テーマ別編 高等学校 6/8
「アメリカ合衆国の歴史」をどのように教材化するか
筑波大学附属高校 田尻信市
[3]マサチューセッツ州ボストン
         :ボストン茶会事件の舞台(1773年

 「此府ハ古キ都会ニテ、昔時英ヲ絶テ独立ノ比ハ、二千人ノ都邑ニテ、独立ノ論ヲ首唱セル所ナリ、故ニ合衆政治ノ創業ニ於テ、最モ歴史ヲ多ク有セリ」
久米邦武編『米欧回覧実記(一)』波士敦府ノ記
(岩波文庫、1977年)355頁

 1871(明治4)年、明治新政府は岩倉具視らの政府首脳を欧米に派遣し、その一行は翌年にはボストンに到着した。上記の一文は、その時の随行員の久米邦武の記録の一部である。ボストンはフィラデルフィアと並び、独立戦争でもっとも重要な役割を果たした都市である。独立戦争に関わる事件の中で、この都市を一躍有名にした出来事にボストン茶会事件(1773年)がある。ボストン茶会事件がどのようなものか、その概要を説明しよう。フレンチ・インディアン戦争後、イギリスは戦費回収のために、13植民地の住民に対し砂糖法(1764年)、印紙法(1765年)など様々な税を新設した。これに反発した13植民地は「代表なければ課税なし」のスローガンのもとに反対運動を展開したため、イギリスからの独立を求める空気が急速に高まった。とくに、茶法(1773年)制定に対しては植民地住民がボストン湾に停泊する東インド会社の船を襲撃し、その積み荷を海に投げ捨てボストン湾全体をティーポットにしてしまった(ボストン茶会事件)。この事件を境にイギリスはボストン湾を閉鎖し、植民地に対する弾圧を強化した。この結果、イギリスと13植民地との対立はもはや修復不可能なものになった。
赤いライン
写真8 街中の"フリーダムトレイル"の赤いライン(ノースエンド地区)
 今日、ボストン市内の独立戦争に関わる史跡は、フリーダムトレイル(自由への道)として整備されている。ボストンコモンからバンカーヒル記念塔までの全長2.4キロメートルの道には赤線が引かれており、これを辿るとその沿線には独立戦争の英雄ジョン・ハンコックやポール・リビアの墓(グラナリー墓地)、ボストン茶会事件の謀議を行ったとされるオールド・サウス集会場、独立宣言が高らかに読み上げられた旧州会議事堂、イギリス兵の発砲で5人のボストン市民が殺されたボストン虐殺跡などを道を迷わずに巡ることができる。また、ウォーターフロント地区には、全長30メートルはどのの木造帆船が停泊している。この船はビーバー2世号といい、ボストン茶会事件当時の東インド会社船を復元したもので、隣接する建物のともにボストン茶会事件船・博物館として公開されている。船上では、当時の船乗りの服装をしたスタッフがボストン茶会事件の経緯について、表情豊かに説明してくれる。また、この船のデッキからは、昔時の愛国派のようにロープにつながれた茶箱を自由に海に放り込むことができる。
グラナリー墓地 ポール・リビアの騎馬像
(写真9上) 「ママ、ここがリビアの墓だよ」
と指さす少年(グラナリー墓地)

(写真10右) ポール・リビアの騎馬像(ポール・リビア・モール)彼は早馬で様々な情報を伝える伝令使として活躍した。