Radford

Signs and Meanings in Studnets' Emergent Algebraic Thinking:
A Semiotic Analysis

By Luis Radford

(Educational Studies in Mathematics, 42 (3), 237-268. 2001年)


 本稿は、文字式の学習についての3年間の縦断的研究の一部であり、一般化を含む課題に取り組む8年生の様子を調べたものである。その目的は、(1) 一般化したものを文字式で表すことを始めて行う際に、生徒がどのように記号を用い、それに意味を与えていくかを調べること、および (2) 生徒の創発的 (emergent) な文字式的思考についての説明を与えること、とされる。

 調査やその分析にあたり、著者はいくつかの理論的背景を述べている。まず、思考を、記号に媒介された社会的、認知的実践であると捉えている。そのためか、文字式の使い方をまず覚え、それを正確に使っていくということよりも、生徒が文字式の利用を自分なりに徐々に意味づけていき、文字式に媒介された実践に関われるようになるプロセスを大事にしているように見える。例えば、文字に対し、それがアルファベットの何番目かの数字("h"に対して8)を当てるといったことを、他の領域から文字式に意味を持ち込むと捉えているが、そうした文字式外の意味が生徒によってどのように変形され、標準的な意味に到達するかを考えることを、文字式の利用における誤りを分類することよりも重視している。

 また、文字の使用に関しては、ヴィゴツキーの考えに基づきながら、認知的機能は記号の使用により影響されるのであり、記号は心性 (mentation) のアクセサリというよりもその具体的な構成要素であるとしている。そして、「記号が何を表すか」という点よりも、「記号は、我々が何をすることを可能にするか」という点に重心を移している。しかし一方で、記号が個人を超えた文化的シンボル体系に属しているという点にも言及している。したがって、文字式は、何かを記号的に対象化するための社会的手段を個人に与える、ということになる。以上のようなことを踏まえて、Radford氏は文字式の学習というものを、記号の新たな利用や産出と弁証法的に結びついた、行為や思考の数学的方法を自分のものとすること、として捉え (p. 241)、それを自分のものとすることは、生徒の主観性と、記号的に対象化するための社会的手段との間の緊張関係を通して達成されるとしている。また、記号の意味は、数学的活動に生徒が社会的に没入することの結果として得られるとも述べている。こうした文字式に関わる背景に加えて、対話に関わるバフチンやヴォロシーノフの考えも取り入れられている。すなわち、対話を単なる情報の交換としてみるのではなく、個人が知識を再構成したり新たなに構成する際に重要な役割を果たすものとしてみている。

 調査の分析においては、3人の生徒からなるあるグループに焦点を当てている。生徒の対話を、特殊と一般の関係の扱い方、自然言語や文字式による記号化という点から調べることが目指されている。第4節ではおはじきを一定のパタンで並べた図形について、必要なおはじきの個数を考える課題に取り組む様子が分析されている。おはじきはTをひっくり返した形に並べられ、図nでは横棒にn個、縦棒に(n-1)個が並べられる。こうしたパタンの図1〜図4が図示された状態で、(a) 図10のときの個数は、(b) 図100のときの個数は、(c) 系列の中の任意の図形 (any given figure) のときの個数を求めるのにどうしたら良いかを他の人に説明する、(d) 図nのときの個数を計算する公式を求める、という問いを考えていく。(a) と (b) に関する活動が、プロトコルで3〜4行で終わるのに対し、(c) では140行にも及ぶことから、一般性を自然言語で構成することが生徒にとって難しいことであるとしている。

 本稿で取りあげたグループの場合、(b) の課題については、「下 (bottom) に100と上 (top) に99だから199」とすぐに求めている。しかし、(c) の課題になると、図120を考えようとした後、下にはいつも1個を加え、上にもいつも1個を加えるというアイデアを述べ、「それはいつも1,2・・・」と発話したり、「例えば」として今度は図12を考え、下に12個を置くことを皆で確認したりしている。ここで教師に確認をしながら、「下に」という表現を「水平に」という言い方に変えたりもしている。この段階までの生徒の対話に関わり、Radford氏は次のような分析を与えている。まずは生徒の様子から、特定の図形に対して答えを求めることについて語ることと、一般の任意の図形に対して語ることとの間に、大きな違いがあるという点を指摘している。一方で、図120や図12が図的に実現されていないからこそ、一般について推論するという目的に合っていること、また、生徒は図12を考えているときも、図12そのものについて語っているのではなく、図12は比喩的に扱われている、といった点にも注意を向けている。つまり「特定の場合を通して、一般について比喩的に (metaphorically) 語っている」(p. 247) のである(このあたりは、証明の学習で議論される generic example との関わりが考えられるかもしれない)。

 この分析に続けて氏は、次のような生徒の発話を細かく考察している:「下にいつも1個を加える、だよね?それから上にもいつも1個を加える」。このうち、「上」「下」の部分は直示的機能 (deictic function) を持つものとされ、対話の空間(例えばパタンの図)の中のモノを指している。この時点で一般的なモノが社会的に構成されていたとすると、直示的な言葉によって、そうした一般的なモノの特定の部分を参照することが可能になる。これとは別に、「いつも1個を加える」という部分は、生成行為的機能 (generative action function) を持つものとされる。これにより、一般性というものが、繰り返されうる可能な行為 (potential action) として具体化されるのである。このように、生徒の発言には一般性に通ずる部分がありながら、生徒自身が、こうした定式化には満足していない。これは、数学の実践において要求される文化的=コミュニケーション的水準についての生徒のとらえ方に鑑みてのことであり、一般化の課題において、こうした水準についての生徒のとらえ方が関わっていることがわかる。

 氏はここから考えが進んだ要因として、「水平」という用語の導入をあげている。水平−垂直という二分法により一般化の課題はより厳密な表現を持つこととなり、しかもそれらは構造を表現するもの (structural descriptor) として機能している。図のある部分が水平−垂直と表現されることで、系列での位置と項の数値を関連づける「位置づけ問題 (positioning problem)」に注意が向けられる。生徒の発話からもその様子が伺え、例えば次のような表現に至っている:「図の規則がわかるなら、下は12になる。それから上にはいつも1を引く」。この表現を氏は、比喩的な図12に対して生徒が行う言語的/心的操作を表しているとしている。さらに、「言葉で図に『触れ』、言葉は今や新たな感覚器官になる」(p. 249) としている。

 ここでの生徒は、パタンの特定の図や比喩的な図12においてはその構造をよく捉えているが、それを一般項に関係づける部分では苦労している。教師に助けを求める際に、図の番号のことをどういえばいいのかという彼らの気持ちを伝えることに苦労をしている。そして、教師が「図のランク (rank)」という言い方をするとある生徒がそれを使い始め、スペルを確認したりしている。ただしRodford氏は、こうした用語の利用も単なる記憶として捉えず、数学的表現を自分のものとしたり(再)創造する過程が始まることとして捉えている(この点は次にも出てくる)。

 生徒たちが最終的に作った説明は以下のようなものであった:「図12における丸の個数を求めるならば、図のランクと同じだけの丸が水平にある。そして垂直のランクを考えるには、水平の丸の個数から1を引かなければならない」(p. 251)。Radford氏はこの説明について、いくつかの考察を与えている。説明はやはり図12という特定の例に依拠しているが、これは生徒が一般項について語ったり対象化しようと努力した印と氏は考えている。図12により、未だ話しにくい一般項について、生徒の進化しつつある言葉の中で語ることが可能となる。「図12は、特定なものと一般的なものとを生徒が結びつけるのを保証するもの」なのである。またランクという用語の利用については、他者の言葉を借りて語ったり考えたりしているところから、バフチンの腹話性という考え方で説明しようとしている。また、教師の言葉に新たな意味を与えているところから、ハイブリッドな構成と呼んでいる。「垂直のランク」というのは、生徒独自の用い方であろう。氏は、正しいか誤っているかよりも、共有された理解に至るような意味生成の動きを、我々が理解しようとすることが大切だと述べており、上で述べた理論的背景がここに生きている。また、適切な使われ方ではないにしろ、ランクという用語が一般化の課題に取り組んだり表現することを可能にしている点にも、氏は言及している。ランクやそれに伴う語り口を自分のものにする過程に目が向けられているが、氏は明確に述べていないものの、こうした語り口を自らのものとすることが、一般化を考えられるようになることと関係しているのではないかと、この部分の分析は考えさせてくれる。

 言葉により上のような理解にあったにも関わらず、文字式で表す(d)の課題の解決でも対話は94行に渡り、しかも適当な文字式には至っていない。T字型のパタンの問題の前に、教師が生徒と一緒にマス目のパタンに関する問題を考えているが、その結果である n×(n+2) が黒板に書かれたまま残っている。(d)を考える際に生徒がまずしているのは、この式と同じようなものであろうという議論であった。その中で n−1 になるとか、n× が入るという意見が出されている。メンバーの一人アニクという生徒は、この時点では水平な部分が含まれていないとしてこれに満足していないが、しかしどのように文字式の中に含めて良いかはわからず、教師を呼んでくる。彼女は「図・・・みたいなのを・・・言うのがわからない」と質問の仕方が曖昧であるが、教師は「図n」ということの説明を始める。この教師の説明に見られる微妙な変化も、Radford氏は考察している。説明の最初では、「それは図1,2,3,4,5にもなりうる」と「動的、一般的な記述子 (dynamic general descriptor)」となっているが、「全ての図に当てはまるような公式」という言い方を経て、最後には「おはじきがないときでも、図25のときいくつになるかわかる」といった「総称的数 (generic number)」としてのnに移っている。そしてこの違いは、序数と基数の違いに支えられているとしている。なお、アニクの質問が曖昧な点についても、明確な質問を定式化できることはある程度問いに答えていることであり、そのためには含まれている概念を上手く扱う必要があるとして、こうした状態も学習の一過程として認めているように見える。

 このあたりからは図12という比喩的に扱われていたものが利用されなくなり、代わりに「水平」「下」といった直示的な用語が一般的なものを記号で表すための基礎となってきていると、氏は考えている。その後の対話では、アニクはnが下にあるおはじきの個数であると述べた上で、n−1=nという式を提案している。これをおかしいと指摘されるとn−1=aという式に変え、これがこのグループの最終的な答えとなっている。言葉では一般の場合を説明できていながら、文字式での表現に至っていない。アニクについては、前半では図的なものに言及しながら常に発言していたが、最後の方では式のみについて語るようになり、右辺をnからaに変える際も「文字はどれでも同じ」といった修正の仕方になっている。

 この場面での文字に対して生徒が与えていた意味として、Radford氏は2つのものをあげている。パースのイコン、インデックス、シンボルという3種類の記号をあげ、このうちのイコンとインデックスをここでの説明に用いている。最初の方の対話では、黒板に書かれた n×(n+2) という式の形との類似に基づいているからイコンであり、後半の方では言葉による表現の中のある部分(「水平にあるおはじきから1を引く」)を指しているという意味でインデックスである、ということのようである(このあたりは異論の出そうな部分ではあるが)。またn−1=nの式では、算数の影響も受けながら、nは結果を指し示すものとしても用いられている。氏はヴィゴツキーを引用しながら、話し言葉が書き言葉の素地となることを正当化している。イコンとインデックスという2つの意味が最初は葛藤状態にあるが、それが合意に達しn−1=nという式が得られたと、氏は述べている。ただし、その後のクラスの活動の中で、記号の意味に関わるグループの葛藤は深まり、共通理解に至るには長い時間がかかったと報告されている。

 生徒の創発的な文字式的思考についての考察では、まず、算術では扱われてこなかった一般項の探求と表現が文字式的思考を特徴づけるものであり、その意味では一般項の説明を考えていた時点で文字式的に考えていたこと、また用語や文字といった記号に生徒を誘う点では教師が中心的な役割を果たしていた点が指摘されている。その後、3名の生徒のその後の文字式的思考の違いが報告されている。アニクが文字式を標準的な仕方で用いることができるようになったのに対し、他の2名は、比喩的な事例についての計算の仕方を述べていたり、あるいはある項から次の項に移る行為を書いて、上のn−1=nと似たようなレベルで文字式を用いていたりした。こうした違いをRadford氏は進度の違いと片づけるのではなく、「数学的実践を実現するための文脈的な可能性の限界と、個人的な(あるいは個人間の)音色を生徒が強調させようとする複雑なプロセスの証拠」として考えている。つまり、社会的な手段と個人との出会いの結果として、多様な形の文字式的思考が生まれたと見ているようである。

 最後の節では、上のようなことをまとめるとともに、文字式への移行に見られる2つの裂け目について述べている。それは、視覚的側面に関わるものと数的特徴に関わるものである。比喩的な事例で考えているときには図的に話すことができるが、文字式ではそれは落とされてしまう。また、そこで扱われている "数" というか一般的なものにも違いがあると、氏は考えているようである。両者には15世紀イタリアの絵画と立体派の絵画くらいの違いがあるとしている。しかし、比喩的な事例で語る部分を無くすことは、生徒が一般的なものと談話する可能性を狭めてしまうことになるとも述べている。コトバや文字式により生徒どうしが相互作用することが可能となり、その中で数学的意味や理解が精緻化されることを、氏は期待している。

 一般的な場合を言葉で説明する部分に比べ、文字式で表す課題については、分析が物足りない感じがする。本稿で報告されている部分の後がどうなったかが知りたいところであるし、また言葉の説明で出てきた「ランク」という用語の利用との関わりなども興味ある話題と思われる。他方で、言葉で説明する課題についての分析はかなり詳細である。その分析には異論の出そうな部分もあるが、従来であれば、「図の構造を捉える」「一般の場合を言葉で表す」と簡単に捉えられかねない部分について、「どのように一般の場合を言葉で表していくのか」「一般の "構造" がどのように生徒に認識されていくのか」にメスを入れようとしている点は、興味深い。また、この分析の中で現れる、比喩的なものとしての具体例や、言葉の直示的機能や生成行為的機能といった視点も、面白ものではないだろうか。さらに、比喩的な事例で語っているときの「一般」と、文字式を扱う際の「一般」に裂け目があるとする考えは、本稿で報告されていた生徒の苦労を見ると確かにありそうな気がし、この違いが、文字式の利用で生徒が経験する困難の一因かもしれないという感じを受けた。

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