上越教育大学 教員養成GPプロジェクト

図画工作科・美術科を授業の中心に据えた学びの成り立ちや支援の在り方の研究

取組実績と課題

4.平成18年度「造形表現カリキュラム開発特論」議事録

平成18年11月6日 共同研究授業の活動案について

□活動案についての討論(去年の活動案の資料を配布,活動案についての話し合い)

飯田:活動案を考えるよりも,このカリキュラムが春日小の年間指導計画に書いてもらえるくらいのものであるかどうかを大事にしなければいけないのではないか?また,春日小の場所でこそできるものがよい。そうしないと,「思いつきました」「考えました」「やってみました」の繰り返しになる。

高石:現実問題として年間指導計画に組み込むのは難しい。先日,南さんが言った「そこの子どもたちがこんな風だから,こんなことをやったほうがいい」という視点を忘れていた。

松本:今回活動をさせていただくクラスの授業を参観させてもらったらどうか?子どもたちや学校の様子などを見て,どのようなことをしたいかを考える事は大事なこと。

天野:英語を教えていてつまらなくてしょうがない。小学校の授業に英語が入るという議論がある。この授業で小学校4年生に英語と出会わせたい。そのようなカリキュラムを求めている人がたくさんいるのではないか。アルファベットを使って子どもたちに何かをさせる。アルファベットがどういう働きをするものかという認識を大人は持っているが,子どもは持っていない。子どもたちがアルファベットを通して何かを作り上げる様子を見ることで,我々(大人)は英語ってこんなものと思っていたことが揺さぶられるのではないか?知らないものから何かを感じて,造形遊びで何かを作っていくような場面に我々が出会えたら,我々は子どもたちに影響を受けて変われるのではないか?

日永:今気になっているものや,自分の研究したいものを一人ずつ言ってもらいながら話を進めたい。

松本:子どもと一緒に色々なことをやってみたいという先生がいると思う。そのことを聞いてみるのもいいのではないか。そのことを問題意識として持つと,子どもとどのようなことがしたいか,どんなことを大事にしたいかが見えてくるのではないか。

野澤:私も授業を行う前に,子どもたちと一回接したほうがいいと思う。そのほうが,お互い緊張せずに活動できるし,いろんな発見もしやすいと思う。

飯田:今回児童の実態は考えていない。何かあるかもしれなが,1時間見て何が分かるのかと思う。授業を良くしたいという思いがある。これ(昨年の活動)を良くするにはどうしたらいいか,ということを考えていくと少し深まるのではないか?

野澤:私が子どもたちに会ったほうがいいと思ったのは,自分は人と何かをする時,初対面だと緊張したり,人見知りしてうまく付き合うことができなかったりするので…。

岩垣:僕ら自身が少しでもその子たちのことを理解すること。また僕らの接し方で子どもたちの反応が変わると思うので,僕らが子どもたちを理解する意味でも子どもたちを観察することは大事だと思う。

松尾:参観することは大事だと思う。いつ始まるかは,参観に行った段階で「造形遊び」の活動がはじまってしまうので,授業を始める時がスタートではなく,参観が授業のスタート。

松本:子どもに会う必要性は,どのような材料を使って,「どんな風にセッティングしてみようかな?」と思った時,「あの子動いてないな」というイメージができるかどうかということ。この年齢の子どもたちが,どんなことがしたくて,どんなことが出来るかを考えることは実際の子どもに会わないと本当はいけないと思う。

高石:授業参観をどうしますか?する必要がないという人もおかしくない。ただ見に行くだけなのか?どのような形で参観するか?

西村:授業参観に反対ではないが,実際の活動の中身とか展開を考えていく時には,あまり必要ではない。長期にわたってかかわっていくというスパンがあればいいと思う。

天野:皆さんの興味があること,やってみたいことは?

清水:私の中で概念が変わったことがあった。それは,お金の中で磁石にくっつくものはどれ?という問題で,千円札・二千円札・五千円札・一万円札・一円が磁石にくっつく事。

土合:僕は今,羊の毛がすごく好き。毛もいいと思う。

岩垣:僕の中で習字と美術の境目はない。書くものが筆なら習字で,竹なら水墨画になると思う。子どもたちに筆を持たせたら,何を書く(描く)のか?ただ習字を書くのではなく,ドラエモンを描いたりすると思う。それを大きな紙に描かせてみたら?ただ筆を持たせるだけで何をするのか?

佐々木:アルファベットを使って,そのものの見方が変わるようなことをしてみたい。

柳澤:子どもたちが「ワー!」とか,すごい驚きがあるような発見があればいいと思う。

飯田:研究会で造形遊びの授業を見た時,深まらないままで終わるのはなぜかと考えた。それは,その時その時で,単発だから。音などをつかったら面白いのではないか?

四つ目:去年の「造形表現カリキュラム開発持論」は,一生懸命活動案を立てた。なんで一生懸命頑張ったのかを考えた時,「いい授業をしょう」「失敗しないように」と思っていた。去年の授業や教育実習に行って,長期にわたって子どもたちと生活するうちに,失敗や成功を意識して授業を行うものではないと感じました。何の為に授業をしなければいけないのかを,一番に考えなければいけないと思った。私はこの授業に関して,うまい授業,先生が納得する授業をやらなくてもいいと思う。一人の子どもでも楽しいと言ってくれたらいいと思う。

日永:友達とのかかわりの中で,概念や見方が変わるものを子どもたち自身で作り出せることがやりたい。教科の枠にとらわれない,また授業や絵画・工芸・デザインという美術の中での枠を越えられるものがいいと思う。

野澤:私は英語がとても苦手なので,自分の中で文字や英語のイメージを変えないといけないと思った。大学祭を体験して,学部生が頑張っている姿を見て,また何かみんなでやりたい気持ちになった。

西村:去年の「つなぐことによって生まれる形を楽しむ」という授業で,「『つなぐこと』を授業のテーマとしていたのに,『つなぐこと』を教師側は何の指導もしていなかった」という指摘があった。「『つなぐ』というテーマだったら,つなげてほしい」という要望があった。この授業は,活動案に色々書かれているように,その場で立ち上がった行為を大切にしょうというものだった。だが,何がおきるか分からないこと事態が,学校の先生としては非常に・・・。授業の設定そのものが何が起きるか分からない,何も起きないかもしれない,それでもいいんだということは,授業として成り立たないというのが先生たちの間で強くあった。そこを埋めたい。活動案を書けば書くほど,小・中学校の先生は,この授業で何を学んで欲しいか,少なくなくとも能力や何かを得てほしいというものを設定しないと授業にならないと言う。私はそういうものは,あってもいいけど,なくてもいいんだ,必要ないと考えている。例えば「つなぐ」ことをテーマに,いくらでも授業を考えることが出来る。

松本:「分からない」「『つなぐことによって生まれる形』でどうしてつなぎ方を指導しない」と指摘された。指導をしようと思えば指導が出来るけど,それじゃ「つなぐこと」をやっているように思う。それは違う。育てなきゃいけないものが見えない。造形表現の授業としてこういうことをしなければいけないものも見えない。中間を作ることが必要。