Learning Mathematics Through Conversation:
Is It As Good As They Say?

by Anna Sfard, Pearla Nesher, Leen Streefland, Paul Cobb, John Mason
For the Learning of Mathematics, 18 (1), pp. 41-51, 1998


 これは1997年にカナダのカルガリーで行われた、History, Philosophy and Science Teaching の第三回国際会議での議論を元にした論文である。Sfard が座長を務め、また論文の編集も行っている。論文は Sfard が問題提起をし、次に四名のパネリストが意見を述べ、最後に Sfard が締めくくるという体裁になっている。以下では論文の構成に従い、各自の見解に沿って概略をまとめてみる。

A. 我々はどのような理由で、会話による数学の学習を信用するのか?イントロダクション
By A. Sfard

 Sfard はまず生徒の「数学について話す」能力を促進することの重要性が、数学教育のコミュニティでコンセンサスを得ていることから話を始める。その上で、この話すことの重要性がどのような理由で主張されているのかを、大きく三つの立場にからまとめ、それぞれの立場について疑問点を挙げている。

認知主義者の言い分
 この立場では、自分の考えをコミュニケートすることが、学習のプロセスや結果として生ずる知識に良い影響を与えるという理由から、話すことが提唱される。しかし、次のような疑問が考えられる。

つまり、Piaget や Vygotsky をはじめとして長い間の関心にも関わらず、思考と言語の関係は、理論的にしっかりした主張にまでなっていないのではないか、というのが Sfard の論点である。

相互作用主義の言い分
 この立場は、学習を「実践のコミュニティ」への手ほどきを受けることとし、数学者の規範や実践に対応するような「探求のコミュニティ」に教室をすることが目指される。これに対する Sfard の疑問は、ここで考えられている数学的実践とは何なのか、ということである。よく言われるようなグループ内やクラスの中でコミュニケートし、アイデアを確かめるということは、実際の数学者の活動で必ず行われているというわけではない。個人で活動する、あるいは多くの時間を費やす数学者も大勢いるはずである。またこれに関わり、コミュニケートするという労力を使う活動のために、個人の解決がかえってうまく行かない可能性も考えられるが、この点をどのように考えているのか?

新プラグマティストの言い分
 ローティの「哲学と自然の鏡」などを引用しながら、知識あるいは知ることを、会話と同一視する立場がこれにあたる。しかし数学教育で論じられる際に、「会話」ということを字義通りに取りすぎているのではないか。ここでの「会話」はむしろ論文や本への応答も含む、広い比喩的な意味で用いられている。したがって、これらの哲学を背景に、口頭でのやり取りの重要性を主張することはできない。また数学者にしても、自分達の実践や知識を、顔を突き合わせての口頭でのやり取りと同一視するとは思えない。そこでこの立場に対しては、「そうした口頭でのやり取りを通して、数学を学ぶことができるし、また学ぶべきだと信じているのか?」という問いが示されるのである。

B. 数学的に話すことと数学について話すこと
By P. Nesher

 まず「数学的に話すこと」と「数学について話すこと」の区別をする。そして認知主義の立場に関して述べているが、言語と思考の結びつきを、言語がアイデアをはっきり表すことへの主要なルートである、としている。授業では、自然言語で表現された現象が、シンボル的数学的言語により数学的に記述される、といったように異なるレベルの会話がなされている。しかし曖昧さをなくすためには式のような数学的言語の方が優れており、また数学の概念を理解するには数学的言語 (他の数学的概念に対する用語としての) が必要である。確かに生徒が数学について話すのに耳を傾けることは大事であるが、生徒が例えば平方根を理解しているかを見るのは、自然言語で平方根について話すのを聞くことによるよりも、平方根を様々な文脈で適用できるかどうかで、つまり数学的に話すことができるかで見るのである。Nesher は数学の活動について生徒と話すことや、自分の活動を説明することが学習を支援することの大切さを認めながらも、数学的に話すことが、場面をフォーマルな数学のモデルで記述する能力の獲得を意味する、ということを心に留めるべきだとしている。
 このことから新プラグマティストの立場の問題に移るが、そこで、知識が社会的に導かれる (derived) は何を意味するのか、という問いを示している。そして数学者の創造が社会的文脈を持っていることを認めながらも、学校で教えているのは標準的な観念や数学をする方法であること、したがって言語としての数学の普遍性やそこでは事象が文脈から話されて話されることを認めねばならないと述べる。そしてこのことこそが、コミュニケーションのツールとしての強さを与えていると Nesher は考えている。
 会話が助けになっている多くの場面を見ているとして、そこから相互作用主義の議論へと Nesher は移っていく。ここで三つの会話を分化している。

  1. 数学者の間の会話;数学のコミュニティで受容されるディスコースで、議論のルールが同意され、数学のフォーマルな言語に特有のものとなっている。
  2. 教師と生徒の会話;様々な目的があるが、構成主義の立場からすれば、生徒の思考について教師が知る主要な手段ということになる。
  3. 生徒の間の会話;数学者の会話と類似になるが、ただしゲームの規則が明らかになっていればの話である。数学でのしっかりした議論がどのようなものかを生徒が学ぶことを教師は支援することができる。
数学における妥当な議論について生徒が互いに議論するような会話は、数学の教授の核となるだろうとして、Nesher の節は終わっている。
 Nesher の議論のそれぞれ一理あるものには思えるが、Sfard の問いに適切に応じているかは疑問ではないか。認知主義については Nesher が最後に簡単に認めている「自分の活動を説明することが学習を支援する」ことがどの程度理論的に明確なのかが問題であったし、新プラグマティストの立場は知識が社会的に導かれることとは違うように思われる。また、相互作用主義についても、数学者の間でゲームの規則が明らかになっているのか、またそうしたゲームが数学者の主要な活動なのかが問題になっていたのではないだろうか。

C. 数学者の会話 vs. 生徒の数学的議論
L. Streefland

 Streefland は、焦点となる問いについての自分の立場を示すために、3つの事例を取り上げている。うち2つは数学の歴史からのものであり、あとの1つは教室の子どもの事例である。なおそれに先立ち、問題を解く生徒と研究をする数学者とは似た性質を持つというアダマールからの引用を述べ、これも基本的仮定についての問いだとしている
 最初のものは J. ベルヌーイが雑誌の中で示した問題に関わる。その問題は、垂直に立っている平面の中の2点 (特に床に対する同一垂線上にないとする) について、高いほうの点から低いほうの点に動点が重力により落ちるとき、できるだけ速く落ちるようにその軌道を求めるものである。1年余り後にベルヌーイは自分の解答を雑誌上に示すのだが、実は問題を示したその前後に、既にライプニッツの間で手紙のやり取りが行われ、ライプニッツはベルヌーに解答を示し、またベルヌーイもライプニッツに自分の解答を送っていた。後者は光が最短距離を進むこととフェルマーの原理を用いたもので、ライプニッツがそれを賞賛した手紙の引用で、第一の事例は終わっている。
 第二の事例は A. ワイルズのフェルマーの定理の解決についてのものである。ここでは最初数年間ワイルズが一人で考えを進め、その後に会議で発表したり、また N.Katz や R. Taylor との有意義なやり取りがなされた。彼は誰もそれまでできなかったことを成し遂げたたが、一旦会議などで発表された後は、他の数学者もそれに近づくことができるようになり、その中で逆に誤りや最終的な証明が見つけられたと Streefland はしている。
 これら2つの歴史の事例から、彼はまず次のようにまとめている。数学的な生産性とコミュニケーション、メタ認知的反省とは互いに共に歩んでおり、重要なトリオを成している。逆に言えば数学的コミュニケーションは、生産や反省と共にあるときにその意義が出てくる。何かを証明するということは、ある人の考えが真であることを確かにすることを意味するのではなく、様々な数学のアイデアや理論を結びつけ統合して、一貫性 (coherence) を増すことを意味する、と Streefland は強調している。
 第三の事例は塔の高さを測る方法を考える授業で、授業が進むに連れ話し合いの中から、塔の影を利用して高さを測るやり方がクローズアップされているものである。この授業の様子を紹介した後、Streefland は次のようなことが見て取れるとまとめている。

 以上を受けて、Streefland は自分の節のまとめをしている。教室の議論は多くの反省を引き起こしており、比較、批判、反論、完成、拒否等の機会を提供している。そこではメタ認知的シフトは普通に起こる。そう述べた上で、ディスコースが効果的であるために、参加者は、 とし、さらに、数学的コミュニケーションに対する参加者による生産的貢献の可能性が、まず第一に考えられるべきものだとしている。最後に、「数学は会話を通して学ぶことができるし、またそうすべきであるか?」という問いに対する自分の答えを示している。彼の答えは "Yes" であるが、ただし、そのコミュニケーションが、参加者全員の構成的な入力により滋養を与えられるとき、またそれがクラス全体のコミュニティの数学的進歩を促進するときに限り、"Yes" なのである。

D. 数学的会話と実践からの学習の理論化
By P. Cobb

 Cobb はまず、全ての教室では何らかの会話が生ずると考えられるので、Sfard の問いに対しては、もう少し別のことを問うことで応えるとする。例えば、良いとされる日本の授業は、発話の量では伝統的な米国の授業より少ない、という現実がある。したがって、生徒が会話に参加するかどうかが問題なのではなく、数学の学習にとって生産的な場面を構成する会話の性質が問題となる。
 Sfard の疑問視した3つの議論は、記述的な性格を持つ基礎理論を、規範的なものとして取り違え、単純に指導的示唆を導き出したところにあると、Cobb は指摘する。こうした例としては、教師が話をせず生徒自身に構成させるとする構成主義からの示唆、コンピュータやツールが生徒にいつでも使えるようにすべきとの分散的認知からの示唆、指導場面は現実的なものを含むべきとする状況的認知からの示唆などもある。また数学の哲学の利用においても同様の傾向があるとする。
 これに対し、Cobb は教室での実験を行い、そこで生ずる会話を見て、会話における生徒の参加の様子に注意し、その参加により生徒が実際は何を学んでいるのかを調べる、という形のアプローチを考えれば十分だとする。ともすると、適切なディスコースの形成自身が目的となりがちな現状を考えたとき、ここで生徒の学習に焦点を当てていることは、少し普通と違うかもしれないと述べている。指導のあり方の正当性に当たっては、教室のコミュニティにより確立された実践への生徒の参加の仕方がどのように変わったかに、つまり生徒の数学の学習に注意を向けなければならない、ということになる。
 次に Cobb は、10年の教授実験から導かれた、生産的な会話の特徴を2つ挙げている。事例は、いずれも最近の統計についての教授実験から取られている。
 第一のものは計算的ディスコースと概念的ディスコースという視点である。前者が解答の手続き的側面を説明する会話であるのに対し、後者はどうしてそのような手続きをしたかの理由、あるいはその手続きの背後にある課題の捉え方の説明までを含むものである。生徒が課題の捉え方の説明するのを教師が支援するような議論は、数学の学習にとって生産的である。そこでは、他の生徒の考えを理解する可能性が高まるからである。またこうした議論は表記やシンボルの理解にも関わる。教室のディスコースの発達は、シンボルや表記法の発達、あるいは何が受容される説明かについての社会−数学的規範の発達と密接に関わっている。
 第二のものは、ディスコースにおける反省的移行である。これは、以前の行為の中で述べられたり成されたりしたことが、会話のトピックになるものである。Cobb は Sfard の二重性における実体化を引き合いに出し、反省的移行では、以前の活動を生徒が反省し、客体化し、再組織化する機会が与えられるのであろうと、推測している。
 節を終えるにあたり、Cobb は授業を組織する仕方について、この10年で彼自身が行ってきた修正について述べている。以前は小グループで作業をし、次に全体での議論という組織をしていたが、最近では個人での作業を取り入れ、個人が必要と思うときに仲間と話をするよう組織するとのことである。また全体の話し合いも、それにより数学的に重要な問題が出てくると予想されるときに行われる。生徒の課題の捉え方をモニターし、特定の生徒を選択して指名したりもする。重要性を持った問題は、教師のガイドにより生ずるという考えが、背後にあるようである。
 10年前に彼らが行った授業は、多くの活動があるので、訓練されていない目には優れていると映ると Cobb は述べ、生徒の参加や彼らが何を学んでいるかという点から見れば、今の彼らの優れているとして、節を結んでいる。

E. 数学の学習の際に話すこと vs 数学的会話の術を学ぶこと
By J. Mason

 Mason は「口頭でのやり取りを通して数学を学ぶべきと信じるのか」という問いから始め、これには No と答える。しかし一方で、経験上何らかの形での会話 (自己との、想定される他者との、著者との等) を通して数学を学んでいるとも考えている。
 数学的な会話や数学についての会話が生産的であるために重要なのは、推測的な雰囲気であると Mason は述べる。そこでは、表現や確信のための方法を見出そうとする共有された努力があり、それは他者により理解されるともに、挑戦されたり、拡張されたり、変化させられたりする。しかし比較的エキスパートな存在なくしては、ほとんどの生徒は重要な数学のアイデアを再構成できないであろうという点も、彼は強調する。これは単に物理的に存在するというだけでなく、数学的思考過程や内容が意識されて存在する、ということである。社会的構成主義に基づいて、数学はディスコースだから、生徒自身の中にディスコースを発達させることを通して生徒は数学を学ぶ、と主張することは、行動主義に基づいて、条件付けられることで生徒は数学を学ぶ、と主張するのと同じくらいに見かけ倒しであるとも述べている。
 次に彼は相互作用の6つの様式を提示する。これは行為主体の肯定者 A (affirming)、接触される反応者 R (response)、この接触を促進する媒介者 M (mediator) の3要素からなるもので、チューター (すなわち比較的エキスパートな存在)、生徒、内容をどの要素に当てはめるかで、6通りの様式を導いている。その解釈は難しいとしながらも、それぞれに次のようなラベルをつけている;提示 (Expounding; A=チューター、R=内容、M=生徒)、説明 (Explaining; A=チューター、R=生徒、M=内容)、探求 (Exploring; A=生徒、R=内容、M=チューター)、確認 (Examining; A=生徒、R=チューター、M=内容)、表出 (Expressing; A=内容、R=チューター、M=生徒)、練習 (Exercising; A=内容、R=生徒、M=チューター)。このとき、A と R とはある意味での会話をしていることになる。
 彼にとってはこれらの様式は互いに支え合うものであり、個人や集団での作業がエキスパートの言うことを聞くための土壌を準備したり、エキスパートの言うことを聞くことが個人や集団の作業を準備したりすることになる。教育は活動を導く行為であり、その活動に人々は様々な仕方で参加してくる。したがって、会話や議論はそれ自身が価値あるものなのではなく、そうした場面で果たす役割や、個人や集団の関与により価値が決まるものである。推測的な雰囲気の場で、様々な様式の間を移行することになる。異なる様式を生徒に知らせることで、彼らの意識を養成し、彼らが経験から学ぶのを助けることになるとして、Mason は自分の節を終えている。

F. 会話を通して学ぶと信ずることは不十分:結語
By A. Sfard

 以上4名のパネラーの発表が必ずしも同じ見解ではないとしながらも、Sfard はそこに2つの共通する強調点を見出している。
 第一のものは、数学的会話が学習の様式として大きなポテンシャルを持つものであるが、それが結実するのはあるタイプの会話に限られる、という点である。ここで Sfard は、彼女自身が、我々の思考の全てが本質的に議論的 (discursive) であり、認知的活動が始まり、存在し、終結するのもディスコースにおいてである、という立場にあることを認めている。そして、問うべきは会話を通して教授すべきかどうかではなく、それを如何にするかであり、数学を学ぶことがあるタイプのディスコースに入る過程だとすれば、そこへの生徒の参加を高める方法をもっとよく考えるべきだとする。
 第二もの共通点は、教師あるいは相対的にエキスパートな存在の重要な役割である。学習の目的でデザインされた数学的会話が成功するかどうかは、ある程度そうした存在にかかっている。
 ここで彼女は、自分と C. Kieran による教授実験での失敗例について語っている。その失敗の原因は、一つには、会話の効果の責任を教師に求めることはたやすいが、教師を支援してその効果を達成できるようにすることは難しいという点にあり、またもう一つには、生徒のコミュニケーション技能の問題にあるとしている。会話が生産的であるためには、それが真の対話の性格を持つ必要があるとし、ガダマーの「真理と方法」からの一節を引用してこの稿は閉じられている。
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 これらの一連の議論を見たときに、パネラーの議論が必ずしも Sfard の最初に提示した問いにこたえるものになっていないような印象を受ける。それは一つには、彼女の提示した問いがかなり極端な立場を示すものなだけに、個人の研究者としてはそのうちの一つの立場に自分を置くことが難しかったからではないかと思われる。しかし、Sfard の問いに各パネラーが応える中で、極端な立場の中で欠けている視点が浮き彫りにされていることも事実である。しかも Cobb や Mason の議論で触れられているように、Sfard の示した極端な立場は必ずしも絵空事ではなく、数学教育学の最近の研究には見られがちな傾向であったとも考えられる。その意味でこの論文は、会話やディスコースを偏重し安易に扱う方向に流れがちであった最近の傾向に対する警鐘とも受け取れる。Sfard のねらいもあるいは初めからそこにあったのかもしれない。


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