ひとりごと


保存箱 2001.07-12

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■01.12.14. デマメールじゃないの?

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  BadTransがようやく下火になった昨今だが(とはいっても,まだ1日1,2通はコンスタントに来ているけれど…),また別の「緊急情報」が学内を駆け巡っている。「いわゆる“ワン切り”被害に関する情報」というヤツだ。メール,掲示,印刷文書といろんなメディアを通じて注意を呼びかけているのだが,これがどうも胡散くさい。以下,回ってきた印刷文書(元文書は某全国団体が各支部に注意を呼びかけた文書)の記述にもとづいて検討してみよう。

  さてこの文書。他の人からの情報の転載という形をとっているのだが,まずここからして怪しい。だって,転載された元文書の冒頭がこうである。

友人より下記のようなメールを頂きました。
会社にて聞いたところ,既に何人かの人がこの被害にあいかけていました。
被害にあってからでは遅いので,お知らせします。

 ね? 元の文書からしてすでに伝聞。つまり事実を確認し,責任の所在を明らかにしようとしてもできないようになっている。しかも,自分自身が被害にあったわけでもない。けっきょくだれもまだ事実を確認していないのだ。これは,いかにも怪しい。文書では,さらにワン切りの手口を書いた後,こう書かれている。

これだけで,携帯の通話料とは別に10万円程度の請求がくる。
取り立ては厳しいらしい

  「らしい」ですよ,こんなだいじな部分なのに,だれも事実を確認してないじゃないか。こんな飲み屋の噂レベルの情報が,堂々と全国に流れているのは,いったいどういうわけだ? そして,文書の最後はこう結ばれている。

実際に被害がでているそうです。 着信履歴で心当たりのない番号は開かないよう注意願います。
親族・知人等にも連絡してあげて下さい。

  この,緊急だからみんなに「連絡してあげてください」という,一見良心的で親切そうな決めゼリフ。これ,チェーンメールの常套句だよね。もともと被害自体がどれだけの真実性を持っているかさえあやふやなのに,判明している携帯番号のリストなるものがまことしやかに並べられ,そして「緊急でだいじなことだからみんなに回してくれ」という依頼。みごとに流言が広まりやすい要素がそろっている。メールであれば,チェーンメール化しやすい要素といってもいい。ほんとにこの情報,見れば見るほど胡散くさいのだが,学内では大まじめに流れている。いったいどこまでが真実なのだろう。

  ひところ,HAPPYなんたらという,メールを開いただけで感染してしまうというデマ・ウイルス情報が世間を駆け巡ったことがある。まずはインターネットのヘビーユーザ間で流れ,たしか半年くらいたった頃,もっと一般ユーザレベルで流れ,当時まだインターネット後進地域だった心理学や教育の仲間では,さらにもう一歩遅れて流れたという,なかなか人々のインターネットの利用度を如実に感じさせてくれるデマではあったが,その文面が今回のものとよく似ているのだ。メールを開いただけでウイルス・プログラムが実行されるというウイルスの悪質さを強調して不安をあおり(当時はそんなことあり得なかったので,ちゃんとしたユーザは冷静だったけど,今ならこれもあり得るようになりました),そのうえで,「被害にあってからでは遅いので,緊急に連絡する」と情報のあいまいさをカムフラージュしつつ正当性を主張し,やはり「すぐにみんなに知らせてほしい」と,人に広めることを推奨する。まったく同じ構造なのだ。

  さて,今回の事件。気になったら,調べてみるにかぎる。文書にも被害にあったら「消費者生活相談等に相談しろ」と書いてあったので,さっそく国民生活センターのWebをのぞいてみた。そしたらなんと,「「電話をかけただけで10万円請求された」という事案は確認されていません。」だそうだ。やっぱりね。判明している携帯番号の中には,国民生活センターの消費生活相談受付電話まで入っているものもあるそうなのは,笑えるけれど。

  たしかに,気をつけるにこしたことはない。被害にあってからでは遅いので,注意しておくほうがよいのはまちがいない。しかし,だからといって事実を確認しないままに情報をどんどん広めてしまうことは,デマやチェーンメールにつながりかねない。困ったものだ。

  ところで私は,“ワン切り”というコトバ,とても語感が悪くてキライです。買春(かいしゅん)という読み方も大キライです。



■01.12.04. またまたウイルス

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  急に話が決まって,筑波へ学部の集中(2日間)に行ってきた。筑波での授業ははじめて。キャンパスに行くのも前の教心学会以来だから,もう5,6年行っていないことになる。「心理は人気が高いので受講生が多い」と事前におどかされていたのだが,学生への周知期間が短かったからか,なんのことはない受講生は7人。けっこうなごやかにやれたかもしれないのだが,多人数を見越してOHPでの授業を準備していたので,そのまま実施。場にそぐわなかったかもしれない…と,あとで反省。

  この時期,日本海側から太平洋側に来ると身にしみるのが,暖かさと空気の乾燥具合。特に乾燥の効果はてきめんで,車が前橋を過ぎるあたりから,急にのどがいがらっぽくなる。ちょうど授業初日がピークで,のど飴もしょうが湯もほとんど効かず,しゃべるたびにのどが痛い。前週ひいていた風邪がようやく治ってきたというのに,またもとにもどった感じだ。

  ひーひー言いながら,なんとか授業を終えて帰ってくると,待っていたのはもうひとつ別のウイルス。そう,あの BadTrans.Bウイルスに感染したメールの受信を拒否したというサーバからのメッセージが何十通も届いている。こんなに一度に大量なのは,今までなかったことだ。

  それにしても,それらのメールの差出人はいろいろ。それも,ひとりとして知っている人がいない。どう考えても,アドレス帳を盗み見てメールを送っているとは思えない。不思議なのでウイルス情報のページを読むと,なんとこのウイルスは,マシンの中のキャッシュを見て,htmlファイルに含まれるアドレスを抽出し,メールを送りつけてくるとのこと。つまり,私のWebページや心理臨床講座のページを見た人が,感染してメールを送ってきているらしいのだ。これじゃあ,だれからメールが来てもおかしくない。ほんと,こっちのウイルスもコワイです。そして,ウイルス発見に終日がんばってくれているサーバに感謝。

  ところで筑波だが,私が在学中に重機で整地し植樹していた中庭の樹木が,今はすっかり学生の生活と調和していた。樹木の間を抜けていく自転車や,木の下の芝生で弁当を食べる学生を見ると,なんだかうらやましくなる。20年先を見通して木々を配置する造園の人たちも,やはりすごい人たちだと,つくづく思って帰ってきたのでした。


■01.11.27. 「…としている」?

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  今年も修論執筆に忙しい季節になってきた。修論の下書きを見ていて,ここ最近とても気になる文章に,「…としている」というのがある。

  たとえば,「中山(2001)は,論文提出期限までの日数と不安の高さには高い関連があるとしている」というような文の中で使われるのだが,この「としている」という表現はきわめて曖昧だ。実験の結果,たしかめられた事実なのか,それとも筆者が独自の解釈を加えたというのか,判然としないからだ。ちなみに,私の語感では「としている」というのは,筆者の個人的解釈を示す。「アメリカの同時多発テロについて,大統領は自由主義社会への重大な挑戦だとしている」といえば,事実としてあるのは「同時多発テロ」であり,それを大統領が個人的に「社会への挑戦」と解釈したことになる。つまり「としている」という文は,実験的にたしかめられているという意味での信頼度が低いことになる。

  もしその内容が,実験的にたしかめられた内容であれば,「としている」ではなく「実証している」「実験的に確認している」を用いるべきである。また個人的解釈を示すのであれば,「述べている」「示唆している」を使おう。いずれにしても,「としている」は使わないほうがいい。

  このことは,以前「ごくごくうちわ向けの論文用文章講座」にも書いたのだけれど,しかし依然としてしぶとく毎年現われる。困ったものだ。

  蛇足だけれど,最近はTVのニュースでも「としています」「とされています」がむやみに使われる場合がある。たぶん,だれかに聞いたことを,きちんと確認せずに流しているようなときの表現なのだろう。「狂牛病は牛肉からは感染しないとされています」などと言われると,「おいおい,だれがその報道の責任をとるんだよ」とツッコミを入れたくなる。きっと,断定するとあとで困る(かもしれない)ような内容は,だれが言ったかわからない表現でごまかしといたほうがいい,とされているのだろう。


■01.10.12. 芋煮会…やっと

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  9がつ27にち はれ。

  きょう,ゼミのみんなといっしょに「いもに会」をやりました。まえの日,小島さんがきゅうに「あした,行きましょう」と言いだしたので,最初はびっくりしたけれど,ワクワクしながらまっていました。なぜかというと,きょねんも行こうと言っていたのですが,かいぎが入ったり天気がわるかったりして行けなかったからです。

  クルマにのって,「なんば山」というところに行きました。じょうえつ市やあらい市がよく見えました。ついてすぐに,「いもに」を作りはじめました。みんな,うちで下ごしらえをしてきてくれたので,思ったよりかんたんにできました。かまどの火も,佐藤さんがじょうずにおこしてくれました。みんながあまりじょうずにじゅんびするので,ボクはかんしんしてしまいました。

  味つけをしていたら,さとうをわすれてきたことに気がつきました。そしたら,菊地さんが「かんりとう」に行って,もらってきてくれました。それで,なんとか「いもに」ができあがりました。ボクは味つけのせきにんしゃなので,できた「いもに」をみんなによそってあげました。

  青空の下で,みんなでワイワイ言いながら食べる「いもに」は,とてもおいしかったです。昼間っからおさけものんでしまいました(運転手を除く)。さとうをもらった「かんりとう」の人たちにも分けてあげました。こういうのを「ぶつぶつこうかん」と言うそうです。

芋煮会  みんな,おかわりをしてたくさん食べました。おなかがいっぱいになったので,あとかたづけをして帰ってきました。とても楽しかったです。また来年も行きたいと思います。(私だけか?)

  というわけで,さらに興味のある人は,特設ページへどうぞ。


■01.10.02. 悪意の人々

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  世間のNimdaウイルス(正確にはワーム)騒ぎもどうやら一段落したようで,うちの大学もいちおう平常にもどった。幸い私のマシンにも,私の名義で接続申請している院生のマシンにも被害はなかった。いちばんびっくりしたのが,「Webページに勝手にJava Scriptを埋め込まれて他のマシンに汚染を広げる可能性がある」という情報で,そんな感染経路は初耳だったので,もちろんまったく無防備。心配したが,調べてみたら大丈夫だったので,ほっとした。

  偶然とはいえ,あまりにタイミングがいいのだが,学会で名古屋に行ったついでに,大きな本屋に立ち寄って,前から買いたかった本を手に入れた。

    『ウイルス,伝染るんです』 中村正三郎 廣済堂出版

インターネットのセキュリティの問題の深刻さとその対処法が,わかりやすくまとめてある。ウイルスだけでなく,個人情報の漏洩や詐欺,著作権の問題など,話題は多岐にわたっていて,つくづくインターネットはコワイ世界なのだと実感させられる。しかも,読んですぐ後にこのウイルス騒動…。

  この本でも触れられているけれど,ほんの少し前まで,インターネットは研究者や技術者の共有する情報資産だった。全世界のさまざまな人たちが,それぞれの持つ知識や技術や労力をお互いに出しあうことによって,より良いプロダクトを生み出そうという仕組みだった。つまりインターネットの世界は,自分の持っている資源を無償で公開し,お互いに交換し,そして高めあおうという「善意の人々」によって構成されていたのだった。…と,少なくとも私がインターネットの世界に足を踏み入れた頃は言われていたし,私もそう人に言い続けてきたものだ。

  しかしインターネットの一般への普及によって,今やこの世界は,隙あらば人々を欺き,陥れ,あるいは罠にはめて嘲笑おうとする「悪意の人々」が跋扈する恐ろしい世界と化している。いろいろ便利な機能を使おうとすればするほど,危険性も高まる。どこの世界でもあてはまることだろうが,そのことを頭に入れておく必要がある。

  ソフトを標準の設定でそのまま使ってはいけない,必ず設定を確認すること。まずはセキュリティをガチガチに固めた設定にし,そこから自分にとって必要なものだけを一つひとつ緩めていきなさい,という本書のお薦めは,とても説得力がある。一般の端末ユーザーだけでなく,サーバー管理者向けの話題もあるので,内容はかなり専門的だが,関係ないところは適当に読み飛ばしても大丈夫。わかりやすい文章なので,それほど身構えなくても,気軽に読めると思う。

  お薦めです。


■01.09.25. 苗名滝

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  苗名滝に行ってきた。95年の豪雨で川沿いの歩道がえぐりとられ,しばらく滝まで行けなくなっていたところである。最後に滝を見たのはたしか水害の前年の秋だから,もう7年もたっている。

  以前は,駐車場から,狭いけれど平坦な道を10分ほど入れば着けたところで,ほんとに赤ちゃんを連れてでも,気が向いたらひょいと見に行けるようなところだったし,実際そうやって年に何度も行っていた。それが水害以後,1年たっても2年たっても復旧しない。駐車場から見ると,すぐそこから伸びているはずの歩道がすっかり削れ落ち,川の中には大きな岩がいくつも転がっていて,素人目にも復旧が相当に難しそうなのがよくわかった。だから,ずっと気になっていた。

  その後,川の反対側の山道が整備され,滝までたどりつけるようになった。しかし,登り口には「滝まで1時間かかる」とか「険しい山道で軽装では行けない」とか,はては「熊が出没するので注意」などという看板が掲げられている。きっと昔の感覚で気軽に登っていく人たちがいたのだろう。私もそう思ったし。それで,ちょっと尻込みしていたのだが。

  先日,ついに意を決して(ってほどじゃないけど)出かけることにした。途中までは道路が舗装されていて車でも登れるのだが,日曜日だし混雑して駐車できなくても困るので,ほんの入口に車を止めて歩きはじめる。いきなりの急坂。しかも延々と続く。滝までの高度を一気に稼ぐように坂が続く。舗装道路から山道に入り(表示では,ここから40分),さらに少し登ると,ようやく平坦な道になる。しばらく歩くと滝の音が聞こえはじめる。樹々の間からのぞくと,自分はすでに滝の落ち口よりもずっと上にいるのがわかる。ということは,また坂を降りないといけないわけで,これが最後の難所。険しい崖道を降りると,懐かしい滝の姿が目の前に現れる。

  全体で40分弱だっただろうか。「1時間の登山道」という脅しほどではなかったにせよ,昔の滝への道を知る者にとっては,滝はすっかり「秘境」となっていた。しかし,滝は昔と変わらない姿でそににあった。そのことだけでじゅうぶん満足。滝つぼの正面にある大きな岩に腰をおろしながら,そう思って帰ってきた。


■01.09.18. 仲よくすることではなく

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  しつこいけれど,教育心理学会報告その3。

  教師の共同についてのシンポジウムで,もうひとつ印象に残ったのは,この研究グループの中心である杉江修治さんのコトバである。

  「共同学習は,そのプロセスではなく目標構造によって概念定義しなければならない」という,外国の研究者(Johnsonだったか?メモをとっていなかったので忘れてしまったが)のコトバを紹介して,杉江さんはこんなふうに言った。

共同学習というのは,お互いに仲よくなるということではない。昨今,「仲よくいっしょに…」という側面が重視されすぎるきらいがあるが,そうではなくて,もっと課題指向的な関係性を育てていく必要があるのではないか。

  「プロセスではなく目標構造によって定義する」というのは,たぶんこういうことだ。心理学では,個別・共同・競争という3つの達成プロセスの形態が区別されていて,それらは次のように目標のちがいによって定義されている。つまり個別的目標とは,メンバー一人ひとりの目標がそれぞれ異なっていて,あるメンバーの成功失敗が他のメンバーの成功失敗にまったく影響を及ぼさない場合。競争的目標とは,メンバー間の成功失敗がマイナスの関係を持っており,あるメンバーの成功が必然的に他のメンバーの失敗をもたらすような場合をさす。そして共同的目標とは,メンバー間の成功失敗がプラスに関係していて,あるメンバーの成功が他のメンバーにとっても成功となる場合である。

  この定義から見れば,「仲よくいっしょに学習する」というのは共同学習のほんの表面的な部分でしかない。より重要なのは,互いに目標を共有し,その達成のために互いの持っている資源(時間や労力やアイディア)を提供し合えるかどうか,ということになるだろう。仲よくいっしょに学習することが共同学習の目的なのではなくて,目標を共有し,目標達成を指向する結果として,仲よくいっしょに学習するという学習形態が生まれてくる,と言ってもいい。共同の定義を,杉江さんはわかりやすいコトバで「高めあい認めあう関係」と述べた。お互いに自分が高まりたいと思っていて,そして同時に相手の高まりたいという気持ちを認められるというのが,共同学習の基本だというのである。

  仲よしグループができたところで,互いにおしゃべりを交わしているだけの関係だったらしょうがない。逆に,互いにワガママな目標を持っていたとしても,その目標達成のために他者との協調が有効だということがきちんと理解されれば,共同学習は成立しうる。前に書いた,チーム・スポーツで自分の特徴を100%引き出すために他者を活かしていく,というのもこれに近いのではないだろうか。

  ところで,共同学習にももちろん弱点はある。たとえば,あるメンバーの成功が他のメンバーにも成功になる,と書いたが,逆の場合だってあるわけだ。つまり,あるメンバーが失敗すれば,他のメンバーも失敗になってしまう。学習場面ではないが,ひとりのエラーで試合に負けてしまったときや,ひとりの手続きミスでだいじな契約がダメになったときを考えてみればいい。こういうときにメンバーがどう対処するか,ミスをしたメンバーの攻撃をはじめるか,それともミスをカバーするように今まで以上にがんばるか。このあたりが,共同学習の成否を握るキーなのかもしれない。


■01.09.10. 学会と携帯電話

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  教育心理学会報告その2。

  ついに,学会のシンポジウム会場でも高らかに携帯が鳴り響く時代になってしまった。しかも,携帯を止めるのではなく,会場で話しはじめてしまう始末。さすがに声は落としているものの,これは,うるさいかどうかというような次元の問題ではないだろう。

  人が話している最中に,携帯に向かって別の人としゃべる。これ,話している人に失礼だと思わないか? ちょっと席が離れていたので注意はしなかったが,なんだかとたんに憂鬱になってしまった。

  携帯というツールは,わがままなツールである。人がどのような状況にあろうとおかまいなく,まるで他の何よりも自分がいちばん重要であると主張するように,けたたましい音でその存在を主張し,日常生活に割り込んでくる。まあ,受け手もおしゃべりしたいのだろうから,それはそれでいいのだが,問題は受け手の人を取り囲む周りの状況だ。たとえば人と話しているとき。たとえば,他にも大勢の人が楽しく食事している場所。たとえば,隣の席の人がゆっくり体を休めたいと思っている電車の中。受け手本人はよくても,周りにいる人たちは迷惑している,とは思わないのだろうか。

  学会とは無関係だが,最近もうひとつ気になっているのは,レストランでフラッシュをたきながら写真を撮りまくるグループ。あれもここ2,3年でずいぶん多くなってきた。自分たちは楽しいだろうが,関係ない人たちにとっては,しょっちゅうまぶしい思いをしながら食事しなければいけないわけで,じつに迷惑な話だ。こっちのほうは,お店の人が注意してもよさそうに思うのだが,いっこうにそんなお店にはお目にかからない。不思議だ。

  ちなみに私はといえば,あとで気まずくなるような発言はしてはいけないと,結婚以来家人からキツくいいわたされている。せっかく楽しくやっているところに文句をつけるのも,いかにも無粋だが,でもそのうちがまんできなくなりそうな気がする。


■01.09.10. 学校心理学

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  学校心理学を標榜するシンポジウムが,どうもあまりおもしろくない,というのが,今年の教心の学会に行っての感想だ。会場は,(たぶん)学校心理士の人たちが詰めかけて立ち見が出るほど大盛況なのだが,発表の内容がどうも散漫だ。あるいは,あまりアカデミックな分析がなされていない体験談の発表のような気がする。それはおそらく,発表者の力量というよりは学校心理学自体の抱える問題なのだろう。

  学校心理学というのは,アカデミックな研究の体系ではない。むしろ心理学の知見を実践的に応用していく「運動」のようなものといっていいだろう。だから,たとえば学校生活の特定の現象を「学校心理学の研究手法を使って解明する」というような特定の視点がとりにくい領域である。心理学のさまざまな領域が採り入れられているといってもいいが,口当たりのいい概念をちりばめて説明しているだけ,というふうにも見えてしまうのだ。少なくとも学会の中では,学校心理学は一定の位置を確立しつつある。だからこそ,もう学校心理学などという大きなくくりはやめて,もっともっと問題や分析の視点に関して焦点を絞ったテーマを設定し,きちんと研究的に分析できるようなシンポジウムを考えていく必要があるのではないだろうか。

  象徴的だったのは,あるシンポでフロアからこんな質問が出されたことだ。「援助/支援…と,各シンポジストの使う概念が一定していないのはどういうことか。またそれは,サポートなのかヘルプなのか,国際的にはどういう概念で表現されているのか。そもそも学校心理学がめざす「心理・教育的援助」とは何なのか,概念自体が統一されていないということは,学校心理学の理論的弱さを示しているのではないだろうか。」(かなり私自身の意訳が入っています。実際の質問はもっと柔らかいものでしたけれど,きっと思いはこういうことだろうと,私が勝手に推測しました。)


  その点,2日目になにげなく入った「教師の共同」に関するシンポは出色だった。ほんとうのところ,企画した人たちの名前を見て,特定の研究グループの研究発表なのじゃないかと,ちょっと怪しみながら参加したシンポだ。最初の人がそのグループで翻訳した本の紹介(宣伝?)をはじめたときは,あららやっぱりと思ってしまったが,その後の実践報告はじつにおもしろかった。

  お一人は,校長として“荒れた”学校に赴任し,教師の共同集団を組織して立ち直らせた報告。学年会と校務分掌というヨコとタテの組織を利用して,それぞれに率先性を認め責任を持たせることで,教師の共同的活動を活性化していった様子を具体的に語る。その方は,長年バズ学習という共同学習の理論に傾倒してきた方だそうで,教師の組織化の根底には共同学習の理論がしっかりとあるわけだ。もうお一人は,スクール・カウンセラーとして教師集団の中にとけこみ,授業を任されるに至った経過の報告。教師が,「これ,どうやって子どもに教えたらいいだろう」と雑談の中で話を持ちかけてきたときに,カウンセラーは,「ロールプレイはどうだろう」と心理学ならではの視点から提案する。するとすぐに,「じゃあ,ためしに授業をやってみせてくれ」ということになり,やってみたら好評で,「あいつに任せたら何かおもしろい(教師とはちがう発想の)授業をやるかもしれない」と信頼されていったという話だが,スクール・カウンセラーとしての独自の立場をきちんとふまえながらの報告で,なかなか聞きごたえがあった。最後のまとめは,このグループの中心の教授で,行政レベルで関わっている学校改善の報告である。

  最初の理論の紹介から実践報告,最後のまとめにいたるまで,共同集団という視点で一貫し,またうまく構成されていて,聞いていて気持ちがよかった。教師集団のコーディネートという点でいえば,これをそのまま「学校心理学」と銘打ったシンポジウムにしても,じゅうぶんにいける内容だったと思う。校長,スクール・カウンセラー,大学教授と立場は違っても,それぞれが心理学という専門性をじゅうぶんに活かしながら教師集団を組織化し,最終的には児童生徒の発達を支援している。言いかえれば,「心理学を専門に学んだ校長や,心理学を専門に学んだスクール・カウンセラーが学校現場の中に入っていったら,きっとこんな成果が出せる」という格好の実例なのである。

  これこそ,学校心理学のシンポにふさわしい活動報告ではないか。いわゆる個別的・臨床的なかかわりを超えた学校心理学の機能の広がりが,よく表れていたと思う。聴衆が少ないのがとても残念な,おもしろいシンポであった。


  おっと,ふだんから学会活動をしていない私が,えらそうに批判してはいけません。批判するなら,その前に何か自分でシンポジウムを企画しなくちゃね。自分ができないことで他人を批判するのは,僭越というモンです。


■01.08.17. スポーツ・バラエティ

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  それにしても,スポーツ中継はいつから,あれほどまでに芸能人に頼らなければいけなくなったのだろうか…。スタジオの中で,一般視聴者と何ら変わらないノリで無邪気にはしゃいでいるのを,延々と見せられるのにはつくづくうんざりさせられる。以前のように,スタジオでのバラエティは最初と最後だけで,画面が切り替わったらきちんとしたスポーツ中継,というのならまだがまんできるが,中継の最中も何度となくスタジオに切り替わるのは,さすがにイライラする。

  また最近,特定の選手をターゲットに定めて,へんにヒーロー・ヒロインに仕立てているような気がするが,あれもやめてほしい。有力選手の紹介くらいならともかく,ずいぶんべったりとその選手に寄り添った実況になってしまっている。まるでテレビを見ている人がみんなその選手のファンにでもなったかのような扱いだ。場合によっては,1位になった選手そっちのけで,敗れた選手ばかり大きくとりあげる。しかも「番狂わせ」とか「不運」とかをやたらと強調する。これは他の選手に失礼ではないか。あるいは競争・勝負という性質を基本的に持つ競技そのものに対する冒涜ではないだろうか。

  ついでに言えば,そのヒーローへの仕立て方がいかにもワイドショー的で,親しい人が亡くなっただの,離婚しただの,シングルマザーだの,およそ競技の中身とは関係のない「人間ドラマ」で感動を押しつけようとする。さらにはそれをキャッチフレーズにして,選手名のテロップに表示してしまう。あの安っぽいキャッチフレーズ,なんとかならないだろうか。選手たちは自分のキャッチフレーズをどう思っているのだろう。喜んでいるのだろうか。

  そしてきわめつけはあのアナウンサーの絶叫。もう最初っから最後まで無意味に絶叫している。まるで自分の声を途切れさせてはいけないかのように,ひたすら意味の乏しいコトバを連呼している。これがとにかくうるさい。ただの自己陶酔としか思えない。緊迫したスタート直前でさえ,おかまいなしにしゃべりつづけるアナウンサー。注目選手の様子ばかり実況して周りの状況がまったく見えていないアナウンサー。息詰まるかけひきの場面で,「陸上界の○○」などという下手な比喩で笑いをとろうとするアナウンサー。いちいち気になってしょうがない。画面に集中できない。ゴールしても素直に喜べない。

  テレビなのだから,状況は見ればわかる。いちいちことこまかに実況してもらわなくたっていい。むしろ,画面を見ながら競技の推移を息を潜めて見つめたいときだってある。それに,画面には写らない情報こそ知りたいときがある。たとえばマラソン。解説者が「仕掛けどころ」としていくつかの場所を指摘しているのに,それがどのあたりなのか,あと何分後くらいにそこにさしかかるのか,ほとんど説明されていない。難所とされるアップダウンにかかったときも,あとどれくらい下りが続くのか,いつ上りに転じるのかさっぱりわからない。ひたすら画面に映る選手たちを題材にしたトークショーを繰り広げるだけ。

  スポーツ中継はどうやら,限りなくバラエティショー化しつつあるようだ。ほんとにこの方向は,視聴者の望んでいる方向なのだろうか?


■01.08.07. HTMLメールもキライだ

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  メールは月ごとにひとまとめのファイルにして,2年間は保存することにしている。以前は1年で破棄していたが,大学改革やらいろいろあって,けっこう昔のメールをひっくり返して探さないといけない情報があることがわかり,保管期限を延ばしたのだ。添付ファイルは届いた時点で元ファイルを復元しメールからは削除しているが,たまに削除し忘れることもある。すると,その月の保存ファイルが異様に巨大になる。保管しておくだけならそれでもがまんできるが,あとで全文検索をかけたりすると悲惨だ。検索時間がぐんと長くなるし,たまたま見つかったメールがその巨大ファイルの中だったりすると,スクロールが重くなるなど,操作性が極端に悪くなる。添付ファイルがキライな理由はこういうところにもある。

  さて,添付ファイルと並んでもうひとつキライなのが,HTMLメールである。HTMLメールというのは,Webページと同じようにタグを使って,文字の大きさを変えたり文字色をつけたり,いろいろと装飾したメールを送れる仕組みである。

  しかし,文字を変えて


元気でやってますか? ところで今度,同窓会を開きたいと思います。


なんてやってるのは,友だちどうしの会話だけでじゅうぶんだ。私はまったく興味がない。中身である情報が正しく伝わっていればそれでいい。装飾なんてどうでもいい。(唯一文字色が変えられるとありがたいと思うのは,文章の推敲を頼まれたときに,<ここを直したい>と指定したいときだ)

  問題なのは,このHTMLメールも,ファイル容量を大きくする原因の一つであることだ。HTMLメールはたいてい,multipart形式といって,プレーンテキスト部とHTML部の2つを含んでいる。HTMLが読めないメーラーを考慮してのことだ。このため,ただのテキスト・メールに比べて,メールの容量は最低でも2倍になる(同じ内容が繰り返して書かれているわけだ)。しかもHTML部には,文字装飾や改行などを示すタグがごちゃごちゃと入ってくるから,それだけでもかなり容量が増える。おまけに,日本語の2バイト文字はインターネット用にコード変換されて送られるので,HTML部はふつうには読めないのだ。これはどう考えても無駄。だから私はHTMLメールがキライだ。

  ところが,困ったことにMicrosoftのOutlook Express(Windowsに標準でくっついて来るメーラー)は,なんと標準でHTMLメールを作り出すようになっている。だから,本人は文字装飾がしたいなどと思っていなくても,HTMLメールが送られてしまうことになる。ほんとに困った仕様である。添付ファイルにくらべて実害は少ないので,いちいちクレームをつけたりはしていないが,Outlook Expressを使っている方は,ぜひ一度設定を見直してみていただきたい。

  HTMLメールの問題点について,詳しくは

      HTMLメールはマナー違反? (とほほのWWW入門)

をどうぞ。

  また,Outlook ExpressでHTMLメールを送らない設定にする方法は,

      HTMLメールを送らない設定 (パソコン主婦の友・ウィンドウズの基本)

あたりが参考になります。


■01.08.06. 太ったのです

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POST CARD   これは,私が教育基礎にいた頃の院生の人たちで出している同窓会誌に,毎年書き送っているハガキの,今年度版。

■01.07.05. 添付ファイルはイヤだ

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  今年から事務局が一気にペーパーレス化したせいで,さまざまな連絡がメールで届くようになった。それはいいのだけれど,印刷していた頃と同じ感覚なのか,ワープロで作成した文書をそのままメールに添付して送ってくることがままある。これが面倒だ。詳しくは添付文書を読め,と書いてあっても,その文書がすぐには読めないのだ。

  うちの事務局は大半が一太郎文書で,おそらく事務局内では一太郎文書どうしのやりとりが,ふつうに成り立っているのだろう。私も一太郎はかなり昔からのユーザーだから,文書を開けないわけではない。しかし,たかだかA4版1,2枚の文書を見るだけのために,わざわざ重いワープロを起動しなければいけないのは,はっきり言って苦痛である。少しでも軽く済ませるために,最近は一時フォルダに保存して,テキストビューアで見ているが,それだってサササッとできるものではない。

  ま,一太郎は読めるだけいい。前に書いたが,私はMicrosoft製品をほとんどインストールしていないので,ワード文書とかエクセルシートを送ってこられた日には,途方に暮れてしまう。ほんと困ったものだ。

  だいたい,メールを送る相手がどんなアプリケーションを使っているかわからないのに,自分の端末環境でしか通用しないかもしれないファイルを送りつけるというのは,相手に対する配慮が足りないというしかない。インターネットは,さまざまな端末環境を持った人たちが対等に情報をやりとりしている世界だ。だれでもが簡単に正確に情報を受け取ることができるような配慮を,私たちは心がける必要があるだろう。

  …なんて,私もそんなに大きな口は叩けないのだけれど。



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