ひとりごと

保存箱 2007.01-06

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07.06.11. 早起きは三文の得か

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  このあたりの小学校では,春に運動会をする。ちょうど先週・先々週の日曜がそのピークだったらしく,どこの小学校もフェンスに沿って人だかりができていて,周辺の道路は路上駐車の列が長く延びていた。

  運動会といえば,昔は朝早くに花火があがったものだった。それが「本日決行」の合図。黒雲が低くたれ込めた朝も,花火があがれば運動会の用意,あがらなければランドセルを背負って登校になる。たしか6時過ぎくらいだった気がする。泊まり込みの先生が早朝の天気予報から判断して決めていたはずだ。

  妻は運動会大好きな子どもだったので,花火があがる前からワクワクドキドキで目が覚めていて,パンパン!と花火が鳴り響いた瞬間に飛び起きたらしい。私は基本的に運動が苦手なので,今にも降り出しそうな朝に花火の音が聞こえると,がっかりしてもう一度布団にもぐり込んだものだ。

  たしかうちの子どもたちが小さかったころは,まだ花火があったはずだが,いつからか花火があがらなくなってしまった。たぶん早朝の騒音に配慮してのことなのだろう。電話での連絡網が普及して,必要がなくなったこともあるかも知れない。ワクワクするにしろ憂鬱になるにしろ,花火の音は運動会の季節到来を知らせる風物詩であったわけだが,それがなくなって,近所の学校の様子がさっぱりわからないのは,ちょっぴり残念だ。

  もっとも,運動会があった夕方はたいてい,勢いをもてあましてか,体操服のままの子どもたちが,いつにも増してハイテンションで遊び回っているのが聞こえるから,たいてい気がつくのだけれども。

  さて,これは前フリ。本題はここからだ。

  アサヒ・コムに,先ごろ,「3都県調査 早起きの子どもは学校が好きで楽しい」という見出しで,次のような記事が載っていた。(紙面にも載ったのかも知れないが,気づかなかった。)ここはリンクが切れるのが早いので,コピーしたものを抜粋して紹介する。

2007年05月29日

  早起きの子どもは学校が好きで、楽しいとも感じている――。早起きと学校好きの間にそんな関係があることが、教育学や食物学の専門家でつくる「子どもの生活リズム向上のための調査研究会」の調査でわかった。

 …(略)…  それによると、学校を「とても楽しい」と答えた割合は、6時半前に起きる「早起き」の子が46%に対し、7時半以降に起きる「遅起き」では18%にとどまった。また、「早起き」の子は、7割以上が8時前に登校し、下校も午後4時半以降が33%と最も多く、学校に長くいることを好む傾向も表れた。

  一方、学校が「とても楽しい」子のうち51%が、主食や副菜などが4品以上あってバランスが良い朝食をとっていた。 (以下略)

  どうだろう。なんだか,「早寝早起きの習慣をつけさせれば,学校が好きになる」と言いたそうに見えないだろうか。

  しかし,前フリの部分を読んだあとでこの記事を読むと,この主張がヘンだということに気づくはずである。つまり,おそらくは順序が逆なのだ。「早起きするから学校が楽しい」のではなく,「学校が楽しいから早く起き(て早く学校に行く)」と考えた方が,ずっとわかりやすくないだろうか。

  後半では,「学校に長くいることを好む傾向も表れた」と言っているが,「学校に長くいる」ことは,「学校が楽しい」という意識の中身を具体的な行動レベルで測定しているようなものだから,これも「早起きしたから」というよりは,「学校が楽しいから」学校に長くいると考えるのが妥当だろう。学校が好きだからずっと学校で過ごす。早起きして早く登校するし,遅くまで学校で友だちと遊んでいる,と考えるのはごく自然だ。

  さらに,最後は朝食のバランスなのだが,なぜかここは「学校がとても楽しい子」が起点になっていて,明らかに因果の方向性が変わっている。「早起き」の問題はどこに行ってしまったのだ? また,これを記事にするのなら,「楽しくない子」の朝食のデータと比較しないことには,話にならない。仮に,「楽しくない子」の51%が4品以上の朝食をとっていたとすれば,先の結果は意味を持たないことになるからだ。

  もちろん,「早起き」がこれらの原因である可能性を完全に否定できるわけではない。もしかしたら,そういう因果関係があるのかも知れない。しかし,少なくとも今回の調査結果からは,関連があったということがわかるのみで,どちらが原因かはわからないのである。

  それにしても,因果関係を特定するのは難しい。心理学の論文を読んでいても,予想外に有意になった回帰係数を説明するのに,無理矢理こじつけて説明しようとしているが,逆から考えるとすんなり理解できるケースは少なくない。

  たとえば親の行動と子どもの行動との因果関係。以前,こんな論文に出くわしたことがある。子どもの活動意欲と親のしつけ方略との関係を扱った研究で,予想とは逆に,親が子どもの行動を制限・禁止するほど,子どもたちは自発的で活発に動いているという,どうにも不思議な結果が得られていた。著者は,なぜ制限が意欲を高めたのか必死になって解釈を試みているのだが,逆の流れを考えればずっとシンプルに説明することができる。つまり,子どもが活発に動き回れば動き回るほど,制限の必要な場面も増えてくるわけで,おとなしくて目立った活動をしない子どもは,そもそも制限のしようがない。

  研究者はたいてい,ある特定の影響性を頭に入れて研究を進めるわけだが,その思い込みが強すぎると,往々にして他の解釈可能性が目に入らなくなってしまう。この場合,「子どもは早起きする方がいいにきまっている」「親が子どもを制限しない方がいいにきまっている」と思い込んでしまうと,すべてこれらの要因によって引き起こされる事象だという枠組みから,抜け出せなくなってしまうのだろう。

  同時期の2つの要因の関係を見るような静的な調査は,もうほとんど時代遅れになってしまった感がある。重回帰やパス解析の手法を駆使しても,因果関係への言及はいつまでたっても推測の域を出ないからだ。なんらかの<変化>を問題にする実験室的な考え方をしていかないと,この領域は発展がないかも知れない。

  それにしてもこの調査。アサヒ・コムはいったい何を訴えたくて,この調査を載せたのだろう? 3県にもまたがった大規模調査をやっているのに,なんか無駄なことをやっている印象しかないのだが。

ポイント

07.05.08. 眼(まなぐ) 光をにらみ

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  宮城県栗原市が,方言をふんだんに取り入れた「市民憲章」を作成したところ,「田舎を強調しすぎ」「イメージが低下する」といった批判が相次ぎ,市は対応に苦慮している,というニュースを読んだ。もちろん,話題の焦点である憲章案も読んでみた。

  まあ,よその自治体のことだから,住民でも出身者でもない私が発言するのは,余計なお世話でしかないのだが。ただ,ちょっと気になるのは,どうもメディアの誘導があるのではないかと思えることだ。

  栗原市のWebサイトを見てみると,ちゃんと市民憲章案の原文と,寄せられた意見が整理されて掲載してある(おそらく期間限定)。それによると,意見のうち最も多かったのは「内容や意味がわかりにくい」(53%)であり,他を圧倒している。方言を問題視した投書は19%で,2位だが数は多くはないのである。ニュースを読んだりTVで見たりして,てっきり住民は方言を使うことを否定的にとらえているのだと思いこんでいたのだが,どうもそういうことでは必ずしもないらしい。

  私がニュースを読み誤ったのだろうか…と思ってニュース記事をネットで検索してみると,もう古い話題なので消えているものも多いのだが,もとのニュースソースが同じなのだろう,多くの新聞サイトで,こんな文面の記事が掲載されていた。

  宮城県栗原市が方言を盛り込んだ市民憲章案を作成したところ、市民から「意味がわかりにくい」「田舎っぽい」など批判が相次ぎ、市は対応に苦慮している。

「田舎っぽい」という表現は,市のサイトには見られないのだが,少なくとも並び順は「意味がわかりにくい」が先だから,寄せられた意見の傾向を反映している。まちがってはいない。しかし,問題は「方言を盛り込んだ市民憲章案を作成したところ」の部分だろう。方言を使った市民憲章だからこういう批判が出た,というふうに話を持っていっている。記事の見出しにも,やはり「方言」が使われている。ここがどうも,ヘンな誘導になっているように思うのだが。

  毎日新聞だと,こんなふうになる(一部抜粋)。

栗原市で、地元方言いっぱいの「市民憲章案」が、「土のエネルギーを感じさせる」「田舎を強調しすぎ」と賛否の渦を巻き起こしている。

「土のエネルギーを感じさせる」「田舎を強調しすぎ」という批判は,独自取材から得たものだろうか。とにかく,これは完全に方言の問題として取り上げている。一方朝日新聞は,すでに元記事が消えているが,それを引用したブログから拾ってみると,こんな言い方をしているらしい(ただし,正確な引用なのかどうか確認できません)。

ホームページで素案を公開して意見を募ったところ、寄せられた187件のうち9割近くが「東北の暗さが強調される」など否定的だった。

  もしこの引用が正確だとすれば,これは明らかに誘導だろう。9割というのは「制定方法に反対」や「その他」まで入れた数字だ。しかも,その半数以上は「内容がわかりにくい」といっているのであって,必ずしも方言のことを問題にしているわけではない。それを「東北の暗さが強調される」(この言葉はいったいどこから持ってきたものなのだろう)という言葉で代表してしまうことで,あたかも9割の人が方言を否定的にとらえているかのような書き方になってしまっている。「など」と,わざとぼかして逃げ道を用意してあるところが姑息だ。

  ちなみに,「内容がわかりにくい」というのは,しごくまっとうな批判だろう。全国各市町村の市民憲章を集めている「市民憲章情報サイト」をのぞいてみると,健康で明るいまちとか,豊かな自然とか,文化や伝統を守るとか,希望に満ちたとか,具体的に(具体的と言っていいのかどうか疑問もあるけれど)項目を挙げているのがほとんどである。それに比べてこの憲章案は,シンプルで力強いフレーズが並んではいるが,いささか叙情的・観念的に過ぎて,コトバのうえではカッコいいけれど,実際には市民として何をどうすればいいのか,よくわからないようにも見える。「天駈ける駒にまたが」って「風を切って走る」といわれてもねえ。

  しかし一方では,どこの市民憲章も,言葉遣いは微妙にちがうが,全国一律,ほとんど同じ内容が並んでいるだけだ。つまらないといえばつまらない。その点では,栗原市の憲章案はひじょうに個性的であり,インパクトはある。栗原市長も,「従来の形にとらわれず,斬新で長く記憶に残るような市民憲章を」と,基本的な考え方を説明しているわけで,あとはその方針が市民に共感してもらえるかどうかだろう。

  そのうえで,方言の是非という話になっていくような気がするのだが,どうだろう。

ポイント

07.05.07. 傍若無人

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(この項も,端末の移行作業中に見つけた書きかけ文書に
手を加えて完成させたもので,話題はちょっと古いです。)

  電話をかけてくる側が自動音声,というとんでもない電話のことを以前書いたが,新聞を読んでいたら,どうもこの手の電話アンケートを使った世論調査ビジネスが,このところ台頭してきているのだそうで,こんなろくでもないやり方が,ちゃんとビジネスとして成り立っているらしい。世の中わからないものだ。何が悲しくて,機械的に送られてくる音声に対して,人間が律儀に応対しないといけないのか。

  このあいだ,しばらくぶりに自動音声の電話がかかってきたのだが,開口一番「お忙しいところ,たいへん申し訳ありません。」だと。ていねいで心がこもっているように見えるけれど,言っているのは生身の人間ではない。<申し訳ない>などという感情は最初っからない,ただの録音された音声なのだ。それこそ口先だけの誠意であり,ていねいな言葉を発すれば発するほど,いかにも空虚に響く。そんな相手と,まともにコミュニケートする気になれるか? 何問あるのか知らないが,アンケートに最後までつきあって完全回答する人が,ビジネスが成り立つくらいはいるというのが,どうにも信じられない。ほんと,世の中わからないものだ。

  そもそも電話というメディアは,他人が今どんな生活をしているかを考えもせず,無神経に割り込んでくる性質のものであって…,という話はすでに書いたとおりなのでもう繰り返さないが,そういう無神経さをなぜか堂々と宣伝しているように見えるのが,先ごろ先行する携帯事業者を買収して新しく携帯電話事業に参入した,某社のCMである。新規参入で名前を覚えてもらうためか,大々的なCM戦略を展開しているのだが,これがまたそろいもそろって不愉快だ。

  いちばんはじめのCMが,絶叫調のロック音楽が流れる中,その会社のロゴが延々スクロールしていくだけ,というヤツ。音楽はうるさいし,何度も何度も同じロゴが浮き上がってきてしつこいし,ちっとも芸がない。それが流れる15秒が苦痛でしょうがない。芸のない地方企業のCMでさえ,商品名を3回連呼するくらいが限度だろう。それだって繰り返しオンエアされれば,うんざりするのだ。

  次に出てきたのが,某ハリウッド女優が,歩きながら携帯でしゃべっているというCM。音楽はまたしてもあの絶叫ロック。甲高い声でひたすら怒鳴り続ける。その音楽にかき消されて(?),電話の声は聞こえないのだが,映像で見る限り,携帯でのおしゃべりに夢中でまわりがぜんぜん目に入っていない様子。きっと音楽と同様のハイテンションで,大声でしゃべりまくっているのだろうと想像させる。なにしろ彼女,持っていた書類の束を落としても,まだ平気でおしゃべりを続けているのだ。

  また別バージョンでは,スーパーで買い物をしながら,やはり同じようなテンションでしゃべり続けているし,某男性俳優バージョンでは,携帯での会話に夢中で,水の中に足を突っ込んでしまう,といった内容。つまりは現実世界での生身の行動がおろそかになるくらい,みんな携帯にのめり込んでしまっているのだ。いいのか,それで?

  携帯嫌いな私からすれば,何から何まで不快なシーンばかりなのだけれど,こういうシーンをわざわざとりあげてCMを作っているということは,これが「携帯の正しい,楽しい使い方なのだ」と,この企業は考えているということなのだろう。視聴者の共感も得られると思っているのだろう。みなさんはどのように思われただろうか。私は,これらのCMを見るたび「傍若無人」という言葉が頭の中を駆けめぐるのだが。

  今ごろになって,なぜこんな話を蒸し返しているのかというと,あのCMに描かれたそっくりそのままの状況が,実際身の回りにも起こっているからである。それは,廊下での携帯の使用。

  最近,研究室前の廊下に出て電話している学生が,異常に目につく(耳につく)ようになった。電波の状態が悪いのか,部屋から携帯を持ち出して廊下に出てしゃべっているのだ。それも大きな声で。いったいいつから廊下は電話ボックスになったのだ? 電話の相手に愛想を振りまいているのだろう,ヘラヘラ笑いながらしゃべっている,その愛想笑いがまた耳障りだ。

  彼らは,自分が大声でしゃべっているそのまわりに,教員の研究室が並んでいて,それぞれの中でいろいろな仕事をしている人々がいるのだということを,わかっているのだろうか。電話の相手に聞こえるようにと,知らず知らずのうちに大声になっているものだから,しゃべっている内容が,まわりの研究室にすっかり筒抜けになっているということを知っているのだろうか。

  まさに「傍若無人」。まわりに人がいて,迷惑をかけているかも知れないなどという想像はまったく及ばないのだろう。通話相手だけがだいじな人で,それよりずっと近くに,文字通り目と鼻の先にいるはずの人たちには,思いが至らないのだ。なんだかこれは,そうとうになさけない事態なのではあるまいか。

  まあ私も,いちおうガマンはしてみるのだが,ときどきは限界に達することもある。たとえばあまりの長電話。あまりの大声。それから原稿に詰まっているとき。急ぎの仕事でカリカリしているとき。そんなわけで昨年は,とくにひどかった2人に直接怒ったのだが(1人は,どういうわけかわざわざ私の研究室のドア前までやってきての長電話。まったく理解できない。),怒られている最中も,彼らは,頭を下げつつもけっして電話を切ろうとしない。小声でしゃべりながら非常口に出て行く。これもCMといっしょだ(携帯が鳴ると,目の前の相手との会話をすぐに中断してでも携帯に出るのにね)。やはりよほど通話相手の方がだいじなのだろう。目の前の相手に不快感を与えているという事実の方は,どのように受けとめているのだろうか。どうにもこうにも理解できない。ほんと,困ったものだ。

  この調子でいったら,いったい今年は,何人に注意をすることになるのだろうか。あまり予想したくない数字ではあるけれども。最近は,携帯電話に寛容であったり,むしろ積極的に授業の中で使っていこう(アンケートや理解状況の把握に)という動きがあるようだが,私などは,研究棟と講義棟をすっぽりシールドで覆って電波が届かないようにしてくれたら,きっとずいぶんと心穏やかに過ごせるのだろうに,などとけっこう本気で願っているのである。

ポイント

07.04.13. おとなの「ぬりえ」

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(この項は,端末の移行作業中に見つけた書きかけ文書に
手を加えて完成させたもので,話題は半年前のものです。)

  おとなのための「ぬりえ」が人気らしい。そういわれて注意してみてみると,どこの本屋さんでも,ぬりえの本が平積みで置いてある。気の利いたお店だと,その横に36色とか48色とかの豪華色鉛筆セットまで並べてあったりして,購買意欲をくすぐる。心憎い演出だ。

  実質的に他人が描いた絵をなぞって,ただ色を塗っていくだけの作業の,いったい何がそんなに楽しいのだろうか。しかも,多くの場合,塗るべき色も決まっていて,その通りに塗るだけだというのに! と第一印象の段階では思っていたのだけれど,実際ぬりえの本を手にとってパラパラとページをめくってみると,案外おもしろそうだ。白地図もそうだが,妙に細かく描き分けられた白黒輪郭だけの絵というのは,いかにも中途半端であり,「色をつけてくれ! 完成させてくれ!」と訴えかけてくる…ような気になってくるから不思議である。

  絵の種類も豊富で,静物画あり,西洋絵画あり,浮世絵あり,抽象画ありと,いろいろな題材とタッチが楽しめる。定番である美少女絵(?) のイメージしかなかった私にとって,それはひじょうに新鮮だった。さすがに衝動買いはしなかったが,でもやり出したら意外にハマりそうな予感はある。(買い集めた本を片っ端から塗りつぶして,最後はあの定番の,おめめパッチリ美少女絵にまで手を出してしまう自分が,なんとなく想像できてしまうのが恐ろしいところで…)

  それにしても,冷静に考えれば考えるほどわからなくなる。他人が描いた絵に色を塗るだけだというのに,いったい何がそんなにおもしろいのだろうか。

  そこでいっしょうけんめい考えてみた。

  絵を描くという作業プロセスの中で,もっともむずかしく,センスが問われるのは,おそらく目の前にある風景なり静物なり人物なりを,画用紙という限られた平面の中に写し取るという行程だろう。

  そもそも,見たものを正確に再生するということ自体,かなりの難関である。ライオンを描いたのに「かわいいネコだ」と評されたり,ミカンを描いたつもりが,陰影をつけていくうちに砲丸投げの砲丸になってしまったりなんてことは,多くの人が経験することだろう。ましてやその中に美しさを表現するとなれば,なおのことむずかしい。目の前に広がる山々の雄大なスケールに感動したとしても,小さな画用紙にちまちまと山の輪郭を描いていくだけでは,そのスケール感はとうてい伝わらないのである。けっきょくのところ,伝えたい頭の中のイメージと描きあがった絵とのギャップの大きさに愕然とし,自分の才能のなさを再認識させられるのがオチである。

  困ったことに,この行程は絵を描くという作業のほぼ最初の行程である。つまり,せっかく絵を描こうと思い立っても,そのとっかかりの部分が最難関なのである。言ってみれば,山を登り始めたらいきなり高い岩壁にぶち当たったようなもので,まわりの景色を楽しむ余裕もマイナスイオンを浴びて癒される暇もなく,命がけの危険にさらされるわけである。これでは初心者に対して敷居が高すぎる。

  ぬりえというのはまさに,この初心者にとっていちばん高いハードルとなる部分を,そっくり外部に委託してしまおうということにほかならない。そのぶん,描き手は色を塗るという作業に集中することができる。こちらの方はそれほど正確さが問題にならないので,わりあい自由に作業を進めることができる。あくまで原画の色彩を忠実に再現することに意欲を注いでもいいし,自分好みの色遣いに変えても,“独創的な色彩感覚”ということになるだけで,ライオン?ネコ?問題は生じない。だから,伝えたいものを平面図形として写し取るという段階をクリアしさえすれば,あとは初心者でも,それなりに絵を描くことのおもしろさを味わうことができるのである。先ほどの山登りの例でいえば,断崖の上までへりで運んでもらい,そこから徒歩で登りはじめるようなもの,と言えばいいだろうか。専門家から見れば邪道かも知れないが,それによって,とにかく素人でも“お手軽”に山登りの雰囲気を味わえるわけだ。おそらくこういった「手軽さ」が,ぬりえの魅力を支える一因となっているのだろう。

  それでふと気がついた。「自己決定」というのも,「絵を描く」という行為と似たようなところがあるのではないか。(というか,「絵を描く」という行為が自己決定的行為を代表するひとつの事例だというのが正確か。)自己決定というと,何か,好きなことを何でも自由にできるようにすれば,どんどん自分から動いていくし,すべてうまくいくのだ,というようなユートピア的ニュアンスで語られることも少なくなかったが,あたりまえだけど実際にはそううまくはいかない。そのシチュエーションにポンと放り込まれ,「あとは自由にやりなさい」と言われたって,身動きのとれない子どもの方がほとんどだろう。何をしたらいいかわからない,動けない,という子どもたちの反応を「指示待ち」と批判するのは簡単だが,よほど事前に周到にお膳立てをして,子どもたちの気持ちを高め,必要な遂行能力を身につけさせておかなければ,立ち往生してしまうのはしかたのないことだ。

  日常の遊び場面のように,基本的に自分が楽しければそれでいいというのなら別だ。しかし,自己決定が求められる場面の多くは,何らかの成果が期待されている場面だろう。期待はしているのに,表面的には「何をしてもいいよ」と。ここが子どもたちにとってはつらいところだ。周囲から何を期待されているのかを推測し,自分には何ができるか,どれだけ手間がかかるかを予測しつつ,やることを考えなければいけない。そして,何より重要なことは,その行動の第1歩めから,自分自身で決断し,歩き始めなければいけない。活動にとりかかる最初の段階から,こうしたいろいろなことを考えさせ,決断を迫るわけで,これはけっこうしんどい作業ではないか。枠組みも手がかりもなく「何をしてもいいよ」というのは,子どもたちにとってけっして楽な状況ではないのだ。

  とすれば,自己決定にもぬりえ的な自己決定があっていいのではないだろうか。最初の段階での情報の少なさと判断の多さからくる責任の重さをやわらげながら,自己決定のおもしろさ,達成感を体験させられるような仕掛けがあってもいいのではないだろうか。なにがなんでも,最初から最後まで自分の力でやり通さなければダメだ,などと頑なに構えていては,かえって自己決定から子どもたちを遠ざけてしまうだけだろう。とくに学校という場は,基本的には将来の社会生活のための練習の場なわけだから,本格的な自己決定の場と同じくらい,お手軽な自己決定の機会も,だいじな練習の場となるはずだ。ぬりえのように,お手軽な自己決定に人気が出て来ればしめたもの,そこから先は教師の腕の見せ所というわけだ。

  ちなみに,「なにがなんでも自分の力で」というのは自己決定でさえない,というのがDeciたちの主張である。自分の力量をきちんと把握していて,どうしても自分の手に負えないとわかったら,他人の力を借りて問題を乗り切ろう,という決断も自己決定のひとつだ,というのだ。自己決定という概念自体も,けっこう柔軟なのである。

ポイント

07.04.11. 端末が変わりまして

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  大学の情報ネットワークシステムが5年ごとの機種更新の時期を迎え,研究室の端末も新しくなった。それが2月中旬。あれから2ヵ月近くたつというのに,まだ新しい端末になじめない。困った。

  だいたい,私が使うPCはどれも,いろんなソフトを入れ,オプションを変更して,操作感をかなりわがままにいじっている。新しいPCを導入するごとに,その細かなオプションをすべて設定し直さないといけない。これは骨の折れる作業だ。大まかなところは覚えていても,微妙な設定部分になると,実際に操作してちがいを発見するごとにつぶしていくしかない。研究費で新しいPCを買ったときは,ワープロとエディタだけをすぐにセッティングし,あとはゆっくりやるのだが,日々の事務作業を行う端末となると,そうそうのんびりしてもいられない。おまけに,古くから使っているソフトのいくつかは,いつのまにか開発打ち切りになって,ダウンロードできなくなっていたりする。新しい似たようなソフトを探し出してインストールし,それに慣れるのも面倒だ。

  さて,新しいPCは画面が広くなった。何という規格か知らないが,1280×1024。これまでずっと慣れ親しんできたXGA画面(1024×768)とは,ずいぶん印象がちがう。もちろん,広くなったぶん,ウィンドウをたくさん開いても窮屈さを感じないのはいいのだが,同じウィンドウを開いても,今までとは見かけがずいぶんちがうのだ。ひとことで言ってしまうと殺風景。余白が多すぎて,やけにこぢんまりと見える。だからといって,この画面に合わせてデザインしていたら,一般に普及しているXGA画面ではレイアウトが崩れてしまうか,横スクロールしないと入り切らなくなってしまうのは,目に見えているのだが。

  そして,もうひとつだいじなことに気づいた。今までWebページの作成のときに,横1024ピクセルが当然だと思いこんでいたので,そのあたりの処理に手を抜いていたのだ。だから,ウィンドウの横幅を大きく広げてみると,表示が崩れてしまう。わかった以上は対処しなくてはいけない。新しい機種はきっとどんどん高解像度になっていくのだろうから,いずれどこかで対処することになるにちがいないのだ。そういえば,私が使っているノートも,ほんとうは2048×1536まで解像度を上げられるらしいのだが,1024幅で使っていたのだった。なにしろ老眼になったせいで,それまで使っていた小さなノートでは目が疲れてしょうがなかったので,新しいノートに買い換えたのだ。

  ところが,一口に「対処する」といっても,なにせ今まで作ったすべてのページに関して,1つひとつ高解像度用の処理を付け加える必要がある。…半端な量ではない。横幅を固定してしまえば,あとは簡単なのだが,画面の狭いモバイルの人も高解像度の人もいるのがWebの世界だから,作り手が固定的なレイアウトをするのはよくない,と昔は言われていたので,できれば固定化はしたくない。

  最初は,共通に使えるように別ファイルのスタイルシートを作って,それを読み出せばいいかと思っていたのだが,やってみるとうまくいかない。同じように見えるページでも,作った時期によってタグの使い方がまちまちなので,けっきょくHTMLを隅々まで読んで解読し,外部CSSとうまくフィットするよう書き換えないといけない。ちっとも修正時間が短縮されないのである。さらにさらに問題なのは,今までとても気に入って使わせていただいていたWeb素材の提供サイトが,いつのまにか閉鎖されていて読み込めないことだ。Webページのデザインを変更するときはたいてい,何かちょっと新しいワンポイントを入れて表情を変えているのだが,やはり同じサイトの素材でないと統一がとりにくい。へたにページの書き方をいじると,どうしてもデザインを変えないといけなくなるわけで,イメージにあった素材を探す苦労を考えると,なかなか手が出ないのである。

  そんなわけで,必要最小限,ページの背景画像と右端の「戻る」ボタンのレイアウトに関しては,主なページに関して対策を施したが,そこで作業はSTOPしたまんま。表示の崩れをもっと細かなところまで修正する意欲も,過去の文書までさかのぼって対処する気力もわわいてこないまま,なんとなくくすぶっているのである。ほんと,どうしようか…。

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07.02.09. 時計も疲れたか

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  センター試験の監督業務で休日出勤した次の朝,大学に出かけようとして腕時計を手にとった瞬間,自分の目を疑った。時計がなんと未来の時刻を指しているのだ。それも,尋常なズレ方ではない。翌日の2時何分だかという,とんでもない狂い方なのだ。最初は,せっかくの休日をつぶされ,休めなかった頭が,寝起きでまだよく働いていないのかとも思ったが,何度見てもたしかに時計の針は,あり得ない時刻を指している。いったいどうしたというのだろう。前日はあれほど正確に時を刻んでいたというのに。

  全国一斉,秒単位で正確に行動しないといけないセンター試験の監督なので,いつになく頻繁に時計を確認したのはたしかだが,見られる時計の方も,よっぽど緊張したのだろうか。もしかすると,その重圧から解放されて,時計も代休を取っていたのかも知れない。いや,それなら動きが緩慢になって遅れていってもよさそうなものだ。なぜにわざわざセカセカと,時を早めるようなことをしたのだろうか?

  子どもたちが受験生だった関係で3年連続で免れていた監督業務に,昨年復帰。久しぶりに監督者説明会に出た第一印象は,「マニュアル,厚っ!!」だった。毎年生じるトラブルを参考に,マニュアルを改訂し,説明を追加しているのだろう。3年前にはなかった作業手順があちこちに追加され,マニュアルはどんどん厚みを増していく。おまけに昨年は,リスニングテストというまったく新しい形式のテストが導入された。とにかく静粛を確保するため,試験中の受験生への対応はすべて筆談,という徹底ぶりで,当然,起こりうる各種トラブルへの対処方法を細かく指示した,これまた分厚いマニュアルが別に配られる。

  もともとセンター試験の監督には,独特の緊張感がある。なにしろ,何かミスしたら即全国ニュース。これほどの恐怖はほかにない。「みなさんにとっては毎年のお仕事ですが,受験生にとっては一生に一度のだいじな試験ですので,くれぐれも緊張感を持って監督してください。」とは,入試委員長の恒例の挨拶だが,実際,われわれも相当緊張して監督業務に臨んでいるのだ。そのうえ3年間のブランクで,蓄積してきた監督業務の脳内マニュアルもすっかりほこりをかぶっていて,ちっともカンがはたらかない。ひとつひとつ頭の中で考えながら,手足を動かさないといけないのだ。

  幸運にも,リスニング・テストの日の監督割り当てだけは避けられた。もしリスニング・テストまで重なっていたら…,考えただけで恐ろしい。

  2年めの今年は,さすがにちょっとだけ落ち着いた。鉛筆の持ち方がヘンな人がずいぶん多くなったのに気づいたり,一生に一度のイベントのはずなのに,開始10分で本格的に居眠りをはじめる人に気づいたりと,高校生たちをじっくり見わたせる程度には,精神的余裕が生まれてきた。それでも,「ミス即全国ニュース」の恐怖がなくなるわけではけっしてない。とくに今年は,ノロウイルスの流行が大きな心配のタネだった。嘔吐した場合の対応のしかたについては,あらかじめ指示があったのだが,実際,試験中に突然そんな事故が起こったら,冷静に対処できる自信はない。頼むから早く終わってくれ,と祈りながら何度も目をやる腕時計にまで,その緊張が伝染してしまったのだろう…といっても,きっと監督経験をお持ちの方なら,うなずいてくれるのではないだろうか。

  それにしても,こんなふうに分厚いマニュアルを作り,一字一句間違えないように,しかも全国一斉,秒単位での正確なタイミングで手続きを遂行するというシステムが,しかもそうした作業にもっとも似つかわしくない大学教員という人たちによって,毎年なにがしかの話題をメディアに提供しつつも,とにもかくにも続いているのだから,たいしたものだ。さすがニッポンというべきか。

  そういえば今年,入試委員長の朝の挨拶で,受験生は緊張で過敏になっているという話があり,クレームというわけではないが,「監督者の靴音もうるさいと感じている人がいるそうだ」とのこと。自分の靴音が急に気になり出す。なるべく音を立てないように,と凍りついた道を歩くように気をつけながら見回りを続けていたら,夕方には,足全体がすっかり筋肉痛になっていたのだった。

ポイント

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