ひとりごと


保存箱 98.07-12

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■98.12.08. クリスマス・パーティー

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  またまたサッカーチームの話題。今日はチームのクリスマス・パーティーです。昨年のパーティーを踏襲して,バイキング・パーティーをやります。先月,その予約に,とある宴会場に電話を入れたのです。

「あの,クリスマスのパーティーを予約したいんですが…。」

  ふだんの同僚どうしの宴会なら,迷わず「宴会」の予約といったのでしょうが,子ども主体なので,なんとなくクリスマス・パーティーって言ってしまったのですが。これがいけなかった。係の人,ちょっとけげんそうな声…,そして

「少々お待ちいただけますか?」

なにやらむこうで話し合っている様子。しばらくして,

「お待たせしました。クリスマス・パーティーは,まだパンフレットができ上がっておりませんので,あとでパンフレットを郵送させていただきます。」

「え,まだ予約できないんですか?(もう11月も半ばだというのに?)」

「ハイ。もう少しお待ちください。」

  はて,パンフレットなんてあったっけ。もしかすると,バイキング・パーティーは特別の企画ものだったのかもしれんな。などと思いながら,連絡先を伝えてとりあえず電話を切りました。そしてそれから2週間後。

  来ました,パンフレットが。その名も「クリスマス・パーティー」。でもその内容は,なんというのか放送局が主催する合コン(?)パーティーだったのです。なあるほど,そういうことだったか。

 それにしても,まぎらわしい一般名詞のイベントを企画しないでほしいなあ…。

■98.11.09. これだからやめられない

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  昨日は,グラウンドでのサッカー最後の試合でした。ところが,監督もコーチもこの日は用事で出られず,しかたなくぼくが監督代わりをすることになったのです。それまで,試合のときの指示はまったく監督・コーチに任せきりで,ぼくは選手交代のときなどの書類書きに徹していたのですが,この日はそういうわけにもいきません。困った,困った。いつもなら監督とコーチが横にいるのに,ベンチにいるおとなはぼく一人。

  孤独です。

  だいたいぼくはスポーツがいっさい苦手で,だからといえるかどうかわかりませんが,見る目もないのですね。一瞬で状況を理解できない。監督やコーチは,その局面局面でどんどん適切な指示を与えていくのですが,ぼくは監督が言っている指示を聞きながら,「ああ,なるほど」と思う程度で,自分じゃちっともわかりません。う~ん。いったいどうなることか。

  しかし,いざそうなってみると,何とかなってしまうもののようで,その日はいつもよりちょっとだけゲームがよく見えてました。…そんな気がしました。フォーメーション全体はとても見わたせないのですが,ひとつながりのプレーのレベルだと,こっちのほうがよさそうだ,くらいのイメージはあるのです。もちろん,プレーの直後に適切な指示が出せれば最高なのでしょうが,そこまではとてもいきません。そこでハーフタイムになったとき,気づいたことをみんなに話したんですね。相手はゴール前を固めているので,あせってゴール前にボールを放り込んでも入りそうにないこと,両サイドの深いところを使って,DFを引っぱり出すようにしたほうがよさそうだということ。あとは,前半のプレーのいくつかをとりあげながら,選手に個別に「こんなふうにしたほうがいいのでは?」と話していきます。たとえば,左サイドの選手には,もうひとりのMFと同じ動きにならないよう,もっと思いきって外側を走ったほうがいいとか,右サイドのある選手がけっこうフリーになっているのになかなかボールがいかないので,みんなで意識してボールを出そうとかですね。まあ,いつもしゃべる人ではないぼくが言ってることなので,ぜんぜん聞いちゃいないだろうと半分思いつつも,なんかけっこう本気で言ってたんですね,そのときは。

  そして後半。ちょっと連絡があってベンチを離れ,もどってきたぼくの目に飛び込んできた光景は,左サイドの選手が猛然とライン際を駆け上がり,そこにちょうど中央からのパスが通って,そのままコーナーポストぎりぎりまで運んでみごとにセンタリングをあげるという光景なのでした。さっき指示したとおりじゃないか! 思わずふるえてしまいましたね。残念ながら得点にはなりませんでしたけれど,ぼくが思い描いていたイメージそのままの攻撃だったわけですから。

  監督がひとこと指示すると選手の動きが変わるというのは,何回か見てわかっていましたが,いざ自分で指示してそのとおりになっていくのをみると,やっぱしちょっぴりうれしい…。こういう経験を3,4回したら,きっと監督やめられなくなるんだろうなあと,思いましたね。

■98.10.23. 罠にかかる

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  集中講義のときにとってきていた調査データをまとめようと,先日,自宅のマシンの中に入れてある自作の調査データ入力・分析ソフトを久々に起動してみました。最近すっかりWindows環境に慣れてしまい,DOS版のこのソフトを使う機会はめったになくなっていたのですが。

  お,おかしい。データ入力画面が出てこないではありませんか。何度やってもメインメニューにもどってきてしまうのです。なんだ,なんだ? プログラムのミスかと思ってソースを確認しようとしたのですが,ソースは大学にしかありません。うむむむ。なんか環境設定でもちがっているのかと,再起動までかけてみたのですが,ぜんぜん改善の気配なし。

  で,思い出したのです。昔,このソフトを講座の共用のマシンに入れておいたとき,無断コピーがあとをたたず,ぜんぜん別の講座の院生が持っていたりして不愉快だったので,ぼくは入力部分にトラップをかけておいたのですね,期限がきたら使えなくなるように。で,きっとうっかりうちのマシンにも,その期間限定版をインストールしていたのにちがいありません。

  なんのことはない,自分でかけた罠にみごとに自分でひっかかってしまったわけですね。妻にも「そういうセコいこと考えるからよ。」と笑われてしまいました。 …なさけない。

■98.09.18. 評価する

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 夏休み最後の日。中学生の子どもが,書き終えた夏休みの「生活表」を持ってきて,親からの一言の欄を書いてくれと言います。最初はなにげなく見ていたのですが,だんだん憂鬱になってきました。そこには子どもの夏休みの様子をAからEまで(だったかな?)で評定しろと書いてあるのです。あきれましたね。

  私は,自分の子どもに点数をつけて評価したいとは思いません。よくテレビなんかで,「お父さんに点数をつけるとしたら何点?」なんていうインタビューがありますが,ああいうのも嫌いです。そのことはもう少しあとで書くとして。

  こういう段階評定は,最近さかんに行われているようです。授業の終わりとか活動の終わりに,生徒に自分の活動を振り返らせるというような場合に,この評価がよく使われているのです。言うまでもなくこれは,最近流行の「自己評価」の流れで出てきたもので,自己評価そのものはだいじなことだと私も思いますが,それを5段階とか3段階で評価させるのがいいかどうかは,大いに疑問です。

  だって日常生活の中で,自分で自分を評価する時,「ああ今日は70点のできだった」とか,「今日は5段階中2段階だった」とかって,そんなややこしい反省のしかた,ふつうしないでしょう? 今日はこういうところがとてもがんばれたとか,今日はここのところがどうしてもうまくいかなかったというふうに,反省というのは本来もっと具体的で個別的なものです。そうしたたいせつな一人ひとりの経験の起伏を,ローラーで無差別にならすようにみんな同じABCという段階点に押し込んで,Aだから勝った,Dだからダメだと一喜一憂するのは,受験体制と偏差値にすっかり毒されてしまった人たちぐらいなもんでしょう。

  こう書くと,じゃあお前はどうなのだと言われそうです。心理学者なんか,それこそ年がら年中5段階評定で自己評価させているじゃないかって。それはたしかにそうなんです。しかしそれは,端的に言えば研究者の事情なんです。今のところ心理学は統計的手法によりかかっている部分が大きいので,データの「規格化」という作業が必要になってきます。各人各様のいろいろな事情を捨象し,各自の経験を一定の段階点に規格化することで,Aさんの経験もB君の経験も,(ほんとはそれぞれ全然ちがう経験なのだけれど)同じ土俵の上で合計したり比べたりできるようになるわけです。

  つまり,こういう段階評定は研究者がシアワセになるための手法なのであって,必ずしも子ども自身がシアワセになれる手法ではないんです(そういう説明をきちんとしてこなかったのは,心理学研究者の責任ですが)。

  私が「親として」段階評定を嫌う理由もそこにあって,段階点というのは結局その子がどこをどんなふうにがんばったか,どんなふうによかったかという個々の事情をまったく表現できないですよね。むしろとっても冷たく,ハイあなたはがんばりが足りませんでした,2点ね。みたいに評価しているようにしかみえないです。それは親の役割ではありません。

  親は研究者とちがって,子どもを客観的に他者と比較する必要はないのです。だから,せっかくの個性的な経験を規格化してしまう意義はどこにもありません。それより,ほんとうにがんばったところ,ほめてあげたいことを,1つだけ具体的に書いてあげたほうが,ずっとその子の自信につながっていくと思いますし,ここはもっとがんばってほしいというところも,点数にせず1つはっきりと書いてあげたほうが,改善目標が明確になっていいのではないでしょうか。

(そもそも,そんなの学校の先生に提出して検印をもらうべき性質のものじゃないと思いますけどね)

 ところで冒頭の生活表ですが,私は「子どもを点数で評価したくありません」と書いて出そうと思っていたのですが,いつのまにか妻が書いて出してくれました。

■98.09.04. 山 形

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  夏休みも最後になって,ちょっとだけ山形に帰ってきました。久しぶりに七日町の商店街を歩いたのですが,ずいぶんとしゃれた街並みになっていて,びっくりしました。

  一時は駅前通りの方にだいぶ客足を奪われていたようですが,みごとに生まれ変わった感じです。高校のころお世話になったそば屋や喫茶店が姿を消してしまったのはさびしいけれど,街並み全体としては,なかなかに雰囲気のある通りになったのではないかと思います。まあ,今回は家族連れだったので表通りを通っただけでしたが,裏通りの方にはまだ懐かしいお店が残っているのかも知れません。

  高校時代といえば,夏休みの短い山形ではもう新学期に入っていたのですが,通学の女子高生の制服もすっかり変わっていて,どこがどれだか,さっぱりわからなくなっていました。

  ところで,実家の近くで温泉が湧いたとかで,掘りあてた人がそこを露天風呂にしたんです。で,許可が下りる(?) までは無料で開放していると言うので,さっそく入りに行ってきました。ほんのちょっと,田んぼを抜けて狭い山道に入らないといけないのですが,近所の人たちが次々に仕事の汗を流しに入ってきます。遠雷をBGMに,木立の奥の闇を見やりながら,のんびりとお風呂につかってきました。

  すっかり日が落ちた山道のカーブごしに見ると,目の前いっぱいに広がる山形市の夜景。へえ,こんなにきれいだったか,とあらためて見直しました。子どものころから見慣れた景色なのに,山形市がそれだけ都市化したのか,それとも自分自身が感傷的になりやすい年齢になってしまったのか…。

■98.07.21. めんどう?

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  頻繁に流れていたときには,なんとも思わずに見ていたCM,今ごろになって気になりだしました。でももうほとんど放映していないので,正確に再現できません。吉川ひなのちゃんがやっている(いた)シャンプーのCMなんですが…。

  ひなのちゃんの独白で進行するCMなんですが,そのセリフが気になるのですね。「怒ったり,喜んだり,悲しんだり,めんどくさい毎日である。」なんてことを,彼女は言っています(う~ん,正確に再現できないのは悲しい!)。だけどシャンプーは毎日やるらしいのです。

  怒ったり,喜んだり,悲しんだりという感情の高まりを「めんどうくさい」ととらえる感覚。これはもしかして,今の時代,今の子どもたちを覆っている一般的な感覚なのでしょうかねえ。そういえば以前,新体操の練習をする子を横目で見ながら,女の子たちが体育館の床に座り込んで「スポーツってだるいよねえ。」,「青春の無駄づかいだねえ。」などと囁き合うCMがありました。同じような感覚でしょう。

  しかしこれって,教師にとってはけっこう大きな問題なのではないでしょうか。なぜって,教師はこれまで「ゆさぶり」とかって,子どもの感情を揺り動かすことによって,学習課題に対して子どもたちを方向づけようとしてきたわけです。つまらない知識の伝授ではなく,なるべく学習課題を「生き生きと」子どもたちの前に提示しようとし,それによって,びっくりさせたり,へええと感心させたり,次はどうなるかとワクワクさせたりというように,感情を揺り動かそうとしてきたのですよね。それはもちろん,動機づけの基本でもあります。

  しかし,こういう感情の起伏を子どもたちが「めんどくさい」と感じるとすれば,教師の働きかけは,余計なおせっかいでしかなくなってしまいます。教師が子どもたちの感性に訴えようとすればするほど,かえって子どもは引いてしまうわけです。だから,極端に言えば,こうした感覚は,これまでの教師の働きかけの有効性を根底からひっくり返してしまうかもしれないのです。これは,かなりやっかいな問題なのではないでしょうか。  …杞憂であればいいのですけどね。

■98.07.17. 日焼け

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  予想通り,「ひとりごと」はまったく“続き”ませんでした。 …しかし,気をとりなおして。

  日焼けが,誰の目にも明らかなくらいになってきました。会う人ごとに言われます。しかし,誰もスポーツで焼けたとは思ってくれないのが,おもしろいところです。そりゃそうだよね。自分だって,こんなことになるとは夢にも思っていなかったもの。

  このところ試合が続いていて,そのたびに私はベンチにじっと座っているので,まるで一夜干しのするめか土用干しの梅干しみたいに焼かれてしまうのです。このあいだなどは,うっかり審判服のまま座っていたら足まで焼けてしまいました。梅雨の晴れ間の陽射しはこわい。

  でも,ベンチに座っているといろいろ見えてきます。当たりが激しいといえば聞こえはいいけど,ラフなプレーを平気で仕掛けてくるチーム。漫画でよく,そういう敵役みたいなチームが出てくるのだけど,そこまでひどくはないけどほんとにいるんだなあと,思わず納得しました。あれはきっと指導者が何も言わないのでしょうね。小学生にそんな指導をしていいのか? …と私は言いたい。(けど,もちろん黙って座ってます)

  保護者の応援がものすごいチームもありました。ほんと日本代表の応援みたいに,1プレイごとに大声援。励ますだけならいいけど怒ったりけなしたりする声がまた大きく,しかも言葉が汚い。自分の子どもだぞ。子どもを利用して自分の欲求を充足しようとしているだけなんじゃないのか? …と私は言いたい。(けど,当然のことながら黙って座ってます)

  数えてみたらまだ3ヵ月。あと1年の3/4この生活が続きます。


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