ひとりごと


保存箱 99.07-12

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■99.12.17. 報道もワイドショーも…

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  (このところ,TVやラジオから仕入れたネタばかり!)

  はじめは「お受験殺人事件」と呼ばれ,のちに「公園デビュー殺人事件」などとも呼ばれた,あの誘拐殺人事件のすぐ後,TBSの深夜のニュース番組でこの事件がとりあげられていた。まだ事件が起きてまもなくで,みんなが原因探しに躍起になっていたころである。

  画面にとあるおじさんが出てきて,マイクを向けられるままにしゃべり出す。「このあたりはお受験が盛んで,みんなまわりがどこを受けるか/受かったかとても気にしているし,お受験に関連して母親のグループができていたり,合否が原因で仲が悪くなり,口もきかなくなるケースもたくさんある」とのコメント。「このあたりは,みんな多かれ少なかれ,そんな傾向があるんじゃないの」と,おじさんはまとめる。

  そこで画面はスタジオに切り替わり,今回の殺人事件には「お受験をめぐる母親どうしの心の摩擦があったと推測されている」とキャスターが原稿を読む。

  ついに報道もここまで落ちたか!と,正直がっかりした。おじさんのコメントをもう一度思い出していただきたい。おじさんのコメントは,その周囲の一般的な傾向について述べたものに過ぎない。しかも,どうも話は伝聞でしかないようにもみえる。おじさん自身がそういう状況を体験したうえで言っているのか,はっきりしないのである。どちらにしても,容疑者である母親自身について直接述べた言葉は,たったの一言もなかった。これは証言でもなんでもない。ただの噂話である。こんないいかげんな証言にもとづいて,「お受験殺人事件」を推測することができると,ほんとに考えているのだろうか,TBSは?

  こういう噂話を集めて「新事実発見!」などと打ち上げるのは,昔からワイドショーではよくやられてきた手法だ。しかし,報道はそうじゃないと思っていた。ちゃんと直接の裏づけになる事実を集め,それにもとづいて報道するものだと思っていた。まさか,ワイドショーと同じようなやり方が,報道でもまかり通っているとは!

  その後報道もワイドショーも一気に過熱し,ついにお受験先の幼稚園にまでコメントを求める(というか,責任追及したいんでしょうね)始末。危ういなあと思っていたら案の定,相手のお受験の合否については知らなかったとの容疑者のコメントが出た瞬間,風向きが急に変わる。いったいあなたたちがでっちあげた「お受験殺人事件」はどうなったのだ?

  松本サリン事件で誤った犯人をでっちあげた報道の姿勢は,何も変わっていないのかもしれない。

■99.11.24. 教えすぎないこと

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  NHKの連続ドラマなんて,上の世代向けでちっともおもしろくない,と昔は思っていたのだが,だんだん自分もオヤジになってくるとともに,連続ドラマも抵抗なくなってきた。今年は珍しく朝の連ドラをみている。京都の和菓子屋をとりあげたヤツである。その先日の放送で。

  工場長である父が,新米の見習いである娘に,「粉を○匁,量ってもってこい」と指示を出し,見本(?)に皿一盛りの粉をわたす。それ以上のことは言わない。見習いははたと立ち止まる。なにせ和菓子工場である。ひとこと粉と言われたって,倉庫には何種類もの粉が並んでいる。

  そこで見習いは,袋の粉をひとつずつなめてみる。そして,持っていった皿の粉となめ比べてみる。それで,どれが同じ粉かをつきとめるのである。

  なるほど,と思った。たとえば「上新粉持ってこい」というふうに指示を出したら,袋の文字を見ただけで粉を持ってきてしまう。しかし,「粉」とだけ指示されれば,自分で粉を見分けなければならない。粒子の細かさや形を見,なめてみて,それぞれの粉の特徴を頭に入れていく。つまり知らず知らずのうちに,それぞれの粉の特徴を自ら学習しているわけだ。

  ついでに言えば,「上新粉持ってこい」の場合は,工場長に言われたとおり与えられた課題を遂行するだけだが,「粉」の場合は,与えられた課題に対して自分なりに解決方法を工夫する,という余地が生まれる。正しい粉を見分けて持っていけたら,それなりに達成感もあるだろう。課題に対するかかわり方が大きく異なってくるのだ。

  これはもしかしたら,かなり深いところをついているのかもしれない。

■99.10.13. 差がつかない?

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  運動会の季節である。とはいっても,うちのまわりの学校は春に運動会を終えてしまうので,いまいち実感がないのだが,全国的にはやはり,「運動会の秋」だ。さて,先日FMを聞いていたら,運動会の話題になり,その中で「最近は,徒競走のときに走力別に組分けをしているところが多い」という投書が紹介された。そしてその理由は,「速い人と遅い人との間にあまり差がつかないようにとの配慮から」だという。それに対する反響は,「実社会では競争していかなければならないのに,差がつかないなんて過保護じゃないか」というような否定的なものがほとんどだったと思う。

  でも,ほんとにそうなのだろうか。教育現場ではこんなふうに考えられているのだろうか。あるいは保護者に対してこんなふうに説明されているのだろうか。

  もし,私たち動機づけの研究者たちが,走力別グルーピングのメリットを説明せよといわれたら,私たちはたぶんこう答えるだろう。今まで足の速い子たちのかげに隠れて,どんなにがんばってもビリかその前にしかなれなかった子どもたちにも,努力すれば1位になるチャンスを提供するためだと。

  他の能力でもそうだが,足の速さもかなり個人差が大きいので,足の遅い子が多少練習したくらいでは,足の速い子たちにはかなわない。順位を1つ上げるだけでもけっこう苦労するはずだ。そういう状況では,努力を持続するのはむずかしい。努力したらやはりその結果として,速くなった,順位があがったということを実感したいはずである。そこで,走力別のグルーピングが登場する。

  走力が似た者どうしであれば,努力と練習しだいで順位を上げやすい。今までビリの敗北感しか味わってこなかった子にも,がんばりしだいで入賞のチャンスが出てくる。目標がその子にとってより現実的なものになるので,練習のしがいもあるはずだ。これなら,努力しようという気持ちも起こってくる。

  一方,足の速い子たちのほうはといえば,今度は気が抜けなくなる。足の速い者どうしが走るわけだから,ちょっとでも気を緩めたら,すぐに抜かれてしまうからだ。常に真剣勝負になるだろう。また,組分けがちょっとズレるだけで,トップになる可能性も,ビリになる可能性も出てくる。今までのように,多少調子が悪くても3位以内は確保されている,なんてことはなくなるわけだ。つまり走力別のグルーピングは,いわれているような「過保護政策」ではなく,かえってシビアな競争を生む可能性があるのだ。しかし,特に足の遅い子にとっては,たしかに“チャンス”であり,努力のしがいもあるだろうと予測できる。

  この説明は,いわゆる能力別学習グループのメリットを説明するときに,よく使われる説明だ。もちろんこの場合は,努力して成績の順位をあげるメリットというのではなく,それぞれの学力レベルに合わせた指導ができ,今までは授業の中でただ座っているだけだった子どもたちも,ちゃんと勉強すれば問題も解けるし,先生の説明もわかるようになる,ということを実感できるのが最大のメリットである。

  私は走力別のグルーピングに全面的に賛成しているわけではない。いろいろ問題もあると思う。特に,足の遅い子たちのグループが,「あのグループはビリグループだ」とラベルを貼られ,「さらしもの」のようになる危険性については,議論と配慮が必要だと思う。そもそも運動会は必要かとか,全員が強制的に走らなければいけないか,という問題についても,考える余地はあるだろう。

  ただ,ここで指摘したいのは,走力別グループのもともとの意図が,ほんとに「差がつかないように」ということなのかどうか,ということである。もし,意図が誤解されたままで,いわれのない批判を受けているとすれば,もったいない話だと思うのだ。走力別グルーピングがいいか悪いかは,その先の議論だろう。

  それにしても,なぜ走力別なのか。ほんとのところはどうなのだろう?

■99.10.06. One for All

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  はじめにおことわりしておかなければならない。私はこのもとの事件のことをよく知らない。野球というスポーツ自体,ほとんど興味がない。ちゃんと内容を知らないでものを言うのは,研究者としては失格なのであるが,ちょっと文献研究しているだけの時間がない。そのことを承知のうえで…。

  例の上原クンの事件である。チームメートに本塁打王を獲得させるために,それまで完璧に抑えていたライバル打者を敬遠するように命じられ,悔し涙を流したというあの日のことである。…とかいいながら,私自身はこの事件を知らなかったし,メディアで報道された後も,まったく興味を持っていなかった。

  たまたま先日のこと。チャンネルをかえている途中で目に飛び込んできたあるスポーツ報道番組で,キャスターがこの事件についてコメントしていたのだ。そのコメントがなかなかすごかった。私は正直,唖然としましたねえ。ちょうどその番組にチャンネルを合わせた瞬間にコメントが始まったせいもあって,じつにインパクトが強かった。

 キャスターいわく,

「野球はみんなでやるスポーツですからねえ。上原君だって,自分の力だけで20勝できたわけじゃないんですよねえ。」

なのだそうだ。隣に座っていた解説者も同意していたから,そのコメントはおそらく正論なのだろう,少なくとも野球の世界では。

  しかし,ほんとにそれでいいのか?

  ある投手に20勝をあげさせるために,みんなでがんばって打ちまくって点をとろう。これはちっともおかしくない。別の投手に完全試合をプレゼントするために,みんなエラーをしないように気をつけよう。これも少しも変ではない。そういう意味で「野球はみんなでやるスポーツ」というのなら,私はぜんぜん問題にしない。なぜなら,それは「この試合に勝つ」「ペナントレースで優勝する」という全員共通の目的に沿った行為だからである。いわばゲームそれ自体の持つ論理にかなっているのである。だからその場合,エラーをするなといわれて悔し涙を流すような人はいまい。

  それでは,相手チームの強打者を警戒して,この回は敬遠しろと指示された場合はどうだろう。もしここでその強打者が打てば,試合の流れが大きく相手に傾くという場合。あるいはこの打者さえ封じておけば相手の攻撃リズムがガタガタに崩れるというような場合。敬遠もまた重要な戦略の一つであるとすれば,これも問題ではない。投手としてのプライドは傷つくかもしれないが,それも作戦の一つとして納得することはできる。これもまた,ゲームの論理に沿った行為である。

  しかし今回の場合は,それと同じか? 今回の場合は,個人タイトルという,チームの特定の人が利益を得る場面であって,それはゲームの展開とは直接関係がない。つまり,ゲームの勝敗という全員共通の目的とはまったく別次元の話なのである。指示に不満を持つ人がいても当然だろう。相手に何か個人的な恩義があるというのならともかく(それだって私は支持しないけれど),チーム全体の共通の目的でもないものに,なんで協力しないといけないのか。ゲームに勝つという当然の目標と,それに向けた集中に水をさすような行為を,なぜ受け入れなければならないのか,私にはさっぱりわからない。

  だいたい,私のようなシロウトからみれば,こういった目的の敬遠はいかにもセコい。それだけでなく,相手が利益を得る機会を「不正に」少なくしようとしているとしか見えない。わざわざ相手に点を取られるという危険を冒してまで,個人タイトルを優先するとすれば,それは公正な勝負に背くという意味で八百長と同じなのではないだろうか。まあこの種の敬遠の是非は,シロウトの私が口を出すことではないので,ただの感想だが,しかし,少なくともこの種の問題にまで「野球はみんなでやるスポーツだから」というのを持ち込まれるのは,かなわない。

  これってなんか,「会社のためなんだ。お前だって会社にさんざんお世話になったんだろ。」などと説得されて,上司の個人的な不正の隠蔽工作をさせられる社員を思い浮かべてしまう。彼は,ことの善悪をそんなにきちんとは考えようとせず,あるいは考える時間をじゅうぶんに与えられないままに,ただ「会社のため,みんなのため」という論理だけで行動する。そして警察につかまる。そこではじめて,自分の犯した罪の重さに気づくのである…みたいな。

  「会社のためだから,みんなで売り上げを伸ばそう」 これならわかる。しかし,それとこれとはちがうだろう。

  “One for all, all for one”の精神は,私にもよくわかる。しかしこの「みんなでやる…」の部分が,どうも際限なく拡大し,直接関係のない一人ひとりの活動や生活にまで干渉してしまいがちなのが,この国のスタイルなのではないだろうか。今また,共生などという言葉のもとに対人的な結びつきが強調されてきているが,こうした息苦しさを押しつけることがないよう,心から望む。

■99.09.28. 電話のマナー

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  上の子どもが受験生になったからか,それとも下の子どもが中学にあがったからか,とにかく今年は「家庭教師いりませんか」の電話がしょっちゅうある。あれはほんとうに迷惑である。平日の8時頃とか土曜の夕方とか,けっこうのんびりしている時間帯にかぎって,そういう電話はかかってくるのだ。これがまずいやらしい。そして次の決まり文句。「ワタクシ,そちらの地区を担当しております○○ですが…」 だれがどこの地区を担当しているかは向こうの社内的な問題であって,こちらにはまったく関係がない。なんでこんな名乗り方をしないといけないのか。

  それに,黙って聞いていると,関係あることないことペラペラしゃべり出す。完全にマイペースである。「用件はなんですか?」とか聞いても,知らんふりして話を続ける。しょうがないヤツだ。

  おまけにときどき,「今,何か塾とか家庭教材とかやってらっしゃいますか?」,「お子様の成績に満足していらっしゃいますか?」なんてしょうもない質問をしてくる。まったく,よけいなお世話である。

  なもんで,最近はもう相手の用件がわかった時点で,「必要ありません」といって一方的に切ってしまうことにしている。なかなか用件を切り出さない場合は,「用がないなら切りますよ」と言って,切る。とにかく相手の反応をたしかめずに切ってしまうのだ。

  これは最初,けっこう勇気がいった。むかし,よゐこたちは,電話のマナーなるものを教えられてきたもので,もちろんそこでは,「相手に失礼になるので,話は最後まで聞くように。」なんていうのは基本の基本であったわけだ。だから,切った後なんとなく良心の呵責を感じてしまうのである。しかし,「いらない」といって相手の反応を待っていると,相手はそれでも延々としゃべってくる。きりがない。で,むかしのよゐこはよゐこをきっぱり捨てることにしたのである。これで少しは,わずらわしさから開放される。

  ところで,冷静に観察(?)してみると,ときどき気になる電話もある。なんか非常にか細い声でおどおどした口調で「あのう~,ワタクシ…」とかはじめられると,こんな人に家庭教師を頼む人なんてほんとにいるのかしらと,へんに同情してしまったりもする。

  それから,別の意味で気になるのは,たまに「上越教育大学のなんとか会」というところから電話がくることである。よりによって自分とこの教官のうちにかけてくるかなあ,と思いつつ,でもあらかじめ電話先の家庭環境をこと細かく知ったうえでかけてこられたら,もっとコワイにちがいないと思うこのごろである。

■99.08.25. OHPの憂鬱

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  例年,教職科目の集中講義を,OHPを使ってやっています。教職なので内容は毎年あまり変わらないわけで,1回作ってしまえばあとは楽。多少内容を入れ替たり,わかりにくい説明を書き直したりするだけで,対応できます。黒板に書く必要もないので,めんどうもないし,下手な字も披露しなくてすむ。…こっちは書く手間がかからないので,どんどんシートを入れ替えて説明を進めるので,学生のほうはノートをとるのがたいへんなようですけどね。

  でもこのOHPシート,15時間分まとめて持っていこうとすると,これがけっしてバカにならない重さなのです。

  で,考えました。OHPシートはもともとワープロとドローソフトで作っているわけだから,このまんまプレゼンテーションソフトに読み込んでしまえばいいのじゃないだろうか。今まで写真やグラフをコピーして使っていたものも,全部スキャナで図形データにしてしまえば,一括してコンピュータで提示できるのではないか…。(ここでももう,MOは必須の記憶媒体になってきているわけです) どうせコンピュータは,ホテルで仕事をするために持っていくので,まるまるOHPシート分だけ荷物が軽くなるのじゃないだろうか…。

  でも,プレゼンテーションソフトって私,どうしても踏み切れないのです。いちばんの問題は,話の先の見通しが,プレゼンテーションソフトではつきにくいことです。講義をしていると,今OHPで提示しているシートのほかに,次のシートとか,次の次のシートも,けっこう気になります。次のシートに書いてあることにスムーズにつながるように話をつなげたり,時間がなかったらどのあたりまで話を飛ばすかを考えなければいけないからです。学生のほうには今のシートを見せておきながら,自分は次のシートを見たりしたいわけです。プレゼンテーションソフトではこういうわけにはいきませんよね。こちらの画面に映っている内容がそのまま学生の見ている画面にも出てくる。先を見ようと画面を切り替えると,学生のほうも変わってしまい,チラチラとせわしなくなります。提示順や時間を周到に準備して,原稿や進行表がしっかりできているようなプレゼンテーションならこれでもいいのでしょうが,授業ではそうはいきません。

  提示者側の画面では3枚くらい同時に提示できて,ある程度自由に進めたりもどったりできて,しかも提示先には1枚しか映らない。そんな仕組みだといいんですけどね。そんなソフトないでしょうか。最近のプレゼンテーションソフトはさわったことがないのですが,もしかしたらもうそんな機能が備わっているのでしょうか。

  まあ,ノートの画面に3枚分も表示したら,1枚分が小さくなりすぎて,こっちも画面とにらめっこになりそうですね。教師は教卓に座ってパソコンとにらめっこ。学生は学生で,モニターに注意を集中する。これってちょっとあんまりやりたくありません(一度だけ,やったことありますが)。いちおう教官は,教室の前に立って,学生と対面しながら話していきたいんですよね。…う~ん,ちょっとレトロなワタシでした。

■99.08.09. こわれた

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  暑いです。例年なら日中の最高気温30度以上の真夏日が何日続くかが話題になるのに,今年は最高気温35度以上(!)の日が11日も続くという,ハンパじゃない暑さ。そのせいかどうか,ノートパソコンにつないでいたMOが,急に異常な動作をするようになりました。書き込み動作をすると,しばらくの間アクセスし続けたかと思うと,「このメディアは書き込み保護されている」とのメッセージ。おかしいと思って,他のディスクも試してみると,やっぱり同じ。こりゃどうしたものかとディスクの中身をのぞいてみると,なんとファイルがなくなっているのです。場合によってはフォルダ全部消えています。場合によっては,ファイルのリストは出てくるものの,アクセスすると読めない状態。

  つまり件のMOは,自分が死んでしまっただけでなく,何枚かのディスクをしっかり巻き添えにして黄泉の国に旅立っていったわけです。私が知らないでいろいろディスクを代えて試しているのをいいことに,ヤツはくわえ込んだディスクを次々に壊していったのですね。なんで~!? 何の恨みがあるの~!? と悲鳴をあげている私の横で,件のMOはやがて魂を亡くした抜け殻よろしく,何の反応も返さなくなってしまいました。(くっそー,ほんとはどこかで嘲笑っているにちがいない)

  件のMOが腹いせに壊していったディスクの中には,例の自作&改変統計ソフト群をWindows版に移植すべく細々と作業していたディスクがありました。その中のSTARのフォルダが,丸ごとやられてしまったのです。まだ一要因のプログラムしか移植できていなかったのですが,いちばんコーディングに時間がかかるオプション指定画面の処理に関する部分が,完全に消えてしまったのは,さすがに痛いです!

  大学のマシンと自宅にあるノートで同じように作業するため,データを毎日持ち歩いているのですが,昔はフロッピー2枚あれば事足りていたのが,最近,扱うデータがだんだん大きくなっていき,フロッピーではつらくなってきていました。だから,MOはずいぶん重宝していたのですが,逆に媒体が大容量になると,バックアップをとるのがめんどうになります。件のMOは,似たような症状で沈黙してしまった前科があるので,注意しておかなければいけなかったのですが,うっかりしていました。

  また一から作りなおしです。

■99.08.02. 旧友

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  先日,クラスター分析について調べる必要が出てきて,検索をかけてみたのですが,その検索結果の中に,とても懐かしい文字を見つけてしまいました。HALBAU。DOS版のN88-BASICで組まれた統計解析プログラムです。いやあ,このソフトにはほんとにお世話になったのです。その瞬間,もうクラスター分析のことなんか頭からすっぽり抜け落ちてしまいまして,迷わずそのHALBAUの文字をクリックしたのです。そしてたどりついたのが,「HALBAU/HALWINの世界」。なんとHALBAUのプログラムを書いた人のWebページで,しかもあのHALBAUは,いつのまにかWindows対応になっていたのでした。これはほんとうに,懐かしい友だち,あるいはいっしょに研究してきた仲間と,何年ぶりかで再会したようなものでした。

  その昔,パソコンベースでまともに研究に利用できる多変量解析のソフトって,まったくなかったのですよね。だから私も,ほそぼそと,本に載っている統計プログラムを打ちこんだり,それだけではたいてい実際の研究では使えないので,心理学実験用に改良したりして,なんとか多変量解析のまねごとをしてきたのですが。

  あれは,いつのことだったでしょう。だれから教えてもらったのでしょう。もう全然覚えていないのですが,とにかく"HALBAU"という名の統計プログラムが手に入ったのです。これはじつに高機能でした。そして非常に安定していました。さらに好都合なことに,HALBAUには実行ファイルだけでなく,BASICのソースコードもちゃんと付いてきたのでした。つまり,高機能な分析エンジンはそのままに,入出力周りについては自分の使いやすいようにカスタマイズできるわけです。これは,うれしかった。特に,対話型でオプションを指定するやり方って,初心者には親切ですが慣れてくるとまだるっこしいので,これを別ファイルでオプションを一括指定する方式に変えました。出力も,プリンタ出力したときに見やすいように,書式を作りました…。こうしていつの間にか,HALBAUは私の研究生活の中で,手放せないツールのひとつになっていったのでした。

  やがて時は過ぎ,世間のマシンはWindows 3.1から95,98へと移っていく中で,ほとんどHALBAU(ともうひとつのたいせつなツールで,大幅に作り替えてしまったSTARも,同じくDOS版BASICでした)のためだけに旧式のDOSマシンを置き,使い続けてきたわけですが,ここへきてDOS版BASICが動くマシンが極端に少なくなってきました。BASICが動くマシンも,そのスピードが気になりはじめました。特に,因子分析の反復推定を待つとき。こりゃ,いよいよWindows版に移植しないといかんかなあと思っていた矢先だったのです,このページを見つけたのは。

  思えば,元のプログラムをだいぶ改変して使ってきたせいもあって,DOS版Ver.3までは購入していたのですが,その後のバージョンアップ情報はまったく気にしていなかったのです。ユーザ登録制でもなかったので,バージョンアップといっても,お知らせハガキが届くわけでもなく,だれかが購入したものをみて,バージョンがあがったのがわかるだけでしたので,なかなかわかりにくかったのです。その間にHALBAUは,ちゃんとバージョンアップを続け,しかもWindowsにも対応したのですね。うれしくなってしまいました。ソッコーで注文を出してしまいました。

  ただ,最新のWindows95対応版は,ちょっと値段が高いのです。75,000円(+税)。HALBAU Ver.2や3の頃はたしか,30,000円前後で買えたと思うのですが。75,000円となると,学校現場の先生が個人で購入して教育統計用に活用するというわけには,なかなかいきにくいでしょうね…。ちょっぴり残念。


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