Sfard

Steering (Dis)Course Between Metaphors and Rigor:
Using Focal Analysis to Investigate an Emergence of Mathematical Objects

By Anna Sfard

(Journal for Research in Mathematics Education, 31 (3), 296-327. 2000年)


 この論文は、数学的な対象が生徒により構成されるプロセスを扱ったものである。Sfard氏は論文冒頭でまず、思考が自己とのコミュニケーションあるいはコミュニケーションの一つの場合とする立場に言及し、そうした立場が認知プロセスについての有用な考えを提供すると述べている。すなわち数学的思考に関わる問いを新たに問い直したり探求したりする方法を示唆するのであり、特に、数や関数、集合といった数学的対象の起源や認知的役割に関わる問いも定式化され直すことになる。このとき、コミュニケーションは、すでに存在する数学的対象についての知識を構成したり共有するのに有用なものというよりも、数学的対象の存在に対する主要な原因として考えられることになる。こうした立場から、この論文では、数学的対象の性質や生成に関わる問いをディスコース分析の枠組みの中で捉え直しとしており、実際、論文の後半では授業のある場面の生徒の発話が詳細に分析されることになる。さらに、氏を中心に80年代後半から行われてきた数学的概念の二重性の研究とも、直接的なつながりがあるとも述べている。

 論文の前半では、コミュニケーションと焦点についての氏の考えが、かなり詳しく展開されている。まずコミュニケーションに関わる前提として、会話で生じていることは個人の頭の中で生じていることを表している、ということをあげている。そしていずれの場合もその言説 (discursive) のメカニズムは対話的であるとしている。またコミュニケーションを情報のやりとりと考えた場合の問題点を議論し、うまいコミュニケーションを「対話者が同じ意味を持っていること」で説明しようとしても、同じ意味を持っているという状況は、コミュニケーションがうまくいっていることで規定せざるを得ないのではないか、という点を指摘している。その上でコミュニケーションを、自分の対話者にある仕方で行為してもらったり感じてもらったりしようとする活動、として捉えている(この規定も個の内面に触れていると疑問に思った方は、原文をご覧下さい。Sfard氏はこの疑問を予想し、それに対する彼女の考えを述べています)。コミュニケーションがうまくいっているというのは、その目的が満たされている、つまり話し手の期待に添うような反応を引き起こしていることとなる。

 うまいコミュニケーションの一つの特性は、対話者が「同じモノ」について話しているという期待が満たされていることである。こうした状態は言説の焦点 (discursive focus) が明確であると呼ばれている。この言説の焦点は3つの要素からなるとされる。第1は発音された焦点 (pronounced focus) であり、対話者により用いられた単語になる。第2は注意を向けられた焦点 (attended focus) であり、何に対してどのように注意を向けているか、ということを指す。第3は意図された焦点 (intended focus) であり、第1、第2の要素の対話者による解釈であり、それらにより引き起こされる経験の総体、問題となっていることについて作ることのできる意見などである。例えば青いリンゴと赤いリンゴについて会話がされているときに、「でも青いリンゴって大きかったり小さかったり大きさがバラバラだ」という意見(これが明示的に発言されないかもしれないが)は、意図された焦点の例となる。また3(x+2)と3x+6という異なる式に注意を向けていても、その背後に共通の意図を感ずる場合、意図された焦点が示唆される。なおSfard氏は、注意を向けられた焦点と意図された焦点(それらは多様なものとなるかもしれないが)の総体が対象であると考えているようである (p. 322)。焦点のこれら3つの要素について、発音された焦点が最も公的(表に直接でる)であり、意図された焦点が最も私的、そして注意を向けられた焦点はその間にあるが公的になりやすいものと述べている。

 こうした議論をコミュニケーションと関連づけると、うまいコミュニケーションのためには意図された焦点が両立可能 (compatible)であることが必要とされる。ただし氏は異なる対話者の意図された焦点どうしを比較することを避け、ある人が対話者により引き起こされた「自分自身の」意図された焦点どうしだけを比較することで、コミュニケーションがうまくいっているかを評価するしかない、と指摘する。なお、物理的なモノについて話しているときは、注意を向けられた焦点に戻り、相手の意図された焦点をガイドすることができる。数学のような「仮想現実」の文脈では、対象が必ずしも触ることのできるようなものではないので、コミュニケーションの成功についてより慎重に考えていく必要が出てくるのであろう。

 論文の後半では、教室でのある対話を詳細に分析している。コミュニケートしようとすることを通して対象が存在するようにしていくことで、あらかじめ認められた対象が欠けているという状態を乗り越える様子を示すとしている。事例として取りあげられているのは、P. Cobb氏らによる7年生に対する統計プロジェクトからの対話で、1ページ半程の短いものである。統計用のミニツールを利用して、2社の電池10個ずつの寿命のデータから、どちらの会社の電池を推薦したいかをレポートするという課題であり、作業後にクラス全体での話し合いが行われている。氏が焦点の説明であげている、店先のリンゴの山を前にしての対話では、「よいリンゴ」の意図するところが比較的明確であったが、電池の課題では「よい電池」の意図するところははっきりせず、したがって最初の課題は、意図された焦点を構築することとなる。この意図された焦点は、よく規定された注意を向ける手続き (attending procedure) の中に現れると氏はしている (p. 312)。データの分析ではこの「注意を向ける手続き」という言い方が使われているが、これは、データの中の注意を向ける部分を手続き的に示すものとして、今の場合の注意を向ける焦点に対応するものと考えられているようであり、分析の際にも焦点の要素としてはこれが採用されれている。

 Sfard氏は、焦点の構築にとって大切と思われる3つの局面を取りあげ(本文では「第1幕」〜「第3幕」と呼ばれる)、各局面の代表的な1〜2個の発言について焦点の3つの要素が何かを中心に分析している。例えば、第2幕「提案された焦点への疑問」では、ジャニスの次のような発言が取りあげられている。

(ちなみに、このジャニスの意見はケーシーの意見そのままではない)これに対し、焦点の3つの要素は次のようなものと分析される。 こうした分析を通して、最後の方のBradという生徒の発言の中に、「よい電池」という対象が構築された兆候を見ている。彼の説明が、示されたグラフに固有な特徴に依存せず一般化可能なものであり、また10個ずつの電池を比較することよりもカテゴリー間の選択を扱っている、とSfard氏は考察しており、そうした説明を通して彼が "a consistent battery" という単数形を用いていることに注目している。ここに「一貫した電池」という仮想対象が生まれつつあるのである。一般化可能な「注意を向けられた焦点」を提案することが、Bradを視覚的制約から自由にしたと、氏は考えているようである。(こうした一般化の問題については、こちらも参照)

 しかしここに至るにはそれまでの対話が大きな役割を果たしている。論文からは少なくとも次の3点を見出すことができる。第一に、焦点の要素間で均衡を欠くことが言説の成長を促している。各発話の焦点で、注意を向ける手続きに不明確さがあると、これが取りあげられることで議論が進む。手続きは長くもつ電池に注意が向けられるよう提案されるわけだが、長くもつというイメージに合わないと議論が起こる。他方で、長くもつ電池の意図にも不明確さ(「どの位もてば長いと言えるのか」等)があり、それが手続きを不完全にしている部分もある。歩くときの足のように、3つの要素が同じ場所に安定しないからこそ、歩が進められるとしている (p. 321)。第二に、焦点の構築は、それが直観的に受け入れ可能であるという条件と、操作的に厳密であることという条件とのバランスの上に行われて行くが、こうした過程は、やはりうまくコミュニケーションをしたいというニーズから派生してくるものである。第三に、コミュニケーションの中で比喩的なものが用いられることが、明確に規定された焦点を構築する離陸点になる (p. 324)。上の事例では「一貫した (consistent)」という言い方を電池にすることで、日常的な言葉の使い方から、グラフを調べる方向性が示唆されていた。そしてそこで提案されたものの不明確さを議論することで、焦点が浮かび上がって来たのである。

 なお、今の事例で用いられているミニツールを、Sfard氏は時間的なもの(電池の寿命)を空間的なもの(棒グラフ)に変えるシンボル的手段として取りあげ、見えないものを「注意を向けられた焦点」の基礎となりうるようにしていると考えている。ただしシンボルは手軽な「注意を向けられた焦点」を与えるが、それに対応する意図された焦点は、シンボルを利用するための基礎とはならず、むしろシンボルの利用の産物として生まれるものだとしている。




 論文の前半では、思考をコミュニケーションの一つの場合とするとしていたのに対し、最後の方ではコミュニケーションへの要求が認知過程の動因といった言い方になり、多少トーンが異なるように見える。また前半では数学的対象として数、関数、集合などが言及されていたのに対し、後半の分析では「一貫した電池」という仮想対象が取りあげられている。こうした点から、前半での企図が本稿の分析で達成されていたのかの評価は難しいように感じた。またHershの立場に見られるような、数学が個々人に対しては「外的」であるという側面は、単に対話を通して構築されるという言い方では、十分に表しきれない。数学的対象の構成に関して、こうした側面をどのように考慮していくかを考える必要があるように感じた。

 しかし一方で、対話の分析から見出されてきた本稿の知見は、氏が論文の最初の方で指摘するように、確かに認知プロセスを考える上でも有用なものと見える。また、van Hieleなどにより指摘されてきたように、「長方形」という同じ言葉を用い、同じ図形を指しながら、しかし生徒と教師ではその「意図された焦点」が異なるといったことがいつでも生じうることだとすれば、数学的な対象があってコミュニケーションが行われるのではなく、コミュニケーションを通じて対象が作られねばならないという発想は、十分考慮されてしかるべき点とも思われる。


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