「良い授業」のもたらす利益・不利益

市川伸一
(「学ぶ意欲の心理学」(PHP新書)より,pp. 160-169. 2001年)


 東大の市川先生によるこの本は、動機づけのついての諸説や、それをふまえた市川先生ご自身の考え方を知るよい手がかりになると思うが、その中でも上にあげた部分は、数学教育を考える上でも直接参考になると思われたので、あえてここで取り上げた次第である。その部分から2カ所ほどを引用してみよう。

「教科教育の専門家や学校の先生は、見学した授業の中で何人かの子どもたちがそういう活発なやりとりをしているのを見て、非常の良い授業だと評価するかもしれません。しかし、そこで『自分で考える』といっても、なかなか考えが進まない。他の子どもたちのやりとりが、いったい何を言っているのかがよくわからないような子どもたちにとっては、たいへんつらい授業で、一時間が終わった時に何が残っているだろうかと言えば、自分は十分参加できなかったという悔いのようなものになってしまうかもしれない。[中略]一人一人の学習者がどういうふうな理解状態とか、学習意欲とか、満足感をもってその授業を終えたかということが、ややもすると見過ごされてしまう。[中略]『低学力層の子どもたちにとってきょうの授業はいったいどうだったのか』という視点を、教育者はもっと持つべきなのかもしれません。」(pp. 162-163)

 ここを読んだ時に、米国でP. Cobb教授が教授実験を行っていた8年生のクラスで、あまりついていけない生徒が一部のできる生徒たちをさして、「彼は別の言葉を喋っている」とぼやいていたのを思い出す。

「これまでの教育心理学は、半ば無条件に教科の学習に内発的に、自律的に取り組むことをよしとして研究してきたようです。それは確かに、学校、あるいは教師にとって大前提かもしれませんが、なぜそれが前提として正当化されるのかということの吟味は十分ではなかったような気がします。そこで、学校知批判が出て、『学校の勉強は社会で役に立たない』と批判されると、急に逆向きの実用性重視に走ったり、あるいは、『個性化』ということで個々人の目標を是認することに走りがちです。/話が大きくなってしまいますが、教育心理学も、あらためて『教科の学習に動機づけることの、社会全体としての意義』を自覚的に考えるべき時期にきているようです。『学力保障』で言われている『学力』とはどういうものか、その社会的存在意義は何かということになります。」(pp. 168-169)

 なお他所(p. 98)では、「今やっている学習そのものが自分の将来の仕事にも役立つし、社会で生活していく上にも役立つし、少なくとも何か自分の可能性を広げるものになるはずだ」という気持ちを持つことが、少なくとも思春期には大切だと述べられています(小学校1年生にも同様にこれが成り立たないことは市川先生も触れられていますし、それだけに動機づけを慎重に検討されているのだと思われます)。

 算数・数学教育における最近の風潮の中で、第1の引用に見られる点がどのように考慮されてきたか、またそうした風潮と学力低下の指摘の中で、第2の引用に見られる点はどのように扱われてきたか、などを問う必要がありそうだという意味で、上の部分はまさに算数・数学教育にも直接関わる議論と言えるのではないだろうか。


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