ひとりごとの保存箱 97.01-06

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● CONTENTS ●

■97.06.17. 擬似体験

 某市の教育委員会が,ロールプレイングゲームの要領でいじめを疑似体験するパソコン用学習教材ソフトを開発し,授業で使い始めた,という記事を,新聞で見ました。

 どんな内容なのか,詳しく見ていない段階で言うのはいけないと思うのですが,どうも気になります。この「擬似体験」というのが。ほんとうにいじめを「体験」なんてできるのでしょうか。

 私も昔,いろいろなゲームをやりました。さんざん残酷なこともしました。殴ったり斬ったり,仲間を見捨てたり…。平気で市民の家を壊して公共の建築物を建てたりもしました(さて,これらは何というゲームでしょう?)。しかしそれは,それらのゲームが,そのようにふるまった方がクリアしやすいように「プログラムされている」ことがわかっているからです。単純にそれだけのことです。そのことで,実社会でも目的達成のためには仲間を見殺しにした方がいい,市民の平穏な生活より公共の利益が優先するなどということを学習しているわけでは,けっしてありません。逆に,愛他的な行動を促すゲームがあるとしたら,きっとそれに沿って行動するでしょうが,それは愛他性を学習したわけではなく,それがゲームのロジックだからです。

 ゲームというのはゲームの中だけのことだからゲームなのであって,しかもプレイヤーが相手にしているのは,画面に登場するキャラクターそのものではなく,そのウラにある,プログラムされたロジックなのです。本気で自分がそのファンタジー世界に入り込んで,画面上の仲間たちと友情をはぐくんだり,宿敵に憎悪の炎を燃やしたりしているわけではないのです。

 言い方をかえると,たとえそのソフトで,「いじめを見たら傍観してはいけない」という判断を学習したとしても,それはたんなる選択肢のひとつを記憶したにすぎず,プログラムしだいでは,別の選択肢と簡単に置き換えられてしまうようなものだと思います。つまり,洞窟の中で右に行くか左に行くかを選択するのと,本質的には変わらないのではないでしょうか。

 英会話のソフトと同じように,「いじめられたら~しなさい」,「いじめを見たら~しなさい」という,対処スキルを徹底的に教え込むような,いわゆるマニュアル的な使い方なら,わからないでもありません(文章より効率的かどうかは疑問ですが)。しかし,このストーリーの中に子どもたちが入り込んで,ほんとうにいじめる側やいじめられる側を擬似的に体験し,いじめられる人たちの心情を思いやることができるかどうかは,かなり疑問です。

 もしこういうソフトで遊んだ子どもが,それによって「いじめられる人の気持ちになる」ことができるようになるのなら,彼はきっとその前に遊んださまざまな好戦的なゲームのせいで,自分の欲求を他人への暴力によって発散させることの「快感」を,さんざん身につけているにちがいありません。そちらの方が,よほどこわい気がします。

■97.06.04. 文章で人を傷つけないように

 "APA Publication Manual"を同僚から借りました。授業のネタ作りです。APAというのはアメリカ心理学会のことで,そこで編集している雑誌の執筆・投稿要項なのです。(自分で持ってなくて,借りているというのが悲しいけれど)

 これが,なんと全部で368ページ。細かい,細かい。とてもていねいに書かれています。なにしろ,「文法」という節には,Althoughの使い方とか,not only ~ but also ~の中にどのように内容を並べるか,みたいな解説まであり,まるで文章読本。しかも望ましくない例と望ましい例が必ずといっていいほど添えられています。だから,たぶんこのマニュアルの中から必要な文章を選び出して,内容のコトバを自分の研究のものに置き換えさえすれば,そのまま原稿が出来上がってしまいそうです。 …そんなわけないか。

 その中で特に目をひいたのが,「言葉による偏見を低減するためのガイドライン」という節です。性差別,人種差別,障害を持つ人たちへの差別などなど,注意点とその改善についてじつに細かく解説してあります。

 まず第1に,Subject[被験者]とかSample[サンプル]といった表現は,非人間的だから使うべきではないといいます。望ましい表現はParticipants[参加者]。その人たちが能動的に実験に協力していることを強調すべきだというのです。それはもちろん呼び名の問題だけではありません。本文の記述も,参加者が受動態で記述されるのは好ましくありません。たとえば,「参加者に対して質問紙が与えられ,実施された」というのはダメで,「参加者が質問紙に回答した」とすべきです。

 ほかに,性差別に関しては,養育行動はmotheringと表現せずparentingあるいはnurturingと書きなさい(これは発達心理の分野では目新しいことではない),人種に関しては,白人・非白人という表現は白人がノーマルだという発想だから,きちんと各人種を書くべき,障害を持つ人を記述するときは,disabled personと書くとその人全体が障害を持っているように見えるから,person with a disabilityと後に記述しなさい,などがあります。それから,同性愛の人たちへの差別に関しては,参加者の性交渉経験を記述するとき,「性交渉を経験した人,未経験者」という書き方は曖昧なので,異性間交渉に限定する場合は,penile-vaginal intercourseの経験,異性間性交渉に限定しない場合は,sexual intercourse or sex with another personの経験と記述する,というようなものもあります。

 全体として言えるのは,コトバをできるだけ厳密に,具体的に使うということでしょう。曖昧なコトバを不用意に使うと,差別や偏見につながりやすい。だから,なるべく限定的な意味でコトバを使う,ということですね。

 そういうことが,差別を助長するような表現は避けるように,といった指針を述べるだけでなく,ひじょうに具体的に書いてあるところが,やはりすごいと思います。

  (この本は,ちゃんと今日返します,念のため (^-^))

■97.05.15. 借りたときには忘れていて,貸したときはよく覚えているもの

 なんだと思います? お金? それもあるかもしれませんね。 でもここで言いたいのは本のことです。

 原稿を書きながら,わからないところや参照したいところが出てきて,なにげなく手を伸ばすと,そこにあるべき本がない。そうだ,これは人に貸してるんだっけ…。めったに使わないのに,たまに使おうとすると,そんなときに限って貸し出し中なのですね。気づくと同時に怒りがこみあげてきます。なんでいつまでも返してくれないの!?

 おかげで,書き物を中断して図書館まで出かけていかなくてはいけません。場合によっては,一から情報を探し直さなくてはいけません。そういうときはたいてい締切が迫っていたりするので,なかなか切実なのです。雑誌の論文がみたいとき,他の号はきっちりそろっているのにお目当ての号だけ抜けているのを発見したりすると,ほんとうにくやしいものです。

 で,怒りながらふと別の棚に目をやると,そこには自分が人から借りっぱなしになっている本が,無造作においてあったりするのですね。 ^_^;) 怒りは一気にクールダウンし,自己嫌悪に陥ります。困ったもんです。

 そういえば,本って,もともと手に入るまではとっても気になるのだけれど,いったん手に入ってしまうとすっかり安心して,「積ん読」になっていることがあります。本棚なんかにきっちり収められてしまったら,もうおしまいです。他の本の間に埋もれて,ホコリをかぶってしまうのがオチです。

 人に借りた本も,一部を読めばすぐ用事はすむのに,なんとなく他も役立ちそうで,つい手元に置いておくとか,いちおう引用はしたものの,あとで見直して変える必要があるかもしれないという不安で,念のため持っているとかっていう心理過程が,自分自身を内省してみるとはたらいているようですが,まあ理屈はどうあれ,結局は棚の中でまわりに埋もれてしまい,またまた他者不信になったり自己嫌悪に陥ったりという歴史を繰り返していくわけですね,少しも学習せずに。

 …明日は,借りている本を返しに行こうと思います。

■97.04.07. タバコと環境教育

 個人攻撃が目的ではないので詳しい状況は伏せておきますが,情報源はたしかです。

 ある小学校で。先生が使うパソコンの部屋の掃除当番になった子どもが,タバコの吸い殻を発見しました。その吸い殻はなんと,缶コーヒーの空き缶にギッチリ詰め込まれ,あふれていたそうです。もちろん周囲には灰が散乱しています。子どもは,その汚く散らかったタバコを始末するのはいやだと掃除の担当の先生に抗議しました(その先生はタバコを吸っていた先生とは別の先生です)。その先生は,「缶ごと捨てればいいじゃないか」と言ったそうです。

 この話を聞いて,私はすっかりあきれてしまいました。今小学校では環境教育がさかんで,どこでも空き缶拾いをしたりゴミポスターを作ったりしているわけですが,そのときよく問題になるのが,こうした分別しにくいゴミです。中身が半分入ったままの缶とか,灰皿がわりに使われた缶とかね。缶と灰を分けて出さないとリサイクルしにくいのですよね。リサイクルセンターあたりからも話を聞いてきますし,子どもたちも実際に空き缶拾いをしてみて,こういうゴミの出しかたをしては《いけない》と気づいています。

 その先生がですよ,平気で空き缶にタバコの吸い殻を詰め込んでいる。そして分別せずにゴミに出せと言う。これっていったい何なんでしょう? 環境教育なんて言ったって,しょせん授業の一環として扱っているにすぎないのでしょうかね。これじゃ,子どもにも定着しないでしょうね。

■97.02.27. 先生の私語

 先日,大学全体の教官が集まる会議があったのですが,そのときのこと。

 はじまってどれくらいたったころでしょう。後ろの席からヒソヒソ話が聞こえてきます。最初のうちは,何か発言が聞きとれなかったとか,質問でもしているのだろうと思っていたのですが,どうもそうではなさそうです。笑い声が聞こえてくるからです。話は断続的に続きます。笑い声もひっきりなしに聞こえます。

 話の内容がまったくわからないくらいですから,けっして大きな声ではないのですが,声を殺した含み笑いは,シシシシ,ヒヒヒヒ,という感じでとても耳障りでイライラさせられます。

 日頃教壇に立っていて,自分は大声でしゃべっているのであまり気にしていなかったのですが,人の話を聞こうと集中している人にとって,他の人の私語がいかに迷惑なものか,今回よくわかりました。

 それにしても,教官からこの状態ではねえ…。

■97.02.18. 1年

 いつのまにか,1年がたちました。方法講座ホームページを立ち上げてから。思えば,比留間先生の転任で講座の助手がいなくなるので,院生-教官間,教官-教官間,院生-院生間の情報伝達網をきちんと整備しておきたいと思ったのがきっかけで(半分はね。あとの半分はナイショです),はじめてしまった仕事でした。

 しかし,その効果はどうだったのでしょう? 私はほとんど発信するだけで,反響はよくわからないのですが,少しはみなさんの役に立っているのでしょうか? ちょっとみなさんに聞いてみたいところですね。

 ともあれ,この「ひとりごと」を1年読んでくださった方,ありがとうございました。…まだ今年度が終わったわけではありませんけど。来年度はまたどう展開していくか,考えたいと思います。

■97.02.13. 緊急の用事にメールを使うべからず

 やってしまいました。日頃,人にはさんざん言ってきたことなのですが,「緊急の用事にはメールを使ってはいけない」。同僚に対して,やってしまいました。

 その人はけっこうメールを開いている人でしたので,油断していたのですね。きっと見てくれるだろうと。最初,電話で連絡をとろうとしてちょうど留守だったので,それならメールで大丈夫だろうと,送っておいたのでした。3日待ち,4日待ち…,1週間がたちました。「どうかしたのかな?」と思い再度メールを送ってみると,返事がありました。しばらく仕事でメールが開けなかったとのこと。用事はあっという間に片付いたのでした。

 メールに頼り過ぎていました。再度電話するとか,事務の人に予定を確かめるとかきちんとしなかったのがいけなかったのです。  反省。

■97.01.28. なまえ

 私の名前は,いわゆるうちの屋号なのでして,うちに代々受け継がれてきた名前なのだそうです。といっても,農家ですから特に由緒ある名前ってわけではないです。それに,私にこの名前がついた直接のきっかけは,戦死した伯父を惜しんだ祖母の意見だったようです。

 けっこうクラシカルな名前なので,子どものころからずいぶんいやな思いをしました。入学式とか卒業式とかで一人ひとり名前を呼ばれて…というようなシチュエーションはだいっきらいでした。「なかやまかんじろう」と大声で呼ばれると,たいてい会場の中にくすくす笑い声が起こります。どんなおじいさんなのだろうと,まわりの人はいっせいに視線を向けます。それがたまりませんでした。それに,歌舞伎役者を連想させるのか,よく中山ではなく「中村勘次郎」と誤って記憶されました。これもとてもいやでした。

 だから,子どもにはこんないわれのない苦痛を味わわせたくないと思いまして,なるべく「凝らない」名前にしようと決めました。だれにでもきちんと覚えてもらえるようにと,夫婦でいろいろ考えました。 …ところが です。

 娘には「理」の字を使っているのですが,これがよく「里」とまちがわれるのです。思えば最初からつまずいていたのでした。住民票の記載がまちがっていたのです。戸籍の方はちゃんと書いてありましたから,まちがいなく転記のミスなのです。だから,名簿業者に依存したダイレクトメールの類は,軒並み「里」の字で来るのでした。

 最初はなんでまちがったメールが来るのかわからなかったのですが,たしか幼稚園に入るとき,住民票を取り寄せてはじめて,そのまちがいに気づいたのでした。私はその場で窓口の人にまちがっていることを指摘しました。そのおじさんは,まちがいを謝るでもなく,「ほんとうならきちんと手続きを経てでないと変更できないのだが,ヘンをつけるだけだから,ないしょでやってあげましょう」と,なんだか恩着せがましく言うのでした。

 それでもまちがいは続きます。小学校の各種名簿も,ほとんど毎年のように訂正をお願いしないといけません。せっかくの賞状も,名前がまちがっていてがっかりさせられたことが何度かあります。どういうわけかみんな「里」なのです。

 名前というのは自分の物でありながら自分では決定できません。生まれたときからつけられています。そして,その名前に沿って,その人のパーソナリティも形成されていくのです。子どもが,自分ではどうしようもないところで人から間違えられ,正しく認知されていないというのは,その名前をつけた親として,これほど悲しいことはありません。私自身,さんざんそういう思いをしてきたというのに…。

 昨日,この4月から中学生になる彼女に,中学校からはじめての連絡物が届きました。なんとその名前が,まちがっていたのです。さっそく訂正をお願いに行ってきました。もしかしたら,なんと細かいと思われるかもしれませんが,親として,これだけはこだわっていきたいと思っています。


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