Collective Memory: Issues from a Sociohistorical Perspective

By James Wertsch
(In M. Cole, et al., (eds). Mind, culture, and activity (pp. 226-232). MA: Cambridge University Press, 1997)


 コブ氏が面白いとして、プロジェクトのミーティングで配布した論文である。7ページほどの短いものであり、出典が不明のものを紹介するのも恐縮であるが、彼らが "collective" という概念に言及するときに、どのようなことを念頭においているのかを知る、という意味でここに掲載してみる。引用文献からみると80年代後半の論文と思われるが、筆者ワーチの「心の声」に関わるアイデアが、より簡潔に述べられているように思われる。
 論文はまず、記憶に関わり2つの「集団的 (collective)」の意味を述べるところから始まる。一つは、集団が統合された記憶システムとして機能する、ということであり、もう一つは、心的機能が社会=歴史的に進化したツールにより媒介されることで社会的でありうる、ということである。そして、ソビエトの社会=歴史的観点からすると、この2つは分離できないものであると述べる。ここでレオンチェフのヴィゴツキー理論についての引用 (ツールは行為や外的発話によって、いわば間心理的過程により伝達されるといった内容) がされる。レオンチェフの仕事がヴィゴツキーの正当な拡張かどうかについて議論があるとしながらも、ワーチは、レオンチェフのアイデアのいくつかを組み入れることで、ヴィゴツキーのアプローチは拡張されうるという立場を取る。特に、レオンチェフの活動の説明を取り入れることで、個人的な平面や間心理的平面が社会制度的過程と結びつく、という部分の説明ができることを期待しているようである。

 次に、こうした結びつきを扱う一つの方法として、ワーチはそこに含まれる媒介手段に焦点を当てることを提案する。この論文では特に、複雑な言語的な「テキスト」を考えているが、それは「出来事についての、社会=歴史的に進化した記述や説明」である。テキストに関わる本質的な事柄は、「様々なジャンルが、何がよい記述あるいは説明かということに対して、厳密な規定 (prescription) を持っている」ことである。したがって、「特定のテキスト・ジャンルを選ぶことは、何が言われうるのか、あるいはどのように表現されうるのか、ということに対して、様々な制約を課すことになる」。 (なおこの論文ではバフチンの引用はない)

 このような基本的立場のもと、ワーチは選択の話に重点を移し、ツールという比喩をツール・キットの比喩で置き換える。これは、課題を扱うために、人にはいくつかの選択肢が利用できるようになっている、という見方を反映している (とはいえ、それで課題が即座に解決されるというわけではないが)。そして、これらのツール・キットの進化や、その利用を形作る諸力に関わっては、個人を越えて、社会=歴史的な力や文化的な力を吟味する必要がある。

 ところで、これまでの多くの研究は、ツール・キットのようないくつかの選択肢があるにも関わらず、ある一つのツールしかないかのような振る舞いをする、という事実を見出してきている。あるツールが選ばれることで何が言われるか、ということが形作られる。特定の人々のツール・キットの中で何が利用可能なのかということは、社会=歴史的な状況や文化的状況に依存しているように思われ、社会や時代によって優先的な言語、語り口も異なってくる。

 こうした事実にも関わらず、言語の選択がどのようになされるのか、またそれに影響を与えるものが何かについてはあまり調べられていない。したがって、ツールの決定過程が今後の研究の焦点にならなければならない。

 ワーチの議論の概要は以上のようになるが、「心の声」の事例などからしても、算数・数学の語り口は一つのツールであろう。これは明らかに社会=歴史的なツールであるが、それがある学級の中で (少なくとも算数や数学の授業における) 優先的なツールとなる過程、それが優先的となることでその学級で行われること、話されることがどのように影響するか、また個々の子どもの中でそれがツール・キットとしてどのように受容され、特定の場面でどのように選択されるのか、といった問題は、数学教育学の守備範囲の中に入るのではないだろうか?


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