取り上げられていたものである。なお本稿で扱われているVoigt氏の論文はこの論文の収録されている上記の本の中のもの、および95年の "The Emergence of Mathematical Meaning" の中のものであり、Cobb氏の論文としては同じ95年の本の中のものと、95年にJRMEに出た「文化的ツールと数学の学習」である。

 Waschescio氏はまず近年の諸研究の中で、学習に対する社会的プロセスの重要性が認識され、それらと構成主義の枠組みとの統合をすることや、構成主義と社会=文化的理論との間の関係を考える必要性が出てきたことを述べる。しかしすぐに、構成主義の理論で用いられているような社会的相互作用のアイデアが、「教室での数学的概念の発達や学習に対する説明的価値を持つのか」という疑問を呈する。これに続いて、Voigt および Cobb 両氏の考えを検討し、そこに含まれる問題点を明らかにする。

 Voigt氏の考えの問題としてWaschescio氏が指摘するのは、社会的相互作用と個人の学習の間の関係が、考慮されていないことである。意味の二つのレベル、すなわち個人的レベルと社会的レベルが、それぞれ閉じたシステムとして捉えられており、社会的プロセスが個人の概念発達にどのように貢献するのかに答えていない、というのである。確かにネゴシエーションは両者の接点のように見えるが、しかしそれ以上の細かい点は述べられていない。意味をネゴシエートする過程が数学的思考にとって価値があるのは、間主観的な意味が内面的なものとなる、という条件の下であるはずだとWaschescio氏は述べている。

 Cobb氏については、個人的プロセスと社会的プロセスの間の再帰的 (reflexive)な関係に重点が置かれていることは認めているが、実際のケーススタディから再帰性に関わって何らの結論を出すことには、彼が非常に慎重であると指摘する。さらにCobb氏が、小グループを学習の機会を与えうるものとしては見ていても、学習の起源 (origin) とは見ておらず、学習の起源をむしろ個人の中に置いていると述べている。概念発達の起源を個人の中に求めるとするなら、社会的相互作用の機能が何かわからなくなる。ある種の相互作用が学習にとって生産的であることは Cobb氏の論文で見出されているが、どうしてそうしたタイプの相互作用が生産的なのか、そのメカニズムは特定されていないと、Waschescio氏は批判する。Waschescio氏はここで、生産的な相互作用の特徴を見ると、異なる観点に直面させられること、そして内面化 (internalization) のプロセスが重要に思われる点にも触れ、論文後半へつなげていく。

 論文後半は「発達の文化的側面」というタイトルになっている。この後半はまず、社会的構成主義では文化的側面について議論されることが少ないこと、社会=文化的理論では概念発達の起源を社会的プロセスとし、文化的ツールや記号体系 (sign system) を概念を構成するものとしてみなすこと、したがって子どもの作り上げる概念構造は子どもの使える思考のツールに依存すること、などが指摘される。もちろん Cobb氏の JRMEの論文については言及されるのだが、その論文でCobb氏が、文化的ツールが認知的発達を支援するというよりも、認知的発達が文化的ツールの使用を可能にすると考えている点を批判し、そもそも文化的ツールについてのCobb氏の前提が妥当ではないとしている。すなわち、意味の起源として個人の構成と文化的に発達したツールや記号とを二分法的に捉え、後者では記号などが意味を運搬し、個人はそれを鏡に映すようにして習得するかのようにイメージしている。Waschescio氏は「思考と言語」の第6章を例に引きながら、ヴィゴツキーの考えていた概念発達は思考の複雑で真正な行為であり、意識性の発達や内的構造の変化を重視していると述べる。つまり、ヴィゴツキーにおいても、概念発達は構成的なプロセスなのであり、内面化と構成の再帰的で弁証法的な関係が考慮されている。

 また、文化的ツールは自らの意味を個人の構成的活動から引き出すのであり、構成的活動は既有の概念との相互作用により特徴づけられるので、構成プロセスが人により異なるのは、ヴィゴツキー理論においても当然のことである。子どもたちがツールに付与した意味が個々人により異なり、それがそれまでに発達させてきた理解に依存していたというCobb氏の論文に見られる事実を、Waschescio氏は最近発達の領域に関連して説明する。つまり子どもは、彼らの既有の知識からそれほど隔たっていない概念のみを獲得するのであり、自らの概念発達のレベルに応じて、概念を捉えようとするものだとしている。

 さらにCobb氏の論文で文化的ツールの例としてあげられている hundreds board についても、これを文化的ツールと呼ぶこと自体、不適切ではないかと指摘する。むしろ、概念的ツールとしての数システム (numeration system) の方が、ヴィゴツキーの文化的ツールの考え方に沿うものだとしている。したがって、hundreds board のケース・スタディの結果がヴィゴツキー理論に合わないように見えても、必ずしもヴィゴツキー理論に矛盾するとは言えない。むしろ、Cobb氏のケース・スタディには、構成主義のパラダイムで説明しにくい面があるのではないかとして、次の3点をあげている;(1)相互作用の規範;(2)権威と相互作用:(3)発達の方向性。

 相互作用の規範が獲得されるには多くの時間と教師の努力が必要であったとされている。Waschescio氏は、このことは、相互作用の仕方の学習が個人によって構成されたとか、自然に発生したとかいうものではなく、むしろ、コミュニケーション的交換の外的ツールが思考の内的ツールになっていったことを意味しているとして、社会=文化的理論により説明されるとする。小グループにおける権威の問題も、社会心理学的な問題であり、学習の起源を個人の中にみる構成主義になじまないとする。例えば、ある一人の子どもの「声」が優先的になったとする(これはCobb氏の論文で univocal と呼ばれる状況)と、こうした状況が生ずるのは、この中心的な子どもの持つ概念構造によるものというよりも、グループの子どもたちが知識の配分に対して与えた意味によるものである。したがって、これも、個人の中の話としては説明しにくい。Cobb氏は論文の中でより洗練された方法とか発達の方向性を想定しているように見えるが、Waschescio氏はこの方向性が構成主義のコトバでは説明できないとする。Cobb氏のケース・スタディでも子どもの間に大きな個人差が見られた。しかしそれといえども、文化的ツールや記号体系により設定されたある領域の範囲でのことであり、先ほどの内面化と構成活動との関わりの議論と合わせて、ヴィゴツキー理論の中で説明可能なことである。

 ここでWaschescio氏は、構成主義の源の一つであるピアジェ理論に言及する。そして、構成主義者が、その同化の側面にのみ重点を置きすぎて、同化と調節の間の弁証法的関係を拒否している、と批判する。彼女によれば、ピアジェ理論の中心にあるのは、内面化(interiorization)の考えであり、子どもが外的環境に働きかけているときには、均衡化のプロセスの結果として、その働きかけの結果のうちフォーマルな側面が内面化することになる。ピアジェにおいて認識する主体と客観的現実との相互作用が重視され、こうした相互作用のフォーマルな面が内面化されることが、内的な概念構造が発達する条件となる。発達は単一方向をもち、結果として得られる認知的構造は普遍的なものであり、ネゴシエーションに委ねられるものではない。ヴィゴツキー理論で内面化され概念発達の基礎になるものは、社会的な相互作用であり、また主体と文化的ツールや記号体系との間の相互作用である。こうした違いはあるものの、どちらの理論でも、相互作用の考えは内面化の考えと密接に関連しており、内面化こそが概念の再組織化や発達の不可避の条件となっている。にも関わらず、社会的構成主義では社会的相互作用を重視しながら、他方では内面化を軽視するために、相互作用と概念発達の関係をどのように捉えているかがわかりにくいのだ、とWaschescio氏は述べている。

 また類似の問題として、主体が、対象や記号、概念を既有の意味だけで解釈するならば、概念の発達がどのように生ずるのかは分からなくなる。さらに、変化の起源を個人の内部にのみ求めるなら、発達がなぜある方向を採るのかを説明することが難しくなる。ここまで述べてきたような構成主義の抱える問題を、社会的構成主義は構成員の間のネゴシエーションという考え方で解消しようとしてきたように思われるが、Waschescio氏は、そうした試みはコミュニケーションや共同がなぜ可能かは説明できても、個人の概念発達のメカニズムについては説明できないと、論文後半でも再度繰り返し批判している。

 近年、心理的な側面を構成主義でカバーし、社会的な側面をヴィゴツキーでカバーするという立場も見られるが、こうした立場についてもWaschescio氏は攻撃を加える。彼女によれば、 ヴィゴツキー理論はあくまでも心理間のプロセスと心理内のプロセスを考えるのであり、いわば心理的プロセスを個人の中にのみ位置づけるのではなく、それが個人の間でも生ずると考えている。文化的、心理間的なものと心理内的なものとは区別できない。したがって、認知的(心理内)なものと社会的(心理間)なものとを区別し、これを対比的に扱うことは、ヴィゴツキー理論の利用という点で不適切であると云うのである。最後の段落では、内面化の考えを無視しては、心理内のこともカバーできないことが繰り返されて、論文は締めくくられている。

 この論文では、社会的構成主義の問題点が確かに明らかにされている。それは、社会的なものに重心が移るあまり、個人の学習がどのように生ずるかがあまり議論されてこなかったことである。急進的構成主義に対する修正から出発したという経緯からすれば自然なこともかもしれないが、社会と個人のインターフェースが欠落していたように思われるのである。また、子どもたち自身による構成が強調されるあまり、発達の方向性が前もって規定されるような見方が避けられてきたようにも思われる。ただし、Waschescio氏の批判がすべて適当か、という点も検討が必要であろう。例えば、彼女はネゴシエーションの機能をかなり単純化して捉えているようにも見える。

 本稿の批判を考慮して今後どのように進むべきかは、いろいろと意見があろうが、本稿を読んでいて個人的に頭に浮かんだのは、一つには新たな情報やアイデアの源泉は何かということであり、もう一つは「生存可能性(viable)」であるという判断はどのようになされるのかということである。これらは個人においてもまたコミュニティにおいても考えられる問いであろうし、また両者の微妙な関係を考えることも楽しい問題である。特に、生存可能性については構成主義では重要な概念であったにも関わらず、言及されていない場合も多いように思われる。なお、余談ながら、Waschescio氏はB.ラトゥールの論文を引用されているが、こうした科学の社会学的考察の成果は、コミュニティにおける知識の形成を考える場合に、もっと参照されてよいのではないだろうか。

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