例えば、大人と子どもとの交渉過程で、大人は行為がどう語られるかのモデルを提示し、子どもにも語るようしむける。その中で子どもは、出来事を「いつ話すべきか」、「どう語るべきか」の形を身につけ、社会で共有されている規範、価値、信念を取り入れる。その意味において、「現実世界を大人とのやりとりにおいて共同的に構成する」 (p. 39) のである。これはまた一つのパースペクティブの獲得とも言えよう。
ブルーナーは世界の意味を能動的に解釈する主体を維持するとともに、公共の文化を背景に考えることで意味の共有を可能にしようとするが、このあたりの扱いに、石橋氏はワーチとの違いをみているように思われる。両者とも「文化と主体達との間に、「つくりつくられる」関係を想定する点では共通している」 (p. 42) としながらも、ブルーナーの方は「文化によって彼ら [主体達] の主観的世界が間主観的に「つくられる」側面が強調される」 (p. 43) のに対し、ワーチの方は、文化的道具を使う行為のなかの「文化的道具につくられ−文化的道具をつくりかえる」という還元不能な緊張関係に重点を置く。ワーチが道具ではなく、道具に媒介された行為を分析単位にすることは、この特徴の現れであると氏は考えている (このあたりは、ラングとパロルの話にも関わるのかもしれない)。
アメリカの思想的潮流から論を起こした石橋氏は、最後に、日本に社会文化的アプローチを展開するのであれば、「実際我々が「つくりつくられている」共同体が、どのようなものかをリアルに認識する」 (p. 45) 必要性を指摘している。これは、我々数学教育学のコミュニティにも当然当てはまるであろう。また、この論文を読みながら、算数・数学の授業で、子どもたちと「つくりつくられる」関係にある文化的道具が具体的に何なのかを、もう一度考えてみたくなった。