ひとりごとの保存箱 96.07-12

(リンク切れ等があっても修正しません)

● CONTENTS ●

■96.12.27. 水平と垂直

 御用納めです。事務のみなさんは大掃除をしているようです。私もあとで掃除して帰ります。

 12月になって,けっこう書いています。じつは,修了生の人たちや私の友だちから何通か立て続けにメールをいただきまして,どれにも「このページを見ているよ」と書いてあるので,ちょっと気をよくしているのです。(もっとも,私のページの他の情報はほとんど更新していないので,ここしか見るところはないのですが)

 さて,本題。以前から研究室の応接セットが使いにくかったので,今年思い切って会議用テーブルとすわり心地のよさそうな椅子を買いそろえることにしました。応接セットが研究室の中で占有するスペースから考えて,応接テーブルより一回り大きいテーブルを買おうと,メジャーを片手にさんざん考えたすえ,決めて購入依頼を出したのです。

 やがて,モノが届きました。しかし。

 小さい! 見るからに小さいのです。あれえ…,おかしいなあ。意外でした。しかし,サイズはたしかに合っているのです。

 もしかしたら,こういうことかもしれません。応接テーブルと会議テーブルとでは高さがかなり違うのですが,それが,見た目の大きさに影響を与えているのではないかということです。応接テーブルの上にメジャーをのばして,「これくらいで大丈夫」と計算していたのですが,低い位置にある応接テーブルは実際より大きく見えていたのかも。それとも,応接椅子が思った以上にスペースを占有していて,それが応接セット全体を大きく見せていたのではないか…。ものの大きさというのは,タテ×ヨコの2次元空間だけでは決まらなくて,高さ方向の大きさも影響しているのですね,きっと。

 原因を考えるぶんにはおもしろいですが,しかしこれは完全に「失敗」でした。こういう失敗って,けっこう私にはあるのです。むかし大学の心理学実験で,手でさわって竹ヒゴの長さをあてるという実験をやったのですが,私の結果は散々でした。サイズの知覚っていうのがどうもダメらしいです。こういうできごとで1年を締めくくらなければならないのも,なかなかつらいですが。

 それにしても,失敗でした。計画では,会議テーブルの下に応接テーブルをおいて物を置く台にしようと思っていたのですが,会議テーブルが思ったより小さいので,みんなすわったときに下の応接テーブルに膝をぶつけていきます。  みなさん,ごめんなさい。 …何とかしなくちゃね。 ^_^;)

■96.12.17. なぜノートに写させるか?

 またワークブックの季節がやってきました。子どもの小学校の話です。

 この時期になると例年,1年の「まとめ」の意味ででしょうか,ワークブックが配られ,計画的にやるよう指示が出るのです。うちの子の学校だけでしょうか? で,ここまではいいのですが,問題はその次です。解答はワークブックに書いてはいけないのです。ノートに写さなければいけないのです。ヘタすると,問題まで書き写すよう指示されます。「何回も繰り返してできるように」っていう趣旨のようですが。

 これってとってもおかしいです。だいたいワークブックにはちゃんと解答欄がありまして,そのまっさらなカッコやら四角やらの中にピシッと解答を書き込み,ああこのページ終わったあっていう実感とともにページを閉じるから充実感があるわけで,自分で書いた読みにくい問題やいびつな解答欄の中に解答を書き入れたって,ちっともおもしろくありません。それにたいていノートの方が罫が狭いので,ギチギチにつまってしまってきれいじゃないのです。ノートのページもなかなか進みませんしね。せっかく空間的にもすっきりレイアウトされたワークブックのページなのに,それに解答を記入するという快感を,子どもたちから奪っているとしか思えません。

 なんにせよ,ただ書き写すだけという作業は苦痛です。そこには「自分」が関与する余地がないからです。内容に感動してその文章を書き抜く,その絵を模写するといった「書き写し」ならわかります。ほんとうは知っている解答をすぐに書き込みたいのに,それを書くために延々問題番号やら問題文を書かされていたら,解答に行き着くまでにすっかり意欲が冷えてしまいます。しかも,それを「何回もくり返しやれ」というのです。子どもが喜んでやると思いますか?

(それに,たいてい2回も繰り返す時間的余裕がないのですが,これは別の問題なのでおいておきます)

 お願いだから,勉強を「苦行」にしないでほしいのです。1回目はワークブックに答えを記入させる。で,1回目にまちがったところだけ2回目はノートに,というのではだめなのでしょうか。これで心理的負担がずいぶんちがうと思いますが。×がたくさんついている人だと,これでもぜんぜん負担が減らないのですが,こういう場合はそのワークブックそのものが,その人に適していないということでしょうから,補助教材が必要でしょう。

 まあ,机上の空論ですから,あちこち抜けてるかもしれません。反論がありましたらいつでもどうぞ。

■96.12.10. なんだかわからないけれど…

 今,いろいろと忙しいです。忙しいとなんだかこういうところに書きたくなるのが,私のとても悪いクセで。

 ひょんなことからひょんなページにめぐりあいました。「シュレーディンガー音頭」というのですが,このGIF アニメーションがなかなかの雰囲気なのです。何と表現したらいいのかわかりませんが,とにかくへんなのです。私はぼうっと上級編まで見てしまいました。

 あれは,ちゃんと意味があるのでしょうね。私はぜんぜんわかりませんけど,物理を知っている人ならきっと,もっと意味をわかって笑えるのでしょう。

■96.12.09. 姫川

 また悲しい事故が起こってしまいました。小谷村の土石流災害です。災害復旧のための工事にあたっていた人たちが,災害に巻き込まれてしまったというのは,なんともやり切れない気持ちです。

 もともとの災害というのは,5~6月ごろに書いていた「災害のつめあと」(保存箱に入っています)と同じときに起こった水害なので,なんだかひとごとではないのです。あの水害では,関川・姫川水系がかなりの打撃を受けましたが,長野側のたとえば奥裾花渓谷あたりも,通行止めになりましたし,ほんとうに広い範囲で被害を及ぼしていたのでした。

 今回事故がおきた姫川沿いの国道も,9月に一度通って,まだ生々しい被害のあとがある中,復旧もずいぶん進んでいるように見えたのですが,自然はまた今ごろになって突然牙をむいたのでした。ほんとうに,自然の威力ははかり知れません。亡くなった方のご冥福をお祈りいたします。

■96.11.20. だれがきめるか

 忘れてましたけど,教育心理学会で埼玉大学の首藤先生(以前本学の幼児教育講座に在籍してました)から聞いた,アメリカみやげ話。

 当地の小学校を見学しに行った彼は,生徒たちの活動の様子を写真にとろうと思って,担任の先生に了解を求めたところ,こう言われたそうです。

 「子どもたちの写真なのに,どうして私に聞くの? 子どもたちに直接聞きなさい。」

 さすがに個人の権利をだいじにするアメリカです。きちんとしていますよね。むこうの文献を読んでると,「被験者に文書で同意を求め,同意の得られた人だけを対象とした」とか,児童の場合には「本人と両親の双方の同意が得られた人だけを対象とした」といった記述によく出会いますが,それはそのままアメリカの人たちの考え方なのでしょう。

 そうだよなあ,そうあるべきだよなあと思いつつも…。

 日本だと,たいていの場合,担任の先生のOKが基本です(校長先生のOKという問題は別にありますけど)。私たち調査を頼む方としても,実際それでずいぶん助かっています。子どもたち一人ひとりと同意文書を交わして…なんてことになったらかなりの手間ですから。

 しかし考えてみると,子どもには,調査に回答するのを拒否する権利は当然あるわけですね。今さらのように,そのことに気づかされました。そのうち日本にも,調査時のインフォームドコンセントが確立されていくかもしれません。こういう機会は,子どもにとってはめんどうで,決断がつきにくいことが多いが,自分の「権利」というものを意識化する機会としてとても重要な機会なのだと,だれかがどこかで言っていたような気がするのですが,たしかに考えていくべき問題です。

■96.11.12. (続)お願いしまあす!

 先日書いた「お願いしまあす」について,その後某院生の方(=現職教員)から,次のようなコメントをいただきました。

 あれの起源は武道の中で言われる「礼に始まり礼に終わる」ではないでしょうか? 私も学生時代に剣道をやっていて就職してからもそのような気持ちがあったのですが,あれを授業の場で取り入れることの善し悪しは考え方次第ですね。

 「お願いします。」をさせていなかったAさんは子供たちに日頃「Aちゃん」と好んで呼ばせていたそうですし,はじめの挨拶だけはきちんとする私は子供がTPOを勝手に判断した上で「Bちゃん」と呼んでいました。それを聞いたCさんとDさんは,そんなことはあってはならない,「最初と最後はちゃんとやらなきゃ。」「先生はきちんと○○先生と呼ばせなきゃ。」と反論していました。

 武道起源説については,たぶんそうだろうと思います。もしそれが,昔からずっと伝統的に行われてきているのなら,私もべつに違和感は感じなかったのではないかと思います。私が気になるのは,昔はそんなのやっていなかったということです(もしかして,そういう習慣がなかったのは,私のところだけだったりして)。いつのころからか,その習慣が授業に持ちこまれたのですよね。とすれば,それはいったい「なぜ」なのか。何かそうやって,先生の権威づけをしなければならない事情が,あったのではないかということです。

 私は,「挨拶はきちんと」というのはぜんぜん否定しません。それはけじめとして,悪くないと思います。私も,朝いちの授業の最初は,「おはようございます」からはじめます(去年は,あまりに学生の反応が少なかったので,途中でやめてしまいましたが)。

 ただ,私には「お願いします」がそういった挨拶の一種だとは思えないのです。挨拶をきちんとさせるのなら,「おはよう」や「礼」でじゅうぶんです。「お願いします」「ありがとうございました」という権威づけ儀式が嫌いなのです。こういう儀式の背景には,先生は偉くて,何でも知っていて,ぜったいに間違いはおかさないもので,一方生徒は先生に教わらなければ何もできない無能な存在である,と思いこませておきたいという考えが,ちらっとのぞいているような気がするのです。そうして生徒の学習過程をすっかり自分の管理下においておきたいという意図が。

 考えすぎですか? …こういうのは多分に個人的趣味の問題で,あまりこだわるつもりはないのですが。

 そういえば,以前新聞で,先生が自分のことを「先生」と呼ぶのはおかしいという投書がありました。私自身も,くだんの中学校でしばらくぶりに「先生は,先生は」という先生のコトバを聞いて,ちょっと違和感を覚えましたが,でもそれは特に否定しません(自分自身はあまり[使いたくない|使われたくない]呼称ですが)。それはきっと,なるべく「私」という用語を避ける日本的な呼称にすぎません。私も家では自分のことを「お父さんは」としか言いませんから,それと同じでしょう。

■96.11.11. 教育心理学会

 日本教育心理学会が,今年は筑波大学でありました。今年は,教育心理学と教育実践との関わりをテーマとして,「実践的な」教育心理学の授業をレポートしたり,現場の先生を交えたシンポジウムがたくさん催されたり,さまざまな試みが行われていました。

 シンポジストのコメントでも,仲間うちで話した内容でも,理論と実践との距離はまだまだ遠いというところでしたが,こんなふうに学会の中でもどんどん交流が広がっていけば,もっと見通しがひらけてくるかもしれません。

 しばらくぶりに帰った筑波は,木々がすっかり大きくなり,大学らしい落ち着きが出てきていました。まわりの建物は,科学博の前後でだいぶ変わっていましたけれど,私のいたアパートは,どれもそのままの姿で立っていました。

■96.09.25. お願いしまあす!

 とある専門学校に非常勤で行っています。1年生の講義なので,みんな初々しくていいのですが,ひとつだけ憂鬱なことがあるのです。それは,授業始まりの挨拶で,みんな一斉に「よろしくお願いしまあす!!」,最後は「ありがとうございましたあ!!」っていう挨拶をすることです。

 そういえば,以前見に行ったとある中学校でも,授業開始の挨拶は「よろしくお願いしまあす!」でした。私のころは,朝は「おはようございます」,他はただ「起立,礼」だけだったと思うのですが,「お願いします」には何か起源があるのでしょうか?

 で,なんで私がこの挨拶が嫌いかというと,ずっとずっとむかし,スポーツの名門女子高を取材したドキュメンタリーTVがあって,その監督が,何だかやたら厳しかったのです。部員たちはなにかというと「お願いしまあす!」と言います。それで監督は,部員がうまくできないことに対して,その子の全人格を否定するようなことを大声で怒鳴るわけですね。ところがその子は,怒鳴られた後必ず「ありがとうございましたあ」と言うのです。怒鳴られて,怒鳴られて,泣きながら,それでも「ありがとうございましたあ!」なのです。そう言わなきゃいけないきまりになってるのでしょうね。監督の言葉はどんな言葉でもありがたいというのでしょう。

 でも,ふつうの感覚で見れば,「どこが悪かったか」「どうすればいいか」とかいったアドバイスならともかく,ただヒステリックに怒鳴られているだけなのに,「ありがとう」はないですよね。

 どうも私には,そういう挨拶は,ことさら上下関係を強調して,指導者を権威づけようとしているようにしか見えないのです。「お願いします」→「教えてやるんだから,お願いしなさい」,「ありがとうございました」→「教えてやったんだぞ,感謝しなさい」ってぐあいにね。こういうのは,ほんとうに心から思っている場合に出てくる言葉であって,挨拶という形で儀式化し,強要してはいけないのではないでしょうか。

 これって,見方偏ってますか?

 ほんとは,私の時間だけはやめさせたいのですが,いちおう「しっかりしたしつけ」が学校の方針だそうですので(「お願いします」がそれに該当するかどうかまでは聞いてませんけれど),あえて逆らってはいません。でも,この挨拶のときは,こちらの方が緊張してしまいます。

■96.09.17. あぶないおじさん

 父親に関する本の続きの話。

 ちょっと執筆の参考にと,うちの奥さんに最近の出産情報誌を何冊か買ってきてもらいました。文献研究です。いやいや,最近の出産事情はずいぶん進んでいるんですね。私が経験した十数年前とはぜんぜんちがいます。見ておいてよかった。あやうく,一昔前のことを書いてしまうところでした。

 ところでその出産情報誌ですが,最近は出産の様子がたくさんの写真で紹介してあるのですね。びっくりしました。見ようによってはかなりキワドイ写真ですが,堂々と(あたりまえですけどね)掲載されています。私は,この情報誌をしばらくカバンに入れて持ち歩いていたのですが,もし途中で事故にでもあって,身元確認のためとカバンを開けられたら,きっと「あぶないおじさん」とまちがえられたにちがいありません。

 無事でよかった!!

■96.08.27. 集中講義のコンビニ弁当

 某大学某学部に集中講義に行ってきました。

 行ってすぐに,そこの宿泊施設に案内されたのですが、問題は食事。去年までは施設の管理人が食事の支度もしてくれていたらしいのですが,管理人を無人化する方向のようで,今は人はいるのですが食事が出ないのです。

 じゃあどこで食べるの? と質問すると,「まわりにはあまり食堂がなくて,特に朝の時間はどこも開いてないのです…」と事務の方は恐縮され,「敷地続きの病院の食堂で食べるか,あとはコンビニでお弁当を買ってください」とのこと。ちょっと(@o@)

 まあ,病院食なら栄養も計算されているにちがいないと,1日目はその病院食堂に行きました。しかし。

 出てきた朝定食は,なんと生卵1個と納豆1パック。ひたすらジュルジュルものです。生卵と納豆をまとめてご飯にかける人って,いるんでしょうか? 少量ならわからないでもありませんが,生卵1個と納豆1パックを丸ごとご飯1膳にのっけたら,みごとにグチャグチャです。あとは味海苔に佃煮に味噌汁,これで450円!!

 お医者さんたちもパラパラと食べに来ていたし,きっときょうはたまたまメニューが悪かったのだろうと思って宿泊施設に帰ったところ,管理人のおばちゃんが出てきてこう言います。

「あそこの食堂,おいしくなかったでしょう? 納豆と卵ばっかりで。毎日あれなんだよ。せめて目玉焼き・千切りキャベツでもつけりゃちょっとはちがうのに,さっぱり工夫がないよ。私らがここで食事出してたときにゃ,もうけ考えないから,料金ギリギリまで材料買って,いろいろ出してたのにねえ。」

 う~ん,出かける前に言ってほしかった。(T^T)

 かくして翌日からは,毎朝コンビニ弁当・インスタント味噌汁という,何だかとてもわびしい生活になりました。

 ちなみに,このあたりは事務の人も気にしていて,近くのビジネスホテルを宿泊施設とすることを考えているようでした。学内の宿泊施設は,講義室までほんの数十歩といったじつに便利な位置にありますので,宿泊費用や便利さ・施設のサービスとの兼合いの問題になりますが。

 学内には,実験林が広がっていて,涼しい木陰に蝉の声が響いていました。

■96.07.31. DweckのOpen Seminar

 Dweck の公開講座を聴きに,東京まで出かけてきました。Dweckって,helplessness型の達成行動と原因帰属との関連を明らかにしたり,目標理論の背景に能力観の違いがあると指摘した,この分野では「超有名な」研究者の1人です。いったいどんな“大物”が来るのやらと興味津々で行ったのですが,意外にも,ご本人はいたって柔和でフレンドリーな雰囲気をお持ちの方でした。

 講演は通訳なし・配布資料なしで,英語力のない私にはつらいものがありましたが(いったん聞き取れないと,その先全部わからなくなるのです!),比較的わかりやすい話し方をされるので,なんとかなりました…と思います。

 内容は,幼児の動機づけパターンについてで,1990年のNebraska Symposiumの講演内容の一部に沿っているようです。今まで幼児にはhelplessパターンは存在しない,それは安定した能力という概念が幼児には存在しないからだ,と説明されてきたのですが,じつは幼児にも同様なhelplessパターンがあるのだ,というのが主題です。それは,年長児童で使われてきた「能力」に関する課題や実験状況が幼児に合わないからであっ て,「幼児向け」の状況を作れば,同じようにhelplessパターンが観察されるというのです。

 キーワードは「good/bad」。年長児童が「ability/lack of ability」の次元で考えるのと同様,幼児が焦点を当てるのは,自分が道徳的に「善いか悪いか」なのだそうです。

 ジグソーパズルを時間内に完成できない,という失敗事態を実験的に導入し,その後その未完成パズルを継続して実施するかどうかで幼児を分類すると,非継続群の幼児たちは,一連のhelpless行動パターンを示します。さらに,人形を相手に同様な失敗事態をロールプレイさせ,失敗した人形に対してどのような評価を与えるかを観察してみると,非継続群の子たちは,「罰」を明確に意識化していることがわかりました(もちろんこれは,幼児がそう認識しているだけであって,アメリカの親たちが実際にこれだけ頻繁に罰を使っているわけではない,とDweckさんは念を押していました)。一方,継続群の子たちは,「失敗してもよくやったのだから」と建設的に評価しています。つまり,非継続群の子たちは,おとなからの批判や罰を意識していて,たえず自分は「善い子」であるかどうか,という視点から考えているということです。

 この視点はとてもおもしろいと思います。「幼児にはhelplessnessがない」ということは,かなりポジティヴな意味で私自身も授業で紹介し,『児童心理』なんかにも書いたりしているのですが,こういう研究があるとすれば,また説明を再検討する必要がありそうです。どう取り入れるかは,かなり難問ではありますが。

 大会場での講演会とはちがって,会議室を使った小人数の講演会だったせいか,あるいは4日間のセミナーの一部として行われたため,ある程度参加者との情報交換が行われていたためか,講演はけっこうリラックスした雰囲気で進んでいました。大学の方の仕事も一段落したし…と思って出かけてみたのですが,なかなか有意義な一日でした。

■96.07.11. 父親はむずかしい

 今度,父親についての本を分担して書くことになりました。あ,正確に言わないといけません。父親ではなく「父性」ですね。父親・母親といった性役割がなくなってきている状況の中で,これからの父性はどうなるのか? というような趣旨の本です。

 先日,その分担者どうしの座談会があって,いろいろ意見を交換してきたのですが,いやあ,このテーマはなかなか大変です。分担者の中でも,一人ひとりの持つ父親像・父性観がかなり違っているのです。父親役割・母親役割などと固定的に考えるのではなく,それぞれの親がそれぞれの個性に応じて適切な役割を担い,子どもに関わっていくことが重要なのだと考える人,いやいやルールや価値観を教える強い存在としての父親は(養育的な母親役割とは別に)依然として必要なのであって,父親だか母親だかわからない関わりかたでは,子どもは性役割同一化ができず,問題を生みやすいと考える人(さて,私はいったいどちらでしょう?),ほんとうにさまざまです。

 こういう議論って,混乱するひとつの原因は,「父性」と「父親」がきちんと分離されていないことではないかと思います。その手の文章もいくつか見てみたのですが,やっぱり同じです。「父性」が重要という議論がいつの間にか父親の問題にすり代わったりしていて,じゃあぜったいに母親が代行(?)不可能なのか,それともだれもその役割を果たしていないことが問題なのか,よくわからないのですよね。こういう問題は,影響性がすぐには現れないので,予測がむずかしいところもあります。

 それに,話をするときどんな父親を対象として設定するかも大きな影響があります。会社人間でほとんど家庭をかえりみないような父親をイメージして議論するか,それとも運動会には欠かさず出かけ,観客席から身を乗り出してビデオを撮っているような父親を相手にするのか,家庭にはいっしょにいるが,ほとんど発言も関与もしないでゴロゴロしている父親を考えるのか,それだけでも,論調はぜんぜんちがってきます。

 今はほんとうに家族形態が多様になってきましたから,これもむずかしいのです。

 うむむむ。 書けるのだろうか…。

■96.07.08. トラブってたんです

 ひさしぶりのひとりごとです。

 Webサーバへのアクセス時間がなぜか異常に遅いというトラブルで,1ヵ月ほど情報を書き換える意欲をなくしていたのですが,このほどトラブルはようやく復旧。前期の授業ももうすぐ終わりで,ちょっとは余裕が出てきたし。ということで,また書きはじめました。といっても,前から1ヵ月に1回程度の書き込みペースなので,あんまりちがわないですよね。


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