上越教育大学 教員養成GPプロジェクト

図画工作科・美術科を授業の中心に据えた学びの成り立ちや支援の在り方の研究

取組実績と課題

4.平成18年度「造形表現カリキュラム開発特論」議事録

平成18年10月23日 造形遊びについて

□造形遊びの印象についての討論

西村:自分の学生の頃,造形遊びの時間はなかった。造形遊びという言葉は大学の教員になってから知った。

野澤:造形遊びという言葉を良く聴くようになったのは,この大学に来てから。小学校の頃の図工の時間は,運動会の時の絵を描いたり,キットを使って工作をしたりしていた。

日永:学部の三年の頃の授業で造形遊びについて知った。造形遊びは素材と人とのかかわりあいが自由にできる時間。自分でいろいろなことを学んでいける時間。

松本:小学校の頃,絵を描くことが中心の授業だった。美術は絵画,彫刻,工芸,デザインをまんべんなく全部やっていた。造形遊びを初めてやったのは大学を出て非常勤として勤めた高校でだった。

天野:授業の中で教員の予想を裏切られる時間をつくるのはいいことだと思う。

松尾:小中学校の美術で特別なことをしていた記憶はないけど楽しかった。造形遊びをすることで,その時間の後の休み時間や給食の時間などに教員が子どもに対しての見方が違って見えるようになることが重要だと思う。造形遊びに対して否定派と肯定派が出てくることはどうしてなのかを考えていかなくてはならないと思う。

飯田:造形遊びを四年前くらいから現場でやってきた。縫製工場から布をもらってきたり,大量に木を買ってそれを使ったりして身近なものから造形遊びをした。私は小学校の頃,一ヶ月貸切になった体育館で,ダンボールを用い,いろいろなものをつくって遊んだ。夢中になって作ることは楽しいことはわかるが,肯定か否定か考えると,まわりの否定に押されているような気がする。「形が見えてこない」「感覚的」「子どもに落ちているのか不安」「保護者からの厳しい目」などが否定派から聞かれる意見だった。

佐々木:小学校の頃,図工がつまんなかった。放課後とかに秘密基地を作ったりすることは楽しかった。

清水:造形遊びはよく分からない。小学校のころ覚えていることは絵を描いたりキットを使ってつくったこと。絵が得意だった。だから,ちゃんと図工の上手さで評価してほしい。造形遊びには否定的な考え。

高石:作品主義・結果主義に引っ張られていくことが気になっている。そのことと造形遊びとのかかわりを考えていくべきだと思う。

□配布プリントに基づき,指導要領の変遷(以下に示す)を確認する

  • 社会の変化に伴い,学習指導要領は変化し,領域を細かく決めるのではなく領域を横断的に扱うようになる。
  • 大学の授業やコース中で,昔の構造「絵画 彫刻 工芸 デザイン 鑑賞」は根強く残っていて,まるで領域ごとにはなにも関係がないかのように分かれてしまっている。

松本:このような指導要領の変化にもかかわらず,現場では領域に縛られた授業が多いのではないか。領域をはっきりと決め授業を行うことは子どもの活動を縛ることになり,子どもの持つ総合的な力を働かせることができなくなる。しかし,評価や指導が難しいとされる図画工作では,教員の中で子どもの絵の見方が分からないといった事態が発生しやすい。そこで,領域を細分化して,教師が指導しやすいような,評価しやすいような授業になっていく傾向があるのではないか。部分の集合が全体なのではなく,部分を統合するための場が必要なのではないか。領域を個々に網羅することが,美術の時間になっていいのだろうか。

西村:教師が子どもをどう見るかは,その教師の子ども観に影響されるのではないか。また,造形遊びの肯定派否定派も子ども観の違いから生まれるものなのではないか。子どもは未熟な存在なので教師が教え込んでいくべきか,或いは子どもの持つ力を信じ,自ら成長するのを見守るサポートにまわるべきか。

高石:つくるときはものだけじゃなく,いろいろなことを考えている。しかし,最終的にはものだけが評価されてしまう。そしてだんだんこういう風につくっておけばいいという流れになっていく。そのような流れはなかなか変えることができない。だから,個々にいろいろなことを考え,工夫しながらやっていい場として,造形遊びは存在しているのではないか。造形遊びはものをつくるときに,いろいろ考えながらつくることへの軌道修正的な役割を持っていると言える。軌道が修正された後,造形遊びは必要なくなるのではないか。

松本:教科の専門性とは何か。また,その評価はどのようになされるのか。教科の専門性とは,「自分の作った作品が賞をとった」などではなく,その教科が子どもたちとどうかかわりを持っているかなどの理解であって欲しい。

不明:造形遊びという名称はどうしてつけられたのか。人間の遊び性と学びとの関係。意味の組み換えや変換,ルールの発生が自発的に行われている。しかし,しょうもない休憩時間としてとらえられ易いという事実もある。

松本:自分が感じている世界をそのまま表現できるようになるべき。こんな風に描いたら上手く見えるというような方法論,そこに自分が全く入らないような表現はあまり意味がない。それより,その人の表現が成り立つことのほうがよっぽど重要。その人の表現が成り立つことと,その人の表現が良いか悪いかの尺度で評価されることとは別次元のことではないか。

飯田:美術教育の親学問は何か考える必要がある。