ひとりごと


保存箱 99.01-06

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● CONTENTS ●

■99.06.24. 16分割の目盛

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  訳本の続きの話。

Measure

  6章の冒頭に,金物屋にパイプを買いに行った話があります。Deciは,そのパイプの直径を測ってもらおうと店員を呼ぶのですが,店員はそのメジャーの目盛が読めなくて,逆にDeciに聞き返してくる,という展開なのですが,これがよくわからない。

  店員は「1/2のすぐ下の目盛はなんですか?」とDeciに聞いているし,その正しい目盛というのは7/16インチなんです。ええっ,目盛が分数!? いったいどんな目盛なんだあ!?

  最初は,何か金物屋独特のものさしでもあるのかと思ったのですが,その後の話の展開からして,どうもそうではないようです。この件,しばらく頭の中でひっかかっていたのですが,そうはいっても原稿の締切があるので,ちゃんと理解しないまま訳すだけ訳しておいたのでした。

  で,昨年暮に初校が届き,しばらくぶりにその訳を見たら,やっぱりまた気になるのですね。ちょうどそのころ,英語の赤松先生といっしょに仕事をしていたので,あるときそのことをお聞きしてみました。そしたら,即座に取り出してみせていただいたのが,これ(写真)。Made in KOREA の短い定規です。下側がふつうのミリ・センチ表示,上側がインチ(?)表示なんですね,たぶん。

  よおく見てください。数字のついた目盛の間は大きく8分割されていて,ちょうどまん中の4つ目の目盛がちょっと長くなっています。これはちょうど5ミリの目盛がちょっと長いのと同じですよね。そしてさらにそれぞれの目盛が2分割されています。つまり,16分割なんです。

  なあるほど。これなら,店員が悩んでしまったのもわかります。1/2の下は7/16。ぼくたちが,8ミリの下は7ミリと判断するのとは,ぜんぜんちがいます。でもそれじゃあ,7/16の下は3/8っていうのでしょうか。で,その下の下は1/4? これじゃあ,分数のことちゃんとわかっていないと答えられないですよねえ。さらに,写真の左端にちょっぴり写っていますが,0~1インチの間は,目盛がさらに2分割されていて,なんと32分割になっているんですよ。

  思わずアメリカの金物屋さんの快活な店員さんに同情してしまう,ワタシではありました。ちなみにこの定規,赤松先生から「記念に」と,いただいてしまいました。赤松先生,ありがとう。

■99.06.14. やっと出た

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  2年前,うんうんうなりながら翻訳していたDeciの本,このほどようやく出版にこぎつけました。

  E.L.デシ・R.フラスト 桜井茂男(監訳) 『人を伸ばす力 ─内発と自律のすすめ─』 新曜社  \2,400+税

装丁のきれいな,素敵な本に仕上がっています。もとはペーパーバックの,表紙にはいかにもメカニカルなイラストのついた本でしたから,ずいぶんイメージがちがいます。

  さて中身ですが,従来からDeciが主張してきている,内発的動機づけにかかわる3つの要因,すなわち有能感・自律性そして関係性の影響を,「自己」という視点から,わかりやすく解説した本です。いろいろな実際のエピソードと,関連する実験の成果とをふまえながら,ていねいに解説しています。Deciの本というと,これまではかなり固いものしか出版されていませんでしたが,この本はわかりやすいと思います。エピソードの中に出てくる人名が,きっとアメリカでは有名人なのでしょうが日本では必ずしもそうじゃないっていう場合があって,それがちょっと面食らいますが。

  それにしても翻訳はむずかしい。英語を読んでいるととてもよくわかるのに,いざ日本語にしようと思うと,どう表現したらいいかわからない。適切な言葉が,どうしても思い浮かばない。そんな部分がしょっちゅう出てきて,なかなか先に進まないのです。アタマではわかってるのにぃ! 喉のところまで出てきてるのにぃ! そんな気持ち悪さがずっと続きます。原稿を提出した後,なにげなく別の本を読んでいて,「あっ,この表現がピッタリだ!」と気づくこともしばしばです(そういうのは,校正段階でなるべく直してますが)。今まで,さんざん人の訳を,カタいだの日本語らしくないだのとぼやきながら翻訳書を読んできたわけですけど,これからはちょっと見方が変わります。まあ,自分としてはせいいっぱい“日本語らしく”訳したつもりでいますが,いかがでしょうか。

  なお,著者割引がききますので,読んでみたい方は,遠慮なく中山まで連絡ください。

■99.06.11. デジャヴ?

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  この春,ちょうど大学のWebサーバがダウンしていたころ,4月から始まる『学習心理学演習』の授業の準備がてら,Webの『学習心理学演習の部屋』に書いてあるリンク集も更新しないといけないと思って,あちこちのWebをのぞいていたのですが,その中でおもしろいページを見つけました。浦上昌則さん(南山大学)の『論文の書き方』。特に,Ver.1.2(PDFファイルなので,残念ながらアクロバット・リーダがないと読めません)。

  なにがおもしろいかというと,ぼくが授業やゼミのときに言ってきていることと,みごとに主張が一致しているからです。一部重なるというようなことはよくありますが,「自分が調べてきたことを一切合財盛り込んではいけない」という問題の書き方から,「はじめに仮説が確認されたかどうかを確認する」,「わかった事実と自分の推測を区別する」という考察の書き方まで,ほとんどの項目が一致してるんですよね。これまでぼくの授業やゼミで話を聞いたことがある人は,きっと同じように思うはずです(ちゃんと覚えていてくれれば,の話ですが)。

  これほどぼく自身が言っていることとオーバーラップしているのは,ちょっと珍しい。もちろん,ぼくは浦上さんがどんなことをゼミで教えているかちっとも知りませんでしたし,浦上さんだって,ぼくがWebに載せている内容以上には,ぼくがどんなことを院生に話しているか,知ってるはずがないのです。不思議だよねえ。自分と同じようなことを考えている人が他にもいるというのはうれしいですけど,これほど一致していると,なんか読んでて,デジャヴを見ているような錯覚に襲われます。

  ともあれ,さっそく『学習心理学演習の部屋』のリンクに加えました。ぜひ一読をお薦めします。サーバが壊れていたこともあって,すぐに紹介しようと思っていたのが,今ごろになってしまいましたが。

  ちなみに,浦上さんは進路選択での自己効力に関して,一連の研究を展開しておられます。以前うちのゼミの学部生が卒論のときに,文献を送っていただいたことがあるのですが,そのときもメールのやりとりだけで,ぜんぜん面識はないんです。

■99.04.14. しかるということ

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  先日,なにげなくテレビをつけたら,教育TVで京大霊長類研の松沢哲郎さん(チンパンジーのアイちゃんの実験で有名です)と,ATRの川人光男さん(脳の計算理論…というか動作を学習するロボットの実験で有名です)が対談をしていました。最後の部分しか見られなかったのですが,その中で,「しかる」ことが学習に対してどのような意味を持っているかがわからない,というような話になりました。

  脳の神経生理学的レベルで見ると,ほめることが神経伝達物質の分泌の活性化を介して,学習を促進しているというメカニズムはわかっているが,しかることの効果を示すような神経メカニズムは見つかっていない,と川人さんは述べ,それに対して松沢さんは,おもしろい視点を出していました。

  しかるということが,学習者に対してどのような意味を持っているかはわからないが,確実に言えるのは,それが「しかる側」に対してプラスの報酬をもたらしているということだ,というのです。しかれば,とりあえず子どもは言うことをききます。強くしかればしかるほど,サッと子どもは命令に従うようになります。…少なくとも表面的には。しかった人にとっては,そのことがプラスの報酬として働くわけです。しかも,しかった後すぐに効果が確認できるわけですから,これほど効果的な報酬はありません。

  しかられた人にとっての効果はわからないが,しかった人にとっては,明らかに報酬になっている。だから人は,いったん「しかる」という行動をとってしまうと,味をしめて,それから抜け出せなくなってしまう,というわけです。

  そういえば,どんなにしかられても,口汚くののしられても,「ハイ,ハイ」と聞いているしかない部員を前にして,ますますボルテージをあげて怒鳴る監督っていますよね。あれは,しかっている自分に陶酔しているわけだ。この松沢さんの発想はとてもわかりやすく,なあるほどと思わされました。

■99.03.19. なぁんでもないよ

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  小泉吉宏さんの『ブッタとシッタカブッタ』シリーズの第3作が出ました。『なぁんでもないよ』というのが,そのタイトル。

  以前も,これは心理学書だと紹介したのですが,今回の前半部分は,著者自身も書いているように,明確にゲシタルト理論を意識したものになっています。私たちの知覚はけっして客観的なものではなく,一定の見方のクセを持っているということですね。まあ,この問題から認識のバイアスの問題にストレートに話をつないでいくのは,ちょっと無理があるかなという気がしますが,それなりに説得力はあります。(このあたりの評価がキビシイのは,内容が心理学に非常に近いからですかね。でも,授業ネタに使えそうだな,なんてすぐ考えてしまいます。)

  後半は,今まで以上に哲学的で,むずかしいですね。なかなか考えさせられます。

  今回,シッタカブッタくんはそれほど悩んでなくて,どちらかといえばある程度「悟った」ブタとして,案内役を務めています。かわりに,カイカブッタくんが悪者役を一手に引き受けているのですが,悩めるシッタカブッタくんと比べたら,ちょっと共感しにくいかもしれません。

  なお,このシリーズはこの第3作で完結だそうです。出版社は今までと同じくメディアファクトリー。ただ,Webページのリニューアル作業中のせいなのか,まだ『なぁんでもないよ』の紹介は出ていません。

■99.03.01. 児童心理

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  しばらくぶりに,『児童心理』に書きました。ただ,今回の原稿はちょうど12月下旬締切ということで,みなさんご存じのように,この時期はものすごく忙しくて(赤ペン必携でね),とても落ち着いて書いているような状況じゃないのです。ちゃんとお断りすればよかったんですが,ちょっと見通し甘くて,締切を多少遅らせてもらって引き受けてしまったのがまちがいでした。

  けっきょく,与えられたテーマとはかなりズレた内容を,強引に結びつけて書いてしまいました。実質関係のある内容といえば,いちばん最初の,「内発的動機づけ」を重視していけば,「あきっぽい子」が増えるのは当然,という部分だけです。この流れで全部書いてもよかったのですが,それではあまりにまわりから浮きそうでしたので,やめました。このあたりの論旨のねじれが,全体のまとまりに大きな影を落としているように思います(なんて,自分の責任なのに他人事のように批評してますが…)。いやいや,ほんとにお恥ずかしい。こんなん書いてたら,きっとまたしばらくは,原稿依頼は来ないでしょうね。

■99.02.26. いっしょにやってみる

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  サッカーの試合がひととおり終わったので,このあいだの練習日は,息抜きに「親子フットサル大会」を開催しました。おもしろかったあ。あんまりお父さんたち集まってくれないかと心配してたのですが,全然そんなことはなくて,たくさん来ていただきました。子どもたちで3チーム作り,お父さんチームを含めた4チームで総当たりのリーグ戦をやったのですけど,まあ,まともに動けるのは最初の5分。試合を重ねるにしたがって足が動かなくなり,1プレイ終わるたびに息があがってしまいます。

  最後,少し時間が余ったので,子どもたちのベストメンバー対お父さんチーム(監督・コーチの助っ人つき)をやることになりました。すでにヘロヘロ状態のお父さんチームにベストメンバーをぶつけるという鬼のような監督命令に,どうなるかと思いましたが,これがけっこうおもしろかったんです。日頃,ひとりひとりのプレーを傍らから見てきて,各選手の特徴はだいたい知ってるつもりだったんですけど,実際に彼らと対戦してみると,その特徴がほんとによくわかるんですね。

  ドリブルのスピードが速くて,とてもディフェンスしきれない選手,スペースにボールが出てくると,素早く寄ってきてボールを奪っていく選手…。

  前半終了間際,右サイドから攻められて,コーナーキック。短くつないで,角度のないところからシュートを打たれました。ファーポストにいたぼくは,ヘロヘロで,クリアしようとして足が届かず,一瞬ひやりとしたのですが,コースがちょっとだけはずれていたので,「ラッキー!」と一安心。ところがところが次の瞬間,ぼくのすぐ後ろからひとりの子どもが走りこんできて,こぼれ球をそのままシュート! みごとなフォローでした。彼はフットサルのシーズンになってから再三このスタイルで得点を入れてきた子で,試合のときにはぼくも彼のプレーをほめてあげてもいたのですが,いざ敵として戦ってみると,ほんとに悔しいし,がっかりさせられることがわかります。いちおうCKの前には,彼の動きを警戒して位置を確認しておいたのですが,こっちがディフェンスに夢中になっている間に,スルスルと走り込んでいたわけですね。彼のすごさを,つくづく実感しました。

  子どもたちといっしょに活動することで,彼らの特徴がリアルにわかる。これは,ぼくにとっての大きな収穫でした。

■99.02.05. 共同体という幻想

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  えっと,思いきりローカルな話からはじまるのですけど…。

  先日の口述試験慰労会のときに高田先生が言われた「中山先生が言われたように…」というのは,正確ではありません。ぼくは,修士論文に書かれていた先行研究のレビューを読んで,それをまとめて解釈してみただけです。ぼくのオリジナルな見解ではありません。

  で,説明しときますと(あのときはほんのちょっとしかしゃべってないので,ここで書くのはほとんど補足と発展です),その話とは「学びの共同体」とか「学習共同体」とかいう概念のことです。学びの共同体というのは,各個人の「想像上のもの」だと,そこには述べられています(正確な表現はちがっているかもしれませんが)。この部分が非常に引っかかるわけです。それで,その部分からどんどん話をふくらませていくと,こういうことが考えられます。

  これまで共同体とか社会的文脈とかいうものは,学級とか,授業を行っている教室とか,学校とかいう実体のあるものとして考えられてきたわけですが,学びの共同体というのは,そういう実体として考えてはイケナイと,この提唱者は言っているのではないかと思うのです。それが,わざわざ「想像上」と断わっている意味なのではないでしょうか。つまり,個人によって範囲が異なるのです。ひとりひとりの学びにとって参考や基準となるべき資源,信頼すべき対象は,それぞれ異なっているのが当然です。ひとりひとりが「心の中で」信頼を寄せているネットワークこそが,学びの共同体なのだ。学級や学校という実体を超えたところに,学びの共同体というものは存在している。と,提唱者は考えているのではないでしょうか。

  たとえばA君にとっての共同体は,仲のよいB君,C君と2年上のD先輩と,それから魚屋のおばさん,釣り具やさんのおじさん,インターネットで交流している別の学校の生徒,そして個人的には面識がないが,釣りについての詳しい情報をネットに流しているFさん(のWebサイト)かもしれません。こんなふうに考えると,A君の学びを支えている共同体を,学級とか地域社会とかといった,実体としての共同体からとらえることは無意味です。そうしたくくり方を超えた広範で柔かなつながりが,「学びの共同体」概念なのではないでしょうか。

  ところが,どういうわけか院生の人たちは,問題をもう一度学級の問題に引き戻してしまっているように見えるのです。いわく,「学級が,学びの共同体にならなくてはいけないのだ,その機能を果たさなければならないのだ」と。でも,それはやはりおかしい。ひとりひとりが固有の問題意識を持ち,それぞれの追究方法を持つということを前提とすれば,学級全体が同じ課題を共有し,いっしょに追究していくなんてことは,ちょっと無理がありすぎます。課題によっては,そうした学びもあるでしょう。また,学級の中のインフォーマルな友人グループが,そうした役割を担うこともあるかもしれません。しかし,だからといって,学級が学びの共同体であるべきだというのは,飛躍だと思うのです。

  むしろ「学級=学びの共同体」論は,子どもたちの学びを学級という狭い場の中に縛りつけてしまう危険性を持っているのではないかと感じます。問題を学級の中で「共有する」という名目のもと,ひとりひとりの問題意識とは合わない問題意識を押しつけることになりかねないからです。まわりの人たちの行動を常に気にしながら生活している子どもたち,おんなじように行動しないと簡単に異端視されてしまう子どもたちを見るにつけ,こうした学級の持つネガティブな力をしっかり見据えることなしに,学級が学びの共同体になれるようにしたいなんて考えるのは,楽観的にすぎるように思います。

  いかがでしょうか。

■99.01.13. 雪かきにまつわる2つの格言

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(母)
    「今日サボると,明日は2倍の手間になる」


(娘)
    「今日サボっても,明日にはとける」


  人生観が出ていますね… (^-^)


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