上越教育大学 教員養成GPプロジェクト

図画工作科・美術科を授業の中心に据えた学びの成り立ちや支援の在り方の研究

取組実績と課題

4.平成18年度「造形表現カリキュラム開発特論」議事録

平成17年11月28日 新聞紙を用いたワークショップについて

□ワークショップ(11月14日)についてのレポートをもとに討論

土合:新聞紙はどこでもあるものですが,人によっては顔に見えたりすることもあると思います。「見える」って何か,そういうことが含まれているんだなと。

藤井:私は,こういう風になるんじゃないかと,先を読みながらやっていく癖がまだあるので,順番の時,自分で自分のものにつなげてみようかなと思っていたのですが,順番が無くなった時から,逆に自分がやった所には足したくないという気持ちが生まれてきて,「なんか違うな」という風に実感したことを覚えています。今もそうなんですけど,一人で作りたいという気持ちがすごく強くて。小学校の時もそうだったのですが,人から自分のやつに手を加えられたりすると,もう嫌でしょうがなかったんです。そういった「嫌だな」というのは,一体どういう所から生まれてきたのかなと思う。でも今回はすごく楽しめたので,その面白さというのは何だろうなと思ったのと,四ツ目さんから「作品」という言葉が出たので,「もの」と「作品」の違いの辺りがちょっと気になりました。

涌井:子どもたちにやらせたら,あんな風に上手くいかないというか,隅っこで自分一人で作っちゃう子もいるので,そういうことも考えながら作っていました。同じ空間にいると,一つの作品,その子の作品も取り込まれていくのかなという感じもしました。最初始めたばっかりの時,みんなでやってる感じがしたんだけど,段々広がっていくと,一緒にやっている人が見えなくなってきた。一人でやってるような感じにもなったし,周りを見ると,みんなでやってるような感じにもなったし,「ああ,そういうことなのかな」という感じがしたんです。

高石:「新聞紙がくずれた時,一瞬みんなで基に戻そうとした」の「一瞬みんな」という所(レポートの記述)だよね。誰かが失敗して落としちゃったとしますよね。その人の責任とかじゃなくて,一瞬みんなでバッとそこに目がいって,何とかしようと思ってしまう場面は,多分子どもたちだってあると思いますよ。そこにいた人達が,日頃はそういう風な気持ちを持ってなくても,そのような事件があった時に一瞬ハッとする。こういう風なことはすごく大事だなと思う。こういう活動の中でモラルが立ち上がっていくんだろうなと思ってるんですけど。

古田:「多様で計り知れないものであると思うが,自分の中の『自分』や『他者』とのかかわりのなかで見つけることのできる,さまざまな情報が循環していることが必要条件なのではないかと考えた」の中の「さまざまな情報が循環していく」という所と「また自分自身や仲間とのかかわりの中で,心が感じること・伝えることの準備が整っている心身の解放を発見でき・・」というのは,どういう状態かな?私はこういう感じ方ができないので興味深いし,すごいなと思う。

松野:様々な情報に対して,凝り固まって何もできなくなるよりは,やってるうちに「次何しよう」とか周りを見る余裕とか,それに取り込める体制が整っているのが大事なのかなと思う。

古田:今回はどっちかというと,フォーマットかかっている分,つまり「喋っちゃいけないよ」とか,「人につなげるんだよ」とあるから,余計周りを見なきゃいけないような…。自分が言う普通の図工の時間との違いが,こういうことを引き出す可能性を持ちますよね。

小林:やっぱり「心身の解放」というフレーズがとても印象的です。会話のコミュニケーションがないような活動で,行為だけで,心が先行される感じがするっていうのは,とてもすごいなと思います。

藤井:やっぱり普通の生活をしていく上で,話をしちゃいけないとか,言葉が通じない,あまり話ができない,というのは,すごく窮屈で苦しむのかなと思う。でも,あの活動の時,私はかえって楽だったな。窮屈って一瞬も思わなかったな。ちょっとそれは何でだったのかなって,今疑問に思いました。

芝原:「自分の行為に他者の行為が加わることを体験し,何とも言えない喜びを感じました」というのを読んだ時に,純粋に書かれているなと感じました。

四ツ目:多分,私がここで言いたかった疑問は,行為を連続させていく中で,じゃあそこに何かつなげること。その人が例えば抽象的な何かを「ぐちゃっ」と作ったら,私も「ぐちゃっ」とやらなきゃって。しかし私もそうやって続けていくのが果たしていいことなのかなと。それも一つの手だとは思うのですが,それがいいことなのかなという感が,自分の中にあって。私は中間ぐらいの3,4番目の位置だったのですが,後ろの人達には申し訳ないけど,勝手に「具象物をくっつけよう」みたいな感じでくっつけていったんですよ。つなげることで確かに見えることもあるとは思うんですけど…。

古田:他の人はどっちかというと,周りをうかがってる様子ですが,四ツ目さんは逆だなと。自分について故意的な感じがして…。

井出:「変化」という言葉がたくさん出てきて…「変化していく過程を楽しむ」というのが気になった。自分も最初はつながりを見ていて「つなげよう」と思うと,もう状態が変わっていた。そのうちそういう風にやっても無駄なんだということが分かってきて。その次どういう楽しみ方をしたかというと,瞬時で見てその状態に対応できるかどうかという楽しみが段々生まれてきて。そうやって「変化していく過程を楽しむ」というのを私はそんな風にとらえました。自分を試してみたいな,という楽しみが出てきました。

高石:目的というのもキーワードですよね。目的は,やりながら変わっていくかもしれない。「出来事で自分が変化した」「上手・下手が,解放された」なども面白いなと感じました。

芝原:古田さんは「意味とは何かということを考えさせられた」と書かれているのですが,「意味」とは何かを聞いてもよろしいでしょうか。

古田:「作品」と「もの」とは違うんじゃないか。作品というと,自分がつくり,人にある種の感覚を起こさせるものが作品づくり。これは,狙ってるものだと思うのですよ。ここでやってる造形あそびは,自分がつくる時間の中のやりとりにウェイトが置かれているんですよね。

高石:自分自身もそうなんだよね。最初はこんなものを作ろうと思いながら向かっていったけど,他人が「四角もいいね」とか言った時,自分も「四角もいいよな」と動揺したりして,いろんな影響を受けてくる。イメージがあってつくることは,全然否定しないが,イメージそのものは変わるはずなんですよ,日に日に。変わることを前提として,考えていかなくちゃいけない。だけど,そのことを間違いみたいに捉えるところがある。一度決めたことは,しっかりここまでやらなきゃいけないみたいな。でもね,よく見たら変わるんだよね,動くのですよ。やっぱり心は揺れ動く。この揺れ動いたところに意味ができてくる。

水澤:終わるという感覚が強すぎると思う。崇高なゴールに向かって,最後「バーン!」という作品をつくらなきゃいけないみたいな。

高石:上手くいかなかったことが,他の教科に生きていくことだってあるのでは?