ひとりごとの保存箱 97.07-12

(リンク切れ等があっても修正しません)

● CONTENTS ●

■97.12.08. おばあちゃんのむかしがたり

 子どもが小学校で,食糧問題について学習しています。そのまとめのイベントとして,1年間自分たちで育ててきた米や野菜だけを使って料理を作り,1日を過ごしてみようという活動をしました。一晩学校にお泊まりです。

 野菜は,ジャガイモ・サツマイモ・カボチャ・ニンジン・ダイコン・ホウレンソウといったところ。米も野菜も,もちろん十分にあるわけではありません。学年全員で分けたらほんのわずか。とにかくそれで,自分たちで工夫しながら料理を作ります。あとで聞いたら,「その量では栄養が足りなすぎる」と栄養士さんから“指導”が入って,多少量を増やしたそうですから,本格的な「貧しさ」です。そういうところから,食糧問題を考えてみようということなのですが。

 さて,その1週間ほど前でしょうか。「当日の夜,ひもじい思いをしている子どもたちに,親からの食に関するメッセージを読ませようという方針でいるので,何か書いてほしい」と,先生から保護者あてにプリントが配られました。たとえば,おじいちゃん・おばあちゃんが,昔食糧が不足していかに苦労したか。お母さんがどんな思いを込めて子どもたちの料理を作っているか。お父さんがどんなにがんばってはたらいているか…。なるべく感動的に子どもたちに読ませたいというのです。

 正直,困りました。しかし,うちの場合こういうとき頼りになるのが山形の実家です。さっそく電話で取材。で,この話がじつにおもしろいのです。ずっといっしょに暮らしていても,こんな話聞いたことなかったもんなあ。聞いているうちに,子どものことなんかどっかいって,すっかり自分の好奇心であれこれ聞いてしまいました。

 それをまとめたのが,このメッセージです。(子どもにわかりやすくするために,多少脚色が入ってますが)

■97.11.28. 【業務連絡】

 中山研究室修了生のみなさま。修士論文題目に論文概要を掲示する試みを開始しました。同時に,修了生の名前にはmail to (または,個人Webサイトへのリンク)を設定します。昨年度修了の岡田さんがサンプルになっていますので,見てみてください。ABSTRACTボタンを押すと,論文概要にジャンプします。 他の修了生の方で,論文概要の掲示をしてもいいという方,& メールアドレスを公開してもいいよという方は,中山までひと声かけてください。論文概要は,メールまたはFDで送っていただけるとたいへん助かります。よろしくお願いします。

■97.10.21. 心機一転

 研究室のマシンにWindows95を導入して一年半。この間いろいろなソフトを入れてははずし,「お試し」しては使えなくて捨て…,を続けてきたら,知らないうちにハードディスクにわけのわからないゴミがずいぶん増えてきました。そろそろ大掃除しなきゃな,と思っていた矢先のことです。

 それは突然に起こりました。あるソフトのバージョンアップ版をインストールしていたときです。インストール作業は順調に進み,環境の設定も終わり,ついに最後,「設定を有効にするためには再起動を…」というメッセージが出てきたので,迷わず「再起動する」を押します。98特有のピポ!が鳴り,画面にメモリチェックの進行状況が表示され,ハードディスクがチカチカと点滅し,Windowsの起動ロゴが表示され,とおなじみの再起動ルーチンが,いつものように繰り返されます。ところが。

 沈黙。長~い沈黙。そして画面中央にエラーメッセージ。ありゃりゃ。二,三度リセットをかけてみましたが,結果は同じです。どうも,バージョンアップがうまくいっておらず,そのソフトの以前のバージョンのファイルが意地悪をしているようです。へんにいじったのが災いしたか,いったんアンインストールしてもういちどインストールしてもダメ。前のバージョンを入れ直してもダメ。もうどうしようもありません。ちょうどいい機会ですからハードディスクごときれいにしてしまうことにしました。ついでにパーティションも切り直しますので,ほんとに全部やり直しです。

 翌朝いちばんに,formatユーティリティを実行。領域を確保し直して,Windowsをセットアップします。使い慣れたユーティリティやワープロやエディタをそれぞれ入れ直して,さあ元の環境になった,と思ったらこれが大間違い。Windowsの画面配色から始まって,IMEのキーの割り付け,ワープロのメニュー項目の配置などなど,使いはじめてみると細かいことがいちいちちがいます。そういえばあちこちカスタマイズしてたもんなあ…,とその時になってようやく気づきました。やっぱり設定ファイルだけは自分でバックアップしとかなきゃいけません。半自動のインストール作業とちがって,カスタマイズは全部手作業ですから,ひどく時間がかかります。

 それにもうひとつ。IMEの辞書がすっかり学習成果を忘れてしまっていて,変換キーを押すたびにトンデモな変換をはじめたのには笑いましたが,こちらはちょっと前のバックアップファイルがあったので,大丈夫。

 ともあれ,これで新しい環境が出来上がりました。まだいくつか入っていないソフトがあるのですが,これは必要になったときに入れればいいでしょう。また細かいカスタマイズは,使っていくうちに直していくことにします。やれやれ,後期がはじまって資料だのなんだの作らないといけないのに,丸2日つぶしてしまいました。

■97.09.25. 寝耳に水

 先頃,「過ぎたるは及ばざるが如し」の意味をヘンなふうに取り違えていた政治家がいましたけど,前期のレポートで見つけたおもしろい表現。

『親や教科の各先生は口をそろえて「勉強をしろ」とか「受験があるんだぞ」と口うるさく言っていましたが,私には寝耳に水といったところです。』

う~ん。個人攻撃になるといけないのでこれ以上論評しませんが,この人が寝ているところに水をかけてあげたら,彼はいったいどんな反応をするのだろうか?

    (『学習心理学特論』のレポートに対する今年度の講評はこちら

 それから,別の授業のレポートで見つけたすごい誤字。

『先生がただ気持するだけでもA君にとってはうれしいことだったのだろう。

 生徒が一人ぼっちにならないように気持ちの面での支えを作ることが大切である。』

後の方の「気持ち」はふつうに「キモチ」ですが,前の方は,それでは意味が通りません。しかし,この表現は何度も出てきます。むむむむむ。わからん。

で,結局こんなところに落ち着きました。どうやら彼は,先生が「キタイスル=期待する」と書きたかったようなのです。どうすればこう読めるのか理解できませんが,これなら意味は通じます。でも,その先読むのが憂鬱になります。

■97.09.12. お釈迦様の掌

 これは,大学院『学習心理学特論』の中でお話ししたことですので,聞いた人は読み飛ばしてください。

 最近,内発的動機づけの研究は,自己決定や自律性の問題をきっかけに,「自己」とは何かというかなり哲学的な問題に踏み込んできています。実は今,Deciの本を4人の人たちで翻訳しているのですが,私の担当部分はこの自己と社会とのかかわりの部分。物質的な豊かさに惑わされない自己,他者からの命令や指示に隷属しない自己,といったような話が展開されています。

 文化的なちがいなのか,掲げられている事例がなじみにくく,わかりやすくないということもあって,なかなかうまく訳せないでいるのですが…。

 このあいだ,集中講義に行ってきた先で,授業が終わった後街中をぶらぶら歩いていて,ふと入った本屋さんでおもしろい本を見つけました。

   『ブッタとシッタカブッタ』 小泉吉宏  メディアファクトリー

という,漫画です。最初は,なんか宗教をわかりやすく解説した本なのかなと思って,パラパラとめくってみると,これがなかなか! 思わず買ってしまいました。

 「ほんとうの自分」とか,「たしかな自分」とか,いままさに説明に苦しんでいる概念が,そのまま出てくるのです。おお,そうだよそうだよ,という感じで,よおくわかるのです。

 オハナシとしては,恋に悩むシッタカブッタ君が,いろんな悩みを見つめていく中で,少しずつ自分を取りもどしていくという展開なのですが,(あんまり説明しちゃうとこれから読もうとする人のじゃまになるのでやめますが)たとえば,うまくいかないことをなんだかんだ人のせいにするけれど,けっきょく行動しているのは自分自身なのだ,というのは自律性という問題の根本を言い当てていますし,恋を知ってそのあと失恋すると,それは恋を知る前と同じ状態なのに,なぜか「不幸」に見えるというところなんかは,ちょっと言葉をかえると,内発的動機づけに及ぼす外的報酬の影響の説明になったりもします。けっこういい心理学本です。Deciの訳本の最後に,参考文献として書いておこうかな? きっと並行して読むと,私の拙い訳もちょっとはわかりやすくなるでしょう。

 それにしても,この本に書いてあることは,全部仏教の教えの中に書いてあることなのでしょうか。20世紀も最後の私たちが苦労して研究したり説明したりしているこれらの概念を,すでにお釈迦様が見通していたとしたら,それはそれですごいです。まるで孫悟空がいくら飛び回っても,お釈迦様の掌を抜けられなかったようなものです。心理学って,「今」の問題を扱っているように見えて,実は相当に普遍的な(&不変な)問題を扱っているのだなと,思い知らされます。

■97.08.07. 昭和は遠く…

 ある日の娘と友人との会話の中で。

 「この生徒手帳,新しくていいわね。私の学校の生徒手帳なんて,古くさくって古くさくって。まるで昭和時代に作ったんじゃないかと思うくらい古いのよ。」

 そうか,この子たちにとって昭和は古~い時代なのだ。なんだか頭をがあんとやられた感じでした。そりゃそうだよね,平成ももうすぐ2桁,昭和という年号もなかなか聞かなくなりました。私たちが明治・大正に対して感じるイメージと同様なイメージを,彼女たちは昭和に対して持ちはじめているのです。なんだか自分が一気に前世紀の遺物になってしまったような気がしました。

 「そっかあ。昭和は古いかあ。」

 と思わず私がつぶやくと,

 「私たちだって昭和生まれだから大丈夫だよ。」と慰めてくれます。でもそのあと一言。「昭和の最後のころだけどね。」

言われてみたら私は,ギリギリ昭和の前半生まれなのでした。 …立ち直れません。

■97.08.01. まちがい電話

 このところ,研究室に頻繁にまちがい電話がかかってきます。どうもおかしいと思って,あるとき相手に聞いてみたところ,近々開催されるある学会の案内文書の,事務局の電話番号がまちがっていることがわかりました。どうりで頻繁にくるわけだ!

 じつは私自身も,昔々院生のころ全国規模の学会の準備をしていたとき,宿泊案内に載せるホテルの電話番号の誤植を見逃していて,一般の家庭に大迷惑をかけたことがありますので,まちがいそのものには,わりと寛大です。ただ,できれば訂正を出してほしいという要望だけは関係の先生に出しておきましたけれど。

 気になるのは,まちがい電話をかけてくる人たちです。ある人は,「○○さんではないんですね?」「そちらは**-****(電話番号)にまちがいないんですね?」「そちらは上越教育大学ですよね?」という質問を2,3巡繰り返したあげく(文書そのものがまちがっているのだから,たしかめたくなるのはわかりますが,かなりのしつこさ),「…そうですか。」 ガチャッ。 こっちの方が呆然として,「そういえば,すみませんっていわれてないよなあ」などとしばらくたってから思い出す始末。

 それからそれから,まちがっているとわかったとたんに,これも謝りもなしに「じゃあ,○○先生に回してください。」って言ってくる人もいます。まちがい電話をかけて迷惑をかけている相手,しかも一面識もない相手に対して,用事を頼むかなあ,フツー…。で,私は根っから性格が悪いので,一言「かけ直してください。」で切ってしまいます。

 暇なときならいいのですが,原稿を書いているときとかプログラムを書いているときに電話がかかってくると,けっこう困ります。そういうときは,ちょっと先までのプロットを頭の中にいれながら作業しているわけで,それらは電話の受け答えをすると同時にリセットされてしまうのです。で,電話を切った後,もう一度少し前から読み直したりして,記憶を復活させなくてはなりません。けっこうなロスなのです。用事の電話や楽しいおしゃべりなら,そりゃあロスでもなんでもないですが,まちがい電話は受け手には何の意味もないですから,よけいにロスが身に染みます。その点,メールはいいですよね。こっちの都合で好きなときに見られますから。

■97.07.14. デビュー戦

 昨日,生まれてはじめてサッカーの審判というのをやりました。小学生の試合ですが,れっきとした公式試合です。もちろん,主審ではなく線審(今は副審と言います)ですけど。私のことを知っている人なら,みんなひっくり返るか笑い転げるにちがいありません。私だってびっくりしています。だいたい昔からの運動音痴で,スポーツなどというものにはまったく縁のない人でしたから,この年齢でこんなふうにスポーツにかかわることになるとは思ってもみませんでした。

 さて,一番下の資格である4級審判員というのは,講義を聴いて実技を見るだけで資格がとれてしまいます。ですから,資格をもらったといっても,フラッグを上げた経験どころか,さわったこともない状態なのです。なので,実戦に出るときがほんとうにぶっつけ本番。すごいですよね。私の場合は,おまけに当日になってそれを言われましたので,予習も何にもなし。

 やっぱり,むずかしいです。とっさの判断というのが,ほんとにたいへんです。線審の仕事のうち,いちばん頻度が高いのはボール・アウトのジャッジですが,これさえたいへんなのです。ボールが出たかどうかは,目の前のできごとなのでわかります。しかし,それをだれが出したかっていうのは,何秒か記憶をさかのぼらないといけません。出そうだなと見えるときは注意して見ているのですが,当然みんな出そうと思ってプレイしているわけではないので,あれ?と思った瞬間にボールが飛び出てしまったりします。オフサイドラインの方が危なそうだなとちらちら見ているときに限って,視界のまったく反対側でボールが出てしまったりもします。自信がないときは,フラッグを上げた後(ボール・アウトのサイン),主審の方をうかがいます。「どっち? 教えて! 頼むよ!」 しかし,ときには主審の方がこちらのジャッジをのぞいていることもあります。当然選手たちも,一斉にこちらを見ます。血の気が引きます。 もう,ほんの1秒にも満たない瞬間に,必死で試合展開を思い出し,エイヤッという感じでフラッグで指すのですが…。ミス・ジャッジもきっとあったでしょうね。あれ,こんなこと言ってもいいんだろうか。

 でも,冷静に見たら両チームともきちんとゲームを組み立てられるチームでしたので,審判はとてもやりやすかったのだろうと思います。これがただ蹴りあうだけの試合だったら,私のジャッジはもっと悲惨なものになっていたでしょう。子どもたちに感謝!


もっと最近へ    INDEXへ    もっと過去へ