上越教育大学 教員養成GPプロジェクト

図画工作科・美術科を授業の中心に据えた学びの成り立ちや支援の在り方の研究

取組実績と課題

4.平成18年度「造形表現カリキュラム開発特論」議事録

平成17年11月7日 授業内容の法則化について

□法則化(「法則教育技術法則化運動」法則教育技術法則化運動など)についての討論

  • 昔は師範学校時代,教え方を教員に教えていた
  • 近年,教師の教育技術の不足→子どもを理解しにくい→学級崩壊などの諸問題→授業のコツ,スキル・発問・ノート指導(美術キミコ式/サカイ式…絵の具3色を使って描く,色の作り方,描く順番など教師の指導上の悩みに対応していた。※当時より若い教員に好評で,出版していた明治図書の3分の1を関係図書でしめていた)などを示した法則教育が85年以降登場。
    上記のような背景の考察を起点に「‘のびのび’の解釈」について討論が展開される。

古田:技術論を教えて自信をもてば,のびのび出来ると主張している。法則化の人だったと思うが,「子どもの絵と親の絵を比較」「教える内容論・技術論があって初めて開花する」「それが無いと教育の中では位置を保てない」といった主張がされていたと捉えている。展覧会の場で同じ傾向の絵,描き方が一緒の絵,例えば同じ方向から出た手など,似たような絵が学校毎に出てくることがある。その時一緒だった先生は,「一つの技術論としては良いのだが,子どもがのびのびしているか?描きたいものを描いているか?といった面から見ると,こういった作品からは私は読み取れない」と言われていた。

水澤:ホームページはにぎわっている。TOSSのページを開くと各教科1〜6年までについて事細かに書かれている。他県ではサークルなどもある。法則化を支持する先生は,困っている若い先生にそういったホームページを開くように指示することがあるかもしれない。

涌井:下越では法則化は主流ではない。シナリオに沿った作品が出来てくることについて良いと思わない先生もいる。法則化を指示している先生がいることも確かだが…。

古田:以前中学校の先生と小学校の先生で話をした時に技術論,作品論,造形の活動性などについて議論になった。中学校では小学校のように造形性が高まったからというだけでは,良しと出来ないところがある。中学校の先生は,小学校の先生が子どもたちにどこまで技術を教えてくれるかを問題にしているところがある。小から中は,連続しているようで連続していないのだと思った。

西村:小と中のつながりも長く取り除かれていない問題になっている。以前作品を見た時,小学校の作品はカラフルだが,中学校に行った途端,地味な世界になっていた。楽しそうに見えなかった。精神的・感受性の発達により,小学校のようなことはできないのかも知れない。

藤井:確かに,以前は相対評価により,似たようなものばかりということもあったが,今は絶対評価になってきたため,その辺りは変わってきたように思う。ただ,確かに心当たりはあって,似た絵ばかりができてきて,のびのびしていない作品もある。教える時は,導入で「正解ではなく,いろんなものをやってみよう」という感じでやっている。良い悪いだけでなく,技術を自分で発展できるような姿勢がつくれれば良いと思う。ただ,技術は中学校の3年間で気づかなければ,一生知らないようなこともあるので,ある程度のことを教えてあげたいと思うことがある。小学校では,道具の最低限の安全性については教えて欲しい。ただ「楽しい」が下手をすると,「遊び」というか「面白おかしい」という楽しさになるので,その辺りで小中が変わってくるのではないかと思う。

水澤:中学校のレタリングの時間,自分もそうだったが,教えてもらってそれに向かって取り組みたいという子もいると思う。

古田:作品の作り方の方向性が自分の中で消化されていると,他の人の作品を見たり,掲示作品を見たりしても良い。消化してテーマがあると自分の中で自信がつきバンバン作り出していく。

小林:レタリングの時,自分もエアブラシを使ったりして,面白いなと思ったことを思い出した。ただ,子どもののびのびや技術は教師側がどう動かそうとしても,子ども一人ひとりの感じ方は千差万別だ。自分は,技術を新しく教えられて面白いなと思ったこともあるが,風景画のようなものを描いた時,遠近法を習ってもどういう風に描いて良いか分からず,できた作品にあまり思い入れを持てなかった気がする。

西村:レタリングのように「こうやって描くと明朝体のはねですよ」というのと「何を描いてもいい」というのは対極にあることではないか。何でも良いというのは指導の放棄のような気がする。でも,「これをしなさい」「これを学びなさい」というのは楽だが,そこには子ども達にとって楽なこと以外生み出していない気がする。

土合:中学校1年生の授業で,スケッチブックをもって外に出て「好きなものを描こう」ということをやった。しかし,50分の中で好きなものを見つけられなかった子が多かった。この時,自分は「好きにしていいよ」と言うだけでは子ども達は動けないのだと思った。反対に判子をつくる活動をして,前の学年の作品を見せたりして,具体的に示したら,素材と子ども達の関係は「好きなものを描いて良いんだよ」という感じに近かった気がする。

芝原:過去に自分が受けた授業は覚えていない。「〜をします」という先生の指示をうけて,その通りに生徒が描いていくという授業だった。しかし,ただ自由にやれと言われてやる授業も苦痛だった。今は,自分から何かを見つけてやるのは大事だと思うが・・・。

井出:中学校の写生大会の見回りで,好きな子とどうでもいい子,10分くらいで終ってしまう子,描けない子,題材が決まらない子など様々な子がいた。その中で,早く終わった子の描いた絵を見てみると,プールサイドのところの絵を,ホースロープを描き水色を塗って終わらせていた。そこで美術部の女の子の所に連れて行き,その絵の感想を聞くと,女の子は「水は水色ではない,ウソだ」と指摘した。美術部の女の子は「ここを描いて,あの色作って」と全部決めていき描かせていた。結局描き終わらないほどだった。美術部の女の子とかかわっていた子はとても楽しそうにしていたので,子どもはある程度決められると楽しいのだなと思った。「ただ自由に」というと別の自由の方にいってしまう。

古田:(井出さんの例の)事前にどういった指導を美術でしていたのか気になる。また,子どもが描くことが分かり,見通しを持った途端に面白いと思って描き始めたというところが興味深い。

四ツ目:私は幼稚園児と小学生がいる絵画教室に行っていました。そこでは子ども10人につき先生が3人ほどつく。やる内容はみんな一緒で決まっている。やりたい子はどんどんやるが,やりたいことの見えない子はいつまで経っても手が動かない。そんな子に対し自分は「何つくる?」と尋ねるだけになってしまう。先ほど,技術を教えてあげると楽しく描けるという意見があったが,そこで楽しく描くことができる子は,恵まれているのではないかと思う。「教えて欲しいことが分からない」「何をしていいのか分からない」という風になっている子には,「あれしたら,これしたら」という提案なども意味がなくなっていた。図画工作の授業についても同じことが言えるのではないかと思う。

水澤:今の話を聞き,学臨の西川先生の学び合い理論に似ているように感じた。教師よりも子どもが先生となって,子ども同士が教えあった方が,子どもはお互いの過去の経験や実態を知っているので教えあいやすいという理論だったのだが,それかなぁと思った。

涌井:図工が苦手だったのでどういう作品を作ったかよく覚えている。例えば,6年生の時は公園で描いたことを覚えているが,そういった覚えていることは全て展覧会のための絵だったと思い出した。私も写生の時,どこで描いていいのか分からず迷っていた。

松野:小学校の時,図工の時間に自分のクラスと他のクラスでは指導の方法が違った。隣のクラスの指導は,写真や定規を使い,正確に描けるような指導方法だった。自分のクラスは自由にやらせる指導だったため,自分はいつも先生に聞き,一つひとつ描き方を教えてもらっていた。市の作品展では,隣のクラスの正確に描いた絵や10分ほどで描いてしまう絵などが入選していた。私は「大人の世界は何と分からないものだ」と思った。大学の松本先生の授業は簡単なテーマが与えられ,それを作るというものでした。その授業では最初どうすればいいか分からなかったが,友達との会話の中で何を作るかを決めていった気がする。授業で完成したものはとても愛着が湧くものとなった。

古田:絵が描けない子どもだった。人物が描けなかったので嫌いだったのだが,中学の時の先生は人物にこだわらず題材を色々なものにしてくれたので,美術を面白いと感じることができた。自分が納得して面白いと感じた経験は覚えているが,納得せずに何となくやった単元は全部忘れていると感じた。

松尾:小学校の時,キミコ画法に熱心な先生に授業を受けた。その時,それが良いか悪いかはわからないが,子どもたちはわりとその授業に飛びついてやっていた気がする。何で良かったか分からないが今までなかったような視点になったかなと思う。部分でやって3原色でやって,やり方を教わって飛びついたということかもしれないのでもうちょっと自分で考えてみようと思う。

高石:学校教育は先生が仕組んだものを,子どもは「自分は出来た」という喜びを感じ,先生も出来た子に対し良い子やエリートということを与え,成り立っているのかなと感じた。また,絵の指導もキミコ画法というものなど様々あるが,どうして絵を描くのかという問題までは進んでいかないと感じた。小中のつながりも授業の目的を考えればつながるのではないか。

西村:中学生の時,新しく来た美術の先生に良い絵を見せ格好つけようと思って,宿題の写生の絵を上手に描いた。しかし,その大事な絵は風に吹かれて飛んでいってしまった。その時,先生に気に入られようとして,あこぎな絵を描いた自分自身を嫌なやつだと思った。教師に気に入られるにはどんな絵を描けば良いのかは,中学生でなくとも小学生も同様に見えているのではないか。そこで何か工夫をして,視点を移すことが大切なのだと思う。キミコ方式のことも,同じように実際にやると新しいことが見えてくるんではないか。