記録編 ボストン
ハーバード大学言語学科教授 久野先生
講演「体験的日米比較文化論」
上越教育大学 池内正幸
公演中の久野先生 ○小学校で
 小学校でのreadingの授業参観。子供がみんなの前でreadingをやるというのではなく、先生、親、子供の三人だけでその成果を確認する。運動会。といっても、皆揃ってなにかやるというのではなく、各自ばらばらに自由にやるのである。ピアノのリサイタル。ピアノの先生が言う最も大事なことというのは、子供たちがいかにenjoyしたかということである。summer camp や project-orientedな授業が親離れや独立心を養う助けとなっている。一方、娘ふたりが日本の小学校に在籍中団体行動としての「始業式」に参加した時それになじめず震えていたのを思い出す。また、食事中にテレビを見るという習慣もアメリカでは考えられない。食事の時間は子供の意見を聞き、また、親と子の間で意見を交わす時である。
公演中の久野先生
  ○中学校で
 通例それをやっていることを公表しないで、能力別クラス編成を行なう。数学のクラスでは、例えば、二次方程式と二桁の掛算が同居することがある。うちの娘にはこのクラスは合わない、もう少し上のクラスを、というと、教師の答えは、「子供のことは親が一番よく知っている」、だから、ひとつ上のクラスにしましょう、というものである。これも話し合いの例であろう。
○高等学校で
 家で勉強することはほとんどない。試験勉強といったらたいていは一夜漬けである。「うちの子は頭がいいのに成績が悪い」という親は決まって、それは先生が悪いという。父兄会はあるが、いわゆる全体会というものはない。
○大学入試
 勉強の成績がよいだけではいい大学への進学は望めない。どのような「経験」を持っているかも極めて重要である。自由、話し合いの中から「やり直し」がきく柔軟なシステムが可能となる。事実次女は高校時代奇抜な髪型をしたいわゆる「パンク」になってしまった。日本では典型的な落ちこぼれとして扱われたであろう。その彼女も多少の紆余曲折を経ながらも一流大学に進学できたのである。   以上、個人的経験を基にアメリカの教育を概観した。